Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

安息を生きる

 

 

こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(創世記2:1−3、新改訳2017)

 

 

今年のゴールデンウィーク頃に、ある記事を読みました。

それは、ざっくりいうと、日本人は、毎日が楽しい人と、毎日が憂鬱な人に分かれているのではないか、ということを語るものでした。

サザエさん症候群」というのはご存知でしょうか?

私自身その記事を見て知ったものですが、こういうことです。

土日と仕事が休みだとして、サザエさんは日曜日の午後6:30から放送しています。

そのサザエさんの時間帯になり始めると、翌日からの仕事のことで憂鬱になる、という症状のようです。

私はサザエさんを見ていないのでよくわからないのですが、言われていることはわかります。

そして記事はこのことから、週7日間楽しい人と、週7日間憂鬱な人に分かれているのではないか、と語ります。

サザエさん症候群になる人は、自分の仕事や職場が楽しくない人です。

理由はいろいろあるでしょうが、ともかく楽しくない。

そして休みになりますが、その休みの間も、ダラダラと暇つぶしをしながら過ごしてしまう。

気がつくと、日曜の夕方になっており、翌日以降のことを考え、憂鬱になる。

このような人は、週7日間憂鬱です。

これに対して、週7日楽しい人は、職場は楽しいし、仕事も好きでやっている。

休みになると、仕事をしている間にできなかったこともして、充実した時間を過ごし、しっかりとリフレッシュする。

日曜の夜になっても、憂鬱にはならず、むしろ期待する気持ちが高い。

こういう人は、週7日楽しい人です。

記事の著者は、自分の結論として、仕事を楽しむことを諦めないことと語っています。

 

いかがでしょうか?

みなさんは、自分はどちらの側にいると思われるでしょうか?

どちらかというと、自分は週7日楽しいと感じる側の人間だとお思いになる方もいるでしょうし、どちらかというとサザエさん症候群に「わかる!」と思う人もいるでしょう。

私は、ここで言われていることは、まさにクリスチャンの課題であると思います。

今日はこの点を考えていきたいと思います。

 

 

 

まずは本文を読みます。

「こうして天と地とその万象が完成した。」(2:1)

神様は6日間で全てのものを創造しました。

この2:1で「その万象」と言われているものは、少し解釈の分かれる単語でもあります。

ここで使われている単語は、通常は「軍隊」を意味する語です。

天使たちの軍勢を指すときにも使われています。

そのような単語です。

なので、この箇所を、「天と地と天使たち」と考える解釈もあります。

これは一番極端な解釈で、それ以外の解釈は、大体のところざっくりと「宇宙全体の色んな無数のもの」と考えています。

つまり、天と地と、それらを満たすありとあらゆるもの、という解釈です。

ここは穏当にそのように理解していればいいと思います。

 

続いて、2:2−3を読みます。

 

「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」

 

この箇所は、後に十戒安息日の規定が語られるときに、安息日の根拠として言及される箇所です。

神様が休まれたように、人間も休まなければならない、ということです。

 

ところで、ここを読むと、一見「あれ?」と思うかもしれません。

「第七日に、なさっていたわざを完成し」とあるので、7日目も働いていたのかな?と考えられます。

実際、70人訳聖書や古代の聖書のヴァージョンでは、ここを「六日目」としているものもあります。

ここは、「第七日までに」と読むのがよいでしょう。

 

すると、ここは「第七日までに、神様はそのわざを完成」された、ということです。

これはどういう状態でしょうか?

1章は、六日目までの創造の御業を語っています。

その最後を見ると、神様は、ご自分が創造されたものを眺めて「非常に良かった」と語っています。

何の欠点もなかった、ミスもなかった、失敗した点がなかった、完璧だったということです。

あえて言えば、罪もしみも咎もなかった、ということです。

世界は美しく、調和が取れて、豊かで、完全だったのです。

非常に良かったのです。

ところが、ですね。

私たちの誰もが知るように、アダムとイヴが罪を犯し、その後の人類も罪を犯し、その完璧だった世界にしみが生まれます。

罪が次から次へと増殖していきます。

まるでカビのように広がっていきます。

またカビのように、目に見えないところにまで汚染していきます。

最初に存在していた調和は崩壊します。

この点に関してはまた後ほど言及します。

 

続いての箇所を見ると、「第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた」と語られています。

ここは新共同訳でも読んでみましょう。

 

「第七日の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七日の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」

 

この2つの翻訳を両方見ると、この本文の言語的な意味は大体カバーできます。

新共同訳は「安息なさった」と書いていますが、ここで使われている動詞は、まさに「シャバット」です。

この動詞と、「安息日」を表す「シャッバート」はもちろん関連しています。

この動詞の「シャバット」は、とめる、やめる、休む、という意味があります。

新改訳2017は、そのうちの「やめる」を強調する形で翻訳しています。

新共同訳は、この箇所が後に「安息日」の規定の根拠となることを踏まえながら、「安息日」との関連性がわかるように翻訳しています。

どちらも正しいのですが、私はここでは、新共同訳の理解の仕方のほうが適切だと思います。

この文章で重視されているのは、単に「創造の御業を<やめた>」ということではなく、その創造の御業が完成し、神様は満足し、そして<休んだ>ということです。

神様が「休む」。

これは一体どういうことでしょうか?

 

ある解釈によると、「神が休む」というテーマは、古代世界では神殿建築と関連していたそうです。

その歴史的関連性についてはそれほどしっかり確認したわけではないのですが、聖書だけで考えてみても、それはありうることだと思います。

すぐに思い浮かぶのは、ダビデによる「主の神殿」の建築のシーンです。

ダビデイスラエルの王になった後、神殿を建築しようと思いました。

ところが、その試みは神様によって反対されます。

その神様の声は、ダビデ専属の預言者とも言ってよいかもしれません、ナタンに告げられました。

サムエル記下7:5−7を読みましょう。

 

「「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。 わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。 わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』 」

 

神様は、今までずっと「家」に住まず、「天幕」で過ごして歩んできた、と言っています。

「家」というのは、私たちの場合もそうですが、やはり「落ち着く」場所ですね。

「休息する」場所とも言えるでしょう。

もし私たちが、家が「休息」できる場所でなくなったら、それはもはや「家」ではないかもしれません。

「家」は、ただ単に「寝泊まりする場所」ということでもないですね。

旅行でホテルに泊まったとしても、またそこがどんなに素晴らしいベッドであったとしても、やはり「家」で寝るのとは違っています。

「家」というのは、ただ単に肉体的に休息を得る場所ではなく、精神的な点でも休息を得る場所なのです。

神様がここで言っているのは面白いですね。

イスラエルよ、私は今まであなたがたと旅をしてきた。

天幕で過ごしてきたが、そのことで文句を言ったことなんてあっただろうか?」

もう少し意味を込めると、こうでしょう。

「私は寝る間も惜しんであなた方とともに歩んできたが、そのことで不平不満を言ったことがあるか?」

このあとのナタンの預言にある神様の言葉を読みますと、神様は、イスラエルを敵に怯えることのない状態に導く、また、ダビデを豊かにし、ダビデの子が王国を継承し、そして神様の神殿を建てる、と語ります。

ここに込められている神様の心は、親がその子どもたちの幸せを願うような心ですね。

神様は、自分のための「家」が建てられることよりも、その子どもたち、つまりイスラエルが恐怖にさらされることなく生きていくことを望むのです。

人間の親が、子供に向かって「なぜ私の寝床をしっかり整えないのか?」とは言わず、逆に、子供がしっかり寝られるように、親が子供の寝床を整える。それと同じように、神様は、その子どもたちがしっかり休めるようになることを望むのです。

 

いくらか話が広がりましたが、今述べたところからも、「神殿建築」と「神が休息する」というテーマが関連してそうだと思われるでしょう。

ちなみに、日本語では「神殿」と翻訳されていますが、これはヘブライ語で直訳しますと、「主の家」です。

ソロモンが神殿と自分の宮殿を立てますが、ヘブライ語の直訳では、「主の家」と「王の家」です。

「神殿を建築する」とは、「主の家を建築する」ということなのです。

 

創世記2:2に戻ります。

ここで神様は、あらゆるご自身の業から休息します。

では、神様が休息することになる「家」とは、つまり「神殿」とは何でしょうか?

これは、この世界全体であると考えられるでしょう。

世界全体が神様の家で、となると、人間は神様の子供で、それらを完璧に造り、全てが調和して何の欠陥もないので、神様は、そこで休息するのです。

 

はい、では、想像を膨らましてみましょう。

先程のダビデに対する預言のなかで見た神様の言葉のとおり、神様は「親」のような存在です。

というか、真の親ですね。

では、「親」が休息できないときとは、一体どのようなときでしょうか?

私もなかなか休息できず、いや、むしろ妻のほうが休息はできていませんが、それとはちょっと違いますね。

「親」が休息できないのは、やはり、子供が間違った方向を歩んでいるときだと思います。

その時から、親はもういても立ってもいられなくなるでしょう。

仕事をしていても心は落ち着かず、また、家に帰ってきても落ち着かず、寝ていても不安でしょう。

神様も同じです。

そして、聖書において、子供が間違った方向を歩み始めた時はいつかというと、それはもう私たちの誰もが知っているとおり、人間が罪を犯したときです。

人間が神の戒めを守らず、神に反逆し、自分自身でなんでも解決できると思い始めたときです。

神の基準ではなく、自分自身の基準で歩み始めたときです。

そのときから神様には休息がなくなりました。

神様は人間を探し求めます。

また、預言者たちを通じて、人間に語りかけます。

それは、人間一人ひとりとの関係を回復し、まことの安息をそこで実現しようとするためです。

そのために、神様自身は、休息を、つまり安息を持つことがなくなります。

そこで、イエス様が語るような状態になるのです。

 

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」」(ヨハネ5:17)

 

アダムとイブが罪を犯して以来、神様は真の安息を求めて働き始めたのです。

そして新約聖書においては、イエス様がその働きを継続しておられます。

エス様は度々ファリサイ派や律法学者から、安息日を破っていると言って非難されましたが、イエス様は、父なる神がずっと求めていた人間との真の安息を実現しようとして、働いていたのでした。

 

 

さて、私たちは一体何者でしょうか?

私たちは神様と和解させていただいた、かつての放蕩息子、あるいは放蕩娘でありました。

エス様と出会う前までは、私たちは、本当に「休息する」ということはできませんでした。

過去に犯した過ちによる不安、また、現在行っている勉強や仕事がうまくいくかという不安、あるいは、将来の自分の生活に対する不安。

いろいろな不安があって、私たちは本当に「休息する」ということはできませんでした。

しかし、イエス様に出会って、罪を告白し、イエス様の十字架の死を受け入れることで、完全に罪を赦された者となりました。

私たちは完全に赦され、どんなことがあっても神の子供であることは揺るぎなく、したがって、今と同様、死後もまた、神と共にありつづけます。

このことで私たちは本当に平安を得るのです。

 

 

こういう風に平安を得ると、人は変わるんですね。

いままでしかめっ面だった人が、笑うようになります。

人生をネガティブに考えていた人は、希望を持って生きるようになります。

新しいことにチャレンジできなかった人は、チャレンジできるようになります。

謝罪することのできなかった人は、謙遜になって謝罪できるようになります。

ケチ臭くて、誰にも何もあげることのできなかった人が、人にものをあげることができるようになります。

このような本当にいろいろな変化が、イエス様に出会った人には生じます。

そういうときは、教会に行きたくて行きたくてしょうがないんですね。

教会が本当に楽しく、幸せな場所で、いつまででもいたくなる。

礼拝でメッセージを聞くと、どんなメッセージでも神様の恵みを感じることができて、幸せな気分になる。

なんていうか、「無敵」になるんですね。

 

でも、そういう時期も終わります。

そう言ってしまっては悪いかもしれないのですが、終わります。

ある人々は、そういう最初の高揚感のある状態をクリスチャンとしての「本当の」状態であって、それがなくなった状態を「だめな」状態と考えます。

そして、最初の頃の愛、初恋のような状態を回復しようと努めます。

私は、あまりにも多くの人が、イエス様に出会った頃にものすごく心がハッピーになり、その後に「冷え切る」というプロセスを経るのを見てきて、最初の「高揚感」のある状態が、霊的に「本物」だと思うことにはちょっと懐疑的です。

むしろ、「初恋」と同じように、いかがわしいものだと考えています。

本当の愛は、感情だけの問題ではなく、意志と決断と実行の問題でもあるからです。

しかしながら、イエス様に出会ったときに、心が喜びで満ち溢れ、幸せな気持ちになり、心が平安になったこと、それは紛れもない事実です。

みなさんもそういうことを経験してこられたと思います。

ところがまた、そういう時期も終わるのです。

では、どうしましょうか?

 

これに対する選択肢は、そんなにないと思います。

一つは、「まあ、そんなもんかな」と思って諦めることです。

もう一つは、「いや、それは間違っている」と思って諦めないことです。

 

「諦める」というのはわかりやすいですね。

神様を愛する心が冷めても、「まぁ、そんなもんさ」と思って、やり過ごす。

解決しなければならない問題があっても、適当に言い訳をして、やり過ごしてしまう。

「自分さえ我慢すればいいのなら、我慢しよう」みたいに解決する。

これは、少しクリスチャンの中で誤解があるのですが、「忍耐」と「我慢」というのは別物です。

「忍耐」というのは、神様の御心に従って苦しむことですが、「我慢」というのは、神様の御心ではないところで、自分勝手に苦しむことです。

よくクリスチャンの中には、「我慢できるようになる」ことが「霊的成長」であると考える人々がいます。

言われたことにただ従順に従うこと、間違ったことがあっても、見てみぬふりをして我慢すること。

不当な権利の侵害があっても、我慢すること。

こういうことに怒りを感じたり、心がイライラしたりするうちは、まだ霊的に「未熟」で、そういうものを平安な心でやり過ごすことができるようになるのが霊的に「成長」することなのだ。

そのように考える人々がいます。

それはまったく誤っています。

そのようなケースは、大抵の場合、神様の御心に従っているのではなく、自分の自己中心的な願望に従っているのです。

例えば、間違ったことがあって、それを声に出した場合、どうなるでしょうか?

当然、反論に会うでしょう。

そして、私自身は論争することになるでしょう。

「自己主張」しなければならなくなるでしょう。

自己主張すること、それは苦しいことではないでしょうか?

「自分の意見」を言うことは、悪いことのように感じられないでしょうか?

「自分の意見」を言うくらいなら、「みんなはこう考えている」と言ったほうがいいと思わないでしょうか?

そして、「みんな」がどう思っているかわからない状況で「自分の意見」を言うのは、とても難しく、勇気が必要で、苦しむことではないでしょうか?

そうです。

苦しいのです。

だから、「自分の意見」を語る「苦しさ」から逃げて、「黙って我慢する」苦しみを選ぶのです。

そのうえ、その我慢を「神が与えた試練であり、忍耐すべきことだ」と思って、宗教的に正当化しようとするのです。

ものすごく誤ったことです。

大切なのは、神様の御心に適った苦しみであり、それが忍耐です。

そうではない苦しみは、ただの苦しみであり、人間的には同情を受けますが、神様の僕としての生き方ではありません。

 

 

もう一つの生き方、つまり、諦めない生き方、それが私たちクリスチャンが採るべき生き方です。

それはどのような生き方でしょうか?

2つの角度から話してみようと思います。

まずは、先程と逆です、つまり、「我慢」ではなく「忍耐」する生き方です。

一つ御言葉を引用しましょう。

ペトロの手紙第一、2:19−20です。

 

「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。」

 

ここで言われている「不当な苦しみ」や「善を行って苦しみを受ける」という御言葉は、どのような状況を指していると思うでしょうか?

私たちが、恐怖心や色んなリスクを考慮することから、ビクビクしておじけづいて、「とりあえず周りに合わせよう!」という姿でしょうか?

本当に言いたいことをぐっと我慢しながら、心に溜め込んで生きる、その「苦しみ」でしょうか?

そうではないでしょう。

ペトロは、今引用した箇所の直前で、「自由なもの」として主人に従いなさい、と奴隷たちに命じています。

パウロは、従順を命じるときに、「主にあって」あるいは「キリストに従うように」と語ります。

これらは大雑把には同じことを指しているでしょう。

エス様に従う、神様に従う、それが大前提である、ということです。

この天地を創られた、そして私たちの贖い主でおられる神様、ただそのお方だけを恐れ、愛するならば、当然私たちは、「自由」になれます。

そしてその「自由」を用いて、従うのです。

「完全な愛は、恐れを締め出す」という御言葉があります。

「恐れ」によって自分の行動を支配させないでください。

「恐れ」を私たちの行動の動機にしないでください。

「恐れ」ではなく「愛」を、私たちの心の中心においてください。

その「愛」によって行動し、そして苦しみに会うときに、私たちは正しく苦しんでいるのであり、それこそが「忍耐」なのです。

恐怖心から生まれる我慢ではなく、愛から生まれる忍耐、それを行ってください。

 

 

次に、クリスチャンが採るべき生き方は、安息を諦めない生き方です。

今日の本文は、出エジプト記十戒において、安息日の規定の根拠となっています。

出エジプト記20:8−11。

 

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

 

もちろんクリスチャンには、新約聖書で言及されているような形での安息日というものは、当てはまりません。

なぜなら、イエス様が来られて、イエス様に出会うことによって、私たちは本当の「安息」を得たからです。

本当の「安息」、本当のシャッバート、それは何か?

それは、神様が世界を創造し、人間を創造したときに経験したであろう安息です。

それは、前回話した言い方を踏まえれば、神と世界と人間とが調和した関係にあった時に経験したであろう安息です。

人間は、神様から離れてしまったことによって、この安息が失われ、不安を抱えながら生きることになりました。

人間がこの安息を得るのは、唯一、イエス様に出会い、イエス様を受け入れることによって、神様と和解することを通じてのみです。

そして私たちはその安息を、完全にではありませんが、わずかながら得ました。

そのような安息を、私たちは諦めてはいけないのです。

誤解してはいけません。

「日曜日をしっかり休むことを諦めてはいけない」と言っているのではありません。

「日曜日に休むことを諦めてはいけない」と言ったら、これは現代版のファリサイ派や律法学者です。

エス様はそのような形式的なことを重視しませんでした。

はっきり言ってしまえば、日曜日に休んで教会で礼拝したからと言って、その人が「安息」を得ているとは限りません。

「安息」というのは、もっと本質的なことだからです。

 

神様が「肉」となってこの世界に来られたことは、とても意義深いことでした。

私たちが持っているこの「肉体」、また、現実に存在する「この人」「あの人」、それはみな、価値あるものだからです。

人間は、肉体を持たない抽象的な存在ではないのです。

ところがクリスチャンは、「肉体的」な問題を無視して「平安」を求めたりする。

この人・あの人との具体的な問題を解決しようとすることなく「平安」を求めたりする。

それは偽りなのです。

それが偽りである証拠に、私たちは、現実に存在する問題を解決しないでいると、結局は常に「不安」を抱えたままになってしまうのです。

 

「安息を諦めない」、それはつまり「幸せになることを諦めない」ということです。

幾つかの調査によりますと、日本人は、世界的に、自分が属している会社を憎んでいる割合が高いことが知られています。

会社に対して満足している割合も低いです。

このような調査から浮かび上がるのは、日本人は、自分が属している組織を、幸せな場所にすることを諦めてしまっている様子です。

「幸せな場所」にしようとすると、実は、いろいろと厄介なこと、面倒なことが生じます。

そうしないで、「まぁ、これが人生だ」と諦めてしまうと、幸せな感情は得られませんが、楽になります。

職場はひたすら我慢する場所で、休みになったら、憂さ晴らしをする。

その休みが終わると、今度は再び、辛抱・我慢の毎日が続きます。

こうして、自分の職場・会社に対して不満を持つ日本人となります。

ノンクリスチャンに対しては、組織に対する不満足の高さと、生産性の‘低さは相関しているのだ、と話をするところですが、クリスチャンに対しては、もっと単純に、それはクリスチャンの生き方ではない、と言うことができます。

不満足で、欲求不満で、憎い思いがあって、我慢して、それで平日を過ごし、週末にちょっとの間息抜きをして、そして再び、不満足で、憎しみと怒りを持つ平日を過ごす。

それはクリスチャンの生き方ではないのです。

メッセージの最初に語ったように、それは、毎日が憂鬱な人の生き方です。

そうであってはいけないのです。

そして、そうであってはならないために何が必要かと言うと、「幸せになることを諦めない」ことなのです。

自分が今属している場所を、幸せな場所にすることを諦めない。

これが大切なのです。

 

アウグスティヌスは、ヨハネの手紙の説教の中で、愛は生まれたならば、養わなければならない。養われたならば、強められなければならない。強められたならば、完成されなければならない――とおよそこのようなことを言っています。

これは安息についても言えると思います。

安息もまた、生まれなければならず、養われなければならず、強められなければならず、そして完成されなければならないのです。

完成するのはイエス様の再臨の時なので、私たちは、安息を強めるところまでが責任の範囲です。

エス様に出会って生まれた安息を、私たちは、養い、強めなければならないのです。

エス様の再臨において安息が完成するのを待ち望みつつ、私たちは、日々生活しているその場所で安息を得られるように、努めなければならないのです。

 

そのときどうなるのか?

そのとき、私たちは神の国を経験するのです。

どこにいても、どのような状況にあったとしても、私たちは神の国を味わうのです。

新聖歌268の一番だけ、一緒に歌いましょう。

 

いつも、「ハレルヤ!」と言って歩むことができるように、私たちは日々、安息を諦めない生き方をしていきましょう。