Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

AIが説教を作る時代に、「説教を創る」意味

chat GPTがすごく話題になっている。
これはいわゆる生成系AIで、要求に応じた文章を生成してくれる。
その文章のクオリティが、これまでのAIのものとは比べ物にならないほど自然で、時にはcreativeだということで、評判になっているのだ。
そして、色んな所で、「ホワイトカラーの危機」が語られている。

chatGPTによって代替されてしまうような文章やコンテンツを作っていた「ホワイトカラー」層が、失業するのではないか、という恐れである。

昨年、画像を生成するAIがたくさん出てきたときに、僕は、「作品を創造するプロセス」に対する価値が、今後より重視されるのではないか、ということを語った。
https://quatreamours.hatenablog.com/entry/2023/04/19/110242

そこで語る際に念頭に置いていたのは、主に「造形芸術」であったが、もちろん、それ以外の芸術(文芸)にも当てはまるだろうと考えていた。
もっとも、文章を作り上げることそのものについて、しっかり考えてはいなかった。
ところが、chatGPTがますます評判になり、「文章の生成能力」が評価されるにつれて、「あ、これはもっと考えないと」と思うようになってきた。
特に以下のニュースは、自分の分野と関連しているだけに、興味が惹かれた。

「聖職者の説教も「チャットGPT」で? 扱いに戸惑う宗教指導者」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cca5ad7c13dbb18d4e0ffc7e5011aa912e5afa49

「AIが説教原稿を作る」は、当然考えられることである。
僕自身もAIに「祈り」を作らせたことがあるが、当たり障りのない、とてもよくできな「祈り」が出力された。
「説教」の方はあまりうまくできないのだが、おそらく、それは僕の指示の出し方(プロンプト技術)が悪いのだろう。
このままいけば、「説教」の方もAIが破綻なく作れるようになるのも、時間の問題であると思う。
そこで、以下では「AIが説教を作る時代に、『説教を創る』意味」について考えてみたい。

 

 

1.


まず、以前「造形芸術」について語ったポイントを振り返りたい。
昨年の記事では次のように語っていた。

「芸術作品は人間を作り変えるものであるし、人間をより人間らしくするものであるし、また、真理を開示するものでもあるし、また、ある面では、民主主義を可能にするものでもある。」

箇条書きにすると、
1.芸術作品は人間を作り変える
2.芸術作品は人間をより人間らしくする
3.芸術作品は真理を開示する
4.芸術作品は民主主義を可能にする
となる。

まず、最初の点について。
「芸術作品は人間を作り変える」という点を、文字・言語による芸術(以下では「文学」と呼ぶことにする)に即して言い換えるとどうなるか?
これは、文学は人間を作り変える、と言える。
これはさしあたって、文学作品を「享受する」立場と、文学作品を「創造する」立場の二つの方向から考えることができるだろう。
文学作品を享受する際に、人が作り変えられることは特に語る必要がないほど自明であると思われる。
通常の会話でも、「・・・から影響を受けた」ということが言われる。
その場合の「・・・」とは、テレビ番組や漫画や映画や音楽だったりするが、そのように人は、自分が享受するものから影響を受けやすい。
文学であっても同様である。
人は、文学を享受しながら、その作家の価値観や世界観、あるいは言葉遣いなどに影響される。
そしていつのまにか、その作家と同じような眼差しで、世界を見るようになる。
そのように、文学を享受することで、人は作り変えられる。
また、一般に芸術作品を享受していると、自らも芸術作品を創造したくなってくる傾向があり――例えば、音楽を聞いていると、自分でも歌ってみようと思ったり、楽器を弾いてみようと思ったりする――、それは文学におうても同様である。
人は、物語を読んでいれば、自らも物語を作ってみようと思ったり、詩を読んでいれば、自らも詩を作ってみようと思ったりする(もちろん、全く思わない人もいる)。
そして、そのように自分が「創る立場」になることによって、人はやはり作り変えられる。
芸術作品を作ろうとすることによって、人は、語ろうとしている対象――それは当初は、大抵はかなり曖昧なものだ――をより知ることになる。
対象をより深く考え、様々な文献やツールを使って、あるいはフィールドワークもしながら、その対象をよりよく理解していく。
当初、興味がなかったものに、興味を抱くようになる。
当初、おかしいと思い、反発していたものに、共感を抱くようになる。
また、創る立場になり、言語を扱う立場になることによって、言語に対する感覚が研ぎ澄まされ、それは自分が作品を享受するときに、その作家が用いる言葉の一つ一つをより深く捉えられるようにもなる。
例えばこのように、文学作品を「創る」立場になることによって、人は自らが作り変えられる経験をするようになる。

さて、文学について述べた以上のことが、「説教」についても当てはまる。
説教者は、もちろん他のクリスチャンと同じように聖書を「読む」存在であり、その場合、聖書を「享受する」立場である。
聖書を享受する人間が作り変えられるのは、当然であり特に言うことはない。
ここで問題としているのは、聖書に基づいて、聖書について「語る」立場である。
そして私が言いたいのは、説教を「創る」ときにも、文学作品を「創る」場合と同じように、人は作り変えられるのだ、ということである。

一般の信徒の方は、もしかすると、牧師というのは、聖書について予め語るべきものを持っていて、その都度の説教では、その語るべきものを、その都度の聖書本文をいわば「ダシにして」語っているのだ、と思っているかもしれない。
これは、伝道説教(未信者の人に、イエス・キリストの福音を紹介するための説教)については当てはまるかもしれないし、頻度の差はそれぞれあるとしても、そういう説教もないことはない。
その場合には、説教を創ることによって、説教者が作り変えられる、ということはない。
「語るべきこと」は既に存在し、確定しており、説教を創る(説教原稿を創る)ことは、その「語るべきこと」を、説教する実際の状況を考慮しながら、若干modifyするだけのことである。
テンプレートは既に存在していて、そのテンプレートに若干のmodificationを加えるだけ――それがこの場合の「説教を創る」ことの内実である。
ここでは、説教は作り変えられることはない――modifyする技術や実際に説教する能力(語り、演じる能力)は多少向上するが、作り変えられることはない。

ところが、通常の説教では、実のところ、「語るべきこと」は予め存在していない。
説教者に与えられているのは、聖書本文である。
それらは、ギリシア語やヘブライ語あるいは場所によってはアラム語で書かれており、大抵の場合、現代の人間にとっては不可解なテクストとして現前する。
説教者は、その不可解なテクストを、辞書や文法書を片手に読んでいき、また、過去2000年において蓄積されてきたその聖書本文に関するコメンタリーを参照する。
それらはあまりにも膨大なので、説教者は、そのすべてを参照することはできず、大抵は、2,3の自分が慣れ親しんだコメンタリーを参照することになる。
また、時には、その聖書箇所について行われた他の説教者の説教を読むこともある。
こうしたことをしながら、説教者は、聖書本文についての理解を深めていく。
そして、聖書が語ろうとしていること、その箇所を通じて神様が語ろうとしていることを、理解しようとする。
この基本的なプロセスの中で、説教者は、ある聖書本文について一般に理解されている紋切り型が打ち破られる経験をする。
ある程度の信仰の経験があり、説教を聞いてきた経験や聖書勉強の経験があると、ある聖書の箇所は、ある特定の意味を持っている、あるいは、ある特定のトピックに関して言われている、ということがわかってくる。
そういうものが、クリスチャンの「常識」を形作る。
ノンクリスチャンが初めて聖書を読むときは、そのような「常識」は役に立つものだが、信仰の経歴がある程度長くなり、聖書を読むことも多くなると、それは、聖書を読むことをむしろ妨げるものになってくる。
聖書を読んでいながら、実は聖書を読んでいない、ということになる。
それは、聖書を覆っている雲のようなもの、あるいは、キャッシュのようなもので、聖書を読んでいるつもりで、実はキャッシュを表示しているだけ、だったりするのである。
そして説教者が説教を創るときに聖書本文に向き合うとき、説教者は、その雲を押しのけ、キャッシュではない、本文そのものの再読込を志向するのである。
そのときに、説教者は、聖書に関する「常識」が崩れる経験をする。
それは何を意味するかと言うと、はじめは、「語るべきものはある」(「この聖書本文が語ろうとしていることは・・・だろう」)と思っていたのだが、本文を理解するプロセスに入ってみた結果、その予め持っていた「語るべきもの」がなくなってしまう、ということである。
困ったことだ。
そして、この本文を研究する段階で、新たな「語るべきこと」が与えられたら幸いだが、そうはならないこともたくさんある。
その時は、さらなる冒険が必要となる。
説教者は、本を読み、新聞を読み、人々と会話し、祈り、何かの出来事を経験し、また本を読み、新聞を読み、・・・ということを繰り返す。
そうする中で、「語るべきこと」が与えられるようになる。
ときには、それでも与えられないことがある。
そのときは、致し方がない、もはや少しでも説教を書くしかない。
そして書いているときに、「語るべきこと」が少しずつ顕になってくることがある。
これこそが、恵みの経験である。
説教者は、説教を創るときにこのような経験をする。

以上述べたように、説教者は、説教を創るプロセスの中で、予め持っていた「常識」や「語るべきこと」が崩壊する経験をする。
キャッシュではない、本文そのものに出会うことになる。
そうして、聖書の本文について、また神様について、理解を修正し、変更していくのである。
説教者は、説教を創ることを通じて、このように自分自身が作り変えられる経験をする。

 


2.

 

次に、「芸術作品は人間をより人間らしくする」という点について。
ここでは、「人間」というイメージが予め定まっていると想定されている。
例えば、「美を理解する、人々の心を理解する、共感できる、相手の立場を理解できる、総合的・複合的に理解して判断できる」ようなイメージである。
芸術を享受する人間はそのような「人間」へと引き上げられるし、それは文学についても同様である。
そしてもちろん、聖書も同様だろう。
ただ、聖書の場合は、「人間」へ引き上げられると言うよりは、もっと限定的に、「神によって創造された人間」へ引き上げられる、と言ったほうがいいかもしれないし、あるいは端的に「キリストの弟子」へ引き上げられる、と言ったほうが適切かもしれない。

では、説教を創る人間にとって、「芸術作品は人間をより人間らしくする」という命題はどのように関係するのだろうか?
これは今語ったところと同様で、説教を創る人間は、まさにそうすることによって、より「人間」になる、あるいはより「キリストの弟子」になるのである。
なぜそう言えるのか?
先程、説教を創るプロセスでの「常識」が崩壊する経験について語ったが、それは言い換えると、無力さの経験である。
聖書の本文を前にして、あるいは、聖書を通じて語ろうとしている神様を前にしての、無力さの経験である。
「私は、あなたが言おうとしていることがわからない」という経験だ。
この経験こそが、神によって創造された人間にとって必須のものであり、また、キリストの弟子にとって必須のものなのである。
通常人は、「成熟する、成長する、上達する、習熟する、向上する」ことは、「自信を持って決断できる」ようになることだと理解しているだろう。
自分の意見に自信を持つ、自分の理解や決断に自信を持つ。
そしてクリスチャンもまた、成熟したクリスチャンとは、聖書に関して疑いを持たず、自信を持って神様について、聖書について語り、また行動できる人間だと思っているだろう。
しかし、私は、聖書が語る人間やキリストの弟子というのは、そのように自信満々な人間ではなく、常に自分の欠けを自覚し、そのために神を求め続ける人間のことだと思う。
ダビデを見ているとわかると思うが、彼は、常に主に尋ね求めていた。
それこそが「欠け」を感じている人間の姿である。
説教者もまた、普通の人間と同じように、年を取り経験を積み重ねていくと、ある程度、ある種の事柄について自信を持って判断をできるようになる。
それは、普通の人間的には「成熟」と言えるが、「キリストの弟子」としては危険な兆候である。
そして、説教者が「キリストの弟子」であるために必要なのが、無力さの経験、「神が何を言おうとしているかわからない」という経験である。
この経験によって、説教者は常に原点に立ち続けることができる。
「主よ、どうか語ってください。しもべは聞いております。」という姿勢である。
説教者には、このような経験をすることができる幸いがある。
しかも、ほぼ毎週に渡って。

他にもある。
当初の「語るべきもの」が失われたあと、説教者は、「語るべきものがない」という状況、「神が何を語ろうとしているのか分からない」という暗いトンネルを歩み続けるのだが、そのときに説教者が祈りの心を持ってアプローチするのは、自分の状況、家族の状況、社会の状況、教会の状況、信徒一人ひとりの状況である。
例えば、ある信徒のことを思い浮かべる――の人が経験している状況、感じている事柄、迷っていること、チャレンジしようとしていること、などなどを、その人との会話やその時の雰囲気と共に思い起こしながら、その状況の中に、「この本文を通じて神はどのように介入しようとしているのか」ということを祈り求める。
そうしたことを、他の信徒に対しても、また、教会全体に対しても行う。
同じように、社会に対し、家庭に対し、自分に対し、行う。
そういうことをし続けながら、ある時点で神様が語ってくださる。
そして「語るべきこと」が与えられる。
重要なのは、それが与えられる「前」である。
様々な人や状況に向かって祈りの心を持ってアプローチするときに、説教者は、その人や状況のことをより良く理解するようになる。
より深く、把握するようになる。
これが重要なのだ。

このように、説教者は、説教を創ることを通じて、より「人間」になり、あるいはより「キリストの弟子」へと作り変えられていく。

 


3.

 

三つ目として、「芸術作品は真理を開示する」点。
芸術も科学も哲学も、いずれも真理を開示するものであるが、科学や哲学がロジカルな言語によって真理を表現するのに対し、芸術はシンボルを通じて表現する。
それは当然文学にとっても妥当する。
文学を享受する人は、その文学作品に於いて表現されている真理を把握しようとする、あるいは、その真理を体験する。
「体験」という側面が、芸術が真理を伝える上でのポイントではないか。
文学が「愛」を伝えようとするときに、それが100ページで表現する場合であれ、300ページで表現する場合であれ、ともかく、読者はそれを読む時間、物語の世界に入り込む。
物語が進行する中で、作中の人物たちと同じように、不安を感じたり、心の高揚を感じたり、怒りを感じたり、不条理を感じたりする。
物語と共に感情が変化する、つまり、ある一定の時間のなかで様々な感情を体験することで、読み手は、「愛」を経験するのである。
読む「時間」という要素なしでは、文学作品は成り立たない。
作家は、そうした時間がかかることを想定した上で、作品を書く。
そして、作家が表現しようとする真理とは、作品を読む「時間」なしでは存在し得ないものなのである。
(もちろん、文学作品を創る作家は、厳密には「時間」をコントロールできない。「時間」と共にでしか伝えられない真理を表現するという点では、音楽や映画のほうがより「時間」の要素に敏感だろう。)

説教者もまた、説教において真理を開示する。
ところで、説教において「真理」とは何か?
聖書においては、文学とは違って、既に「真理」は定まっているのではないか?
確かにそのとおりである。
説教者は福音を語らなければならないし、イエス・キリストを、その十字架と復活を語らなければならない。
その意味では、説教者が語るべき「真理」は既に決まっている。
しかし、別の意味では、説教者が語る「真理」は決まっていない、と言える。
この事情は、既に語ってきた「語るべきもの・語るべきこと」を思い返していただきたい。
説教者が説教を作ろうとするとき、眼前にあるのは聖書の本文(ギリシア語、ヘブライ語、あるいはアラム語)である。
そして、その聖書の本文には、伝統的あるいは(クリスチャンの)常識的に、一定の意味が付与されており、その本文が意味するとされるメッセージや、その本文が語れるトピックなどはおおよそ「決まっている」。
「語るべきもの」は既に存在している――と聖書本文を前にして説教者は感じる。
ところが、実際に聖書本文に取り組む作業を始めると、その「語るべきもの」は崩壊し、その前の段階では、当該本文を通じて神が語ろうとしているメッセージは自明であると思われていたが、その自明性が失われる。
そして説教者は、「神は一体何を語ろうとしているのだろうか?」という問いの中に放り込まれることになる。
この状態から、再び「語るべきこと」が与えられるようになる事情については既に語ったので繰り返さない。
今確認したいのは、そこでの「語るべきこと」こそが、説教者が語るべき「真理」である、ということである。

そこでの「真理」とは一体何だろうか?
この真理は、キリスト教信仰の基本的な枠組みに依拠しているという意味では「普遍的」であるが、ある特定の時・場所、ある特定の社会、ある特定の教会という特殊な状況を背景として、またそれらの「ために」、また、ある特定の説教者を「通じて」語られるという点では、「特殊」な性格を持っている。
この「普遍性」と「特殊性」との特有の結びつきこそが、説教者が語る「真理」の特徴である。
この普遍性と特殊性との関係については、私はしばしばカントが『判断力批判』で語った「規定的判断力」と「反省的判断力」の概念に基づいて考えている。
「規定的判断力」とは、普遍的概念が所与として与えられていて、それを特殊な状況に「適用」する際に用いられる判断力である。
「反省的判断力」とは、逆に、特殊なもの・状況だけが与えられていて、主体がそこから普遍的概念を「発見」する際に用いられる判断力である。
説教者が、聖書本文を前にして、それに取り組む前に漠然と抱いているその本文自身の意味・メッセージ、あるいは、その本文を通じて神が語ろうとしているメッセージは、規定的判断力における「普遍的概念」のことである。
もし説教者が、本文を研究することなく、したがって、神が抱いているメッセージの自明性を疑うことなく、説教を作成するならば、それは「規定的判断力」を用いていることになる。
メッセージの自明性は変わることがなく、それを、ただ単に、特殊な状況に合わせてmodifyしているだけだからである。
それに対して、本文を研究しながら、本文の自明性が失われ、それ故「語るべきこと」が喪失した状況の中で、再び「語るべきこと」が与えられるようになるとき、その当該の本文を含めた「状況」(社会的、教会的、個人的)と、「語るべきこと」との関係は、まさに「反省的判断力」の関係である。
反省的判断力においては、特殊から普遍が「発見」される。
同じように、説教者には、特殊から普遍が「与えられる」のである。
そして、カントがその反省的判断力において、想像力と悟性(知性)と理性との自由な戯れが行われると語っていたように、説教者もまた、「語るべきこと」が与えられるまで、祈りと想像力をもって色々な対象にアプローチしたり、知性と理性を持って読書をしたり、とにかく様々な能力を使用し続けるのである。
そうして「語るべきこと」が与えられる。
このように「与えられる」ときに初めて、特殊と普遍との特有な関係が成り立つのである。
その特有な関係こそが、まさに「創造」である。
キリスト教の伝統では、この創造をなす働きについて、「霊感Inspiration」という便利な言葉がある。
聖霊による霊感が、特殊と普遍とを媒介してくださるのである。
このように、特殊(本文、社会、教会、信徒、説教者、etc)だけが与えられている状況の中で、霊感によって普遍(「語るべきこと」)が与えられる時、その特殊と普遍との特有の関係こそが、説教者が語る「真理」のポイントなのである。
この「真理」のなかには、当然、説教者個人のリーダーシップやヴィジョンが入り込むし、あるいは政治的イデオロギーも入り込む。
そのときの説教者の関心事も入り込むし、教会が直面している問題も入り込む。
色々なものが入り込むが、それらは細かいことなので、今は言及しないでおく。

最後にポイントとなるのは、この「真理」は、実際に教会の中で「語られる」ことによって実現される、という点である。
実際の教会の中で語られる時、そこには聞き手である信徒たちがいる。
説教者は、その信徒たちに向かって語る。
信徒たちは、それぞれ、当然ながら、自分なりの歴史をもち、体調の良し悪しがあり、気分の良し悪しがあり、色々個別に問題を感じていたりする。
そこに向かって説教者が語る時、その言葉は、もはや説教者のコントロールできないものとなる。
予想通りに信徒たちにメッセージが伝わることもあれば、予想していないところで伝わることもある。
語られ、解き放たれた言葉は、信徒たちの方に向かっていき、ある部分は素通りし、ある部分はぶつかる。
そしてぶつかったときに、その解き放たれた言葉は、その信徒一人ひとりにとって「真理」となる。
それは、彼ら、彼女たちにとって、主ご自身との「出会い」となり、イエス様と出会った人物が、人生を変えられるように、その説教における主との出会いも、彼ら、彼女たちを作り変えるものになるのである。
その意味で、説教者は、教会の中で説教をする時、既に準備してきた「真理」を語ると同時に、信徒たちがイエス様と出会うためにコーディネートする存在でもあるのである。
真理に人が出会う時、人は自由になり、そして変えられる。
説教者は、結局は、教会に集う人々が、それぞれイエス様に出会い、イエス様の声を聞き、自由になり、主の弟子として作り変えられる、その場をコーディネート、あるいはファシリテートする存在なのだ。
聖書の本文を研究し、そこから一旦「語るべきこと」を失ったあとに再び「語るべきこと」が与えられるようになるまで四苦八苦するのも、教会に集う人々が、各々イエス様に出会うためなのである。
しかし、究極的には、全てを司っているのは聖霊である。
聖霊が働くときに、説教で語られ、解き放たれた言葉は、失われることなく人々の心に届く。
説教者は、そのことを信じながら語るのである。

 

 

4.

 

四つ目の「芸術作品は民主主義を可能にする」は説教の実践とはあまり関係なさそうなので省略する。

それでは、以上で述べてきた説教を創る一連のプロセスと構造をを踏まえた上で、「AIが説教を作る時代に、『説教を作る』意味」を考えてみたい。
さしあたって、2点あると思われる。
一つは、「説教を創る」ことは、説教者自身の信仰の成熟――説教者自身が聖書に対する理解を深め、同時に神様に対する理解を深め、恵みの経験をし、神との結びつきを常に保ち続けるために意味がある。
この理由は、とても個人的である、と思う。
ちょっと乱暴に言えば、「信仰生活を維持するために説教を創り続ける」みたいなことである。
とはいえ、聖書を前にして孤立無援の状態になり、神が何を言おうとしているのかわからなくなり、その中で恵みによって「語るべきこと」が与えられる、という経験は、普通あまりできないことなので、これはこれで重要なのではないか、とも思う。
もう一つは、説教者が語るべき「真理」の特徴として語った、特殊と普遍との特有な関係である。
これは、AIでは実行できないことである。
AIが説教として作成できるのは、「規定的判断力」の類である。
AI(既存の教師データによって教育されたAI)は、既に存在している「普遍的概念」に等しい。
そのAIに対して、人間がプロンプトによって指示を与えることによって、その「普遍」はmodifyされて、一定の「特殊」を生成する。
そのプロンプトを様々に工夫することによって――そこに一定の知識と技術があることは疑いえない――、望む形の出力をえることはできるだろうが、しかしそこで行われているのは、AIという「普遍」が、「特殊」を生成する、という関係である。
これは、伝道説教のようなものなら作成することができるだろう。
しかし、通常の説教でポイントとなる「反省的判断力」に相当するものは、AIでは不可能である。
それは、特殊(本文、社会、教会、信徒、説教者の状況)から、「普遍」(「語るべきこと」)が与えられることである。
そして、実のところ、この特殊と普遍との特有な結びつきこそが、説教で語られる「真理」なのだ。
この「真理」の形成を、AIがすることはできない。
それは人間――いや、聖霊がするのだから。