Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

結婚の意味

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

創世記2:24

 

おはようございます。
今日の箇所はとても有名な箇所です。
しかし、この箇所について今日ほどメッセージするのが難しい時代も、かつてなかったかもしれません。
この箇所を取り扱うにあたって、どうしても、現在のLGBTの問題に触れなければならないからです。
ところがまた厄介なことに、このLGBTについて、キリスト教界において一定の合意が出来上がっているのかと言うと、決してそうではないという現状もあります。
カトリックの場合には、カトリック全体の教義というものがあります。
ところがプロテスタントでは、各教派ごとですこしずつ教義が異なるのが一般的であり、とくに細部に至っては、各教会ごとに異なることもあります。
特にこのLGBTについては、最近登場した問題でもあり、多くの牧師は、それをどのように取り扱っていいのか戸惑っている、というところが本音ではないでしょうか。

今日ははじめに、このLGBTについての私の経験と見解を語ることから始めたいと思います。

1.LGBTというか、同性愛

LGBTという言葉を、私も去年くらいに知りました。
もちろん、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーというものは知っていましたが、そういうのをまとめてLGBTと語るというのは、本当に最近知ったことです。
ところで、私自身は昔から、LGBTというのではなく、「同性愛」については関心を持ってきました。
というのも、クリスチャンになって伝道していると、結構多くの人が「同性愛はキリスト教ではどのように理解されているのか?」と質問するからです。
私がかつていた教会は韓国系の教会でしたが、韓国の年配の牧師の場合はすごく単純でした。
「同性愛は罪、してはいけません!」これで終わりです。
同性愛は聖書では禁じられているし、常識的にもおかしいし、論じること自体がおかしい――そのような調子です。
ところで、イエス様を信じようか、信じまいか、どうしようかと迷っている人が礼拝でこういう発言を聞くと、当然疑問を持つのですね。
世界的には、特にキリスト教的価値観が普及しているといわれているヨーロッパやアメリカにおいて、同性愛の権利が認められてきています。
キリスト教は、イスラム教などとは違って、個人の権利を尊重する宗教なのではないか?と漠然と思われています。
しかも、キリスト教は、困っている人、苦しんでいる人を、積極的に救いに行く宗教だとも考えられています。
実際、イエス様は、社会の抑圧されている人々、社会で隅に追いやられている人々、社会で罪人だと言われている人々、そういう人々のもとに積極的に出向いていきました。
こういうことを何となく知っていると、今の社会制度の下で苦しんでいる人がいるならば、その人に積極的に接近していき、その人たちを救おうとするのがクリスチャンなのではないか?――こう感じるからです。
そういう疑問を抱く人が、牧師には直接聞けないので、私に質問してくる、ということがよくありました。
私自身も、実は、その牧師――というよりかは、ある一定の年齢以上の韓国人クリスチャンたちの同性愛に対する見方に、少々疑問を抱いていました。
その疑問というのは、「同性愛は聖書的に罪である」という公式的な発言の裏側に、「同性愛は気持ち悪い」という感情があるのではないか、ということです。
実際、同性愛者風の人を指して「気持ち悪い」と言ったり、そういう表情をしているのを見たことがあります。
むしろ、その「気持ち悪い」という感情のほうが主な理由なのではないか、とも感じていました。
そういうこともあって、同性愛とキリスト教との関係については、多少関心を持ってきました。

今それを全部話すととても長くなるので、結論だけを簡略に述べたいと思います。

1−1.同性愛は罪である
まず、同性愛は聖書的には罪であります。
ただ、何でもそうですが、理由や根拠が大切です。
よく同性愛を否定する聖書的な理由としてソドム・ゴモラの人々のことが挙げられることがありますが、その人々は、今日のLGBTの問題とは全く関係がありません。
彼らは大変野蛮で暴力的な人々です。
その野蛮で暴力的な人々が「ソドム」の人たちなので、そこからソドミズムという言葉が生まれました。
ところが、LGBTの人々は、別に野蛮で暴力的な人々ではありません。
というよりは、野蛮で暴力的であることと、性的指向性は全く関係がありません。
なので、その聖書箇所は同性愛を否定する聖書的理由にはならないのです。
私は、やはり神様が人間を男と女とに作った、という点が大切だと思います。
男と女とに作った、そして今日読んだ聖書箇所のとおり、二人は一体となります。
そこから子供が誕生します。
ところが、男性同士、女性同士が結婚したらどうなるでしょうか?
神様が創造された最初の状態では、つまり自然のままでは、子供は生まれません。
私は昔哲学を研究していて、特にカント哲学を研究していましたが、カントは、ある規則が普遍性を持つかどうかを調べるには、その規則をすべての人が実行した場合に、矛盾がないことだ、と言っていて、そういう思考実験が習慣的になっています。
同性同士による結婚をすべての人が実行したらどうなるでしょうか?
子供が生まれません。
となると、人工的な方法で子供を作ることになるでしょう。
すると、ここに私は矛盾が生まれると思います。
神様が人間を創造して、生殖器官をも創造したのですが、それが全く無駄になってしまうのです。
それは言いかえると、神様の創造行為の否定です。
またさらに、人工的な方法で子供を作る、しかも大量に作る、その点に、人間の思い上がりがあると思うのです。
同性同士による結婚を普遍的な規則とすると、人間の独善・高慢が中心になり、矛盾が生まれます。
その場合には、神様の創造の秩序を否定することになります。
だから、同性同士による結婚は正しくはない、あるいは、神様が世界を創造したときに制定した規則に反しています。
つまり、聖書的には罪だということです。
これは初めに確認しておかなければなりません。

1−2.罪に重軽はない
次に、同性愛は罪ですが、罪の中に「重い罪」と「軽い罪」という区別があるわけではない、このことも確認します。
教会の伝統、また神学の伝統の中には、罪を分類したり、重い罪と軽い罪とを区別したりするものがあります。
しかし私は、罪の中に「重い」ものと「軽い」ものを設定することは、新約聖書の時代のファリサイ派や律法学者と同じ過ちに陥ることになると思います。
彼らがそうであったように、自分は「罪を犯していない」という思い上がりと、「罪人」に対する冷淡な態度を生むことになります、それは究極的には、自分自身が人格的に神様と向き合うことを回避する姿勢に至ります。
エス様が山上の垂訓で言おうとしていたのは、律法というものを、その厳粛さ、重み、価値を真剣に受け止めるならば、誰もが罪人になるということでした。
「俺は人を殺していない、だから罪人ではない!」とは言えないのです。
人に対して怒りを抱いた者は、殺人をしたのと同じことだからです。
あるいは、「俺は姦淫を犯していないから罪人ではない!」とも言えないのです。
心で淫らな思いを抱いた者は、姦淫したのと同じだからです。
常識的に考えれば、心で思っただけのことと、実際に行動したこととは、全く異なります。
もしこの世界の法律が「心の思い」までも罰の対象としたら、犯罪者だらけとなるでしょう。
しかしイエス様が問題としているのは、法律ではなく、律法です。
律法を厳粛に受け止めるならば、常識的に考えて、この世の基準で考えて、法律的に考えて、どんなに小さいものでも、あるいは無罪と思われるものでも、「罪」なのです。
このイエス様の姿勢を踏まえるならば、「罪」の間に「重い罪」と「軽い罪」を設けることは、この世的な考え方でしかないと言えます。
エス様を前にしては、つまり神様を前にしては、罪は等しく「罪」であり、重い・軽いなどという区別はないのです。
あえて言えば、すべてが「重い」罪なのです。
従って、同性愛は「罪」ですが、その罪の重さは、私たちが「軽い罪」と考えているようなものと全く同じです。
ちょっとした悪口、ちょっとしたウソ、ちょっとした約束違反、そういうものと同性愛は、同じように「罪」です。
前者は「赦される」罪で、後者は「赦されない」罪、なんてことはありません。
前者は「軽い」罪で、後者は「恐ろしい」罪、なんてこともありません。
どちらも等しく「恐ろしい」罪であり、同じ「醜悪さ」を持っているのです。

1−3.罪は憎み、罪人は愛する。
この二番目の認識から、こういう帰結が生まれます。
つまり、教会は、一般的な実践として、罪は罪として指摘しながらも、どのような罪人であっても兄弟姉妹として受け入れ愛していますが、教会はそれと同じように同性愛を扱うべきだということ、つまり、同性愛は罪であると指摘しながらも、同性愛者たち自身は同じ兄弟姉妹として受け入れるべきである、ということです。
これは、どのような罪も等しい罪悪性を持つということから生まれる当然の帰結です。

1−4.罪を教会は祝福しない、故に、同性愛の結婚を教会はしない
ところが、同性愛は罪なので、教会は、同性同士の結婚を祝福しないし、そのために結婚式をすることもできません。
それは、教会が殺人を祝福しないことと、あるいは偽証することを祝福しないことと同じです。
教会は罪を祝福することはできません。

1−5.同性愛者同士の結婚を認める国家制度は認める
同性愛者同士の結婚を教会は祝福しませんが、同性愛者同士がこの世の制度として結婚することは、認められるべきです。
それはその人々の基本的な権利が尊重されるためです。
他人に自己中心的な怒りを持った人でも、幸福を追求する権利はあり、嘘をついたことのある人でも、同じく幸福を追求する権利はあります。
父母を愛したことのない人でも、結婚する権利はあります。
言い換えると、聖書に照らし合わせて「罪」を犯したことのある人でも、この世においては等しく権利を持っているのです。
であるならば、同性愛者もまた同様であるべきです。
ところで、そもそもなぜ「権利」は存在するのでしょうか?
その理由について聖書から言えるのは、神様が人類を愛していて、人間が一人残らず立ち返るのを忍耐して待っているからである、ということです。
そして「立ち返る」とはまさに「主を信じる」ことですが、それは、心の自由で自発的な行為です。
私は、各人が自由に、自発的にイエス様を信じるようになるまで、すべての人は等しく幸せを享受できるべきだと考えます。
意図的に苦しめたり、強制をしたりすることによっては、「信仰」は生まれません。
「信じる」という心の行為は、物理的・政治的・経済的恐怖が存在しない条件でなされるべきです。
その条件は当然同性愛者にも認められるべきであります。
同性愛者は、うそをつく人間や、約束を破る人間や、怒りを抱く人間などと同じように、同じように「罪人」であり、同じように「人間」であり、同じように「信じる」のを期待されながら忍耐されている存在だからです。

以上は同性愛について語ってきましたが、基本的なことはLGBT全般に当てはまります。
罪は罪としてはっきりと語る。
しかし、罪人は愛する。
罪には重い・軽いという区別は存在しない。
全ての罪人に等しい権利があるように、性的マイノリティの人々にも、性的マジョリティの人々と等しい権利が保証されるべきだ。
これはあくまで私の個人的な考えであります。
しかし、今日の本文のような箇所を語るにあたって、問題となる部分ではあったので、予め話しておくことにしました。


2.二人は一体となる

さて、今日の箇所でのメッセージは、多分みなさんはさんざん聞いてきたのではないかと思います。
それに、結婚に関しては、私よりも皆さんのほうが先輩なので、この聖書の御言葉の深い意味については、私よりも皆さんのほうがご存知でしょう。
なので、今はこの御言葉で最近改めて実感したことを分かち合いたいと思います。

ここで「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ」「二人は一体となる」とあります。
「父と母を離れ、その妻と結ばれ」は、男性の独立した人格と、妻の優先性を表現しています。
もちろんこれは、男性だけではなく、女性にも当てはまります。
妻もまた、父と母から独立した人格を持ち、そして夫を優先するのです。
こうして「二人は一体と」なります。
つまり、一つの共同体となります。

ここで一つ大切なのは、夫と妻それぞれの独立性です。
少し話を大きくしますが、日本のいわゆる「伝統的な」家族というのは、軍隊や会社組織と同じ側面があります。
父親がいて、長男がいて、妻、子供がいる。
軍隊でも、ピラミッド型のヒエラルキーがあり、それは会社でも同じです。
どこの組織に置いても、「上」にいる人間は何でもできて、自由で、決定します。
「下」にいる人間は、奴隷のように従属して、何も決定できません。
こうした組織のあり方は、徐々に崩れてきていますね。
一方では、リベラルな考えが普及してきたことがありますが、他方では、特にここ30年に渡って、いわゆる「日本型経営システム」というものが機能不全に陥ってことが挙げられます。
「上の人間が一方的に指示を出すだけ、下の人間が一方的に従うだけ」という組織運営の仕方が、グローバルな資本主義の中でもはや通用しなくなったのです。
そこで今、心ある人間は、組織をフラットな形へと変えようとしています。
各社員が対等で、独立性を持ち、等しく経営に関与する。
そのような組織に変えようとしたり、最初からそういう組織にする人もいます。
家族も同様です。
「父親が頂点にいて、それにみんなが従う」というあり方はすでに少なくなっています。
夫も妻も等しい人格を持つという考えが徐々に当然のことになってきています。
そして、聖書が語っている夫婦観というのは、そういうものなのです。
夫も妻も、神様が作られた独自の存在です。
神様が愛した独自の人格です。
であるならば、お互いに相手を、尊敬を持って対応するのが当然なのです。

ところが、生活しながら目に見える部分ばかりにとらわれてしまうと、なかなかそれが難しくなったりします。
男性でよくありがちなのは、「自分が働いている」という意識でしょうね。
日中、家を離れて働いていると、男性は「自分が働いている」と思います。
そして給料が入ると、「自分が稼いだ」と思います。
この意識が強まっていくと、「自分は尊敬されて当然だ、妻は別に重要なことをしていない」という考えになってしまいます。
これは錯覚なのです。
最近ラグビーのワールドカップがありました。
見ていた人も多いかもしれません。
昔からそうですが、スポーツニュースなのでラグビーが扱われると、最後のトライの部分だけ放送されます。
まぁ、サッカーでも、同じですね、シュートが入ったところだけが放送される。
そのニュースだけを見て、最後のトライをした人だけが「偉い」と思ったとしたら、それは錯覚でしょう。
難度もスクラムをくんで、チャレンジしては失敗して、そういうのを繰り返しながら、ある瞬間、色々うまくいってトライができる。
メンバーそれぞれのチャレンジと協力、その結果としてトライが生まれるのです。
トライは、「全員」で勝ち取ったものなのです。

妻の方も同じです。
「給料」という目に見える部分だけにフォーカスすると、錯覚に陥ります。
そして、「自分は何もしていない」と考え、自分の価値を低く考えてしまいます。
それもまた誤りです。

夫婦は、互いに独立した人格であり、愛し、尊敬すべき対象です。
それができなくなるのは、私たちが神様を忘れ、後で話しますが、「チーム」として働いていることを忘れ、自分の仕事・働きだけにフォーカスするときです。
そのとき私たちは、自分の価値を必要以上に高く考えたり、低く考えたりしてしまいます。
そうしてはいけないのです。


次に大切なのは、「一体となる」という点です。
今も少し触れましたが、夫婦は「チーム」です。
「チーム」で生活し、働いているのだという事実を忘れると、私たちは本当に自己中心的な考えに陥ってしまいます。
ところが、「チーム」であることを忘れてしまいがちであることも、事実です。
最近は本当にそのことを感じていました。
毎日、私も妻も、忙しく生活しています。
家では赤ちゃん中心の生活です。
二人とも疲れ果ててしまって、赤ちゃんを寝かしつけると同時に、自分たちも寝てしまいます。
互いに、日中どのように過ごしていたかとか、ほとんど分かち合うことなく過ごすこともあります。
これはよくないのです。
互いに相手がどのように過ごしていたのかを知らないと、自分の働きだけにフォーカスがゆきます。
そうすると、「自分はこんなに大変な思いをしているのに!」という不満が生まれてしまいます。
すると、相手への軽蔑も生まれます。
そうであってはいけません。
だから、この「一体となる」という御言葉を、絶えず実践するように心がけないといけないのです。

「一体となる」というのは、「結婚してそれで達成!」ということではありません。
私も、ちょっとそのように考える節はありましたが、そうではありません。
一回実現して、それで終わり、ではありません。
これは、人生の各ステージで、その都度直面するチャレンジなのでしょう。
それぞれの人生の段階で、直面する困難は異なります。
その都度、私たちは初心者となります。
そしてそのように初心者となるときに、その都度、私たちは「一体となる」という真理を大切にするようにチャレンジを受けるのです。
子供が生まれたとき、子供が家を出ていったとき、自分たちがリタイアしたとき。
それぞれ状況は異なります。
しかしその都度、新しい状況の中で、私たちには「一体となる」というチャレンジがあるのです。


3.神の栄光となる

今日の本文を通じて、夫婦は独立しながらも一体である、ということを語ってきました。
では、そのような夫婦とは、一体何なのか?
そのように愛して、尊敬して、一致を保って――そうした努力をしながら、一体夫婦とは何を目指す共同体なのでしょうか?
聖書からも色々言えるでしょうが、聖書の中で最も大切なのは、次のパウロの言葉です。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エフェソ5:31−32)

今日の本文について、パウロは「キリストと教会を指して言っている」と述べているのです。
これは驚くべきことです。
このエフェソ書の5章では、ずっと夫婦関係のことを語ってきていると思われていました。
その後には、子どもたちに、更には奴隷たちに向かって語られています。
当然のように、「夫婦」について語っていると思った、そのときに、パウロは「いや、実はこれは、キリストと教会との関係のことなんだよ!」と言うのです。
驚くべきことです。

これは一体どういうことでしょうか?
前回のメッセージは、「教会の原型」というタイトルでした。
まさに夫婦というのは、「教会の原型」なのです。
そして夫婦というのは、「キリストと教会」を、つまり、イエス様とその民との関係を表現するのです。
エス様がこの世に来る前から、夫婦というのは、そういう存在でした。
エス様とその民との関係を、愛と尊敬を持って仕え合う関係を表現する存在でした。
そのようなものとして、神様は結婚という制度を世界の創造の初めに、制定されたのです
神様が結婚という制度に込められた意味・意図は、知られないままでありました。
それが明らかにされるのは、まさにイエス様がこの世に来られたときだったのです。
エス様が来られる前も後も、夫婦の役割は同じです。
「イエス様とその民との関係を表現する」、これです。
具体的に言えば、例えば次のような感じです。
「イエス様が愛する姿はこういうものだ、イエス様に仕える姿とはこういうものだ、イエス様が愛し、イエス様に仕える人生とは、こんなにも豊かで、幸せで、自由で、朗らかで、暖かくて、恵み豊かなものなんだ!」
そういうものを映し出すということです。

今は、結婚という制度は、イエス様とその民との関係を表現するものとして制定されたと語りましたが、おそらく、もう少し別の側面があるでしょう。
それは何かというと、イエス様とその民との関係を「体験する」「味見する」という側面です。
夫婦という関係において、互いに愛し、愛されること、赦し、赦されること、慰めを与え、慰めを受けること、信頼し、信頼されること、約束を守り、約束を守られること、あるいは、過ちを指摘し、指摘されること。
夫婦関係におけるそのような交わりは、イエス様との関係で私たちが経験するものの「味見」なのです。
「味見」なので、本番のように体験することではありません。
本番はイエス様の再臨の後です。
この世において夫婦の関係で体験することは、イエス様との関係で私たちが完全に体験するはずのものの「味見」あるいは「前兆」なのです。
味見をした人間は、本番に対する期待をますます高めていきますね。
それと同じように、結婚の関係の中で、愛し愛され、赦し赦され、信頼し信頼され、などを経験した人間は、イエス様が来られるときには、それが完全な形で経験できることを期待するようになるのです。
それは要するに、「神の国」です。
神様は私たち人間に、神の国に対する期待を増し加えるために、その神の国の「味見」をするために結婚という制度を制定したのです。

従って、夫婦というものは、イエス様とその民との関係を表現する器であり、また、イエス様の恵みを味見するための場所でもあるのです。
エス様の恵みを体験する、そしてイエス様との関係を表現する。
これはほとんど同じことです。
けれど、あえて順序があるとすれば、イエス様の恵みを体験するのが先でしょう。
それを体験するならば、おのずからそれは表現するようになります。
そして、イエス様とその民との関係を表現するとどうなるのかといえば、イエス様を慕い求める民が、その夫婦の姿を通じて、イエス様に出会うようになるのです。

クリスチャンの結婚の大きな意味がここにあります。
エス様の恵みを体験すること、イエス様の恵みを表現すること、そして、イエス様を慕い求める民がイエス様のもとにやってくること。
夫婦の関係は、これらの中心にあるのです。
そしてすぐにわかりますが、これはまさに教会の機能でもあります。
教会の機能は、夫婦の関係の中にその本質的な起源を有しているのです。
神様は、人間がご自身の恵みを体験し、それを表現することができるように、まさに恵みによって結婚という制度を人間に与えたのでした。

ときに結婚生活は大変なものです。
過去を振り返るならば、よく私たちは生きて来れたものだと思う瞬間や、日々があるでしょう。
そしてその瞬間は気づいていなかったですが、常に神様の御手が私たちを守り、導いていたのです。
それを知る私たちが、今その過去の日々を振り返ると、その苦しかった日々が、不思議と恵みあふれた、豊かな時間に思われてくるのです。
そして、苦しさと同時に、喜びと感謝があふれてくるのです。
過ぎ去った一つ一つの時間が、神様からのプレゼントだと思われてくるのです。
同じことが今も、そしてこれからの私たちの時間においても当てはまります。
今、苦しいでしょうか?
今、もう駄目だ、と思っているでしょうか?
あなたの傍らに、慈しみ深い神様の右の御手があり、あなたを支えているのです。
あなたの今の時間が、きっと黄金に輝いて見える時が来ます。
神様がまさに守り、導いていたと実感し、「あの時の、あの時間は、何物にも代えがたい贈り物だ」と感じる時が来ます。
なぜなら、私たちは神の子だからです。
私たちは神の国において、イエス様と顔と顔を合わせて出会い、私たちが流す涙を、拭ってもらうからです。
その日が来るのです。
私たちが経験してきた恵み、喜び、それをはるかに上回る喜びの時が来るのです。
その日を期待しながら、また、その日のことを思い浮かべながら、今という時間を忍耐し、喜んで、歩んでいきましょう。
そのような歩み自体が、まさに神の栄光なのです。