Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

エレミヤの召命


エレミヤ1;1-10


1.イントロダクション

おはようございます。
昔、まだクリスチャンになったばかりだったころ、聖書を読みながら、一つ励ましを受けていた点がありました。
それは何かというと、「聖書の登場人物が、意外と自信のない人が多い」という点です。
結構泣き言を言う人が多いのです。
当時、「神様を信じる人間は、何も恐れない」みたいなイメージを抱いていたのですが、聖書を見ていくと、別にそんな人はほとんどいない。
みんな、ふつうの人間なんですね。
これには励ましを受けました。
なぜかというと、私も自信がなかったり、不安に思うことが多いからです。

自信がない、不安に思う、恐れを感じる。
なんでもかんでもそういう風に感じるわけでは、もちろんありません。
不安や恐れ、自信のなさを感じるのは、新しい領域、自分にとって不慣れな領域、それに関わるときです。
心理学でよく使われる用語で、コンフォートゾーンというものがありますね。
安心できる領域、慣れ親しんだ領域、自分が快適に感じられる領域、それがコンフォートゾーンです。
その領域の「外」は、人に不安を感じさせるのです。
娘を見ていると、知らない人と会うときに、その人が一定の距離を保っていると平気にしているのですが、その距離を縮めて、一定の限界を超えると、泣き出す、ということがありました。
しばらく距離を保ちながら、その見知らぬ人が安全かどうか確かめ、そして安全であることが分かったら近づいても大丈夫なのですが、いきなり近づいて、一定の限界を超えると、やはり怖くなって泣き出すのです。
自分にとっての安全な領域に、いきなり見知らぬ人が侵入したからです。
そのような領域、目に見えない境界線で区切られた領域、それがコンフォートゾーンです。
今の娘のケースですと、コンフォートゾーンとは、空間的な、一定の範囲です。
しかしこれは、もっと色々な対象に関して考えることもできます。
人間関係でいえば、よく知っている人、自分が心地よく感じられる人がいますが、その人たちはコンフォートゾーンです。
そのゾーンの外側には、見知らぬ人や、会うと緊張を感じる人、不安や恐れを感じさせる人がいるでしょう。
仕事で言えば、自分が今までやってきた領域はコンフォートゾーンですが、新しい分野、自分がやったことのない領域は、そのゾーンの外側です。
それらもまた、不安や恐れを感じさせるでしょう。
生活環境においても、今まで住んでいる場所は、慣れ親しんだ風景やお店などがあり、コンフォートゾーンになるのですが、そこから引っ越すとなると、やはり不安が生じたりします。

私たちは様々な理由から、コンフォートゾーンから出なければならないときがあります。
しかしそういう時には、私たちは不安や恐れ、自身のなさ、無力感などを感じるでしょう。
そのときに、私たちはどうしているでしょうか?
恐れや不安に引きづられながら、「絶対ここからは出ない!」と決意する人がいるかもしれません。
人によっては、恐れや不安など、全然平気という人がいるかもしれません。
しかし多くの人は、新しく踏み出さないといけないと思いながらも、恐れ、不安になり、立ち止まってしまうことが多いでしょう。
今日は、預言者エレミヤの召命の箇所を読みながら、どうしたら私たちが不安や恐れを乗り越え、コンフォートゾーンから一歩外に踏み出すことができるのか、考えてみたいと思います。


2.エレミヤの時代とエレミヤ自身

まず、エレミヤがどのような時代を生きていたのか、その背景を確認しましょう。
今日の本文の、1:1−3を読みます。

ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことである。
それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第11年の終わりまで、すなわち、その年の第5の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた。(新改訳2017、以下聖書からの引用も同じ)

ここにエレミヤが生きた時代のことが書かれています。
まず、年代についてですが、2節に「アモンの子ヨシヤの時代」とあります。
ヨシヤ王は、紀元前640年から609年まで王として統治していました。
エレミヤはそのヨシヤ王の時代に預言者としての活動を始め、それが、3節によりますと、「ゼデキヤの第11年の終わり」、つまり「捕囚」のときまで続きました。
その「ゼデキヤの第11年の終わり」は、紀元前586年頃です。
なので、すごくざっくり言うと、エレミヤが預言者として活動した時期は、紀元前600年前後ということになります。
この紀元前600年前後というのは、この中東の地域では大きな国際情勢の変化があった時期でした。
紀元前8世紀以来、この地域で大きな勢力を誇っていたのは、アッシリア帝国でした。
アッシリア帝国は、BC722年に北イスラエルを滅ぼします。
南のユダもアッシリア帝国と無関係ではなく、アッシリアの圧力を受け続けていたと考えられています。
ところが、紀元前7世紀の後半になると、そのアッシリアの力が弱まっていきます。
今のイランのあたりではメディアという国が誕生し、また、チグリス・ユーフラテス川のあたりでは、新バビロニア帝国が生まれます。
アッシリア帝国の力が弱まってきたときが、ユダの国では、ちょうどヨシヤ王が王様になっていたときでした。
ヨシヤ王の時代、それまで半ばアッシリア帝国に従属していたユダが、アッシリア帝国の影響力が弱まることで、相対的に自立できるようになりました。
「ヨシヤの改革」というのは、ちょうどその時期に対応します。
ところが、ユダが相対的な自立を保っていたのもほんの束の間で、すぐに、先程言及した新バビロニア帝国が強大になっていきます。
そして6世紀初め、つまりBC586年には、ユダは新バビロニア帝国に滅ぼされることになります。
要するに、エレミヤが活動していた時代というのは、ユダの立場からすると、今まで強大な力を持っていたアッシリア帝国が弱体化し、少しユダが自立したかと思ったら、今度は新バビロニア帝国が出てきて、最終的にはそのバビロニア帝国に滅ぼされることになる、その時期だということです。
本当に激動の時代だと言えます。
当時の政治情勢は以上のようであるとして、ではエレミヤの経歴はどういうものかというと、それほど多くのことはわかりません。
1節を見ると、エレミヤは「アナトテにいた祭司」の息子だったことがわかります。
アナトテとは、エルサレムから北東に3−6キロの場所にありました。
そこは祭司たちが住む町です。
その町出身の有名な祭司としては、ダビデの頃に活躍したエブヤタルがいます。
彼は、政治的判断で過ちがあり、ソロモンの時代にはパージされました。
もしかすると、そういう背景もあり、アナトテの祭司たちは、メインストリームではなかったかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。
エレミヤは、そのアナトテの町の祭司の息子として生まれました。
古代イスラエルでは、祭司は世襲制なので、エレミヤも子供の頃から祭司になるための教育や訓練を受けていたことでしょう。
つまり、聖書に関する知識は持っていたことでしょう。
これがエレミヤの経歴です。


3.エレミヤの召命

それでは、こうしたエレミヤに対し、神様がどのように呼びかけたのかを見ていきましょう。
1:4−5を読みます。

次のような主のことばがあった。
「わたしは、あなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」

このような神様からの言葉が、エレミヤの人生のいつのときにあったものなのか、はっきりしたことはわかりません。
6節に「若い」という表現がありますが、それも、年齢的に一定の幅をカバーする用語なので、実際に何歳くらいなのかはわかりません。
日本語でも、スポーツ選手の場合の「若手」と、研究者の場合の「若手」では、全然年齢が違いますね。
私としては、エレミヤが神様からの召命を受け取ったのは20歳前後だったのではないかと思います。

3−1,召命の内容

このエレミヤへの召命の言葉に対して、ここでは2つの点を指摘します。
一つは、その召命の内容に関してであり、もう一つは、その召命の性質に関してです。
はじめに、召命の内容について話します。
「召命」とは、「使命に召される、呼ばれる」と書きますが、今日は、これから召命や使命やヴィジョンという言葉を使いますが、どれもだいたい同じ意味だと思ってください。

さて、エレミヤが受け取った召命の内容は何でしょうか?
それは、「国々への預言者」です。
イスラエルへの預言者」ではなく、「国々への預言者」です。
エレミヤは、一つの国に対して神様の御言葉を伝える使命を委ねられたのではなく、「国々」、つまり世界中の国に対してそういう使命を委ねられたのです。
その働きの内容は、具体的には10節にあります。

「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

ここからは、、預言者としての働き、つまり、御言葉を伝える働きは、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植える」働きだということがわかります。
これはどういうことでしょうか?
今風に言えば、「破壊と創造」あるいは「創造的破壊」とでも言えるかもしれません。
御言葉を伝えるという働きには、破壊と創造という二つの側面が存在するのです。
「破壊」の側面とは何かといえば、神様の御心ではないものの否定ですね。
例えば、まことの神ではないものを「神」であると信じているならば、そういう姿勢は確かに否定されるのです。
エレミヤ書2:27ではこう言われています。

彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。

木を彫ったり、石を彫って作られたものを、人間は大切にし、その前で手を合わせたり、ひれ伏したり、拝んだりしますが、それはやはり単なる「木」であり「石」です。
御言葉を伝えることは、木や石を拝む、こういう心を否定するでしょう。
あるいは、誰かを憎んだり恨んだりする心があるならば、それも神様の御心ではないので、やはり否定されます。
しかし、御言葉を伝える働きには、そういう否定的な側面ばかりではなく、もちろん、肯定的な側面があります。
それは、伝えられた御言葉がその人のうちに根ざしながら、成長し、その人の人格がイエス様に似たものへと作り変えられていく、そのきっかけになるという側面です。
御言葉を伝えることは、人々が聖霊様によって新しく生まれるようになるきっかけになります。

「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植える」――御言葉を伝える働きには、こういう「破壊」の側面と「創造」の側面の両面があるのです。

ところで、「破壊と創造の両方の側面がある」とはいっても、実際には、「破壊」の側面が強く出てしまいがちです。
実際、エレミヤだけではなく、旧約聖書預言者たちは、みな、「真実を語るがゆえに」否定的な言葉が多くなります。
現実の社会が、また人々の生き方が、神様の御心にかなっていない、その「真実」を語ろうとすると、どうしても「否定的」な言葉が多くなります。
そして否定的な言葉を聞いた人々との間には、「対立」が生じるようになり、「攻撃」も受けるようになります。
さらに、「真実を語っている」と考えている人は、こういってよければ、偉そうに見えますね。
それもまた人々にはしゃくに障ります。
そして、「こいつ、若いくせに偉そうにしやがって」と思われたら、伝えたいことも伝わらなくなってしまいます。

御言葉を伝える働き、つまり預言者の働きには、こういう困難がつきものです。
エレミヤは、「国々への預言者と定めていた」と神様から言われたとき、当然、そういう困難に思い至ったでしょう。
「なんてことだ、これは大変なことだ。俺の人生はもう終わった!」と思ったかもしれません。
「祭司として、ただ儀式をやっていて、ときどき、ただ時宜に応じて人々に慰めのことばを語ったりしていればいいと思っていたのに。ああ、なんてことだ! 人々に、神様の真実を伝えないといけないとは!」と。
そこでエレミヤは、言い訳を神様に訴えます。
1:6です。

私は言った。
「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません。」

私は若いです、人々からあなどられるだけです。
「若い」から、誰も真剣に聞いてなんてくれないでしょう。
もっと歳を重ね、経験を重ねた人のほうが、説得力があるでしょう。
私のような若い人間が話すのは、話すだけ無駄です。
もっと他に適切な人がいるはずなので、そちらに聞いてみてください。
――まるでそんな風に言っているかのようです。

エレミヤはすごく弱気です。
神様が自分に求めている働きがどんなものかわかるだけに、余計に怖くなり、逃げたくなっています。
そして言い訳を語る。
冒頭で話したように、聖書にはこういう弱気で自身のない人が結構出てきます。
モーセは、神様とのやり取りですごく弱気で、度が過ぎて神さまを怒らせるほどでしたね。
士師記のギデオンもそうですね。
エレミヤも弱気な人間の代表者のようなものです。
預言者」という働きがどんなものか知っているだけに、恐れ、不安が大きくなり、逃げ出したいのです。

エレミヤは、神様から「国々への預言者」になるという使命を受け取ったとき、恐れや不安が大きくなりました。
私たちもそういうことがあります。
何らかのヴィジョンを受け取るとき、私たちは、たしかに興奮したり、ワクワクしたりしながらも、同時に、不安や恐れをいだきます。
御言葉を伝えるということだけがヴィジョンではありません。
どこどこに住むということ、何らかの組織で働くということ、誰かと結婚するということ、何か新しい仕事に着手するということ、これら全てに、何らかのヴィジョンが伴います。
そしてそのヴィジョンを生きようとするときに、現在の自分は変わらざるを得なくなります。
そこに不安が生まれます。
自分にとってのコンフォートゾーンから出なければならないからです。
では、どうすればそのコンフォートゾーンから出て、ヴィジョンに生きることができるのでしょうか?

3−2.召命の性質

ここで、2つめの点、エレミヤの召命の性質を考えてみましょう。
おそらくエレミヤは、自分に対する神様の召命、「国々への預言者と定めていた」という神様の決定が、絶対的なものだということを感じていたでしょう。
5節を見ますと、「あなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し」と言われています。
預言者になるのは神様の意思であり、それは、はるか昔からすでに決まっていたのだ、ということです。
自分が意識する前から、物心がつく前から、自分は預言者になる存在だったのだ、ということです。
これは、今の私たちの立場で言い換えるとどうなるでしょうか?
つまり、イエス様が直接私の前に現れて、「これをしなさい、あれをしなさい」という指示を日々受け取っている、わけではない私たち、つまり、平凡な人間に過ぎない私たちの立場では、どのように言い換えられるでしょうか?
私は、こういう風に言い換えられると思います。

預言者として生きることが真実に私らしく生きることであり、預言者として生きることが真実に私が満足し、喜び、充実して生きる道なのだ。
私はずっとそのことに気づいていなかったし、ちょっと思ったとしてもすぐ忘れたり、あるいは気づいていないふりをしていたけれど、やはり認めざるを得ない。
預言者として生きなければ、私はもはや私ではない。」

エレミヤが受け取ったヴィジョンを言い換えると、こうなるのではないでしょうか?
そして、ヴィジョンというものがこういうものであるなら、私たちも理解できますね。
こうしたヴィジョンを、人それぞれ異なりますが、誰もが持っています。
いや、神様が与えているのです。
私たちは、ただそれを見出し、再発見するのです。
「それをすることで真実に私が満足し、喜び、充実感を抱くものは何か?」
「それをすることで真実に私が私らしくいられるものは何か?」
それをすることに困難が伴うかどうか、あるいは果たしてそれが可能かどうか、それはひとまず考える必要はありません。
大切なのは、ヴィジョン、夢なのです。
自分自身の存在理由そのものであるようなヴィジョン、「そのように生きなければ、もはや私は私ではない」と、そのように言えるヴィジョン、それが問題なのです。
私たちは、そうしたヴィジョンを持っているでしょうか?
さらに、ヴィジョンを持っているとして、そのヴィジョンを生きているでしょうか?
かつて、何からのヴィジョンを受け取り、それに向かって決断した、そして生き続けてきた――そういう経験をお持ちの方もたくさんいらっしゃるでしょう。
そのヴィジョンは、今もあなたの心を燃やしているでしょうか?
あるいは、そのヴィジョンが一旦一区切りついたとしたら、今あなたを動かしているヴィジョンは何でしょうか?
ぜひ、自分自身に問いかけてみてください。
また、もし、今、何のヴィジョンも持っていないとしたら、ぜひそれを見出してください。
なぜなら、神様は私たち一人ひとりにヴィジョンを持っているのであり、私たちとしては、そのヴィジョンを生きるときに真実に幸せであり、真実に喜び、充実感をいだき、真実に「私らしく」いられるからです。
そして、同じことなのですが、そのヴィジョンを持つときに、私たちは自分のコンフォートゾーンから出ることができるのです。
ここで大切なのは、そのヴィジョンの性質です。
エレミヤに対して神様から示されたヴィジョンは、絶対的な性質を持っていました。
それは、はるか昔から、永遠の昔から決まっていて、動かしがたいものとしてエレミヤに提示されました。
私たちに示されるヴィジョンも同じです。
それは動かしがたい、変更できない、絶対的という性質を持ちます。
単なる願望は、時間がたてばなくなったり、変化したりします。
単なる思いつきだと、それに対して人生を賭けようという決断にはなりません。
ヴィジョンというのは、コロコロ変化したりはしません。
それは、時間が断っても、日にちが断っても、何度も何度も同じように私の脳裏にやってくるものです。
またヴィジョンは、それに対して自分の人生を賭けても良いと思わせるものです。
であるがゆえに、ヴィジョンは、私自身のアイデンティティと一体になるようなものなのです。
そうしたヴィジョンを持つことで、私たちは自分のコンフォートゾーンを超えることができますし、また、ヴィジョンを持つことが、それを生きるための前提なのです。
だから、私たちは何よりもまず、ヴィジョンを見出さなければなりません。
そのために何ができるでしょうか?
まず、聞き飽きていることとは思いますが、祈り、また聖書を黙想してください。
また、祈りの心を持ちながら、自分の人生を振り返り、社会を観察しましょう。
さらに、人々と対話をし、積極的に読書をし、気になる活動には参加してみてください。
あらゆる通路を通じて神様は語りかけるからです。
そういう活動のすべてが、神様の御旨を尋ね求める祈りの一貫なのです
そしてそれら通じて、結局は、エレミヤ書33:3の御言葉が実現するのです。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」

神様は、呼び求める私たちの祈りを聞いてくださいます。
そして、私たちには思いもよらない「大いなること」を準備されています。
それを期待しながら、私たちはヴィジョンを求めましょう。
神様は、私たちにそれを告げてくださるでしょう。


4.神様の約束と信頼

エレミヤの召命の内容と、召命の性質について話してきました。
召命の内容は「国々への預言者」であり、召命の性質は絶対的なものでした。
永遠の昔からの神様の決定という絶対的な性質を帯びながら、「国々への預言者」というヴィジョンが、エレミヤに示されたのでした。
そのヴィジョンに対して、エレミヤは恐れおののきます。
「若いのでできません!」と語る。
最後に、そのように恐れ、臆病になっているエレミヤに対し、神様がどう対応したのかを見ていきます。
1:7−9を読みます。

主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主のことば。」
そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしはわたしのことばあなたの口に与えた。

これはいきなり、結構驚きだと思います。
「まだ若い、と言うな!」と神様はエレミヤを叱りつけているのです。
「できません!――できないっていうな、ばかやろ!」みたいな感じですね。
今の会社で、上司と部下との関係で再現したら、若干パワハラっぽいです。
エレミヤは、「若いので、どう語ってよいかわかりません」と訴えましたが、これに対して神様は、「若いことは関係ない」と言います。
なぜなら、エレミヤがすべきことは、神様が遣わすすべてのところへ行くこと、そして、神様が命じるすべてのことを語ることだからです。
何を語るべきか、どのように語るべきか、それをエレミヤは心配する必要はないのです。
エレミヤに要求されているのは、「神様が命じるすべてのことを語る」ことだからです。
自分で考えるなら難しいけれど、「言われたことを、その通り語るだけ」なら簡単じゃないか、というわけです。
しかしながら、依然として、預言者として活動をしているときの危険はあります。
「神様がこれこれ言っているんだから、仕方ないじゃないか」という言い訳は成り立ちません。
聞いている方は、「結局、それを言っているのは、エレミヤ、お前じゃないか!」と思うからです。
この場合に生まれる危険に対してはどうなのか?
8−9節で、神様はエレミヤに、一つの約束と一つの確証を与えます。
「約束」というのは、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す」という内容です。
危険はあるし、危ない状況にも陥るけれど、私はあなたと共にいて、あなたを救い出す――そういう約束です。
たしかに、私たちはエレミヤ書を読むと、エレミヤが牢屋に入れられたり、泥水に入れられたりしながらも、助けられ、生き延びている様子を見ることができます。
神様はたしかにエレミヤを助け出しています。
また、「確証」というのは、神様が御手を伸ばしてエレミヤの口に触れ、エレミヤに、「わたしのことばをあなたの口に与えた」と言った出来事のことです。
神様が口に触れるという出来事は、イザヤ書でも描かれています(イザヤ6:7)。
イザヤの場合は、その口に触れる出来事は、イザヤ自身の罪を赦す意味を持っていました。
ここではそれ以上に、神様がエレミヤを預言者として「実際に選んだ」ことを示す意味合いがあるでしょう。
かつて神様は、モーセに対して、次のような約束をしていました。
申命記18:18です。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼は私が命じることすべてを彼らに告げる。

祭司の家系に生まれて聖書の教育を受けていたモーセが、この約束を知らないはずがありません。
神様が、エレミヤの口に触れて、「わたしのことばをあなたの口に与えた」といったとき、エレミヤは、自分がモーセに約束された「預言者」だと思ったことでしょう。
「自分は、あそこで約束されていた預言者として選ばれたのだ」と。
逃げ腰になっていたエレミヤに対して、神様はこのように励ましました。
約束だけでなく、確証を与えたのです。
実際、この後エレミヤは預言者として活動するので、神様のこのような励ましは効果的だったのでしょう。

さて、私たちもまた、神様からヴィジョンを受け取ったとしても、やはり依然として心には不安や恐れがあります。
コンフォートゾーンから出ていくことに伴う恐れがあります。
ヴィジョンを持つことで、コンフォートゾーンから出ていきたい、でなければならない、出るのが本当の生き方だ、とは思ったとしても、やはり恐れや不安があります。
その恐れや不安を乗り越えさせるものは一体なんでしょうか?
何によって、恐れや不安を乗り越えることが可能なのでしょうか?

ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭がいますね。
伝記によりますと、彼はサーカスが好きだったようです。
特に空中ブランコが好きだったそうです。
空中ブランコでは、ブランコから手を離して飛び出す人と、それを受け止める人がいますが、これが、私たちの信仰の姿と同じだと考えているようです。
私たちは、信仰において、チャレンジするときがあります。
それは、ブランコから手を離すときですね。
しかし、チャレンジというのは、無闇矢鱈にするものではない。
そこには、手を離して飛び出してくる私たちを、受け止めてくださる方がいる。
それがイエス様です。
私たちは、イエス様が必ず受け止めてくださることを信じ、信頼している。
だから、いよいよ大胆に、勢いをつけて手を離し、飛び出すことができるのです。
信仰生活というのは、イエス様が受け止めてくださることを信じながら、大胆に飛び出していく歩みである。
そのようにナウエンは考えているようです。

このナウエンの信仰理解を、最近娘と遊びながらよく思い出します。
娘は最近、坂道を小走りしてきて、私が受け止める、という遊びが好きで、何度も繰り返します。
私がもし受け止めようとしなかったら、この遊びは成り立ちません。
娘は、私が受け止めてくれるのを信頼して、坂道を小走りしてくるのです。
娘にとっては、本当にちっちゃなチャレンジかもしれませんが、私としては、こういう遊びを通じて、人を信頼することを学んでいくのではないか、と考えています。

何を言いたいのかと言うと、私たちが恐れに打ち勝つ方法は、イエス様に対する信頼である、ということです。
私たちが、空中ブランコから手を離して飛び出していったとき、イエス様が必ず受け止めてくださるという信頼、坂道をすごい勢いで下っていったときに、やはりイエス様が受け止めてくださるという信頼です。
恐れや不安の対義語は、勇気や安心ではなく、あるいは勇気や安心に先立って、まずもって「信頼」なのです。
今日は、どうすればその「信頼」を深められるか、という話はしません。
ただ、次のように言います。

私たちが、ヴィジョンを抱いてコンフォートゾーンを飛び出していくとき、そこに、イエス様がいらしゃって、必ず受け止めてくださるという信頼があるならば、私たちは恐れに打ち勝つことができます。
コンフォートゾーンから飛び出して、危険な状況になったとき、苦しい状況になったとき、敵対者たちがたくさん現れたとき、八方塞がりになったとき、それでもイエス様が守り、救い出してくださるという信頼があるならば、私たちは恐れに打ち勝つことができるます。

これです。

エス様はどんなお方でしょうか?
弟子たちが散々失敗したり、裏切ったりしても、救い出し、赦してくださいました。
また、私たち自身が罪人であったとき、このつまらない人間たちのためにも、イエス様は死んでくださいました。
ローマ人への手紙5:6−8を読みます。

実にキリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

善良な人のためなら、もしかすると、身代わりに死ぬ人はいるかもしれない。
しかし、犯罪者、極悪人、つまらない人間、いてもいなくてもいい人間、無能な人間――そんな人間のために、身代わりに死ぬ人はいません。
ところがイエス様は、そういう人のために死なれました。
私たちを愛していたからです。

みなさん、私たちは残念ながら、つまらない人間です。
また、神様の前では、犯罪者でしかありません。
ところが、イエス様が私たちを愛し、身代わりとなって十字架につけられたことで、救われた存在です。
私たち、このつまらない私たちのために身代わりになってくださるほど、イエス様の私たちに対する愛は大きいのです。
そのイエス様が、マタイによる福音書の最後の言葉によれば、「世の終わりまで」私たちと共にいてくださるのです。
エス様はこのように、私たちを愛しているという確証と、またその約束を与えています。
今述べた以外のこともたくさんあるでしょう。
そのようなイエス様を、私たちはどう考えるべきか?
信頼せざるを得ないでしょう。
聖書の記録は、2000年前で終わったものではありません。
エス様は生きておられます。
神様の御業は、今もなお継続中です。
だから、今この時に、イエス様を信頼しましょう。
ヴィジョンを抱いて飛び出していこうとするとき、恐れや不安が私たちを後ろに引き止めようとしますが、それに対して、イエス様への信頼によって闘いましょう。
信頼によってコンフォートゾーンを超え出ていく時、私たちはヴィジョンを実現していくのであり、神様の計画を実現していくのであり、また結局は、主の栄光を表していくのです。
エス様が全て受け止めてくださり、守り、救い出してくださる、だから私たち、このつまらない、勇気のない、弱い人間もまた、一歩足を踏み出すことができます。
それによって私たちは、本来の私自身となり、幸せと充実感を感じながら、そして、自分の能力でやっているわけではないので、謙遜になり、こうして主の栄光が私たちにおいて表されるのです。
私たちはそのような人生を歩むことができるのです。
素晴らしいと思いませんか?
そのように生きてみたいと思いませんか?
できます。
何が大切なのか?
エス様への信頼です。
ハレルヤ!