Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

「道」を歩む

昨日の土曜日は、とても雪が降っていました。
雪が降っているところを車で走っていて、少し怖いなと思ったところがありましたが、それは、道路のラインが見えなかったことでした。
片道二車線のところで、自分が今、ちゃんと車線の中を走っているのかわかりづらいからです。
そこから考えてみると、雪が降っていなくて、道路のラインがしっかり見えているということは、とても良いことだと分かります。
それはとても安心なことです。

さて、聖書はしばしば「道」という言葉を使います。
有名なのは、次の聖書の箇所でしょう。

エスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:5)

エス様自身が、「私は道である」と語っています。
これは救いに至る「唯一の道」という意味です。
救い、つまり、永遠の命、それに至る道が「唯一」である。
聖書は、永遠の命に至る道は「たくさんある」とは言わないのですね。
それは「唯一」であり、その唯一の道は「イエス・キリスト」である、と聖書は言います。

そのほかに、イエス様を信じた人間が生きる人生のことを、聖書は「道」と表現します。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(使徒20:24)

これはパウロがエフェソの長老たちに別れの挨拶をしているときの言葉です。
パウロはエフェソを離れてエルサレムに行こうとしています。
そのエルサレムでは、迫害が予想されています。
パウロは自分の死をも予期しているでしょう。
その死を、パウロだけではなく、他の人々も予感しています。
そうしたなかでパウロはエフェソの長老たちに語るのです。

パウロが語っていることは、パウロだけではなく、全てのクリスチャンに当てはまることでもあります。
私たち一人一人に神様が与えた「道」があります。
聖書を見ても、例えば12弟子たち一人一人でも、彼らに与えられた「道」は異なっていました。
ペトロにはペトロの道、またヨハネにはヨハネの道がありました。
それが私たちにも当てはまるのです。
10人いるならば、10人のそれぞれオリジナルな道があります。
それは、誰かほかの人が歩むことはできません。
私たち一人一人が、自分の責任で、自分だけで歩まなければならない道です。
パウロの姿勢というのは、また同時に、神様が私たちに望んでいることでもあります。
神様は、私たち一人一人を、全く異なる、そして唯一の、オリジナルな存在として創造されました。
顔が異なり、性格が異なり、能力が異なり、趣味が異なり、人生経験が異なります。
もっと多くの、いろんなものが異なります。
神様は、他の誰にも代えることのできないあなただけに与えられた命を、精一杯生きてほしいと期待しているんですね。
神様のことを考えてみてください。
私たちを神様は創造されて、本当に良い存在として創られました。
その神様は、ご自分の作品が、どうあってほしいと望むでしょうか?
自分にある善いものを無駄にしてしまうことではないでしょう。
他の人と比較しながら、自分の善い点を見失うことでもないでしょう。
無駄なところで頑張りすぎて、つぶれてしまうことでもないでしょう。
私たちを作られた神様としては、私は、神様は私たちが、自分に与えられた善いものを最大限発揮しながら、幸せになって生きること、それを神様は望んでいるのではないかと思います。

はい、そこで問題があるんですね。
「神様が私に与えた道とは何か?」
私たちが、自分だけに与えられた道を歩まなければならない、そして、それが神様が望んでいることだ。
それはわかる。
では、その「道」とは、どれなのか?
これが問題です。

ところが、私は皆さんに残念なお知らせをしなければなりません。
どれがあなたの「道」であるのか、それを100パーセント確実に知ることはできません。
私も皆さんに、「これがあなたの道ですよ」と断定することはできませんし、私に相談に来て「先生、これが私の道なんでしょうか?」と質問されても、私は「はい」とも「いいえ」ともいうことはできません。
残念ですね。

でも、神様が与えた道とは別の道を歩み続けないための、ヒントだけは言うことができます。
本当は沢山あるのかもしれませんが、最近――というか、ここ5年くらいずっと大切にしてきたことを分かち合いたいと思います。
それは何かというと、自分の人格的成熟を妨げているものと対決する、あるいは、自分の人格において未熟な点を認め、成長しようとする、これです。

例として私のことを少し話しますね。
私はある時期、教会を離れようかなと思ったことがあります。
その時、教会は変な方向に行っていると思ったからなんです。
それで、一生懸命就職活動しました。
なんとなくゆっくりはしていたのですが、「あ、これはやばい。就職するという名目で、教会から離れないと」と、そのように思ったのでした。
そして無事就職が決まったのですね。
そのうえ、会社の人がほとんど夜逃げのような形で引っ越しも手伝ってくれる、というのです。
あぁ、これは「神の恵みだ」と思いました。
でも、私は結構馬鹿正直なところがあって、就職して教会から離れることを他の人に言ったんですね。
そしたら、年齢の近い神学生の兄弟から、「どういう歩みをするかは別として、自分の成長になるように歩むべきだ」というようなことを言われたのです。
それを聞いてから、ちょっとむかっとするところはあったのですが、でも、やはり考えました。
そして、スコット・ペックの『愛すること、生きること』という本も読みながら、自分の人生を振り返ってみた場合に、ある一定のパターンを繰り返していることに気づきました。
それは、ある組織に属していた時に、その組織にちょっとした欠点があっただけで、その組織から離れる、というパターンでした。
「組織が良いなら属す、悪いなら離れる」その思考に基づいて、行動していたことに気づきました。
私自身が「組織を変えていく」というそのような姿勢になったことがないことに気づきました。
そして私は、ここで教会を離れたら、今までのパターンを繰り返すだけだと思い、それで思いとどまりました。
就職の決まっていた会社には断りの電話を入れました。

ものすごく一般論で言えば、教会に属するかどうかということを考えた場合に、教会がおかしいな、と思ったら、出てもいいと思います。
むりやり教会にとどまって、欲求不満な状態で時間を過ごすより、他の教会でのびのび信仰生活を送る方がよい場合もあるでしょう。
一般論では、どういう選択をしてもいいです。
でも、「私」に関してはどうかと言うと、それは別問題です。
「私」には「私の」問題があるのです。
それは他の人にとっては全く問題ではないことかもしれません。
しかし、少なくとも、「私」には「私」の問題があるのです。
そして大切なのは、神様は、私がその自分の問題を克服することを願っているということです。
なぜかと言うと、私がその問題を克服すると、私は少しだけ成熟した人間となり、成熟するならば、私たちは幸せになるからです。

人によって、人格的な弱点は異なります。
ある人は、他人を配慮しなさすぎですし、別な人は、配慮しすぎて自分を押し殺してしまいます。
ある人は、慎重すぎて決断できず、別な人は、軽はずみにいろいろ決断してしまいます。
ある人は、周りの意見に左右されすぎており、別な人は、自分の意見に固執しすぎています。
これ以外にも、たくさんあります。
しかしいずれにしても言えるのは、誰もが、人格的な弱点を抱えているということです。
そして、その弱点というのが、私たちが他の人と関係を持つときに、あるいは組織や共同体に属するときに、争いのもとになり、不幸の要因になるということです。
だから、そういう弱点を克服する必要があるのです。

「弱点を克服する」ということを言い換えると、「自分の課題に向き合う」ということだと思います。
そして、私たちがある選択をする際に、それが「自分の課題に向き合う」ことにつながっているとするならば、私たちは、「自分の道を歩んでいる」と言えるのです。
だから、例えば、同じように職場で仕事をしていたとしても、ある人は「道」を歩んでいるし、他の人は歩んでいないことだってあるでしょう。
ある人は、その仕事を辞めることが「自分の道を歩む」ことになるかもしれません。
それは一概には言えません。
しかし、もしその人が、自分の人格的弱点を把握し、人生における自分の課題に向かっているならば、「自分の道を歩んでいる」と言えるのです。

それでもなお、今自分が歩んでいる道、あるいは、歩もうとしている道、それが神様の与えた道なのかどうか、不安になることでしょう。
でも、その不安は、いかんともしがたいものです。

雪が降った道を歩こうとして気づきましたが、完全に雪で覆われていると、その下の様子はわからないものです。
どこにラインがあるのか、へこんだところがあるのか。
でも、いったん歩みだして、少し足で雪を払いのけたりすると、地面の様子がわかるようになります。

私たちの「道」も同じものなのではないか、と思うのですね。
前もってわかるものではなくて、いったん足を踏み出してみて、それで初めてわかるものなのではないでしょうか。
歩いてみないと分からないのです。
一旦歩いてみる、すると、そこが「道」なのか「道ではない」のかがわかる。
そういうものなのでしょう。

信仰生活における「道」も、予めわかるものではない。
歩みだしてみるときに、「道」であるなら当然備えられるであろうものが与えられる――そういう時に、「あ、自分は、ちゃんとした道を歩んでいたんだな」と確信が与えられる。
そういうものなのだと思います。
歩みださなければ、その道が本物かどうかも確かめることができません。
だから、最低限、歩みだす必要はあります。
そして歩みだしたときに、しっかりと「道」があれば、神様に賛美して、しっかりその道を歩めばいいでしょう。
けれど、どうもそこは「道」ではないようだ。
そうであるならば、また別な「道」を探せばいいでしょう。
私たちの信仰の歩みは、そういうものだと思います。

だから、永遠の命を得ている皆さん、ぜひ私たちは、たえず実験し続ける者でありましょう。
私たちのいのちは、天においてイエス様の内にあります。
恐れる者はありません。
恥ずかしがるものもありません。
自分の課題に向き合わなかった、それだけが本当に恥ずかしいことです。
ぜひ私たちは、大胆に一歩踏み出し、「道」を見出すものとなりましょう。
そうして一歩踏み出し、私たちが自分の課題を克服するときに、私たちの人生において、次の御言葉が真実のものとなるのです。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

神様の目では、私たちは新しいものにされています。
しかし、その新しいものを、この世において現実のものとする責任は私たちにあり、その新しい者が実現されるときに、喜び、幸せになる責任も私たちにあります。
その責任をしっかりとわきまえ、神の子供である恵みと喜びを抱きながら、大胆に実験していく私たちでありましょう。