Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

人間、二重の存在


創世記2:4-7


おはようございます。
前回は、2:3まででしたが、2:3までと今日の2:4以降とでは、ずいぶん雰囲気が変わります。
1章から2:3までは、神様による世界の創造が語られてきました。
2:4以降も、世界の創造について書かれてはいるのですが、その経緯を物語る視点が全く変わっています。
2:3までは、「超越的」な視点で物語られています。
つまり、世界や人間の創造というものを、少し距離を置いて、客観的に、淡々と物語っています。
それに対して2:4以降は、「内在的」な視点で物語られています。
「人間の側」からの視点、と言ってもいいかもしれません。
地上に存在するものの立場から、創造が語られています。
それに伴って、神様を語る名称にも変化が出てきます。
2:4で初めて「主」という言葉が出てくるのですね。
それ以降、最初の人間たちと神様との関係を語る3章まで、ひたすら「神である主」という言い方が用いられます。
この「神である主」が人間を創る。
それが書かれているのが今日の箇所です。
今日は、まずは、「神である主」について話し、次に、人間について話します。


1. 神である主
それでは、2:4をもう一度読みましょう。

これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主が、地と天を造られたときのこと。(創世記2:4)

ここで「経緯」と言われている言葉は少し面白いです。
これはトルドットという言葉で、もともとは、「系図」や「子孫たち」を指し示す単語です。
創世記では数多く使われています。
例えば、5:1を見てみましょう。

これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り(創世記5:1)

ここで「歴史」と訳されている言葉が、先ほどの「経緯」という言葉と同じです。
さらに進んで、6:9を見ましょう。

これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(6:9)

この「歴史」も同じ単語です。
この二つのケースを見ただけでも、みなさん、こうした言い方が創世記ではたくさん出てくることが、お分かりになると思います。
この言葉は、新共同訳ではほとんどの場合「系図」と翻訳しています。
確かに、創世記の多くの箇所では、この「誰々のトルドット」という言い方がなされると、そのあとで家系図の話がずらずらと続くことがあります。
そしてそのあとに、もっと具体的な物語となっていきます。
創世記は、この「トルドット」という言葉で大まかにセクションがわかれています。
この2:4の使用法が面白いのは、ほかのところだと「家系図」のようなものを表現する際にこのトルドットという単語が用いられるのに、この場面では、「天と地の創造」に関してその単語が用いられていることです。
ここでこの単語が用いられることについて研究者の中でも見解は分かれるようですが、少なくとも文脈的に、「世界の創造についてもう少し詳細に物語っていこう!」ということを含んでいることは合意されていそうです。
この単語がほかの場面で使われるときに、数あるファミリーのうちで、「特にこのファミリーについて物語るよ!」というしるしとなっているように、この場面でも、「特別な対象について物語るよ!」ということを指し示す、そのしるしとなっているのだ、ということです。

さて、モーセが世界の創造を物語り、これから人間の創造と堕落を具体的に語ろうとするときに、ここで初めて用いられるのが「主」という言葉です。
「神である主」という言葉が用いられます。
「神である主」という言葉を聞いて、私は「あれ?」と思いました。
私が洗礼を受けてからずっと属していた教会では新共同訳を使っていたのですが、同じ個所を調べてみると、「主なる神」と翻訳されているのです。
「神である主」と「主なる神」。
微妙ですね?(笑い)
英語の聖書を見ると、the Lord Godとされています。
ヘブライ語をそのまま英語に置き換えただけの、当たり障りのない翻訳です。
日本語ではそういうことはできないので、翻訳者がもう少し意味を考えなければなりません。
ちなみに、明治の文語訳だとこのようになっています。

これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られたとき(文語訳)

文語訳は「主なる神」としています。
それでは、「神である主」と「主なる神」――端的に何が違うかというと、強調されている部分が違うでしょう。
「主なる神」ですと、やはり「神」が強調されています。
それに対して「神である主」ですと、強調されているのは「主」の方です。
では、どちらが強調されているほうが、この場面の翻訳としてふさわしいでしょうか?
そのように問いを立てると、私はやはり、「主」が強調されている方がこの場面にとってふさわしいと思います。
理由は大きくいって二つです。
一つは、「主」という情報の方が、新しいからです。
1章から2:3まで、「神」が中心でした。
「神」が世界を創造した経緯が客観的に語られていました。
ところが2:4からは、人間とのかかわりの中で神様が語られます。
そしてその時に用いられる単語が「主」なのです。
新しい情報の方を強調するという一般的な文章の書き方を踏まえると、2:4以降強調されているのは、「神」というよりは、「主」である、と考えることができるでしょう。
二つ目の理由は、創世記から申命記にいたるモーセ五書の流れがあります。
出エジプト記を思い起こしてください。
出エジプト記で問題となっているのは、神というよりは、「主」なのです。
典型的な個所として、出エジプト記5:2を読んでみましょう。

ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」(出エジプト記5:2)

モーセがファラオに対して、イスラエルの民を去らせるよう訴えるときの、ファラオの反応です。
モーセは、「主がこう言うんですよ!」と言うのですが、もちろんファラオは、「主」など知らない。
「主とはいったい何者なんだ!」となるわけです。
もう一か所読みましょう。
「主」がどのようなお方かを語っているところです。
出エジプト記34:6です。

主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、」(出エジプト記34:6)

このように出エジプト記では、神様はご自分のことを「主である」と言います。
出エジプト記でずっと問題とされているのは、「主」なのです。
その「主」こそが「まことの神」である。
これがずっと言われるのです。
実のところ、「主」というのは、神様の個人的な名前なのです。
神聖四文字のことですが、これが、十戒においてみだりに唱えてはならないと命じられたことから、ユダヤ人たちは、ずっとその神聖四文字が出てくると、ヘブライ語で「主人」を表す「アドナイ」という言葉で発音するようにしていました。
旧約聖書ギリシア語に翻訳されるときに、主人を表すアドナイも、アドナイと発音されていた神聖四文字も、両方とも「キュリオス」と翻訳されました。
そこで現在も、その神聖四文字もアドナイも「主」と翻訳しています。
しかし元々は、神聖四文字は、ある特定の神を表す固有名であり、アドナイのほうは普通名詞です。
神聖四文字が、「吉村」や「鈴木」などのような特定の名前であることは、モーセとファラオとのやり取りなどからも理解できるでしょう。
神聖四文字はヤハウェと発音が再構成されています。
モーセには、ヤハウェという神が現れ、そのヤハウェという神の命令によって、モーセはファラオの下に行きます。
ところがファラオは、もちろん、ヤハウェという神は知りません。
エジプトにはたくさんの神々がいたでしょう。
有名なところでは、太陽神ラーや、イシスという神が知られています。
でもファラオにとっては、「ヤハウェ? 知らんなぁ。なんで俺がそんなどこの馬の骨とも知らない神の命令を聞かないといけないんだ!」という感じなのです。
しかしそのヤハウェは、イスラエルの民を救い出す神でありました。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」(20:2)と神様は言いましたが、最後の部分は、「あなたの神、ヤハウェである」とするほうが良いかもしれません。
ところで、ヤハウェという神を知らなかったのは、ファラオやエジプト人だけだったのでしょうか?
いや、違うでしょう。
何よりも、400年間奴隷となっていたイスラエル人が、ヤハウェという神をよく知らなかった。
それは十分ありうることです。
そうすると、モーセにとっての課題は、ヤハウェという神が、実はイスラエル人を、ものすごく昔から養い、導いてきたのだ、ということをはっきり教えることだったと考えられます。
ヤハウェという神が、イスラエル人と常に関係を持ちながら、導いてきたのだ。
エジプトで人口が増え、しかし奴隷になって、そのあと救い出されてカナンの土地に行くのだ。
それがずっと約束されていたのだ。
こうしたことをモーセは教えようとしたのではないか。
そうすると、創世記全体もまた、強調されるのは「神」という点ではなく、むしろ「ヤハウェ」、つまり「主」のほうである、と考えられるのです。
神は、たくさんいました。
そのなかで、「ヤハウェ」という神こそが「本当の神」である。
ここがポイントなのです。

こうした流れを踏まえるときに、「神である主」と「主なる神」のどちらが翻訳として適切であるか、おのずから答えが出て来るでしょう。
もちろん、「神である主」です。
「神である主」のほうが、「主」という単語が特殊な名詞なのだということが伝わると思いますし、やはり、強調されているのは「主」、つまりヤハウェだからです。

聖書はこの後、「神」という一般的な名詞ではなく、「主」つまり「ヤハウェ」という人格的な名前をもったお方が、人間を創造することを語ります。
そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルを導いていくのは、この具体的かつ人格的なお方なのです。
神様は旧約聖書の時から、抽象的なお方ではありませんでした。
そして新約聖書においても、「イエス・キリスト」という具体的な名前を持っています。
約2000年前のイスラエルで、ある特定の夫婦の間に生まれ、成長し、そして十字架につけられ、死んで復活されました。
それはいずれも、歴史的に具体的な出来事です。

キリスト教の信仰というのは、常に歴史の中に現れた、具体的な人格的なお方に対する信仰でした。
そして、そのお方に対する固着というか、執着というか、そのお方に密着して、離れず、こだわり続ける信仰でした。

なので、ファラオが言ったような「主とは何者か?」という問いかけは、今を生きる私たちが、証しする人生を歩もうとするときに直面する問いでもあるのです。
私たちが、「イエス様がこれこれ、こんな風に言ってるんですよ!」というならば、私たちの周りの人々は、やはり「イエスとは何者か?」と問いかけるでしょう。
これに対して私たちができるのは、やはり「証言」なんですね。
証言をする、それはつまり、自分が目撃したものを第三者に向かって正直に語ることです。
証言する人を、証人、あるいは目撃者といいますね。
証人にとって必要なのは、誠実さです。
見たものをしっかりと語ること、しかしまた、見ていないものについては、見ていないと語ることです。
どちらも難しいことです。
しかしそれが証言するということです。
証言するという言葉が、のちに、殉教するという言葉になりました。
証言することによって殉教するケースが多かったのでしょう。
殉教する恐れがあったとしても、証言することを優先する、それがクリスチャンの生き方だったのです。
殉教することよりも、証言すること、つまり、真理に忠実であること、真理、つまりイエス・キリストに忠実であること、それを優先したのです。
私たちも同じように歩まねばなりません。
いわゆる「殉教」というのはないとしても、「プチ殉教」のようなものは様々なレベルであるはずです。
私たちは、そうしたプチ殉教を恐れず、イエス様にくっついて歩まねばならないのです。


2. 人間

さて、続いては、人間についてです。
2:5-7を読みましょう。
この記述は、1章の記述と矛盾していると考える必要はありません。
同じ出来事を、異なる角度から語りなおしていると考えて問題ありません。
この7節で、人間が大地のちりからつくられ、神様によって息を吹き込まれて生きるようになった、という話がなされます。

今日のタイトルは、「人間、二重の存在」としていました。
そのタイトルと聖書箇所をお伝えした段階では、「なんとなくこういう話をしよう」と思っていた程度で、まだ具体的な内容までは考えていませんでした。
人間の二重性ということで、考えていたのは、「人間が大地のちり」からつくられたこと、そして神様の息によって魂が吹き込まれたこと、つまり、肉体的な存在であると同時に霊的な存在であること、それを人間の二重性として考えていました。
それは確かに間違ってはいません。
ほとんどの注釈はそのように書いています。
息が吹き込まれることによって人間に与えられたのがどのようなものなか――動物と同じように生きる魂のことか、理性や知性も含むのか、あるいはさらに、聖霊と言ってもいいのものなのか――そういう点では違いがありますが、しかし、ちりで作られたことと神様の霊を受けたこと、そこに人間の二重性を認める点では共通しています。
私は、二重性をこのように捉えたうえで、「さて、そこから何かメッセージが生まれるだろうか?」と黙想していたのですが、どうも、何もないのですね。
で、黙想しながら、常に気になっていたもう一つの側面の方が、実は「二重性」としてふさわしいのではないか、と思うようになりました。
そしてそちらの方がより豊かな意味を含んでいるのではないか、と感じてきました。
そのもう一つの側面とは何かというと、「神が人間を作る」と、「人間が自分自身を作る」という、この二重性です。

これはいろいろ言い換えられます。
「神が私を作る」と「私が自分自身を作る」という二重性、
「神が私の人生を作る」と「私が私の人生を作る」という二重性、
「神が私の道を切り開く」と「私が私の道を切り開く」という二重性、
「すべてのよきものは神からくる」と「自分自身でよきものを見出さねばならない」という二重性
神の恵みと人間の努力という二重性。
この二重性がより意味深いのでは?と思うようになりました。

どうしてここで「二重性」という言葉を使うかというと、この二つの側面のうち、「どちらか一方が本物で、もう一方は嘘だ」あるいは「一方が本物で、もう一方は無視してよいのだ」ということを避けるためです。
例えば、「神が私の人生を作る」のであって、「私が私の人生を作る」なんてのは完全な不信仰だ!という主張を避けるためです。
また逆に、「神なんて存在しない、私が私の人生を作るのだ!」という主張を避けるためです。
その両方を避けるためです。
その両方共が、私たちクリスチャンにとっては真実なのです。
ノンクリスチャンにとっては違います。
神様の存在を前提としない人々にとっては、自分の人生は、究極的には、自分しか責任をとることができません。
「私が私の人生を作る」が真理なのです。
自分で勉強をする、就職活動をする、働く、我慢する、健康の維持に気を付ける、仲間外れにならないように努める、あらゆるリスクを警戒する、――様々な努力をしながら、自分の人生を作っていくのがノンクリスチャンにとっての人生です。
もちろん、学問的には、社会の文化や習慣、教育制度などが人々の人生を作っているのは確かなのですが、それでも、道徳的な考え方の大枠では、「私の人生は、私がつくる」というのがこの世界で生きている人々の通常の考え方です。
しかしクリスチャンにとっては違います。
クリスチャンは、神様が存在し、世界を治め、私たちの誰もが、神様によって生きることを許された存在であることを知っています。
「主は私の羊飼い。私には何も欠けるものがない。」(詩編23)
こういう御言葉を知っている人々だけが、初めて、「神が私の人生を作る」と「私が私の人生を作る」という二重性に直面することができるのです。

私は、今の日本社会を非常に警戒しています。
本当に危機的であると考えています。
その根幹にあるのは、結局は不信仰なのですが、それは具体的には、神様を信じることができず、したがって、神様はいないので、「私が私の人生を作るしかない」という思い込み、あるいは価値観です。
よく言われる「自己責任論」ですね。
それが日本社会で非常に大きな支配的価値となっています。
「今あなたがいる境遇は、すべてあなたの責任です。勉強しましたか? しなかったですね。
運動しましたか? そんなにしなかったですね。人間関係に投資をしましたか? しなかったですね。しばらく努力して諦めましたか? 諦めましたね。はい、それらすべてあなたの責任です。あなたが現在苦しむのは、当然です。」
こういう調子です。
「私の人生は私がつくる」「あなたの人生はあなたがつくる」。
それぞれの人生は個人の責任です。
こうして、苦しむ人は、自分が悪いのだと考えながら苦しみ続けます。
逆に、助けを求めて声を上げると、バッシングがされます。
みんなが苦しんでいて、しかも助けも求められないので、ますます苦しむ。
そのなかで欲求不満がたまります。
その欲求不満が、ますます弱者に向かったり、外国人に向かったりしています。
ところが実際のところ、「私の人生は私がつくる」という形で、すべての責任を自分が負うのは、当然苦しいわけです。
では人々はどうするでしょうか?
自分の行動の全てを無罪放免してくれる存在を探し求めるのです。
それは本質的には宗教的な動機です。
では、その宗教的な動機が、日本ではどのように具体化されるかというと、それは、「国家」において具体化されるのです。
「国家」の名において行うことは、すべて無罪放免になるのです。
そうして、どうしようもない無責任が跋扈するようになるのです。

創世記の3章最後で、アダムとイブがエデンの園を追放されます。
その直前に、神様はこのように言いました。

「神である主はこう言われた。「見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記3:22)

人間が「善悪を知るようになった」と神様が認めています。
これは、蛇が言っていたことが正しかったということでしょうか?
私が適切であると考える解釈では、この「善悪を知る」というのは、神様と同じように自主的に判断する存在になった、ということを意味しています。
しかし、神様と決定的に違うところがあります。
それは、神様は善と悪を知っていて判断するのに対し、何が本当の善で、何が本当の悪か、知らないままに判断するのが人間だという点です。
人間は、自分で判断して生きる存在となったのですが、その判断のもとになる知性は、堕落してしまったのです。
その堕落した知性を持ちながら、人間が宗教的なものを求めるとどうなるでしょうか?

フランスの数学者であり哲学者であり神学者でもあるブレーズ・パスカルは、神によって人間に刻まれた無限の深淵は、神だけが埋めることができる、と語っています。
神様によってでしか埋めることのできない、人間の本源的な欲求、飢え渇きというのが存在するのです。
それはどんな人間にとってもあります。
だから人間は、「神」のような存在を求めます。
私たちを導く存在、支配する存在、絶対的に依存できる存在、すべての責任を取ってくれる存在。
そういうものを人間は求めます。

ところで、人間の知性は堕落しています。
その堕落した知性によって「神のような存在」を求めるとどうなるでしょうか?
偶像崇拝となるのです。

そして日本では、その偶像崇拝の対象となりやすいのは「国家」です。
そして今、まさにそうなりつつある、あるいは、すでになっているのです。
私はこのことを非常に危惧しています。

根本にあるのは、不信仰なのです。
「神が私を作る」のではなく、「私が自分自身を作る」のだという考え方です。
それは事実として間違っていますし、また倫理的な考え方としても、無理があるのです。
人間は、自分の人生をすべて自分で責任をとるほど強い存在ではありません。
私の同僚の一人が、仏教は自分には無理だと語りました。
理由は、毎日お勤めをすることができないからだ、というのです。
「努力」によって救われるという考えでは、誰も救われません。
それはすでに聖書が語っていることなのです。
エペソ人への手紙2:8-9を読みます。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)

人間は自分を誇りたがります。
自分の努力や能力によって自分の人生を築き上げたと思い込みたい生き物です。
「自分自身を作ったのは、私なのだ」と言いたい存在なのです。
その基準によって、成功したものは称賛し、失敗したものは軽蔑する。
助けを求める人間は非難する。
ところが、その基準に従うばかりだと、人々の間には苦しみと憎しみと怒りが蓄積されます。
成功するために絶えず努力しなければならず、失敗した時には、自分が他の人を軽蔑したように、自分が軽蔑されるからです。
そこで、そのフラストレーションを解消する対象を求めます。
またさらに、人間にそもそも内在する超越的なもの、絶対的に依存できるものを求める欲求もあります。
これらの願望を何が満たすのか?
偶像崇拝が満たすのです。
そしてとくに、近代の日本では、国家が偶像となりやすいのです。
歴史上もっとも残酷な行為は、宗教の名において行われたものだった――という言葉をどこかで聞いたことがあります。
どこで聞いたのかは忘れましたが、私としては、「宗教の名」というよりは、「偶像の名」としたいです。
偶像崇拝するときに、人間は恐ろしく残酷になれます。
エス様が語ったように、「あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う」(ヨハネ福音書16:2)状態となるのです。
キリスト教も、それが偶像崇拝に変質してしまったときには、残酷なことをしました。
国家が偶像崇拝の対象となると、国民は恐ろしいほどに残酷になることができます。
そして、人々は、自分が残酷であることを全く悟ることがありません。
自分たちは「正義」をやっていると思い込むことができるのです。
こうして、「国家の名」によって恐ろしいほどの無責任と暴力とが可能になるのです。

 

このような状況に対して、クリスチャンはどうすればいいのでしょうか?
まず一つは、「私が、私自身の人生を作り上げる」という考え方に対して、「神様が私の人生を作り上げる」という考えをしっかり示すことです。
普通の人々は、今の自分を説明する際に、自分が頑張ったからとか、誰かに出会ったからということを言うでしょう。
しかしクリスチャンは何より、今の自分があるのは神様のおかげであると告白できる存在です。
もちろんここでも、最初に話したような誠実さの原則は重要です。
私たちはあくまで証人なのです。
自分が見てもいないこと、つまり、自分が実感していないことまでも告白する必要はありませんし、むしろ、してはいけません。
私たちは、「これこれをしてくださったのは、本当に神様だ」と思うのなら、その通り話せばいいのです。
そう思っていないことにまで、「神様のおかげ!」というのは、偽りです。
偽ってはいけないのです。
そのうえでなお、「神様が私の人生を作り上げる」ということを示せるように、求めていく必要はあります。
そしてさらに、「神様が私の人生を作り上げる」という事実――これは事実なんですよ?――に基づいて、その事実に基づいて生きるほうが、はるかに自由で、のびのびして、幸せであることを伝えられたら、なおよいでしょう。
詩編37:5-6には次のような御言葉があります。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主はあなたの義を光のように
あなたの正しさを真昼のように輝かされる。
詩編37:5-6)

私たちには、主を信頼する、主に自分の道をゆだねるという特権があります。
これはすごく肩の荷を下ろして、楽に生きる方法です。
反対に、自分の人生を全部自分で管理して、その結果もすべて自分が引き受けなければならないとなると、重圧と恐ろしさとで、私たちは逆に身動きが取れなくなってしまいます。
そうなると、本当に一部のどんな恐ろしさも「楽しみ」にしか感じられない例外的な人だけが伸び伸びと生きられるだけになってしまいます。
その他大勢の人は、びくびくした人生になります。
そうではないのです。
私たちを作った神様が、これからも私たちの人生を作ってくださる。
この事実を受け入れるときに、私たちは本当に解放され、自由に、平安に生きられるのです。
私たちはノンクリスチャンのこの社会で、そういう生き方をはっきり表明すべきなのです。

 

次に、この現状の社会の中でクリスチャンがとるべき姿勢は、今述べたことと一見すると逆のことを言うようですが、「私の人生は私がつくる」という極めて常識的な見解を常識的なレベルで保持することです。
言い換えますと、「私がやっていることは、まさに私がやっていることだ」と認めることです。
「私が言っていることは、まさに私が言っているのだ」
誰かに言わされたのでもない、誰かにそそのかされたのでもない、誰かに騙されたのでもない。
「私がいま語っているのは、まさに私の責任で、私が語っているのだ」と認めることです。
エレミヤ書23:21には次のような御言葉があります。

「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。」(エレミヤ23:21)

エレミヤが生きていた時代、偽預言者がたくさんいました。
彼らが偽預言者と言われる理由は何でしょうか?
それは、彼らが、主の言葉を聞いていないのに、「主はこう語っている!」と主張していたことでした。
彼らは、自分は主の御声を聞いていると錯覚していたのでしょうか?
それとも、本当はそれを聞いていないことに気づいていながら、偽っていたのでしょうか?
実際はわかりませんし、おそらく両方のケースがあったのでしょう。
これは私たちクリスチャンも陥りやすい危険性です。
特に「聖書はこう語っている」「神様はこう語っている」と話す、説教者に当てはまりやすい危険性です。
聖書は、ご存知の通り、本当に多様な内容です。
それを、過去の偉大な神学者たちが、何とか体系的に、つまり矛盾なく理解することができないかと聖書を読み、思考してきた結果が、神学です。
そうした神学がなければ、私たちは聖書を理解することはできないのです。
私自身もそうですが、誰もが、一定の神学の伝統の中で聖書を学ぶのです。
私たちの聖書の理解というものには、必ず、何らかの神学の伝統が含まれているのです。
その神学の伝統に加えて、自分の個人的な趣味、世界観、性格、知識、経験、教養などが全部混じりながら、私たちの聖書の理解というものはできあがります。
そのような理解は、「聖書そのもの」でしょうか?
そのような理解は、「神様の御心そのもの」でしょうか?
違います。
そうであってほしい、とは願うものの、私たちが素直に自分の理解を顧みるならば、よほど厚顔無恥でもなければ、自分の理解が聖書の内容そのものだと言い張ることはできないでしょう。
イザヤ書55:9に次のような御言葉があります。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神様の御心は、私たちの思いよりもはるかに高いのです。
私たちは、神様の御心を悟ることがあるでしょう。
はい、確かにあります。
でも、だからといって、「私の思いは、神様の思いといつも一致しているのだ!」と言うことはできません。
もしそのように言う人がいるとしたら、その人は、錯覚しているか、偽りものであるか、どちらかでしょう。
一致することを求めながら、一致しないことを恐れる。
そして、語るにしても、行うにしても、それが主の御旨に適っていることを常に希望する。
「主の御心と一致しておりますように」と、そのように切実に祈る思いを持ちながら、語ったり行動したりする。
これがクリスチャンの良心なのです。
私の行いは、あくまで「私の」行いです。
他の誰のものでもありません。
私の語る言葉、それはあくまで、「私」が思考し、言葉を選び、生み出している言葉です。
他の誰のものでもありません。
「神様が私の人生を作っている」のではなく、「私が私の人生を作っている」のであり、「神様が私の口を通じて語っている」のではなく、「私が私の口を通じて語っている」のです。
私たちは、自分の行い、自分の語る言葉、それに責任があるのです。
それは、私たちが負うべき責任なのです。
そのうえで、私たちは、自分のする行いや言葉が、神様の御旨に適っていることを希望してよいのです。
いえ、希望しなければなりません。
ただし、この希望は、自分の歩みが神様の歩みとずれているのではないかと真摯に反省し、ずれてしまうことを恐れる心から生まれるものです。
そうした恐れは、正しい畏れであります。
そうした恐れをなくしたときに、私たちはエレミヤ書に出てくる偽預言者のようなものになってしまうのです。
あるいは、偶像崇拝するものと同じようになってしまうのです。
わたしたちはそうであってはいけないのです。
「私」自身の責任を放棄し、「自分がやっていることは、全部神の御心に適っているんだ!」と開き直ってはいけないのです。
あるいは、「どんなことをしても、神様は赦してくださるんだ!」と開き直ってはいけないのです。


以上で述べた二つの態度、それが私たちの生き方です。
「自分の人生は、自分で作らないといけない」とこの世の人々は考えています。
それに対しては、「私の人生は神様がつくってきたものだし、これからも作ってくださるのだ」という生き方を示す必要があります。
そのように、神様の支配と導きを認める生き方が、はるかに幸せであることを示さねばなりません。
また、国家や宗教などの偶像を崇拝している人々に対しては、つまり、自分の考えや行動などは、全て国家の意思や神の意思と同じであると開き直っているような人々に対しては、自分の言葉や行動はあくまで「私個人の」ものであり、その責任の所在は「私」にあるのであり、真実な信仰の姿とは、自分の言葉や行動が神の御旨と一致していることを、おそれを抱きながら希望する態度なのだ、ということを示さねばなりません。
恐れつつ、希望しつつ、祈りつつ、そして行動するのがクリスチャンの信仰なのです。
「神が私を創る」という真理と、「私が私を創る」という真理、この両方をしっかり持たねばなりません。
どちらか一方が真理なのではなく、両方が真理なのです。
それが、この世界に生きる限りにおける私たちクリスチャンにとって妥当する事柄なのです。

こうした生き方によって、結局は、私たちは「神の民」としてこの世で生きるのです。
ヤハウェを信じる「神の民」として、ヤハウェを、イエス・キリストを告白しながら生きるのです。
それによって摩擦も生じるでしょう。
しかし恐れてはいけません。
エス様は言っています。
ヨハネによる福音書16:33です。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」