Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

私をここに遣わしたのは神なのです

「私をここに遣わしたのは神なのです」 創世記45:4−8

 

おはようございます。

この朝、ここで御言葉の奉仕を委ねられていることに感謝いたします。

 

今日の箇所は、皆さんとても良くご存知だろうと思います。

ヨセフとお兄さんたちが、ヨセフがエジプトに売られた後で、出会って和解するシーンです。

とても感動的なシーンです。

この箇所でヨセフが話す内容は、私には本当に奇跡に思えるのです。

簡単にいえば、ヨセフはお兄さんたちに対して、「あなたたちが私をエジプトに売ったのではなく、神様が私をエジプトに遣わしたのです」と語っているのです。

どうしてこういうことを言えるのでしょうか?

これが問題です。

私たちも、たぶん、こういうことを言いたいと思います。

あるいは、言えたらいいな、と思っていると思います。

「自分が今、この場所にいるのは、あのときこっちを選んだから、あっちの試験に落ちて、こっちに受かったから、これこれの人に出会ったから、・・・」ではなく、「神様が私をここに遣わしたのです!」といえたら、いいなぁ、と思わないでしょうか?

そういう風に言うことができたら、しかも、単に口先だけで言うのではなく、心からそれを信じることができたら、とても素晴らしい人生を生きられるだろうな、そう思うことでしょう。

今日はこの時間、ヨセフとお兄さんたちの姿を通じて、この点を共に考えていきたいと思います。

 

まず、45:5を読みます。

 

「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(新改訳2017)

 

ここで、少し退屈かもしれませんが、ちょっと細かい文法の話をしようと思います。

新改訳2017は「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。」と翻訳しています。

この「心を痛める」というのは、嘆く・悲しむ、という意味の単語です。

次の「自分を責める」は、通常は「怒る」と翻訳される単語です。

人が人に対して「怒る」、あるいは、神様が罪を犯した人や民に対して「怒る」、そのときに使われる単語です。

また、通常、そのように「怒る」と表現するときに、ヘブライ語では「鼻が燃え上がる」と表現します。

「誰々の鼻が燃える」というセンテンスを、通常は「誰々が怒る」と翻訳しています。

ところが、この45:5では、その「鼻」に相当する単語がありません。

これはすごく珍しいことです。

さらに珍しいのは、怒りの「対象」に関してです。

通常は、前置詞「ベ」の後に、その怒りの「対象」が書かれることが多いです。

モーセに対して、ご自分の民に対して、誰々に対して、という具合です。

ところがこの45:5では、文字通り翻訳しようとすると、「あなたたちの目に対して」となるのです。

「あなたたちの目に対して怒らないでください」

このように翻訳することができます。

でもこれはかなり意味不明な表現です。

私はむしろ、ここは次のように解釈するのが適切だと思うのです。

つまり、前置詞の「ベ」を、普通に「手段」の意味で翻訳するのです。

そうすると、次のようになります。

「兄さんたち、自分の目で見るところで嘆き悲しんだり、怒ったりしないでください。」

もう少し意味を込めて翻訳すると、こうなります。

「兄さんたち! 私たち人間の肉の目による判断で嘆き悲しんだり、怒ったりしないでくさい!」

 

いかがでしょうか?

今日の本文で問われていることの一つは、「肉の目による判断」と「神様の目による判断」だと言えます。

肉の目でみると、ヨセフを売り飛ばしたのはお兄さんたちです。

神様の目で見ると、神様がヨセフをエジプトに派遣したのです。

この違いです。

そしてヨセフがお兄さんたちに言おうとしているのは、「お願いだから、自分の目、肉の目で見るままで判断しないでください。肉の目で見ると、嘆き悲しんだり、怒ったりすることになります。だから、肉の目では判断しないでください。」こういうことだと思うのです。

 

お兄さんたちは、当然ながら、「肉の目」で判断していたことでしょう。

肉の目、つまり、私たちの人間的な理解で考えるならば、ヨセフを売り飛ばしたのは、自分たち自身なのです。

売り飛ばしたときは、お兄さんたちは、まぁ「スッキリした」のかもしれません。

しかし、お父さんのヤコブは、その後ずっと悲しみ続けました。

そういう姿を見ながら、お兄さんたちは、罪の意識を感じ始めたことでしょう。

「俺たちが過ちを犯した」と思ったことでしょう。

実際にお兄さんたちは、まだ身分を明かしていないヨセフから、ベニヤミンを連れてきなさいと言われたときに、それを自分たちに対する罰であると感じました。

「肉の目」で見るときに、お兄さんたちは罪人であります。

だから、当然悲しむはずです。

また、「肉の目」で見るときに、怒りも感じるでしょう。

「俺は、やめろって言ったじゃないか!」みたいな感じです。

 

私たちもまた、「肉の目」で見るときに、嘆き悲しんだり、逆に怒ったりしますね。

自分の犯した過ち、失敗、迷惑をかけたこと、取り返しのつかないことをしてしまったこと。

それを嘆き、後悔します。

あるいは、「自分は悪くないのに、なんでこんな目に遭うんだ!」と怒ったりもします。

自分は頑張っていたのに、一生懸命働いたのに、忠実に仕えていたのに、なんでなんだー!

そういうこともあります。

「肉の目」で自分自身の過去や現在を見ると、悲しんだり怒ったりすることはよくあるでしょう。

 

ヨセフは、お兄さんたちに、そうしてほしくない、と言っているのです。

すごいことですね。

そもそも、聖書を読む私たちからすると、ヨセフこそが、自分の状況に関して「嘆き悲しんだり、怒ったりする」権利がある人間なのではないか、と思います。

お兄さんたちに売り飛ばされて、エジプトで奴隷となる。

奴隷として働きながら、ポティファルの家で相当高い地位になるが、妻の怒りを受けて、牢獄に入れられることになる。

散々な生活をしています。

ヨセフこそ、自分の人生に対し、自分の状況に対して「嘆いたり、怒ったり」するのにふさわしい人物のように思われます。

私たちも、「ヨセフのような立場なら、嘆いたり、怒ったりしても、まぁ仕方ないか」と思うでしょう。

 

でも、聖書を見ても、私たちは、ヨセフが人生を嘆いたり、神様に怒りを向けたり、そんな姿を見ることはないんですね。

ヨセフの生き方について聖書が書いている記述はそれほど多くはありません。

すごく単純に、「主が共にいる」という記述だけです。

ヨセフがポティファルの家で働いていたとき、主がヨセフと共にいました。

また、監獄にいたときも、主がヨセフと共にいました。

これ以上の記述を聖書はしていません。

心のなかで何を考えていたのかは、わかりません。

ただ、ほんの僅かだけ、ヨセフが結婚して子供が生まれたときに、ヨセフの内面に関する記述が現れます。

41:51−52です。

 

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。」

 

 

ここからは、想像ですが、ヨセフがどんなときも幸せだったわけでは、どうやらなさそうだ、ということが伺われるでしょう。

たしかに、神様はヨセフとともにいました。

そして、きっとヨセフも、神様と共にいようと心がけていたでしょう。

主の喜びとなりたい、そのような思い出、毎日、毎瞬間生きてきたのでしょう。

けれども、「あぁ、神様が本当に私に目をかけて、報いてくださった!」と思うようになるのには、時間がかかったのではないか。

監獄から出ます。

宰相の地位になります。

結婚します。

子供が生まれます。

これらは、本当にヨセフの努力や頑張りではどうにもならない状況の変化です。

こうしたものを通じて、「あぁ、神様が本当に私を豊かにしてくださった!」と実感したのでしょう。

そしてこのことは、逆に言うと、それまでずっとヨセフは、ヤコブの家から突然エジプトにやってきたを、根に持ちながら生きてきた、ということでもあります。

その過去の出来事が、常に心のなかに引っかかりながら生きてきたのです。

 

このヨセフの姿を見ながら、私たちに対して言えることは、2つあるでしょう。

一つは、私たちが実り豊かになるためには、多少時間がかかる、ということです。

もう一つは、私たちは、しっかりと神様の恵みを体験する必要がある、ということです。

 

今は、「恵みを体験する」という点に絞りたいと思います。

詩編34:8は次のように語っています。

 

「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」(新改訳2017)

 

「いつくしみ深い」という箇所は、英語では単にgoodと訳しています。

原文でもそうなのですね。

「主が本当に良いお方であること、それを味わい、見なさい!」

この詩編はそう語っています。

 

「味わう」という言葉は、いい言葉ですよね。

難しく言うと「享受する」とでも言えるのですが、単に「味わう」で十分です。

私たちが食べ物を「味わう」とは、いったいどういう状態でしょうか?

「これは、砂糖としょうゆとみりんの割合が、1:1:1か。お、この食材は少しゆですぎだな。」そんな風に分析しながら食べることではないですね。

あるいは、「これを作ってくれた人は私の上司の妻なので、気分を悪くさせないために、どんな味でも美味しそうな顔をしないといけない。主よ、どうか私の顔の表情を守ってください!」そういう風に、人々を気にしながら食べることでもないですね。

あるいは、「うん、これはすしだ。うん、これは牛丼だ。うん、これはイタリア風サラダだ。」そんな風に、カテゴリー化して食べることでもないですね。

私たちが食べ物を「味わう」というとき、それは、食べ物を分析したり、作ってくれた人を色々配慮したり、あるいは、ただ料理名だけを確認したり、そういうことを意味しているのではないでしょう。

「味わう」というのは、本当に、その料理を、純粋に楽しむことを意味しています。

おいしいなぁ、ちょっとまずいなぁ、酸っぱいなぁ。

色んな余計なものを置いといて、その食べ物を味わい、楽しむ、それに集中することですね。

 

詩編が語っているのは、私たちは、神様が本当に良いお方であることを、ただ素直に味わいなさい、ということです。

でもこれが、信仰生活を送っていると、だんだん難しくなって行ったりするんですね。

最初は、他の人の祈りを聞いていても、ただ「あぁ、素晴らしいなぁ」と思うだけだったのに、いつのまにか「あの祈りは、神学的にどうなのか? ちょっとおかしいのではないか?」などと考えるようになります。

そして、祈る人と一緒に心を合わせて祈るよりも、その祈りを批評的に聞いている自分に気づくようになります。

あるいは、最初はイエス様のすばらしさに心が躍って生きていたのに、「他人に証をしないと、愛のある私でないと!」などと思いながら、自分を固くしていってしまいます。

そして、イエス様を心から感動する心を失ったまま、人の見える姿では「恵まれた表情」をするようにしてしまいます。

そのように信仰生活を送りながら、私たちは、しばしば、神様が本当に良いお方であることを、味わうことなく過ごしてしまいます。

 

子供から大人に成長するとき、だんだん物事を複雑に考えるようになります。

「複雑に」というのは、実は、「多角的に」ということですね。

子供は、自分の視点から見たものをすべてと思いがちですが、成長するにしたがって、他の視点から見た場合を考えるようになります。

これが成長です。

でも、そのように多角的に見るだけだと、単に混乱するだけなのですね。

情報が多くなるだけだど、判断に迷うだけになります。

大人になった人間が、さらに成長しようとするためには、子供と同じように、単純になる必要があります。

でもそれは、ただ単に子供に戻る、ということではありません。

様々な角度からの理解を踏まえたうえで、「本当に大切なもの」に目を向ける、ということです。

いろいろ大切なことがあるんだけれど、「これが本当に大切なことだ!」そういう一つのことに目を向けることです。

これが、大人にとっての「単純になる」ということです。

 

クリスチャンの信仰の歩みにとっても、これは当てはまるでしょう。

クリスチャンになって、聖書も良く読むようになって、神学的なことも多少はわかるようになって、また、教会での振る舞い方というのも分かるようになって、いろんなことがわかるようになって、では、「本当に大切なことは何か?」、それが実はおろそかになる。

大切なことは何でしょうか?

主が良いお方であることを、味わう心なんです。

主が本当に良いお方、素晴らしいお方、憐れみ深く、慈しみ深いお方である、そのことを深く味わい、楽しみ、喜ぶ、単純な心なのです。

私たちは、主の恵みを味わう心を、忘れないようにしましょう。

 

ヨセフは、主の恵みを本当に味わったのだと思います。

十分に味わったのでしょう。

そうしながら、過去に負った自分の心の傷が、徐々に癒されていったのではないでしょうか?

突然お兄さんたちに襲われ、そして、一人で言葉も分からない外国で、奴隷となるのです。

そこでもまだ苦難が続いた。

そういう歩みで受けた傷が、監獄から出て、結婚して、子供が生まれて、という生活の中で、またそこにはもちろん、普通の家庭生活の一瞬一瞬の出来事もあるでしょうが、そういう全てを通じて、癒されていったのでしょう。

その毎日の歩みのなかで、神様の恵みを少しずつ味わっていったのでしょう。

それがヨセフだったのです。

 

 

 

神様の恵みを体験していたこと、これが、ヨセフが今日の本文にあるように「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができるようになった、一つの理由です。

もう一つの理由は、ヨセフが、神様の救いの計画を悟り、その計画の中における自分の使命を悟っていたことであります。

45:7-8を読みましょう。

 

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」(新改訳2017)

 

 

ここでは特に45:7に注目したいのですね。

やはり少し文法的な話をしようと思います。

この箇所では、まず神が私を派遣した、という中心的話があります。

そして、それに対する目的がそのあとで書かれています。

その目的が二つあります。

それは、「あなたがたのために残りの者をこの地に残し」と「あなたがたを生き延びさせるため」という二つです。

この「残りの者」というのはすごく大切な用語です。

特に預言書などで使われるようになる言葉なのですが、バビロン捕囚のような神様のイスラエルに対する罰を通じて「生き残った人々」のことを指します。

それはしばしば、不忠実な民が多くいた中で、神様に対して忠実であった人々、というニュアンスも含まれています。

こうした用語がここで使われていることにも、聖書は一貫しているのだなぁと思います。

この7節には、「大いなる救いによって」という言葉がありますね。

この「大いなる救い」とは一体何を指しているのでしょうか?

お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトに移り住むことを指しているのでしょうか?

しかしそれは、「大いなる救い」と言うには、私にはいささか大げさなように感じられます。

出エジプト記では、10の災いがあって、そのあとに紅海の奇跡があって、「大いなる救い」とはっきりわかるようなものがあります。

創世記のヨセフの物語の中に、そんなにはっきりと「大いなる救い」というような明確な神様の行為があるとは思えないのですね。

では、これは一体どういうことでしょうか?

ここで注意したいのは、「大いなる救いによって」の「よって」の箇所です。

これは「レ」という前置詞を翻訳しているのですが、この前置詞は、通常は「…のために」「…に向かって」などを表す前置詞です。

そしてしばしば英語のasと同じように「として」の意味でも使われます。

私は、この7節は、意味的にはこの「として」が適当なのではないかと考えます。

つまり、「残りの者をこの地に残す」ことと「あなたがたを生き延びさせる」こと、それ自体が「大いなる救い」なのです。

「大いなる救い」として、お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトに生きることがあります。

いや、もっと言うならば、ヨセフがエジプトの宰相になったこともまた、「大いなる救い」の一部でしょう。

さらには、ヨセフがエジプトに売り渡されるときから、既に「大いなる救い」は始まっていたともいえるかもしれません。

そうだとすると、この箇所はこのように翻訳することができます。

 

「神は「大いなる救い」として、あなた方より先に私をお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」

 

このことが意味しているのは、ヨセフが生まれ、お兄さんたちの嫉妬を受けてエジプトに売り渡され、そのエジプトで奴隷として働き、囚人となり、そして宰相となる――これらすべてがまさに「大いなる救いとして」存在していたということです。

ヨセフは、そのことを悟っていたのでしょう。

つまり、自分の人生が、神様が導いている「大いなる救い」のまさに一部であることを悟っていたのでしょう。

お父さんの家にいたときは分からなかった。

エジプトに売られたときも分からなかった。

囚人の時も分からなかったかもしれません。

しかし、突然エジプトの宰相となり、エジプトの国を、そしてその周辺諸国を導くような立場になりながら、彼は悟っていったのではないでしょうか?

自分の人生は、自分が導いているのではなく、神様が導いているのだ、ということを。

そして、自分の人生が、神様の「大いなる救い」の一部としてまさに存在しているのだ、ということを、悟っていたのではないでしょうか?

そして、ヨセフはそのことを十分に悟っていたからこそ、「私をここに遣わしたのは神なのです」と語ることができたのだと思うのです。

 

このことは、今の私たちにとっても、とても意味のあることです。

エフェソ書の有名な1:4−5を読みます。

 

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(新改訳2017)

 

 

私たちは、イエス様を信じることによって救われました。

しかし、そのことも天地創造の前から神様の計画にあったことなのです。

そして、救われた私たちは、まさにその神様の計画の中を生きているのです。

これはとても驚くべきことだといえるでしょう。

どのような瞬間も、私たちは神様の救いの計画の中を生きている、ということなのです。

だから、こうも言えるのです。

ヨセフが、エジプトに売られ、奴隷として生活し牢屋に入れられた、そのことが「神の計画」ではないところで起きた偶然な出来事や不幸ではなく、そうした出来事もまた「神様の救いの計画の一部」である、それと同じように、私たちが、今現在どのような状態にあろうとも――思いがけない形で、自分が今までと異なる境遇に陥っても、病気になっても、失業しても、苦しみにあっても、それらは、神様の計画とは別のものではなく、それらもまた、神様の救いの計画の一部なのだ、と。

そのように言うことができるのです。

この事実は、大変恵み豊かなことです。

 

 

私がこの創世記45章の御言葉を頻繁に考えるようになったのは、昨年の9月か10月頃だったと思います。

その時、ふとこの御言葉を読みながら、「自分は、まだヨセフと同じように語ることはできない」と思ったのでした。

それにはこういう事情があります。

私は昨年の8月まで京都の教会で伝道師として働いていたのですが、その頃、妻が精神的に疲れてしまい、しばらく京都から離れたほうがいいということで、休みをいただきました。

そして、仙台に私の実家で所有しているアパートの一室があり、長期滞在が許されたので、そこでしばらく静養することにしました。

ところが、そのように生活しながら、私自身は、内面的にはイライラすることがありました。

休みを頂いた頃、京都の教会では、いろいろ教会改革しようとしていた頃で、変化がありました。

そして私自身も、「教会をこのようにしていけばいいだろう」と色々考えていました。

そうしたときに、そこの教会から離れることになったのです。

頭では、自分が京都から離れて仙台にいることを理解していました。

「夫と妻は一体なのだから、妻が弱っていたら夫はそれを支えるように生きないといけない。そしていまはそのために休暇を頂いて、京都から離れているのだ。」

そのように理解していました。

しかし、心の方では、納得していないのでした。

20代後半にクリスチャンになって以降、イエス様と教会は私の人生の中心であり、人生の多くの時間を伝道や教会の働きや活動にささげてきました。

教会というのが人生の殆どであり、生きる意味、生きがいの対象でもありました。

ところが、今やそこから離れているのです。

そして、SNSなどを通じて教会の様子が情報として色々入ってきます。

それを見ると、すごくしっかり教会の運営がされているようにみえるのですね。

イキイキしているようにみえるのです。

そこで、私はイライラするようになりました。

「本当は、自分もそこにいるはずなのに」という悔しさがありました。

また、同世代の献身者たちがそれぞれ教会を牧会しているのを見聞きしても、嫉妬もあり、自分がそれをできないこともあり、イライラしました。

フェイスブックを見るのも嫌になりました。

 

だから、頭と心、理性と感情で、バラバラだったのです。

京都を離れて仙台に行くことは、まさに自分が決めたことです。

それは、頭ではわかっていました。

しかし心の方では、私は京都から追い出されて、仙台に送られた、そのように感じていたのです。

つまり、心の方では、私は被害者意識をもっていたのです。

だからイライラしていたのでした。

 

そのような心の状態のときに、創世記45章を読みました。

そして、ヨセフは、「神が私をエジプトに遣わした」と言っているけれど、自分には、まだそのように思うことはできない、と感じたのです。

「私はまだ、京都から追い出されていると感じている」と思ったのでした。

しかしながら、ヨセフが告白したように自分も告白すること、それが正しいことだし、そのように告白することができるようになることが、自分にとっての目標だな、ということも同時に覚えたのでした。

「京都から追い出されて、仙台に来た」のではなく、「神様が仙台に、あるいは宮城県に、あるいは気仙沼に送ったのだ」そのように心から思い、納得するようになることが自分にとって、そして夫婦にとっての目標だ、と思いました。

 

そして8月下旬に仙台に来てから、もう半年が過ぎました。

その時間を通じて、私は、だんだん「神様が私をここに遣わした」ことを、納得するようになってきました。

そのような心境の変化は、やはり神様の計画を悟ることにあると思います。

この半年間を通じて、京都にいたときには気づいていなかった、あるいは、特に表面化していなかった自分の課題や弱点があることに気づきました。

そして、神様が私を仙台に送ったのは、私自身が、その課題や弱点を克服し、成長させるためであると納得するようになってきました。

「納得」が大切なんですね。

単に頭で「こうでないといけない!」と言い聞かせるのではなく、心で自然と「そうだよね」と納得する、それが大切です。

神様が、「あなたはその教会、その組織にいては、自分の弱さを成長させることができない」と考え、そしてそこから出るように導いたのです。

今は、そのように考え、納得しているのです。

 

神様の計画、神様の意思、それを本当に悟り、心から納得するときに、私たちは、この人生を「被害者」として生きるのではなく、神様の素晴らしい計画の「主人公」として生きることができるようになるのです。

 

さて、ヨセフが神様の計画を十分に悟り、その計画の中で自分に与えられた使命を悟ったとき、ヨセフの人生において一つの偉大な出来事が実現されます。

それは、赦しと和解です。

ヨセフが神様の計画を悟ることで、ヨセフは、お兄さんたちを赦すことができるようになったのです。

 

私たちには、赦せない人物や事件、出来事はあるでしょうか?

もし、それらもまた、神様の救いの計画の一部であるとしたら、どうでしょうか?

もしそうであるなら、これは素晴らしいことでしょう。

イライラがある、怒りがある、憎しみがある、そういう人生は、そのような感情を抱く本人にとって不幸です。

赦すことのできる人生とは、どれほど心が軽く、幸せなことでしょうか?

しかし私たちは、「クリスチャンだから赦さないといけない!」とは考えないようにしましょう。

そうした義務感によって赦しの心は与えられません。

むしろ、神様の計画を悟り、赦しの心が自然に与えられるときを待ち望みましょう。

そのような時を私たちは期待してよいのであり、期待すべきなのです。

 

主は良いお方です。

その主の豊かな恵みを十分に体験しましょう。

そして、人間の目、肉の目で出来事を見るのではなく、神様の目で出来事を見るようにしましょう。

そのように日々歩みながら神様の救いの計画を悟り、そして、その計画の中での自分の役割を悟るようになるならば、私たちは、被害者として人生を生きるのではなく、主人公として生きることができるようになり、そしてなにより、赦しの心を持つことができるようになるでしょう。

そのような時が来ることを、祈りつつ、期待しながら歩んでいきましょう。

 

 

祈ります。

愛する天のお父様、御名を賛美します。

私たちは、人間的な目で見ながら、憤りを抱いたり、苦しんだりします。

しかし、あなたはどのようなときでも、救いの良い計画をお持ちであります。

エス様が十字架につけられたとき、それは、もう「終わり」かと思われた瞬間ですが、しかしそれさえもあなたの救いの計画の一部であり、人間が想像する以上に偉大な出来事でありました。

あなたの計画を悟るとき、私たちは、心からの平安を持ち、勇気が与えられ、自分に危害を与えた人や出来事、あるいは過去を赦すことができます。

主よ、どうかあなたの豊かな恵みを私たちが日々体験し、そして、私たちの頑なな心が溶かされますように。

また、あなたの計画を悟ることができるように、聖霊様で満たしてください。

あなたの計画を悟り、あなたの求める姿へと、私たちを作り変えてください。

全てを期待します。

愛する主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。