人間の目的
創世記1:27-28
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
グーグル日本法人の元代表、辻野晃一郎という方が、あるインタビューで、これからのビジネスで必要なものを語っていました。
そこで彼は次のように話しています。
少し長いですが、そのまま引用します。
「あなたは何のために生まれてきましたか?」とか、「あなたが生まれてきた使命は何ですか?」という根源的な問いに確信を持ってこたえられる人はほぼいないでしょう。よほどの天分に恵まれた人以外は、あるいはそういう人でも、自分がなぜこの世に生まれて来たのか、本当のところは誰もわかりません。人生とは、もだえ苦しみながらその答えを探し続ける旅なのかもしれません。
(中略)
人工知能の急速な発達や、ゲノム編集などの医療技術の革新によって、人類はついに神の領域に踏み込み始めたと言ます。GAFAの今後や日本の行く末を考えるときに、テクノロジーの急激な進歩が人類にもたらすものについて、生命や宇宙の起源とか、人口爆発や環境破壊など地球が抱える諸問題などと関連付けた大きなスケールで深く洞察する力が求められています。実学だけが暴走するのを防ぐためは宗教や哲学などの役割も見直されねばなりません。
元グーグル日本代表 辻野晃一郎氏に聞く、「グーグルが消える日」 |ビジネス+IT
ここで私たちには良い知らせがあります。
グーグル日本法人の元代表が今後の世界でビジネスをしていく上で必要だと語っているものを、私たちは持っているということです。
つまり、私たちはクリスチャンであるということで、何が本質的に大切であるか、おそらく知っているのです。
そして本質的に何が大切であるかを知っているということは、このますます複雑化していく社会の中でものすごく大切なことであり、また、圧倒的な強みや利点でもあるのですね。
このことをクリスチャンはもう少し悟るほうが良いと思います。
他方で、幾分残念なお知らせもあります。
それは、「あなたは何のために生まれてきましたか?」「あなたが生まれてきた使命はなんですか?」という問いに対して、残念ながら私たちクリスチャンも、うまく答えられていないという事実です。
もちろん私たちは、ウェストミンスター小教理問答の有名な第一の問答を知っているでしょう。
それはこういうものです。
問 人間の主な目的は何ですか?
答 人間の主な目的は、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶことです。
このウェストミンスター小教理問答は、イギリスのピューリタンたちによって作られた信仰問答であり、信仰の宣言でもあります。
この教理問答によると、「人間の目的」は「神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶ」ことである。
私たちは、このような正解は知っています。
あるいは、マタイによる福音書28:19−20を持ち出すこともできるでしょう。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたといます。」(新改訳2017)
この大宣教命令を用いながら、「クリスチャンの目的は、隣人に福音を伝えることである」と語ることもできるでしょう。
このような正解を私たちは知っています。
ところが、「あなたは何のために生まれてきましたか?」という問いには、確信を持って答えられない。
もし試験のテストで、「あなたは何のために生まれてきましたか?」という問題があった場合に、私たちが「人間の目的は、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶことである」などと書いたら、その答案は「バツ」です。
聞いているのは「あなたの」目的であって、「人間一般の」目的ではないからです。
「クリスチャンの目的は、福音を伝えることである」と書いても、「バッテン」です。
同じことで、「あなたの」目的が聞きたいのであり、「クリスチャン一般」の目的ではないからです。
「あなたの」目的、つまり「私の」目的、それは一体何か?
これはもちろん、一人一人でしか答えられない問いであります。
しかし、その答えを探し求めていくための基本的な道筋はあるのではないか?
そして、数学の問題を解く場合と同じように、重要なのは、答えそのものではなくて、その答えに到達するための道筋なのではないか?
そして答えそのものではなく、その答えを導くための基本的な道筋は、少なくとも語ることができるのではないか?
そう思うのですね。
そこで今日は、私たちが、神様が与えた「私の」目的を悟るために必要な道筋を話していこうと思います。
話の順序としてはこうなります。
まず、聖書自身が人間の目的について、そしてクリスチャンの目的についてどのように語っているのか、それを確認します。
次に、その聖書の語るクリスチャンの目的が、実際の私たちにどのように適用されるのか、語ってみようと思います。
今日はこの順序で話します。
1.聖書は人間の目的をどのように語っているか?
では、まずは聖書が人間の目的をどのように語っているのかを確認しましょう。
今日の本文を見てみましょう。
この箇所に関しては、古くから、「神のかたち」あるいは「似姿」についての議論が多くありました。
ヘブライ語だと、ツェレムとデムットという単語です。
ラテン語ではimago deiと呼ばれ、これが何を指しているのか多くの議論がありました。
また、このimago deiという点に人間の卓越性があるとする議論もありました。
しかし、今日はその点には触れません。
というのも、その従来の議論には、ちょっと無理やりこじつけているような傾向があるからです。
「目的」という観点から読み直してみるとどうなるでしょうか?
私たちは前回、シュメール神話と聖書を比較していましたが、そのシュメール神話を思い出してみましょう。
シュメール神話においても人間は創造されます。
はじめに神々がいて、その神々の間には上下関係がありました。
下の神々は土木工事などに従事し、その労働がきついので、不満をいだきます。
その神々から辛い労働を開放するために、エンキという知恵の神が、人間を創造します。
その人間は、地位の低い神々が行っていた労働を代わりにする存在でありました。
これが人間の創造に関するシュメール神話の内容です。
このシュメール神話と聖書を比較すると、共通点と相違点が分かるでしょう。
まず共通点は何かというと、神々の「代わりに」という点です。
シュメール神話では、土木工事などの仕事を、人間が神々の「代わりに」行います。
聖書では、明確に「代わりに」という表現は出てこないのですが、先程語ったツェレムという単語が、「代わりの存在」という意味を持っています。
本物の神の「代わりの存在」という意味で用いられると、これは「偶像」という意味になります。
また、本物の王様の「代わりの存在」という意味ですと、これは「彫像」などの像ですね。
この「代わりに」という点が共通しています。
逆に、違う点はわかりやすいでしょう。
シュメール神話では、人間は身分の低い神々の「身代わり」となって、彼らが行っていた土木工事などに従事することになります。
しかし聖書ではどうかというと、人間は神の「身代わり」となって、世界を「支配」するのです。
目的という言葉を使って言い換えてみましょう。
シュメール神話では、人間の目的は、土木工事することです。
聖書では、人間の目的は世界を支配することです。
「お前、将来の夢、何や?」
「俺はな、ここいらの連中とは違うんや。この世界を支配することや! それが俺の夢や!」
そういうことを言う人がいたらちょっとやばいですが、聖書は、そういうことを語るんですね。
私たちが、神様の身代わりとなって、世界を支配すること。
これが、神様が人間を創造した目的です。
ここで「支配する」とはどういう意味なのでしょうか?
しばしば、自然の環境破壊に関連して、それの原因が、人間の自然支配を認めたユダヤ・キリスト教的一神教にあるという言い方がされることがあるので、余計にこの「支配する」の意味をよく理解する必要があります。
支配する、特に神様が人間に求めた理想的な「支配する」というあり方は、どこに認めることができるでしょうか?
おそらく、人間が罪を犯す前を見るのが良いでしょう。
そして、罪を犯す前に人間が「支配する」を実践していた様子を見て取れるのが、創世記の2章です。
その箇所を読みましょう。
2章15節です。
神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。(新改訳2017)
神様は人間をエデンの園に連れてきて、「耕させ、守らせ」ました。
ここは「耕せ、守らせる」ために連れて来た、とも訳せます。
ここの「耕させ」という単語は、アーバドという言葉で、最も普通の意味は「働く」です。
あるいは、「仕える・奉仕する」です。
人に対して使う場合には「仕える、奉仕する」であり、主に対して使う場合には、「礼拝する」の意味にもなります。
英語のserviceと同じですね。
この単語は動詞ですが、名詞になると、奴隷や僕という意味になります。
なので、この個所のシンプルな訳は、「アダムを働かせた」です。
実際、そのように翻訳しているものもあります。
また次の「守らせた」という言葉も、もっと豊かな意味を持っています。
これはシャーマルという言葉で、「守る、見守る、保護する、管理する、世話をする」などの意味を持ちます。
だから、ここでイメージされているのは、アダムがエデンの園で良き管理者として、園にある植物や動物などをよく世話をし、管理していた、ということだと思うのです。
そこで、神様が世界を支配するものとして人間を創造したとき意図していた姿は、この二つの動詞にまとめられると思います。
つまり、アーバド「仕えること、働くこと」、そしてシャーマル「世話をすること、管理すること、見守ること」この二つです。
アーバドが単に「働く」だと、次の単語と意味がかぶるので、私としては、「神に仕える」の方面で理解するのはどうかと思います。
そのように理解すると、次のように言えます。
神様が人間を創造したときに人間に期待していたことは、第一に、神に仕えること、そして、神様が望まれるようにこの世界を見守り、世話をし、管理することであった。
だから、「世界を支配する」という言葉の意味は、「神様に仕えながら、神様の思いを抱きながらこの世界を世話をし、見守り、管理すること」なのだ。
このように言えます。
私たちはまずこのことを覚えておきましょう。
ところが、神様のこの期待は、すぐに終わりを迎えます。
アダムとイヴは蛇の誘惑に引っかかり、神様が「食べてはいけない」と語っていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。
こうして、「神に仕える」という最初の点でアダムは過ちを犯しました。
その後のアダム以降の人類は、このアダムと同じ過ちを犯すようになります。
世界も堕落してしまいました。
そうした中で神様は、人間を創造したときの最初の計画、つまり、神様の代わりに、神様と同じ心をもってこの世界を管理するという、その目的にふさわしい人物を探し求めます。
そしてその人物を通じて世界を回復しようとします。
例えば、ノアがいるでしょう。
創世記6:6をみると、ノアは「主の心にかなっていた」(新改訳2017)と言われています。
世界の人々がみな神様を無視しているときに、ノアは、主を愛し、主に仕えていたのでした。
ノアによって罪が多くなった世界は滅ぼされ、ノアの親族と動物たちだけが生き残りました。
そのいわば「純粋な」存在によって、神様は、世界を当初のエデンの園のように、罪も汚れもない世界をもう一度作り出そうとします。
しかしノアも完ぺきではありませんでした。
ノアという人格の内側に罪があり、ノアも過ち犯します。
罪はとても根深いものなのです。
その後、神様はアブラハムを見出します。
このアブラハムを通じて、世界を回復しようと考えます。
創世記12:1-3を読みます。
主はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へいきなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
この祝福の言葉の中に、創世記1:28の内容を聞き取るのは難しいことではないでしょう。
「大いなる国民とする」というのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」を踏まえています。
「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」は、「支配する」ことに対応しています。
アブラハムという人物が、主導権を持っているからです。
アブラハムに向けられた祝福の言葉は、その後、イサク、ヤコブへと繰り返されていきます。
神様は、アブラハムの子孫、つまり、イスラエルを通じて世界を回復しようとしたのでした。
モーセによってエジプトから脱出し、その後、ヨシュアの時代にカナンの地へと侵攻していきます。
聖書で明確に描かれているわけではないですが、神様が意図していたのは、カナンの土地でイスラエルがエデンの園の状態を回復することだったと思います。
エデンの園の状態とは何かというと、
1.人間が、まずは神様に仕える、礼拝する。
2.そして、神様に仕えながら、神様が創造した世界の世話をし、管理する、つまりケアをする。
このような状態です。
それは、神と人と世界との関係が調和し、平和な状態であると言えます。
そもそも、この世界は神様が創造されたので、神様の意図と神様の法則通りに行っていけば、必ず豊かになります。
人口も増え、それを補うほどの生産物も増える。
そして人々は幸せになる。
こうした世界を作ることを神様はイスラエルに期待したのだと思います。
ところが、それは失敗する。
一番大切な点、つまり、主を愛し、主に仕えるという点で、失敗するのです。
イスラエルは、カナンの地域にあった偶像を礼拝し始めたのです。
こうして、士師記に現れる暗い世界となります。
その後イスラエルは王様を求めるようになり、サウル、ダビデ、ソロモンという王が立てられます。
ソロモンの時代に、おそらくイスラエルの歴史の中では最も繁栄したときで、エデンの園のような状態が実現されます。
列王記第一4:20、24-25を読みます。
ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。(20)
これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。(24)
ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分のブドウの木の下や、いちじくの木の下で安心して暮らした。(25)
「海辺の砂」という言葉ありますね。
アブラハムに約束した言葉が実現されていることを示しているのです。
続いての24-25節を読んでも、本当に「平和」な雰囲気で満ちていますね。
このようにエデンの園のような状態が実現します。
しかし、これは一時的なものでした。
ソロモンは主を愛し、主に仕えることをせず、イスラエルの国は分裂します。
最終的には、アッシリアとバビロンによってイスラエルは滅ばされます。
しかし、神様は、エデンの園のような神と人と世界との関係を作ることをあきらめませんでした。
神様は預言者たちを通じて、繰り返しメシアが来られること、そのメシアが、最初の神と人と世界との関係を回復することを語り、イスラエルの民を慰めました。
本当に数が多すぎるのでここでは読みませんが、例えば、イザヤ書11章を後で読んでみてください。
ここからは、私たちがよく知っていることだと思います。
旧約で預言されていたメシアとしてイエス様が来られました。
イエス様は、十字架における死と復活によって、イエス様を信じる人々の罪をすべてあがなってくださいました。
こうして、イエス様を信じる者は、永遠の命を持つことになります。
ところで、今までの話を聞いてきた皆さんは、いくつか疑問を持つかもしれません。
例えば、「エデンの園のような神と人と世界との関係を回復させるというテーマはどうなったのだろうか?」という疑問も出るでしょう。
また、「こうした旧約聖書からの救いの歴史の中で、クリスチャンとはどのような存在なのだろうか?」という疑問も当然生まれるでしょう。
両方とも相互に関連しています。
端的に答えるならば、神と人と世界との関係を回復させるというテーマは、新約聖書に至っても消えてはいません。
そして、クリスチャンという存在は、イエス様によって救われた存在だというだけではなく、神と人と世界との関係を回復させるという課題を担っている存在でもあるのです。
したがって、クリスチャンの使命というのは、福音を伝えることだけなのではありません。
いえ、「福音を伝える」という概念を拡大して考えるべきなのかもしれませんが、「神と人と世界との関係を回復させる」ということも、クリスチャンの使命なのです。
以上の話をまとめます。
神様が人間を創造した時、神様は、人間がご自身の代わりにこの世界を支配することを期待していました。
アダムとイヴは、最初は主に仕え、そして主の思いを持ってエデンの園をケアをしていましたが、主に対する罪を犯します。
その後、人類は等しく堕落します。
けれど神様は、最初のエデンの園におけるような神と人と世界との関係を回復するために、ノア、アブラハム、イスラエルを選びましたが、そのどれも完全ではありませんでした。
そしてついに神様はイエス様を世界に派遣します。
イエス様によって救われ、贖われた人々、つまりクリスチャンは、イエス様とともに、エデンの園のような神と人と世界との関係を回復させるプロジェクトに参加することになりました。
これが今までの話の要約です。
このような聖書の流れ、いえ、世界史における流れを理解していなくてはなりません。
私たちクリスチャンは、このような世界史のなかにおいて、神様によって尊い使命を与えられているのです。
冒頭でウェストミンスター小教理問答の第一問とその答えを紹介しました。
「人間の主な目的は何か?」
それは、「神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶこと」であります。
これも、今まで話した聖書的、つまり世界史的なクリスチャンの位置づけを踏まえると、より理解しやすいでしょう。
エデンの園において、人間は神に仕え、そして神様の御心通りに園を管理していました。
「神に仕える」ということの中身は、奴隷が主人に仕えるというようなものではなく、むしろ、聖書が至るところで用いている比喩を用いれば、夫婦が互いに相手のことを思って仕え合うようなものであったでしょう。
ところが、聖書の歴史では、人間はそこから脱落してしまった。
そしてイエス様によって、再びそのような神様との関係を結ぶ特権が与えられた。
それがクリスチャンである。
夫婦が配偶者を喜ぶように、クリスチャンも神様を、ただその存在のゆえに喜ぶのです。
何かができるから、何かを与えてくれるから、何かをしてくれるから喜ぶのではなく、ただ、その存在のみを、存在するがゆえに喜ぶのです。
クリスチャンは、そうすることのできる特権を与えられたのです。
このことは、ウェストミンスター小教理問答が定義するところの人間の目的が、一旦は失われていたのですが、実はイエス様を通じて回復されたのだ、ということを意味しています。
2.聖書の語るクリスチャンの目的を現代生活で考えるとどうなるか?
さて、私たちが自分の使命や目的を考える時、これまで述べた流れを踏まえておく必要があります。
これが最低限必要なことです。
実際に、個々人が自らの使命を見出すためには、もちろん、それぞれの個性や特徴・能力、また個人的な歴史などが重要になってきます。
しかし、どのような人にも共通な条件は、今まで述べてきたような内容です。
では、これからの時間で、今まで述べてきたことを、より具体的に、つまり現代の生活の中で考えてみたいと思います。
そこで、便宜的に、使命や目的を、短期的なものと長期的なものとに区別したいと思います。
これはあくまで便宜的なものです。
2-1
まずは短期です。
短期的な使命や目的というのは、簡単です。
それは、私たちが今置かれているところ、私たちが今属しているところ、その場所で、主を愛し、仕え、そして主の思いを持ってその共同体、その人々、あるいはその環境をケアし、エデンの園におけるような、神と人と世界との調和的な関係を築いて行こうと務めることです。
「今置かれているところ、今属しているところ」という点が大切です。
ここには例外がありません。
この点について、しばしば犯してしまう過ちを2点指摘します。
2-1-1
まず一つは、私たちが今置かれている共同体、社会、組織に対して、「自分の責任の範囲ではない」と思って諦めてしまうことです。
例えば会社でいうと、社長、部長、課長、係長、普通の社員、契約社員、バイト、などがいると思います。
管理職の地位にある人々がその組織に責任がある、それは当たり前のことです。
でも、クリスチャンであるならば、その人がたとえ契約社員やバイトの身分であったとしても、その組織に責任があるのです。
その責任とは、そこで働いている人々を、神様の思いを持ってケアをする責任であり、また、その組織全体が、神と人と世界との調和的な関係を構築できるようにする責任であります。
苦しみや悩みを抱えている人がいれば、助けましょう。
人間関係の中に風通しの悪さがあれば、風通しが良くなるためにどうすればいいのか、考えて、実践していきましょう。
組織の中に不正が存在していたらどうでしょうか?
不正を告発する、それも一つの可能な方法ですが、そうするまでにできることもあります。
例えば、不正をしなくても良い働き方やシステムを提案することもできるでしょう。
色々できることがあるのです。
「私は、もしかすると、その組織の中ではただの社員でしかないかもしれない」
しかし、神様から見れば、私はその組織に派遣されている管理者なのです。
創世記のヨセフ物語の最後の方で、ファラオがヤコブのもとに来たときの姿が、私には印象的です。
この世の地位に基づくなら、ファラオのほうが圧倒的に「偉い」です。
間違いありません。
しかし、創世記の叙述を見ると、ヤコブがファラオを祝福しているのです。
ただの片田舎の遊牧民の一人でしかない人間が、そのときの超大国エジプトの王を祝福しているのです。
これはどういうことか?
霊的に言えば、つまり神様の視点で見るならば、ヤコブのほうが「偉い」ということなのです。
これが私たちにも当てはまります。
私たちがそれぞれの組織の中でどのような立場にあろうとも、私たちがクリスチャンであり、イエス様を愛し、主の僕であるというただそれだけの理由で、私たちはその組織の中で「管理者」であり、祝福を「伝える」側なのであり、祝福が川の流れのように伝わるのであれば、私たちは「下流」ではなく「上流」にいるのです。
だからこそすべきことがあるのです。
ところが私たちは、この世の秩序を目にしながら、「ここは責任がある、ここは責任がない」と早々と決めてしまいがちです。
そして、神様が、今時分が置かれた場所で私たちに期待していることを無視してしまいます。
そうであってはいけません。
私たちは常に神様によって選び出され、この世へと派遣されている存在なのです。
私たちは、その場所で主を愛し、主に仕え、そして主が望まれる秩序を実現すべく務めなければならないのです。
そのことを忘れてはいけません。
2-1-2
もう一つの犯しがちな過ちに話を移します。
それは、「クリスチャンの責任は福音を伝えることだけである」と考える過ちです。
クリスチャンは、まるで釣りバカ日誌のハマちゃんみたいな存在だ、と思ってしまうこと。
仕事はまぁできなくてもいいし、本質的ではない。
福音を伝えて、信じる人が一人でも生まれれば、それでいい。
そのように考えてしまうことです。
これは誤りです。
今までの聖書的な、つまり世界史的なクリスチャンの位置づけを知っているならば、そのような思考にはなるはずがありません。
考えてみてください。
神様が世界を創造し、人間を創造し、ご自身の代わりに、世界を管理させました。
アダムとイブは、主を愛し仕え、そしてエデンの園をよく管理していました。
しかし彼らは神様を裏切ってしまいます。
その後神様は、当初アダムとイヴが担ったような人々を選び出していきます。
そして最後にイエス様を派遣し、イエス様を通じてクリスチャンを選び出します。
そのクリスチャンは、では一体、何をすることが期待されているのでしょうか?
主を愛し、仕えること、そして、与えられている環境、共同体、組織、人々を、主の思いを心にいだきながらケアすること、これなのです。
「福音を伝えること」は、もちろん、クリスチャンの責任です。
しかし、「福音を伝える」という働きも、今述べたような背景や土台・文脈に基づいているものであって、それだけが分離しているものではないのです。
分離できるものでもありません。
福音を伝えるという行為が、今述べたような背景から分離してしまうと、ひどいことになってしまうのです。
それは例えば、隣人を愛することのないままに「福音”だけ”を伝える」ということだったりします。
その先にあるのは、「何人に福音を伝えた!」という成果主義であったり、またそこから生まれて、「だから俺はすごい!」という高慢な思いや、「だから俺はだめな、役立たずな人間だ!」という劣等感であったりします。
あるいは、「何人に福音を伝えた!」ということで自分の栄光を求める心だったりします。
まったく間違っているのです。
「福音を伝える」という行為は、「主を愛し、主に仕える」という根本から生まれるものなのです。
そうした基本的な心の姿勢無しで「福音を伝える」ということだけを大切にしてしまうのは、間違っています。
そもそもなのですが、神様が私たちを救い出したのは、私たちを愛しているからであり、私たちが神様を愛するようになってほしいからです。
「愛し、愛される」という夫婦のような関係を、私たちと取り結ぶためです。
「福音”だけ”伝えればいいでしょ、これでいいでしょ! え?なんか文句あんの?」
そんな投げやりな生き方のためではありません。
ここからも、「福音だけ伝えればクリスチャンの責任は果たされる」と考えることの過ちが理解できると思います。
今はこの2つの典型的な過ちだけを指摘するにとどめます。
短期的には、私たちは、自分の置かれた組織、共同体、社会を自らの使命として考えなければなりません。
そこにおいて、私たちは神様から委ねられた管理者として生きる責任があるのです。
2-2
では最後に、長期的な話に移ります。
長期における私の使命、私の目的、それはどういうものでしょうか?
これは、短期の場合とは違って、予め語ることはできないものです。
それこそ、私たちが神様を前にして、それぞれ答えを出していかなければならないことです。
10年後、20年後、30年後、私は何をしているのか?
あるいは、そのように長い時間をかけながら、実現したいことは何か?
それが長期における私の使命です。
もう少し厳密に言うならば、「10年、20年、30年かけながら、神と人と世界との本来あった関係を実現する上で、私が果たしていく役割とは何か?」
それが私の長期における使命というものです。
ある人は伝道者かもしれない。
ある人は今している仕事かもしれない。
ある人は、今しているものとは違う仕事かもしれない。
それはわかりません。
しかし、クリスチャンは皆同じ課題を共有しているのです。
その課題を果たすために、10年、20年、30年かけて、何をすることを神様は私に求めているのか?
ぜひその答えを見出していきましょう。
既に見出している方は、そのまま継続していきましょう。
まだの方は、祈っていきましょう。
もし私たちが、聖書に基づいた圧倒的なスケール感で自分の使命を見出し、その使命を生きていくならば、それ自体によって、この混沌とした世界の中にあって、私たちが「光」となることができます。
クリスチャンの素晴らしい特権です。
ぜひ私たちは、短期的には主の使命を生きて、また長期的にも、使命を見出し、生きていきましょう。