Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

エバの罪、アダムの罪

 

創世記3:1-13


おはようございます。
今日の箇所はとても有名な箇所ですが、この箇所の神学的な理解については、今一つ私にはしっくり来ていないところがあります。
今日の箇所は、いわゆる「原罪」というものを語っている場面です。
「原罪」というのは、人類の最初の罪であり、根源的な罪です。
その原罪によって、すべての人間が罪びとになり、すべての人間が罰を受けて死ぬべき存在となりました。
人間が罪を犯すのも、また、人間が死ぬべき存在であるのも、この「原罪」によります。
これが「原罪」に関する神学的な理解です。
ところが、このような説明を聞いても、また今まさにこのように話していても、どうもリアリティを感じないのですね。
私はクリスチャンになって10年ほどたちますが、聖書を知るようになる前でも、何となく「人間はすべて罪人である」という印象を持っていました。
どこを探しても完ぺきな人間はいないですからね。
自分自身も、本当に醜い存在だと思っていました。
だから、「すべての人間は罪人である」という教会でよく言われることについても、「まぁ、そりゃそうだろう」と思っていました。
世界を普通に眺めるならば、誰でもそのような結論には至ると思います。
ところが、「その罪は、すべてアダムに行きつくのだ」という話になると、何か途端に別世界の話のように感じていました。
何となく、こんな風に言っているように感じたからです。

「俺は酒飲みで、いつも飲みすぎて知らない間に色々壊してしまう。
でもそれは俺のせいじゃない。
俺のおやじも酒飲みで、同じように酔っぱらって色々乱暴していた。
でも、おやじだけでもないんだ。
おやじのお父さん、じいさんからして酒飲みだったんだ。
俺が酒飲みなのは、代々受け継がれた遺伝ってものだな。
こりゃ仕方がないんだ。
俺のせいじゃない。
まぁ、敢えて言えば、遺伝のせいか、生まれた家が悪かったか、そういうことだ。」

例えばこんな風に言っているように感じていたからです。
「アダムが罪の始まりだ!」と主張することで、逆に「私は悪くない」となってしまう。
なんかおかしいなぁと感じていました。
それから神学も学びましたが、やっぱりすっきりはしませんでした。
今は、「原罪」という用語で言わんとしているのは、こういうことなのだと理解しています。
つまり、人間はみな罪を犯す存在であるけれども、もとをたどると、最初の人類であるアダムでさえも、罪を犯していた。
人間が悪い理由として、育て方の影響、社会の影響、遺伝の影響などが指摘されたりもするが、そういうものが一切ないときでさえも、人間は罪を犯した。
罪を犯す性質というのは、それほどまでに人間に深く根差しているのだ。
だからそれは、人間の根本的な条件であり、逃れられない運命なのだ。
「原罪」という用語は、こういうことを表現していると今は理解しています。
さらに今は、アダムとエバが罪を犯したこの場面は、人間が罪を犯す基本的なパターンを表現していると考えています。
その意味では、「オリジナル」な罪の在り方を示しています。
人間が生きる時代、場所、活動している領域や出会う人間関係は様々ですが、罪を犯す際の基本的なパターンがあります。
そのパターンの基本的な姿が、この創世記の3章にはあると思います。
今日は、それを語っていこうと思います。
初めにエバの罪、次にアダムの罪です。


1.エバの罪

エバの罪とはいっても、エバだけの罪ではないし、また女性に特有の罪というわけでもありません。
人間ならだれにでも現れる罪が、今は、エバにおいて現れている、ということです。
それは何かというと、神様の恵みを信じないという罪です。
どういうことでしょうか?
本文を一節ずつ読んでいきましょう。
3:1を読みます。

「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当にいわれたのですか。」」

いきなり蛇が出てきます。
その蛇は、「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」と言われています。
今回準備しながらわかりましたが、ここの「賢い」というのは、むしろ「ずる賢い」と言うべき言葉です。
聖書で肯定的に「賢い」と言われるときは、ハーカームという単語が使われます。
それが多く使われるのは箴言です。
ところがここで使われているのは別の単語であり、それは、「ずる賢い」とか「策を練るのがうまい」とか、そういう意味です。
蛇は、賢いというよりは、ずる賢さで一番だったようです。
ところで、「なぜ、そんな蛇のような奴がエデンの園にいるのか?」という問いには、答えません。
確かに、そのような問いが神学的には立てられます。
「神は、なぜサタンが存在するような世界を作ったのか?」
「神はなぜ、もっと意志の強いアダムとエバを作らなかったのか?」
「神はなぜ、世界を創造するときに悪の存在を許したのか?」
このように、同じような問いを立てることができます。
しかしこうした問いは、聖書の範囲を超えている事柄なので、答えることはできません。
私が語ることも、あくまで聖書を前提とした内容であります。

さて、その蛇がエバに問いかけます。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか?」


「この世界のものを楽しんではならないと、神様は本当に言ったんですか?」


「クリスチャンになると、大変なことが多いんだね?」


蛇がエバに問いかける質問は、形を変えて今の私たちにも問いかけられているものです。
この世界の人々は、宗教というものは人間の自由を縛り、自然な欲求を制限するものだと考えます。
すがすがしい青空、新鮮な空気、命を豊かにはぐくみ、四季折々で多様な表情を見せる森、海、食べ物、そういう豊かな自然の賜物を楽しむのを禁じるものだと考えます。
私もよく、「食べてダメなものとかあるの?」と聞かれます。
「宗教というのは、食べてよい物と、食べていけない物を定めるものだ」と思っているからでしょう。
それには確かに理由があります。
イスラム教は豚を食べてはいけませんし、ヒンズー教は牛を食べてはいけないし、仏教には精進料理というジャンルもあります。
もちろんユダヤ教にも、食事に関する制限があります。
クリスチャンの間でも、お酒やたばこは、しないのが標準になっていますね。
この世に存在する宗教は、ことごとく食べ物に関して制限しているのです。
そうした制限は、食べ物だけではありません。
行動、礼儀、儀式、服装、男女関係、いろいろなものについて、宗教は制限を課します。
色々なことに関して「これは良い、これはダメ!」と定め、善悪に関するリストを作成します。
人が何らかの宗教を信じるということは、その宗教が定めた善悪のリストを守って生活することだ――そのようにこの世界の人々は考えます。
それは、その人々にとっては「不自由」な生活、あるいは「もったいない」生き方、または「かわいそうな」生き方です。
だって、子供から大人になることで、お酒が飲めたり、タバコができたり、好きな服を着れて、行きたい場所に行くことができ、遊びたい遊びをすることができるようになるのに、「宗教を信じるが故に」それらができなくなるのですから。
人々がそのように思うのはもっともです。

蛇の問いかけは、こうした世の人々の一般的な考え方を代表しています。
「あら、宗教を信じてるんですね。
かわいそうに。よほど大変なことがあって、そのすきに、まんまと宗教にはまってしまったんですね。
あれをしてはダメ、これをしてはダメ。
沢山してはいけないことがあるでしょう。
かわいそうに。
こんなに楽しいことが世界にはあるのに、それもできないんですね。
もったいない人生になってしまって・・・。」

これに対してエバはどのように答えるでしょうか?
2-3節を読みます。

「女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と神は仰せられました。」」(創世記3:2-3)

このエバの返答の中には、私たちクリスチャンが「なんでお酒飲まないの? なんで日曜日教会に行かないといけないの?」と聞かれたときに、何かあいまいな言葉を使って答えている姿が現れています。
「なんでお酒飲まないの? 禁じられているの? でもヨーロッパ人はワインを飲んでるじゃん。」
「いや、禁じられているわけではないけど、お酒を飲むのは良くないと教会で言われるし、他に飲んでる人もいないので…」
「それって、やっぱり禁じられてるんじゃないの?」
「……」

エバについては、しばしば主の言葉を正確に理解していないと指摘されます。
主はどのように語ったのでしょうか?
2:16-17は次のように語っています。

「神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」」(創世記2:16-17)

違いを見つけづらいかもしれませんが、主は、善悪の知識の木について、その実を「食べてはいけない」と言っているだけなのに対し、エバは、「触れてもいけない」とさらに禁止項目を付け加えています。
ここに違いがあります。
この違いから、何がうかがわれるでしょうか?
蛇の誘惑が成功しつつあると語る人もいます。
蛇は、神様に対する疑いをエバのうちに生じさせようとしているのですが、その蛇の試みが成功して、神様に対する信頼が、エバの中で揺らぎつつある――それを表現していると解釈する人がいます。
また、エバが主の御言葉を大切にしない様子が現れていると解釈する人もいます。
エバは主の御言葉を大切にしなかった、だから蛇に誘惑されることになったのだ、というわけです。
どれもその通りだと思いますし、特に対立する解釈ではないでしょう。
私としては、エバのように主の御言葉にさらに別なものを付け加えることは、まぁよくあることなのではないかと思います。
例えば、ある話題について、誰もその話題に触れないので、「その話題について言及してはいけないのだ」と考える、近年よく使われる言い方では、「忖度」するようなことです。
勝手に自分自身で禁止項目を追加するということを、私たちもよくしているでしょう。
だから、私としては、主の御言葉を正確に理解していないということよりも、そのように自分自身で禁止項目を追加したり、あるいは「義務」の項目を追加したりするときに、そこにはどのような心理的な背景があるのか、それを問題としたいのです。
つまり、主が言った言葉以上のことを付け加えるとき、エバはどのような心理状態だったのか、それを問題としたいのです。
エバはどのような心だったのでしょうか?
私は、それは恐怖心だと思います。
それは、自分に対して権威と権力を持つお方に対する正当な恐れの感情ではなく、自分の身が危険にさらされることへの恐れの感情です。
自分の命、自分の立場――つまり自分自身が、危ない状態に陥ることへの恐れの感情です。
こうした感情は誰もが持つものであり、それ自体は特に問題ではありません。
問題は、そうした恐れの感情を持つときに、特にクリスチャンにとっては二つの選択肢があるのですが、エバがその選択を誤ったという点です。
二つの選択肢とは、その恐れの感情に身を委ねるか、あるいは、主の恵みを信頼するか、その選択肢です。
エバは「主の恵みを信頼する」道を選ばなかった、それが彼女の過ちなのです。
先ほどの例で言えば、誰もその話題に触れないという状況があった時に、私たちには、その話題に触れるという選択肢が当然あります。
しかし、その話題に触れることには恐怖が伴います。
触れることで、自分が非難され、村八分にされるかもしれません。
その恐怖心にそのまま自分を委ねると、「その話題は触れてはいけないのだ!」と自分勝手に禁止項目を作ります。
しかし、そうではない道も当然あるでしょう。

では、エバの過ちとは具体的にどのようなものだったのか?

日本語ではいまいちわかりませんが、2章16節で主が語っている文章と、エバが3章2節で語っている文章には、ニュアンス上の違いがあります。
2章16節で主が「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と語るとき、その「食べてよい」には強調表現が使われています。
「食べなさい!」と強調されているのです。
ところが3章2節では、その強調がなくなっています。
その代わりに、「禁止」の内容が多くなります。
エバにとっては「禁止」が強く印象に残っていたともいえるでしょう。
ところで、主が語ったような強調表現をエバは用いませんでしたが、実は、蛇が用います。
しかし、主とは反対の内容を強調します。
蛇は3章4節で「決して死にません」と語りますが、これは強調表現を使用しているのです。
主は、2:16-17で、「食べてよい」と「必ず死ぬ」と二度の強調表現を用いています。
それに対して蛇は、3:4で、善悪の木の実を食べても「決して死なない」と強調表現を用います。
主の「必ず死ぬ」に対して、蛇は「決して死なない」と強調します。
エバは、その蛇の強調表現に従ったのでした。

なぜそういうことになるのか?
主は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と強調しました。
しかしエバは、それをその通りに受け取りませんでした。
もしかしたらアダム本人が受け取っていなかったのかもしれませんが、ともかく、エバは、神様の強調点を、その通りに受け取っていませんでした。
これが彼女の問題だったのです。

神様は、「自由に食べなさい!」と語っているのです。
「自由に食べなさい!」と語り、「ただし」善悪の知識の木からは食べてはいけないと語ります。
「自由に食べなさい!」が最大の強調点なのです。
しかしエバはそれをその通りには受け取らない。

これは私たちの問題でもあります。
エス様は「真理はあなた方を自由にする」と言いました。
エス様の救いを受け取った人間は、自由になったのです。
いいですか?
これは重要なので、もう一度言います
エス様の救いを受け取った人間は、自由になったのです。
神様が私たちを、イエス様のゆえに「義」と認めてくださったのです。
だから、この世の何物も、もはや私たちを支配することはできないのです。
パウロはローマ8:38-39で次のように言っています。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

エス様を信じた人間は、完全に自由になったのです。
それは、神様が私たちにこう言っているのと同じです。
「あなたは、自由に生きなさい!」
「私、神である主、天地の創造主なる私が『自由に生きなさい!』と言うのだ。私はあなたを愛し、あなたに与えた義を取り除きはしない。だから、自由に生きなさい!」
神様は、私たちが自由であることを願っているのです。

ところが私たちは、エバと同じように、「自由に生きなさい!」という神様の強調点は少なく考えて、「禁止」の命令ばかりを逆に強調するようになります。
創世記2:16を新約聖書風に言い換えれば、次のようになるでしょう。
「自由に生きなさい! ただし、イエス様が望まないことをしてはいけません!」
私たちは「自由に生きなさい!」という神様の望みはほとんど無視して、「イエス様が望まないことをしてはいけない!」ことばかりを大切にするようになります。
そして禁止や義務ばかりが多くなり、融通が利かず、不機嫌で、喜びのない人生を送るようになります。
クリスチャンとして生きることが「苦痛」であり「重荷」になってしまいます。
周りからは、「真面目で、敬虔で、でも人生を楽しんでいないかわいそうな」クリスチャンとみなされてしまいます。
そういうクリスチャンに対して、エバに対して蛇が語りかけたような言葉が来るとどうなるでしょう?
「この世界のものを楽しんではならないと、神様は本当に言ったんですか?」
「クリスチャンとして生きるのは大変なんですねぇ。」
創世記3:4の「決して死ぬことはない!」を今風に言い換えると、こうなるでしょう。
「信じないで生きた方が、はるかに自由じゃん!」
私たちがクリスチャンとして生きることを「重荷」と感じているとしたら、このような言葉に誘惑されるのは容易でしょう。
恐怖心を感じて、自分で禁止項目を作る状態は、私たちが、何かよくわからないものを恐れて、我慢している状態です。
その我慢して、欲求不満な状態にあるとき、私たちは誘惑に陥りやすいのです。

重要な点は同じです。
私たちが、神様が強調している点を、その通り受け取るかどうかです。
「自由に食べなさい!」あるいは「自由に生きなさい!」
これを本当にしっかりと受け止めているかどうか。
しっかりと受け止めているならば、蛇の誘惑に対抗することは容易です。
しかし、それを中途半端に受け取っているならば、蛇の誘惑に陥るのも時間の問題でしょう。
神様は、私たちが想像するよりもはるかに度量が大きく、つまりけち臭くはなく、恵み豊かです。
それを心から信じないといけないのです。
そして実際に自由に生きる必要があるのです。


2.アダムの罪

続いて、アダムの罪に関してです。
アダムの罪とは何でしょうか?
一部は、エバと共通しています。
しかし、アダムの割合が大きいものがあるとするならば、それは、責任回避という罪です。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた後、神様はアダムを呼び、そしてアダムを問い詰めます。
その時アダムはこう言います。
3:12を読みましょう。

「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」(創世記3:12)

これは明らかに責任転嫁です。
アダムは、自分の過ちを妻のエバの責任にしているばかりか、そのエバを与えたのは神様だということで、神様にも責任転嫁しています。
しかし、今日私が問題としたいのは、ここではありません。
もっと前の箇所です。
それは、エバと蛇が対話をしている箇所です。
うっかりすると読み過ごしてしまうのですが、蛇は、エバに向かって話しているのですが、その時蛇は、「あなたがた」と二人称男性複数形で話しているのです。
ヘブライ語は、今の英語とかと同じで、男性と女性が混ざっていたら「男性形」になります。
蛇の言い方からわかるのは、蛇は、エバだけではなく、アダムに向かっても話している、ということです。
エバのそばにアダムはいるのです。
二人いる中で、蛇はエバに向かって語り掛けている、という構図です。
その姿を想像しながら私がちょっと思ったのは、夫婦でショッピングセンターに行ったときに、売り場の店員さんが、妻に向かって一所懸命勧誘している様子です。
二人いるんだけれど、妻を説得しようとして語り掛ける、そのような姿です。
こういう状態であることを踏まえると、蛇とエバとのやり取りも、もっと違って見えてくると思います。

蛇の質問に対して、エバが答えるシーンがあります。
最初に話したように、主の言葉についてのエバの理解には誤りがありました。
ところで、そのそばにはアダムがいました。
主が「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と話した時、それを聞いたのはアダムだけでした。
エバはそのあとに誕生するからです。
だとすると、蛇に対するエバの発言内容に誤りがあった時に、それを訂正することができたのは、アダムなはずです。
ところがアダムは何もせず、傍観しているだけです。
エバが善悪の知識の木から実をとって食べようとするときにも、アダムはそこにいました。
それを止めようとすれば、止めることができたはずです。
しかしアダムはそれをせず、傍観しているだけでした。

なぜでしょうか?
いくつか可能性が考えられます。
例えば、アダムはエバと同じ意見だったので、特に口をはさむ必要を感じなかった、と考えることができます。
あるいはまた、アダムはエバと意見が違っていたが、蛇とエバとの会話の中に割って入らねばならないとは感じなかった、とも考えられます。
私は、二番目の方があり得ると思うのです。
というのも、アダムはやはり神様から直接「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と聞いているはずなので、蛇に対するエバの答えがちょっとおかしいときに、「おかしい」と気付くだろうと思われるからです。
とすると、アダムはエバとは意見が異なっていたにも拘らず、敢えてエバと蛇との会話の間に割って入りはしなかった、と考えられます。
では、それはいったいなぜなのか?

これは純粋に想像ですが、たぶん、面倒くさかったのだと思います。
また、二人の間に入って、例えば自分が蛇に言い負かされたら、格好悪い、恥ずかし――そういうリスクを回避しようとしたのだと思います。
しかしながら、どのような理由があったにせよ、アダムは、なすべき責任を果たしていなかったのです。
主の御言葉を最初に聞いた者として、エバが御言葉のなかにとどまるように、積極的に働きかけるべきだったのです。
アダムはそれをしませんでした。
かえって、悪化していく状況にそのまま従っていきました。
そして最後には、自分自身の責任を無視したまま、自分が過ちを犯したのは、神様のせいであり、また、エバのせいである、と責任転嫁をします。

これもまた私たちになじみ深い罪を犯すパターンでしょう。
ルース・ベネディクトが、「罪の文化と恥の文化」という枠組みで日本人を論じていたことがありますが、日本人は相対的に、自己の責任を自覚して認める点で弱い側面があります。
大手企業が何か問題を起こして、謝罪の記者会見が開かれる場合の決まり文句を、皆さんご存知でしょう。
「お騒がせしてすみません。」
日本人の謝罪に関しては、何が悪かったのか、それは何が原因で起きたのか、また再発させないためにはどうしなければならないか、そういうことが語られることはほとんどありません。
たいていは、「お騒がせしてすみません」と、何を謝っているのかわからない言葉ばかりとなります。
私などは、「本当は、何も悪いと思っていないんではないか? 運が悪かった程度にしか思ってはないのではないか?」と勘ぐってしまいます。
そのように、日本人は責任を認める点で弱いです。
その割には、社会的には「自己責任」という言葉が流布しています。
これは、それが語られる文脈を考えると、身分制を前提とした道徳を語っているものだと言えます。
日本にある身分制の中で、上に立つものは基本的には何をしても許されるのですが、下にいる人々には、それ相応の「分」というものがあり、その「分」をわきまえることが求められます。
その「分」をわきまえず、何か問題があった場合に、「自己責任」という言葉が用いられます。
ところがそれは、「責任」という言葉を用いてはいますが、本来「責任」という言葉が持つ内容とは全く異なるものです。

聖書では、私たちの命に責任を持つのは、神様です。
聖書には、日本人が使うような「自己責任」という概念はありません。
「罪を犯した? はぁ?何してんの! 滅びたとしても、それはお前の責任。私はあなたとは何の関係もありません。」
神様は、決してそのようには言いません。
怒りはしますが、救い出そうとする。
そしてそのために、独り子イエス様さえも十字架につけるほどなのです。
エス様ご自身もそうですね。
福音書には弟子たちの失敗がたくさんありますが、イエス様は、その失敗を叱責はします。
ものすごく叱責します。
しかし、それで終わらずに、弟子たちを助けます。
そのようなシーンを、私たちはすぐに思い出すことができるでしょう。
聖書的な意味での「責任」とはそういうものなのです。
「責任を持つ」とは、自分の最も大切なものを投げ出してまで、責任ある相手を守ろうとすることなのです。

アダムはエバに対して責任ある存在でした。
ところが彼は、そのエバが蛇に誘惑され、主の戒めから逸脱しようとしているときに、何もしませんでした。
さらに、エバとともに、主の戒めを破りました。
それは、アダムが、エバとともに、主の語った「必ず死ぬ」という言葉よりも、蛇の語った「決して死なない」という言葉の方を信じた、ということを意味するのです。
さらにまたアダムは、神様によって自らの罪を詰問されたとき、神様やエバに責任転嫁しました。
アダムはこのように、自らの責任を回避しようとし続けたのです。


3.まとめ

今日は、エバの罪、アダムの罪をそれぞれ見てきました。
それらは、私たちが罪を犯す基本的なパターンとなっています。

エバの罪とは、「自由に食べなさい!」という神様の恵みの言葉を真実に受け取らなかったことです。
これは今の私たちの場合には、イエス様に救われ「自由に生きなさい!」と主から言われているにもかかわらず、それを文字通り受け取っていないことと等しいです。
そして恐怖心にとらわれて、イエス様が語った以上に禁止項目を自分勝手に作り、それを守ろう守ろうと汲々とし、守らないことを、そして守らないことによって生まれる事態を恐れるのです。
そしてそのような状態は、蛇の誘惑に陥りやすい状態でもあるのです。
なぜなら、自由ではなく、欲求不満がたまっているからです。

アダムの罪とは、神様の御言葉を受け取り、それをエバとともに守る責任があったにもかかわらず、その責任を回避し続けたことです。
その責任を回避したことで、事態は悪化し、二人とも神様の戒めを破ることになりました。
これは今の私たちにとってどのような状況と比較できるでしょうか?
先ほどはそれを述べませんでしたが、最後に、少しその点を話します。

私たちは、アダムと同じように、この世界で御言葉の管理者として、また、この世界と隣人と神様との調和的関係を回復させるものとして、責任がある立場です。
その責任を実際に遂行しようとすると、この世界においては、恐怖心を抱くような状況に陥ります。
何かひと悶着起きたり、自分の立場が危うくなったり、ともかく、不都合な状況、避けたい状況が起きます。
それは伝道の場面で起きることばかりではありません。
教会内で、何かを決定しようとするときにも、起こりうることです。
例年やっていたことをやめるとき、あるいは、今までやっていなかったことを始めるとき。
そういうとき「こんなことを考えているのは自分だけなのではないか? これを話すことで自分が孤立してしまったらどうしよう?」と心配になり、恐れることもあります。
サルトルは、人間は自由という刑に処せられていると言いましたが、確かに、人間が自由であるということは苦しいことです。
しかしながら、対立したり孤独になることを恐れて自分の責任を回避していたら、それは、アダムと同じ生き方になってしまいます。
状況は悪化していき、そしてついには、「自分は悪くない、環境が悪いのだ、いや、その環境を設定し、その環境の中に自分を置いた神様が悪いのだ!」と考えるに至ってしまいます。
そうであってはいけません。
そのためにどうする必要があるのか?
エバの場合に述べたことと同じです。
「自由に生きなさい!」という主の御言葉を固く信じること、「神が私たちを義と認めてくださる」という御言葉を、「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」という御言葉を、固く信じることです。
それを、神様が強調している、その通りに、私たちも受け取ることです。
そして、恐怖に打ち勝ち、実際に自由に生きることです。
そのとき私たちは、単に世の誘惑に打ち勝つだけではなく、世を神様の望まれる国へと作り替えていくものになるでしょう。
神様は、自由に生きることに伴う不安を取り除いてくださり、私たちに勇気を与えるでしょう。
主の国を求めて、主に従うという清い思いを抱くならば、神様は必ず力と助けを与えてくださいます。
そして、私たちが不安に思っていたその対象が、実は、豊かな恵みへと至る通路であったことを発見するようになるでしょう。
私たちは、きっと同様の体験をこれまでしてきたと思います。
それはこれからもまだあります。
私たちはそのことを信じ、主の恵み・支えを信じ、大胆に歩んでいきましょう。
そして、神様の豊かな恵みを生き方そのもので表現していきましょう。