Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

LibreOfficeでラベル印刷をする

ラベルを印刷することはたまにあると思います。さらに、なるべくオープンソースソフトウェアでそれを実行したいと思う人もいると思います。この記事では、そのような特異な願望を持った人向けに、LibreOfficeでラベルを印刷するための方法を紹介いたします。

 

目次

1.LibreOfficeアプリの起動

2.ウィザード画面:ラベル書き

3.ウィザード:書式

4.ウィザード:オプション

5.内容の編集

6.再度開くときの注意

7.おわりに

 

1.LibreOfficeアプリを起動

まずは、LibreOfficeアプリを起動して、

ファイル→新規作成→ラベル

という順番にクリックしていきます。



2.ウィザード画面:ラベル書き

そうすると、ウィザードが起動します。ここでは、「ラベル書き」「書式」「オプション」というタブがあります。

「ラベル書き」タブでは、印刷に用いるデータベースを指定し、どのフィールド(カラム)を用いるかを決定します。

例えば、A4一枚で12個のラベルを作成できるとして、12個を別々のレコードで作成する場合(例えば、1つの顧客につき1つのシールを作成し、12の顧客分を作成する場合)、データベースを予め用意しておく必要があります。

同じレコードを(例えば)12個作りたい、という場合には、データベースは空白のままでよい。

しかし、12個別々のデータを作るのではなく、同じデータのものを12個作りたい場合もあります。特定の顧客と頻繁に書類のやり取りをする場合は、その顧客の住所ラベルがたくさんあるほうがよいでしょう。同じ商品名のラベルをたくさん作りたい場合も同様です。

このように、一つのデータの複製だけが欲しい場合は、データベースを指定する必要はありません。空欄のままで大丈夫です。

この記事は、「一つのデータの複製」の場合を扱います。

 

3.ウィザード:書式

「書式」タブでは、余白やシールの大きさなどを指定します。

以下は、すでに数字を入力したものとなっています。

こちらは、「コクヨ プリンタ兼用 ラベルシール 12面 22枚 KPC-E1121-20」のサイズに合うよう数字を入力しています。

https://www.amazon.co.jp/dp/B00B53B4C4/

「横の間隔」「縦の間隔」と「幅」「高さ」は一致させるほうがよさそうです。

「左余白」と「上余白」も商品の紹介ページにある通りに入力します(mmとcmとの違いに注意)。

列と行は、上の場合、2と6です。2×6で12枚のシールです。

一番下の「ページ幅」「ページの高さ」は、A4の基本的なサイズです。これはネットを少し調べると出てきますし、基本的にA4を使うと思われるので、これは固定でいいのではないでしょうか。

 

4.ウィザード:オプション

オプションの箇所は、「内容を同期させる」にチェックを入れればOKです。

ここまでをして「新規ドキュメント」を押すと、ドキュメントの編集画面となります。

 

5.内容の編集

ここで内容の編集となります。

注意点としては、左上部の1つの区画だけを編集するという点です。(写真の青枠の部分)。ほかの箇所を編集しようとすると、注意されます。

他の区域を編集しようとすると、注意される。

編集が終わったら、「同期させる」ボタンを押します。

このボタンを押すと、今編集した左上部の区域の内容が、ほかの12個の領域にすべて複製されます。

上の写真では、住所の箇所を「ドレミファソラシド」としていますが、この時点では、そこだけが変更されています。

ここで「ラベル書きを同期させる」ボタンを押すと、ほかのすべてに同じ内容が複製されます。

若干うまくいっていないところがありますが、印刷ではうまくいきます。

最後に印刷をします。

これで完了です。

 

6.再度開くときの注意

ファイルを保存すれば、ほかの時に同じ内容を再利用できます。

ただし、再度開くときに、次のような注意が出てきます。

これは基本的に「はい」で大丈夫です。

 

7.おわりに

筆者は、業務のほうでは、当初「ラベル屋さん」を使っていましたが、あまりにも動作がもっさりしていたので使うのをやめ、MicrosoftAccessでラベルを作成しました。その後、会社のシステムがFileMakerになるのに合わせて、FileMakerでラベルを作成して現在まで使用しています。

今回LibreOfficeでラベル印刷をしようとしたのは、妻の要望に応えるためでした。会社の業務以外ではなるべくオープンソースのものを使おうとしているので、おのずからLibreOfficeでの作成となりました。

やってみたら、案外使いやすいので、お勧めできそうなのと、あとは自分の備忘録のために、今回記事にしました。

これからオープンソースソフトウェアでラベルを作ろうとする人のお役に立てれば幸いです。

chromebookにlinuxをクリーンインストールする

目次

経緯

――chromebookを手にするまで――

――linuxを入れたいが躊躇する――

――chromebookの自動更新が終了する、linuxインストールの決心――

インストール作業

――作業の全体的流れ――

――実際に作業する――

 

経緯

――chromebookを手にするまで――

筆者には、2018年から使用しているchromebookがある。

Asuschromebook Flip C302Cである。

www.asus.com

 

当時、急遽引っ越しをしなければならず、デスクトップは前の住居に置きっぱなしで、持ってきたのは2008年か9年製のやたら重いけど性能が限界に来ていたノートパソコンだけで、もっと気軽に使えるラップトップを探していたときだった。

小さく、軽く、そこそこの性能となると、やはり10万円以上にはなってしまうと思い、そこそこ軽快に動くけれど、5−6万円ほどで買えるものを探していた。

そのときに、前々から興味もあったchromebookが候補に入り、AsusのC302Cに目を留めたのである。

海外ではメモリが8GBのものもあり、それを取り寄せようと思ったけど、途中で取引が失敗してしまってだめだった。

最終的に、国内モデルの4GBを中古で購入することになった。

購入して実際に使ってみた結果、自分にとって一番重要なポイント、つまり文章を書くという点で、あまり満足の行くものではなかった。

当時、office 365(現在はMicrosoft 365)を契約していて、one driveのなかにファイルを入れて、そのファイルに様々な端末からアクセスして編集する、ということをしていた。

その際に使用していたファイル形式が.docxや.odtだったのだが、そのファイル形式がchromebookは苦手だったのである。

今はgoogle documentでもdocxをうまく扱えるようになったけど、当時はまだ不安定で、入力の不具合が多かった。

また、すぐにplay storeのアンドロイドアプリもインストールできるようにはなったものの、やはり不安定で、作業に集中するということが難しかった。

そういうこともあって、結局あまり使わなくなってしまった。

一番安定するのは、wifi環境でgoogle chromeを開いているときで、結局自分が希望していた、外での用途――カフェや図書館で勉強しながら作業する――からは縁遠い存在になってしまった。

ここ数年は、2週間に一回、ヘブライ語のオンラインレッスンのときに、相手とやり取りするためのテレグラムを開きっぱなしにするために使う程度になっていた。

 

――Linuxを入れたいが躊躇する――

前々から、「これがchromeOSじゃなくてLinuxだったらもっと色々使えるのに」と思っていた。

実際、croutonを使ってxubuntuをインストールしたりしてみたが、やはり仮想環境のもとでは、スペックが低くて、実用に耐えうるものとは思えなかった。

かといって、クリーンインストールもハードルが高いように感じていた。

実際、ネット上にある情報を見てみると、背面を開いて、物理的にかけられているロックを解除しなければならなそうだったし、この手の薄型PCは、一昔前の分厚いラップトップとは違って、PCの背面をこじ開けたりするのが難しい。(以下のサイトでは、背面を開いてロックを解除している)

Acer C720のSSDを換装してUbuntu 20.04 LTSをクリーンインストールする - Runner in the High

【クロームブック/Chromebook】古いChromebookの活用 Ubuntu Linuxのノートパソコンに – Chromebook Chromebookのレビューや使い方

壊してしまったらしまったで、ちょっともったいないし、文鎮化してしまうのも避けたい。

ということで、クリーンインストールは敬遠していた。

 

――chromebookの自動更新が終了する、linuxインストールの決心――

ところが、最近、chromebookに「自動更新期限が切れました。これが最後の更新です。」(だいたいこんな内容)という通知が来るようになった。

自動更新期限の存在は知っていたし、「自動更新が終了しても、手動で更新できるんじゃないの?」と思っていたが、どうもちゃんと調べてみると、そうではないらしいことがわかった。

アンドロイドアプリの方のKindleアプリも、早速起動不可になってしまった。

電子書籍リーダーのKindleは、メモを書くのには全く向いていないので、キーボードのついているchromebookKindle専用端末として、メモ書きながら読むために用いることができるだろう――という期待は、早くも潰えてしまった。

早すぎだろ!

いよいよ存在理由がなくなってきてしまった。

でも、このchromebook Flip C302Cは、筆者としては、ハードウェア的にはとても気に入っていた。

音が良いし、キーボードの感覚も好きだった(比較になるのは筆者が持っているthinkpad E590で、こちらは音がひどい)。なので、OS部分がどうにかできれば、ぜひとも延命させたいと思っていた。

 

そこで、「Kindleも動かないし、自動更新もできないし、それなら、もう一か八かLinuxクリーンインストールに挑戦してみるか!」と決心するに至った。

そうして、改めてネット上でchromebookへのクリーンインストールを調べ始めた。

ヒットするものの多くは、「chromeOS上でLinuxアプリを使う」とか、「croutonを使ってLinuxを仮想環境で使う」とか、「GalliumOSを入れてデュアルブート環境を構築する」、ばかりだった。

いや、そうじゃないんだよ。

現在のchromeOSを全消去して、そこに、debianubuntuopensuseなどを入れたいんだよ!

完全にOSを入れ替えるようなチュートリアルを、しかもステップバイステップで手順を押してくれる、なるべく詳しいものを探していった結果、次の二つのサイトが適当そうだと目星をつけた。

geekflare.com

How to Install Linux on a Chromebook via USB (Live Linux) – 2023

https://platypusplatypus.com/chromebooks/install-linux-usb/

 

インストール作業

――作業の全体的流れ――

先のページを読みながら、LinuxChromebookクリーンインストールする流れは、およそ次のようなものだと理解した。

1.デベロッパーモードになる

2.BIOSにかけられていた制限を解除する

3.インストールメディアを用いてインストールする

 

1.のデベロッパーモードになるのは、以前、croutonを使ってLinuxを使おうと試みたときにやったことがあるので、それほど難しいことではない。

ただ、デベロッパーモードになる際になるビープ音は、あまりにも爆音なので心臓に悪いのだが(この作業をしていたのが、深夜だったのでなおさらだ)。

 

3.のインストールメディアを用いてインストールするのも、そこまでいけば何度も経験してきたことなので、問題ないと思われた。

何をインストールするか少し考えて、最近気になっていたKDE neonにすることにした。

KDE neon

本当のところはdebianが好きなんだけど、debianのインストールには、wifiアダプターがインストール時には使えず、インストール後に有線ケーブルをつないで非オープンソースリポジトリを入れたりという作業が必須で、あまり気楽にできない。

しかも、相手はchromebookなので、どうなるのかわからない。

ということで、インストールしてすぐに使えるubuntu系がいいだろうと考えた。そして、最近KDEファンになっていることもあって、KDE neonをインストールすることにした(KDE neonubuntu系)。

インストールメディアは、いつものようにwindowsrufusを使って作成。

これが最も早くて安定していると思う。(誰かが冗談で語っていたけど、windowsで最も役に立つソフトはrufusだよね。)

 

そういうわけで、問題は2だと思われた。

やはり、PCの裏蓋を開けなければならいのか...と思っていたら、あれ、この上記の二つのサイトでは、どちらもそんな作業をしていない。

裏蓋を開けて、物理的にねじを外す、ことをしなくても大丈夫なのかな?

まぁともかく、そのままチュートリアルに沿ってやってみることにする。

 

――実際に作業する――

さて、実際に作業に入った。

作業は主にこちらのサイトを見ながら進めていった。

How to Install Linux on Chromebook: Step-by-Step Guide

1のデベロッパーモードになるのは、特に問題なかった。

そして、2の段階(BIOSにかけられている制限の解除)に移った。

問題は次の箇所だった。

 

問題は僕の知識が足りないからなのだろうけど、上のコマンドをそのまま入れてもエラーになってダメだった。

そこでこの箇所に関しては、こちらのサイトを参照することにした。

https://platypusplatypus.com/chromebooks/install-linux-usb/

こちらでは次のように書いてある。

 

で、このコマンドをやってみた。

何もエラーが起こらない。

うまくいったっぽい。

このサイトによると、次はこのようになるはず。

あれ? そんな文言出てこないよな。(以下の写真がそのときの筆者の状況)

困った。

さてどうしようか。

1,2,3,4から選べ、と言われている。

3と4は関係ないので、1か2になるだろう。

一般的にLinuxUEFIは相性が悪いから避けたほうがいいし、ModifyとUpdateはだいたい同じ意味だろう、RW_LEGACY slotとRW_LEGACY Firmwareもだいたい同じ意味だろう...ということで、1を押してみる。

うまくいったみたいで、次のような画面に映った。

ここに書いてある通り、chronosでログインする。

そして、書いてある通りに入力したが、「それじゃだめだ!」と言われてしまう。

うーん、どうしようか。

仕方がないので、こう書いてある通り、enable_dev_usb_bootをやってみる。

すると、

おぉ、サクセスと書いてある!

成功した。

これはものすごくうれしかった。

あとは、3のインストールメディアを使ってインストールするだけである。

このようにKDENeonのインストール作業が無事進行しました。

お付き合いいただきありがとうございました。

これからchromebooklinuxをインストールしたい人の参考になればうれしいです。

GIGAスクール構想で大量導入されたchromebookが自動更新の終了で使用不可になる時がいずれくるでしょうが、そのときに、このような技術が役に立つかもしれません。

AIが説教を作る時代に、「説教を創る」意味

chat GPTがすごく話題になっている。
これはいわゆる生成系AIで、要求に応じた文章を生成してくれる。
その文章のクオリティが、これまでのAIのものとは比べ物にならないほど自然で、時にはcreativeだということで、評判になっているのだ。
そして、色んな所で、「ホワイトカラーの危機」が語られている。

chatGPTによって代替されてしまうような文章やコンテンツを作っていた「ホワイトカラー」層が、失業するのではないか、という恐れである。

昨年、画像を生成するAIがたくさん出てきたときに、僕は、「作品を創造するプロセス」に対する価値が、今後より重視されるのではないか、ということを語った。
https://quatreamours.hatenablog.com/entry/2023/04/19/110242

そこで語る際に念頭に置いていたのは、主に「造形芸術」であったが、もちろん、それ以外の芸術(文芸)にも当てはまるだろうと考えていた。
もっとも、文章を作り上げることそのものについて、しっかり考えてはいなかった。
ところが、chatGPTがますます評判になり、「文章の生成能力」が評価されるにつれて、「あ、これはもっと考えないと」と思うようになってきた。
特に以下のニュースは、自分の分野と関連しているだけに、興味が惹かれた。

「聖職者の説教も「チャットGPT」で? 扱いに戸惑う宗教指導者」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cca5ad7c13dbb18d4e0ffc7e5011aa912e5afa49

「AIが説教原稿を作る」は、当然考えられることである。
僕自身もAIに「祈り」を作らせたことがあるが、当たり障りのない、とてもよくできな「祈り」が出力された。
「説教」の方はあまりうまくできないのだが、おそらく、それは僕の指示の出し方(プロンプト技術)が悪いのだろう。
このままいけば、「説教」の方もAIが破綻なく作れるようになるのも、時間の問題であると思う。
そこで、以下では「AIが説教を作る時代に、『説教を創る』意味」について考えてみたい。

 

 

1.


まず、以前「造形芸術」について語ったポイントを振り返りたい。
昨年の記事では次のように語っていた。

「芸術作品は人間を作り変えるものであるし、人間をより人間らしくするものであるし、また、真理を開示するものでもあるし、また、ある面では、民主主義を可能にするものでもある。」

箇条書きにすると、
1.芸術作品は人間を作り変える
2.芸術作品は人間をより人間らしくする
3.芸術作品は真理を開示する
4.芸術作品は民主主義を可能にする
となる。

まず、最初の点について。
「芸術作品は人間を作り変える」という点を、文字・言語による芸術(以下では「文学」と呼ぶことにする)に即して言い換えるとどうなるか?
これは、文学は人間を作り変える、と言える。
これはさしあたって、文学作品を「享受する」立場と、文学作品を「創造する」立場の二つの方向から考えることができるだろう。
文学作品を享受する際に、人が作り変えられることは特に語る必要がないほど自明であると思われる。
通常の会話でも、「・・・から影響を受けた」ということが言われる。
その場合の「・・・」とは、テレビ番組や漫画や映画や音楽だったりするが、そのように人は、自分が享受するものから影響を受けやすい。
文学であっても同様である。
人は、文学を享受しながら、その作家の価値観や世界観、あるいは言葉遣いなどに影響される。
そしていつのまにか、その作家と同じような眼差しで、世界を見るようになる。
そのように、文学を享受することで、人は作り変えられる。
また、一般に芸術作品を享受していると、自らも芸術作品を創造したくなってくる傾向があり――例えば、音楽を聞いていると、自分でも歌ってみようと思ったり、楽器を弾いてみようと思ったりする――、それは文学におうても同様である。
人は、物語を読んでいれば、自らも物語を作ってみようと思ったり、詩を読んでいれば、自らも詩を作ってみようと思ったりする(もちろん、全く思わない人もいる)。
そして、そのように自分が「創る立場」になることによって、人はやはり作り変えられる。
芸術作品を作ろうとすることによって、人は、語ろうとしている対象――それは当初は、大抵はかなり曖昧なものだ――をより知ることになる。
対象をより深く考え、様々な文献やツールを使って、あるいはフィールドワークもしながら、その対象をよりよく理解していく。
当初、興味がなかったものに、興味を抱くようになる。
当初、おかしいと思い、反発していたものに、共感を抱くようになる。
また、創る立場になり、言語を扱う立場になることによって、言語に対する感覚が研ぎ澄まされ、それは自分が作品を享受するときに、その作家が用いる言葉の一つ一つをより深く捉えられるようにもなる。
例えばこのように、文学作品を「創る」立場になることによって、人は自らが作り変えられる経験をするようになる。

さて、文学について述べた以上のことが、「説教」についても当てはまる。
説教者は、もちろん他のクリスチャンと同じように聖書を「読む」存在であり、その場合、聖書を「享受する」立場である。
聖書を享受する人間が作り変えられるのは、当然であり特に言うことはない。
ここで問題としているのは、聖書に基づいて、聖書について「語る」立場である。
そして私が言いたいのは、説教を「創る」ときにも、文学作品を「創る」場合と同じように、人は作り変えられるのだ、ということである。

一般の信徒の方は、もしかすると、牧師というのは、聖書について予め語るべきものを持っていて、その都度の説教では、その語るべきものを、その都度の聖書本文をいわば「ダシにして」語っているのだ、と思っているかもしれない。
これは、伝道説教(未信者の人に、イエス・キリストの福音を紹介するための説教)については当てはまるかもしれないし、頻度の差はそれぞれあるとしても、そういう説教もないことはない。
その場合には、説教を創ることによって、説教者が作り変えられる、ということはない。
「語るべきこと」は既に存在し、確定しており、説教を創る(説教原稿を創る)ことは、その「語るべきこと」を、説教する実際の状況を考慮しながら、若干modifyするだけのことである。
テンプレートは既に存在していて、そのテンプレートに若干のmodificationを加えるだけ――それがこの場合の「説教を創る」ことの内実である。
ここでは、説教は作り変えられることはない――modifyする技術や実際に説教する能力(語り、演じる能力)は多少向上するが、作り変えられることはない。

ところが、通常の説教では、実のところ、「語るべきこと」は予め存在していない。
説教者に与えられているのは、聖書本文である。
それらは、ギリシア語やヘブライ語あるいは場所によってはアラム語で書かれており、大抵の場合、現代の人間にとっては不可解なテクストとして現前する。
説教者は、その不可解なテクストを、辞書や文法書を片手に読んでいき、また、過去2000年において蓄積されてきたその聖書本文に関するコメンタリーを参照する。
それらはあまりにも膨大なので、説教者は、そのすべてを参照することはできず、大抵は、2,3の自分が慣れ親しんだコメンタリーを参照することになる。
また、時には、その聖書箇所について行われた他の説教者の説教を読むこともある。
こうしたことをしながら、説教者は、聖書本文についての理解を深めていく。
そして、聖書が語ろうとしていること、その箇所を通じて神様が語ろうとしていることを、理解しようとする。
この基本的なプロセスの中で、説教者は、ある聖書本文について一般に理解されている紋切り型が打ち破られる経験をする。
ある程度の信仰の経験があり、説教を聞いてきた経験や聖書勉強の経験があると、ある聖書の箇所は、ある特定の意味を持っている、あるいは、ある特定のトピックに関して言われている、ということがわかってくる。
そういうものが、クリスチャンの「常識」を形作る。
ノンクリスチャンが初めて聖書を読むときは、そのような「常識」は役に立つものだが、信仰の経歴がある程度長くなり、聖書を読むことも多くなると、それは、聖書を読むことをむしろ妨げるものになってくる。
聖書を読んでいながら、実は聖書を読んでいない、ということになる。
それは、聖書を覆っている雲のようなもの、あるいは、キャッシュのようなもので、聖書を読んでいるつもりで、実はキャッシュを表示しているだけ、だったりするのである。
そして説教者が説教を創るときに聖書本文に向き合うとき、説教者は、その雲を押しのけ、キャッシュではない、本文そのものの再読込を志向するのである。
そのときに、説教者は、聖書に関する「常識」が崩れる経験をする。
それは何を意味するかと言うと、はじめは、「語るべきものはある」(「この聖書本文が語ろうとしていることは・・・だろう」)と思っていたのだが、本文を理解するプロセスに入ってみた結果、その予め持っていた「語るべきもの」がなくなってしまう、ということである。
困ったことだ。
そして、この本文を研究する段階で、新たな「語るべきこと」が与えられたら幸いだが、そうはならないこともたくさんある。
その時は、さらなる冒険が必要となる。
説教者は、本を読み、新聞を読み、人々と会話し、祈り、何かの出来事を経験し、また本を読み、新聞を読み、・・・ということを繰り返す。
そうする中で、「語るべきこと」が与えられるようになる。
ときには、それでも与えられないことがある。
そのときは、致し方がない、もはや少しでも説教を書くしかない。
そして書いているときに、「語るべきこと」が少しずつ顕になってくることがある。
これこそが、恵みの経験である。
説教者は、説教を創るときにこのような経験をする。

以上述べたように、説教者は、説教を創るプロセスの中で、予め持っていた「常識」や「語るべきこと」が崩壊する経験をする。
キャッシュではない、本文そのものに出会うことになる。
そうして、聖書の本文について、また神様について、理解を修正し、変更していくのである。
説教者は、説教を創ることを通じて、このように自分自身が作り変えられる経験をする。

 


2.

 

次に、「芸術作品は人間をより人間らしくする」という点について。
ここでは、「人間」というイメージが予め定まっていると想定されている。
例えば、「美を理解する、人々の心を理解する、共感できる、相手の立場を理解できる、総合的・複合的に理解して判断できる」ようなイメージである。
芸術を享受する人間はそのような「人間」へと引き上げられるし、それは文学についても同様である。
そしてもちろん、聖書も同様だろう。
ただ、聖書の場合は、「人間」へ引き上げられると言うよりは、もっと限定的に、「神によって創造された人間」へ引き上げられる、と言ったほうがいいかもしれないし、あるいは端的に「キリストの弟子」へ引き上げられる、と言ったほうが適切かもしれない。

では、説教を創る人間にとって、「芸術作品は人間をより人間らしくする」という命題はどのように関係するのだろうか?
これは今語ったところと同様で、説教を創る人間は、まさにそうすることによって、より「人間」になる、あるいはより「キリストの弟子」になるのである。
なぜそう言えるのか?
先程、説教を創るプロセスでの「常識」が崩壊する経験について語ったが、それは言い換えると、無力さの経験である。
聖書の本文を前にして、あるいは、聖書を通じて語ろうとしている神様を前にしての、無力さの経験である。
「私は、あなたが言おうとしていることがわからない」という経験だ。
この経験こそが、神によって創造された人間にとって必須のものであり、また、キリストの弟子にとって必須のものなのである。
通常人は、「成熟する、成長する、上達する、習熟する、向上する」ことは、「自信を持って決断できる」ようになることだと理解しているだろう。
自分の意見に自信を持つ、自分の理解や決断に自信を持つ。
そしてクリスチャンもまた、成熟したクリスチャンとは、聖書に関して疑いを持たず、自信を持って神様について、聖書について語り、また行動できる人間だと思っているだろう。
しかし、私は、聖書が語る人間やキリストの弟子というのは、そのように自信満々な人間ではなく、常に自分の欠けを自覚し、そのために神を求め続ける人間のことだと思う。
ダビデを見ているとわかると思うが、彼は、常に主に尋ね求めていた。
それこそが「欠け」を感じている人間の姿である。
説教者もまた、普通の人間と同じように、年を取り経験を積み重ねていくと、ある程度、ある種の事柄について自信を持って判断をできるようになる。
それは、普通の人間的には「成熟」と言えるが、「キリストの弟子」としては危険な兆候である。
そして、説教者が「キリストの弟子」であるために必要なのが、無力さの経験、「神が何を言おうとしているかわからない」という経験である。
この経験によって、説教者は常に原点に立ち続けることができる。
「主よ、どうか語ってください。しもべは聞いております。」という姿勢である。
説教者には、このような経験をすることができる幸いがある。
しかも、ほぼ毎週に渡って。

他にもある。
当初の「語るべきもの」が失われたあと、説教者は、「語るべきものがない」という状況、「神が何を語ろうとしているのか分からない」という暗いトンネルを歩み続けるのだが、そのときに説教者が祈りの心を持ってアプローチするのは、自分の状況、家族の状況、社会の状況、教会の状況、信徒一人ひとりの状況である。
例えば、ある信徒のことを思い浮かべる――の人が経験している状況、感じている事柄、迷っていること、チャレンジしようとしていること、などなどを、その人との会話やその時の雰囲気と共に思い起こしながら、その状況の中に、「この本文を通じて神はどのように介入しようとしているのか」ということを祈り求める。
そうしたことを、他の信徒に対しても、また、教会全体に対しても行う。
同じように、社会に対し、家庭に対し、自分に対し、行う。
そういうことをし続けながら、ある時点で神様が語ってくださる。
そして「語るべきこと」が与えられる。
重要なのは、それが与えられる「前」である。
様々な人や状況に向かって祈りの心を持ってアプローチするときに、説教者は、その人や状況のことをより良く理解するようになる。
より深く、把握するようになる。
これが重要なのだ。

このように、説教者は、説教を創ることを通じて、より「人間」になり、あるいはより「キリストの弟子」へと作り変えられていく。

 


3.

 

三つ目として、「芸術作品は真理を開示する」点。
芸術も科学も哲学も、いずれも真理を開示するものであるが、科学や哲学がロジカルな言語によって真理を表現するのに対し、芸術はシンボルを通じて表現する。
それは当然文学にとっても妥当する。
文学を享受する人は、その文学作品に於いて表現されている真理を把握しようとする、あるいは、その真理を体験する。
「体験」という側面が、芸術が真理を伝える上でのポイントではないか。
文学が「愛」を伝えようとするときに、それが100ページで表現する場合であれ、300ページで表現する場合であれ、ともかく、読者はそれを読む時間、物語の世界に入り込む。
物語が進行する中で、作中の人物たちと同じように、不安を感じたり、心の高揚を感じたり、怒りを感じたり、不条理を感じたりする。
物語と共に感情が変化する、つまり、ある一定の時間のなかで様々な感情を体験することで、読み手は、「愛」を経験するのである。
読む「時間」という要素なしでは、文学作品は成り立たない。
作家は、そうした時間がかかることを想定した上で、作品を書く。
そして、作家が表現しようとする真理とは、作品を読む「時間」なしでは存在し得ないものなのである。
(もちろん、文学作品を創る作家は、厳密には「時間」をコントロールできない。「時間」と共にでしか伝えられない真理を表現するという点では、音楽や映画のほうがより「時間」の要素に敏感だろう。)

説教者もまた、説教において真理を開示する。
ところで、説教において「真理」とは何か?
聖書においては、文学とは違って、既に「真理」は定まっているのではないか?
確かにそのとおりである。
説教者は福音を語らなければならないし、イエス・キリストを、その十字架と復活を語らなければならない。
その意味では、説教者が語るべき「真理」は既に決まっている。
しかし、別の意味では、説教者が語る「真理」は決まっていない、と言える。
この事情は、既に語ってきた「語るべきもの・語るべきこと」を思い返していただきたい。
説教者が説教を作ろうとするとき、眼前にあるのは聖書の本文(ギリシア語、ヘブライ語、あるいはアラム語)である。
そして、その聖書の本文には、伝統的あるいは(クリスチャンの)常識的に、一定の意味が付与されており、その本文が意味するとされるメッセージや、その本文が語れるトピックなどはおおよそ「決まっている」。
「語るべきもの」は既に存在している――と聖書本文を前にして説教者は感じる。
ところが、実際に聖書本文に取り組む作業を始めると、その「語るべきもの」は崩壊し、その前の段階では、当該本文を通じて神が語ろうとしているメッセージは自明であると思われていたが、その自明性が失われる。
そして説教者は、「神は一体何を語ろうとしているのだろうか?」という問いの中に放り込まれることになる。
この状態から、再び「語るべきこと」が与えられるようになる事情については既に語ったので繰り返さない。
今確認したいのは、そこでの「語るべきこと」こそが、説教者が語るべき「真理」である、ということである。

そこでの「真理」とは一体何だろうか?
この真理は、キリスト教信仰の基本的な枠組みに依拠しているという意味では「普遍的」であるが、ある特定の時・場所、ある特定の社会、ある特定の教会という特殊な状況を背景として、またそれらの「ために」、また、ある特定の説教者を「通じて」語られるという点では、「特殊」な性格を持っている。
この「普遍性」と「特殊性」との特有の結びつきこそが、説教者が語る「真理」の特徴である。
この普遍性と特殊性との関係については、私はしばしばカントが『判断力批判』で語った「規定的判断力」と「反省的判断力」の概念に基づいて考えている。
「規定的判断力」とは、普遍的概念が所与として与えられていて、それを特殊な状況に「適用」する際に用いられる判断力である。
「反省的判断力」とは、逆に、特殊なもの・状況だけが与えられていて、主体がそこから普遍的概念を「発見」する際に用いられる判断力である。
説教者が、聖書本文を前にして、それに取り組む前に漠然と抱いているその本文自身の意味・メッセージ、あるいは、その本文を通じて神が語ろうとしているメッセージは、規定的判断力における「普遍的概念」のことである。
もし説教者が、本文を研究することなく、したがって、神が抱いているメッセージの自明性を疑うことなく、説教を作成するならば、それは「規定的判断力」を用いていることになる。
メッセージの自明性は変わることがなく、それを、ただ単に、特殊な状況に合わせてmodifyしているだけだからである。
それに対して、本文を研究しながら、本文の自明性が失われ、それ故「語るべきこと」が喪失した状況の中で、再び「語るべきこと」が与えられるようになるとき、その当該の本文を含めた「状況」(社会的、教会的、個人的)と、「語るべきこと」との関係は、まさに「反省的判断力」の関係である。
反省的判断力においては、特殊から普遍が「発見」される。
同じように、説教者には、特殊から普遍が「与えられる」のである。
そして、カントがその反省的判断力において、想像力と悟性(知性)と理性との自由な戯れが行われると語っていたように、説教者もまた、「語るべきこと」が与えられるまで、祈りと想像力をもって色々な対象にアプローチしたり、知性と理性を持って読書をしたり、とにかく様々な能力を使用し続けるのである。
そうして「語るべきこと」が与えられる。
このように「与えられる」ときに初めて、特殊と普遍との特有な関係が成り立つのである。
その特有な関係こそが、まさに「創造」である。
キリスト教の伝統では、この創造をなす働きについて、「霊感Inspiration」という便利な言葉がある。
聖霊による霊感が、特殊と普遍とを媒介してくださるのである。
このように、特殊(本文、社会、教会、信徒、説教者、etc)だけが与えられている状況の中で、霊感によって普遍(「語るべきこと」)が与えられる時、その特殊と普遍との特有の関係こそが、説教者が語る「真理」のポイントなのである。
この「真理」のなかには、当然、説教者個人のリーダーシップやヴィジョンが入り込むし、あるいは政治的イデオロギーも入り込む。
そのときの説教者の関心事も入り込むし、教会が直面している問題も入り込む。
色々なものが入り込むが、それらは細かいことなので、今は言及しないでおく。

最後にポイントとなるのは、この「真理」は、実際に教会の中で「語られる」ことによって実現される、という点である。
実際の教会の中で語られる時、そこには聞き手である信徒たちがいる。
説教者は、その信徒たちに向かって語る。
信徒たちは、それぞれ、当然ながら、自分なりの歴史をもち、体調の良し悪しがあり、気分の良し悪しがあり、色々個別に問題を感じていたりする。
そこに向かって説教者が語る時、その言葉は、もはや説教者のコントロールできないものとなる。
予想通りに信徒たちにメッセージが伝わることもあれば、予想していないところで伝わることもある。
語られ、解き放たれた言葉は、信徒たちの方に向かっていき、ある部分は素通りし、ある部分はぶつかる。
そしてぶつかったときに、その解き放たれた言葉は、その信徒一人ひとりにとって「真理」となる。
それは、彼ら、彼女たちにとって、主ご自身との「出会い」となり、イエス様と出会った人物が、人生を変えられるように、その説教における主との出会いも、彼ら、彼女たちを作り変えるものになるのである。
その意味で、説教者は、教会の中で説教をする時、既に準備してきた「真理」を語ると同時に、信徒たちがイエス様と出会うためにコーディネートする存在でもあるのである。
真理に人が出会う時、人は自由になり、そして変えられる。
説教者は、結局は、教会に集う人々が、それぞれイエス様に出会い、イエス様の声を聞き、自由になり、主の弟子として作り変えられる、その場をコーディネート、あるいはファシリテートする存在なのだ。
聖書の本文を研究し、そこから一旦「語るべきこと」を失ったあとに再び「語るべきこと」が与えられるようになるまで四苦八苦するのも、教会に集う人々が、各々イエス様に出会うためなのである。
しかし、究極的には、全てを司っているのは聖霊である。
聖霊が働くときに、説教で語られ、解き放たれた言葉は、失われることなく人々の心に届く。
説教者は、そのことを信じながら語るのである。

 

 

4.

 

四つ目の「芸術作品は民主主義を可能にする」は説教の実践とはあまり関係なさそうなので省略する。

それでは、以上で述べてきた説教を創る一連のプロセスと構造をを踏まえた上で、「AIが説教を作る時代に、『説教を作る』意味」を考えてみたい。
さしあたって、2点あると思われる。
一つは、「説教を創る」ことは、説教者自身の信仰の成熟――説教者自身が聖書に対する理解を深め、同時に神様に対する理解を深め、恵みの経験をし、神との結びつきを常に保ち続けるために意味がある。
この理由は、とても個人的である、と思う。
ちょっと乱暴に言えば、「信仰生活を維持するために説教を創り続ける」みたいなことである。
とはいえ、聖書を前にして孤立無援の状態になり、神が何を言おうとしているのかわからなくなり、その中で恵みによって「語るべきこと」が与えられる、という経験は、普通あまりできないことなので、これはこれで重要なのではないか、とも思う。
もう一つは、説教者が語るべき「真理」の特徴として語った、特殊と普遍との特有な関係である。
これは、AIでは実行できないことである。
AIが説教として作成できるのは、「規定的判断力」の類である。
AI(既存の教師データによって教育されたAI)は、既に存在している「普遍的概念」に等しい。
そのAIに対して、人間がプロンプトによって指示を与えることによって、その「普遍」はmodifyされて、一定の「特殊」を生成する。
そのプロンプトを様々に工夫することによって――そこに一定の知識と技術があることは疑いえない――、望む形の出力をえることはできるだろうが、しかしそこで行われているのは、AIという「普遍」が、「特殊」を生成する、という関係である。
これは、伝道説教のようなものなら作成することができるだろう。
しかし、通常の説教でポイントとなる「反省的判断力」に相当するものは、AIでは不可能である。
それは、特殊(本文、社会、教会、信徒、説教者の状況)から、「普遍」(「語るべきこと」)が与えられることである。
そして、実のところ、この特殊と普遍との特有な結びつきこそが、説教で語られる「真理」なのだ。
この「真理」の形成を、AIがすることはできない。
それは人間――いや、聖霊がするのだから。

生成系AI時代に、「絵を描く」意味

以下の文章は、2022年11月25日にプライベートなFacebookアカウントで書いた内容です。

 

 

絵を描くAIが一般的に利用可能になって、色々話題になっている。
ある絵画コンクールで、AIに描かせたものが入賞したというニュースもあった。
そういうことを妻と話しながら、これから芸術作品の価値についても、力点が変わってくるのではないか、ということを議論した。
芸術作品の価値というものが、完成品としての作品にではなく、ますます、芸術を創作するというプロセスの方向に置かれるようになるのではないか、そして、妻も関心を持っている臨床美術のようなものが、芸術において価値あるものになるのではないか、ということを議論した。

小学校の教育レベルだと、絵を描く際に、「見たとおりに描く」という写生の能力が評価されがちである。
また、最終的に作品になったものが、「美しい」ものであることも評価される。
しかし、そのように、最終的な作品としてのクオリティに関しては、おそらく今後は、ますますAIが近づいていくだろう。
少し前にも話したが、私たちが求めるものが、本当の芸術ではなく、芸術の劣化版、カリカチュアでしかなくなっているという現状――カフェに似合う作品、おしゃれな建築物に似合う作品、というぐらいに、「場と調和した作品」が求められるだけで、そこに置かれている作品が「誰の」「どのような意図で」描かれたかは全く考慮されない現状――のなかでは、AIは、ますますそのような私たちのニーズにふさわしい作品を生産し続けることができるだろう。
そして、絵を描くということが、そのような作品を制作するということであり、作品の価値もまた、そのような状況の中で評価されるものである――ちょうど、交通安全を啓蒙するテーマを与えられて、それにふさわしい作品を書く、というように――ならば、芸術作品を創作する上での人間に固有な領域はないだろう。

では、芸術作品というのはその程度のものなのか、というと、やはりそうではない。
芸術作品は人間を作り変えるものであるし、人間をより人間らしくするものであるし、また、真理を開示するものでもあるし、また、ある面では、民主主義を可能にするものでもある。
芸術の機能や価値は豊富にあるが、そのうちの一つが、芸術を創作するプロセスにおける作り手自身の変化、だろうと思う。
絵を描くときに、人は、その被写体をより良く観察するようになる。
通常、人は花を、単なる「花」としてしか認識していないが、絵を描く態度でその花と向き合うことによって、人は、その花をよりよく観察することになる。
花ごとに種類が違うことに気づくのはもちろんのこと、花びらにも、一つ一つ特徴があることに気づくだろう。
ある部分はきれいだが、ある部分は枯れかかっていることもある。
大きさや色も様々だ。
また、茎の部分も、よく見ると産毛のようなものがあったり、虫がいたりもする。
花を描くというプロセスの中で、人は、通常の生活の中では気づくことのない世界のリアリティを、より知ることになる。
このように、花を描くという単純な行為においても、書き手は、世界に対する経験を深めることになる。
それは言い換えると、世界に対する理解を修正していくということでもある。
これが、もう少し規模が大きくなった場合を考えてみよう。
例えば、複数の職業に携わっている人々を描こうとする場合には、人は、その被写体(人物)についてより深く理解しようとする。
その人物を描くということは、その人の見かけだけではなく、その見かけが生まれることになる背景を理解することにつながる。
その人の性格や歴史や、その人が置かれた社会環境を理解することにつながる。
そうした探求を、一人、二人、三人と実行していく。
そのような探求をしていき、作品を作り上げていくならば、そのプロセスを通じて、その作り手自身が大きく変化することになる。
作家は、人物を知るだけではなく、その人物が携わっている職業を知ることになり、また、同時に、その職業が置かれている社会環境も理解することになるだろう。
こうして、芸術を制作するプロセスを通じて、作家は、以前に持っていた自分の理解や世界観を、少しずつ修正し、また深めていくのである。
単純に言えば、芸術作品を制作するプロセスを通じて、作家は成長するのである。

そして、そのプロセスの中で行われる作業――対象の理解――は、民主主義にも通じるものだと思われる。
制作プロセスにおける対象の理解は、他者理解に通じる。
そして、そのような他者理解は、民主主義のベースにあるものの一つだと思う。
一つの共同体に属している人々が、実際に生きている環境や状況は異なっており、互いに見ている世界は違うが、一旦、相手の立場になって考えてみる。
この「相手の立場になって考える」ということがなくなってしまうと、議論というものは実際には存在せず、ただ「相手を言い負かすゲーム」に過ぎなくなってしまうし、人数をどちらが獲得するかという闘争になってしまう。
それは民主主義の見かけをしているが、実際には別のものだ――と私は考える。
互いに相手を理解しながら、そのなかで合意を形成していくプロセスが民主主義だと、私は理解しているからである。
芸術作品を制作することは、その意味で、民主主義の健全な育成に通じるのではないか。

「絵を描く能力」という点でAIが成長したことで、逆に、「芸術と人間との関係」がより大切になってきていると思う。

エレミヤの召命


エレミヤ1;1-10


1.イントロダクション

おはようございます。
昔、まだクリスチャンになったばかりだったころ、聖書を読みながら、一つ励ましを受けていた点がありました。
それは何かというと、「聖書の登場人物が、意外と自信のない人が多い」という点です。
結構泣き言を言う人が多いのです。
当時、「神様を信じる人間は、何も恐れない」みたいなイメージを抱いていたのですが、聖書を見ていくと、別にそんな人はほとんどいない。
みんな、ふつうの人間なんですね。
これには励ましを受けました。
なぜかというと、私も自信がなかったり、不安に思うことが多いからです。

自信がない、不安に思う、恐れを感じる。
なんでもかんでもそういう風に感じるわけでは、もちろんありません。
不安や恐れ、自信のなさを感じるのは、新しい領域、自分にとって不慣れな領域、それに関わるときです。
心理学でよく使われる用語で、コンフォートゾーンというものがありますね。
安心できる領域、慣れ親しんだ領域、自分が快適に感じられる領域、それがコンフォートゾーンです。
その領域の「外」は、人に不安を感じさせるのです。
娘を見ていると、知らない人と会うときに、その人が一定の距離を保っていると平気にしているのですが、その距離を縮めて、一定の限界を超えると、泣き出す、ということがありました。
しばらく距離を保ちながら、その見知らぬ人が安全かどうか確かめ、そして安全であることが分かったら近づいても大丈夫なのですが、いきなり近づいて、一定の限界を超えると、やはり怖くなって泣き出すのです。
自分にとっての安全な領域に、いきなり見知らぬ人が侵入したからです。
そのような領域、目に見えない境界線で区切られた領域、それがコンフォートゾーンです。
今の娘のケースですと、コンフォートゾーンとは、空間的な、一定の範囲です。
しかしこれは、もっと色々な対象に関して考えることもできます。
人間関係でいえば、よく知っている人、自分が心地よく感じられる人がいますが、その人たちはコンフォートゾーンです。
そのゾーンの外側には、見知らぬ人や、会うと緊張を感じる人、不安や恐れを感じさせる人がいるでしょう。
仕事で言えば、自分が今までやってきた領域はコンフォートゾーンですが、新しい分野、自分がやったことのない領域は、そのゾーンの外側です。
それらもまた、不安や恐れを感じさせるでしょう。
生活環境においても、今まで住んでいる場所は、慣れ親しんだ風景やお店などがあり、コンフォートゾーンになるのですが、そこから引っ越すとなると、やはり不安が生じたりします。

私たちは様々な理由から、コンフォートゾーンから出なければならないときがあります。
しかしそういう時には、私たちは不安や恐れ、自身のなさ、無力感などを感じるでしょう。
そのときに、私たちはどうしているでしょうか?
恐れや不安に引きづられながら、「絶対ここからは出ない!」と決意する人がいるかもしれません。
人によっては、恐れや不安など、全然平気という人がいるかもしれません。
しかし多くの人は、新しく踏み出さないといけないと思いながらも、恐れ、不安になり、立ち止まってしまうことが多いでしょう。
今日は、預言者エレミヤの召命の箇所を読みながら、どうしたら私たちが不安や恐れを乗り越え、コンフォートゾーンから一歩外に踏み出すことができるのか、考えてみたいと思います。


2.エレミヤの時代とエレミヤ自身

まず、エレミヤがどのような時代を生きていたのか、その背景を確認しましょう。
今日の本文の、1:1−3を読みます。

ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことである。
それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第11年の終わりまで、すなわち、その年の第5の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた。(新改訳2017、以下聖書からの引用も同じ)

ここにエレミヤが生きた時代のことが書かれています。
まず、年代についてですが、2節に「アモンの子ヨシヤの時代」とあります。
ヨシヤ王は、紀元前640年から609年まで王として統治していました。
エレミヤはそのヨシヤ王の時代に預言者としての活動を始め、それが、3節によりますと、「ゼデキヤの第11年の終わり」、つまり「捕囚」のときまで続きました。
その「ゼデキヤの第11年の終わり」は、紀元前586年頃です。
なので、すごくざっくり言うと、エレミヤが預言者として活動した時期は、紀元前600年前後ということになります。
この紀元前600年前後というのは、この中東の地域では大きな国際情勢の変化があった時期でした。
紀元前8世紀以来、この地域で大きな勢力を誇っていたのは、アッシリア帝国でした。
アッシリア帝国は、BC722年に北イスラエルを滅ぼします。
南のユダもアッシリア帝国と無関係ではなく、アッシリアの圧力を受け続けていたと考えられています。
ところが、紀元前7世紀の後半になると、そのアッシリアの力が弱まっていきます。
今のイランのあたりではメディアという国が誕生し、また、チグリス・ユーフラテス川のあたりでは、新バビロニア帝国が生まれます。
アッシリア帝国の力が弱まってきたときが、ユダの国では、ちょうどヨシヤ王が王様になっていたときでした。
ヨシヤ王の時代、それまで半ばアッシリア帝国に従属していたユダが、アッシリア帝国の影響力が弱まることで、相対的に自立できるようになりました。
「ヨシヤの改革」というのは、ちょうどその時期に対応します。
ところが、ユダが相対的な自立を保っていたのもほんの束の間で、すぐに、先程言及した新バビロニア帝国が強大になっていきます。
そして6世紀初め、つまりBC586年には、ユダは新バビロニア帝国に滅ぼされることになります。
要するに、エレミヤが活動していた時代というのは、ユダの立場からすると、今まで強大な力を持っていたアッシリア帝国が弱体化し、少しユダが自立したかと思ったら、今度は新バビロニア帝国が出てきて、最終的にはそのバビロニア帝国に滅ぼされることになる、その時期だということです。
本当に激動の時代だと言えます。
当時の政治情勢は以上のようであるとして、ではエレミヤの経歴はどういうものかというと、それほど多くのことはわかりません。
1節を見ると、エレミヤは「アナトテにいた祭司」の息子だったことがわかります。
アナトテとは、エルサレムから北東に3−6キロの場所にありました。
そこは祭司たちが住む町です。
その町出身の有名な祭司としては、ダビデの頃に活躍したエブヤタルがいます。
彼は、政治的判断で過ちがあり、ソロモンの時代にはパージされました。
もしかすると、そういう背景もあり、アナトテの祭司たちは、メインストリームではなかったかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。
エレミヤは、そのアナトテの町の祭司の息子として生まれました。
古代イスラエルでは、祭司は世襲制なので、エレミヤも子供の頃から祭司になるための教育や訓練を受けていたことでしょう。
つまり、聖書に関する知識は持っていたことでしょう。
これがエレミヤの経歴です。


3.エレミヤの召命

それでは、こうしたエレミヤに対し、神様がどのように呼びかけたのかを見ていきましょう。
1:4−5を読みます。

次のような主のことばがあった。
「わたしは、あなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」

このような神様からの言葉が、エレミヤの人生のいつのときにあったものなのか、はっきりしたことはわかりません。
6節に「若い」という表現がありますが、それも、年齢的に一定の幅をカバーする用語なので、実際に何歳くらいなのかはわかりません。
日本語でも、スポーツ選手の場合の「若手」と、研究者の場合の「若手」では、全然年齢が違いますね。
私としては、エレミヤが神様からの召命を受け取ったのは20歳前後だったのではないかと思います。

3−1,召命の内容

このエレミヤへの召命の言葉に対して、ここでは2つの点を指摘します。
一つは、その召命の内容に関してであり、もう一つは、その召命の性質に関してです。
はじめに、召命の内容について話します。
「召命」とは、「使命に召される、呼ばれる」と書きますが、今日は、これから召命や使命やヴィジョンという言葉を使いますが、どれもだいたい同じ意味だと思ってください。

さて、エレミヤが受け取った召命の内容は何でしょうか?
それは、「国々への預言者」です。
イスラエルへの預言者」ではなく、「国々への預言者」です。
エレミヤは、一つの国に対して神様の御言葉を伝える使命を委ねられたのではなく、「国々」、つまり世界中の国に対してそういう使命を委ねられたのです。
その働きの内容は、具体的には10節にあります。

「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

ここからは、、預言者としての働き、つまり、御言葉を伝える働きは、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植える」働きだということがわかります。
これはどういうことでしょうか?
今風に言えば、「破壊と創造」あるいは「創造的破壊」とでも言えるかもしれません。
御言葉を伝えるという働きには、破壊と創造という二つの側面が存在するのです。
「破壊」の側面とは何かといえば、神様の御心ではないものの否定ですね。
例えば、まことの神ではないものを「神」であると信じているならば、そういう姿勢は確かに否定されるのです。
エレミヤ書2:27ではこう言われています。

彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。

木を彫ったり、石を彫って作られたものを、人間は大切にし、その前で手を合わせたり、ひれ伏したり、拝んだりしますが、それはやはり単なる「木」であり「石」です。
御言葉を伝えることは、木や石を拝む、こういう心を否定するでしょう。
あるいは、誰かを憎んだり恨んだりする心があるならば、それも神様の御心ではないので、やはり否定されます。
しかし、御言葉を伝える働きには、そういう否定的な側面ばかりではなく、もちろん、肯定的な側面があります。
それは、伝えられた御言葉がその人のうちに根ざしながら、成長し、その人の人格がイエス様に似たものへと作り変えられていく、そのきっかけになるという側面です。
御言葉を伝えることは、人々が聖霊様によって新しく生まれるようになるきっかけになります。

「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植える」――御言葉を伝える働きには、こういう「破壊」の側面と「創造」の側面の両面があるのです。

ところで、「破壊と創造の両方の側面がある」とはいっても、実際には、「破壊」の側面が強く出てしまいがちです。
実際、エレミヤだけではなく、旧約聖書預言者たちは、みな、「真実を語るがゆえに」否定的な言葉が多くなります。
現実の社会が、また人々の生き方が、神様の御心にかなっていない、その「真実」を語ろうとすると、どうしても「否定的」な言葉が多くなります。
そして否定的な言葉を聞いた人々との間には、「対立」が生じるようになり、「攻撃」も受けるようになります。
さらに、「真実を語っている」と考えている人は、こういってよければ、偉そうに見えますね。
それもまた人々にはしゃくに障ります。
そして、「こいつ、若いくせに偉そうにしやがって」と思われたら、伝えたいことも伝わらなくなってしまいます。

御言葉を伝える働き、つまり預言者の働きには、こういう困難がつきものです。
エレミヤは、「国々への預言者と定めていた」と神様から言われたとき、当然、そういう困難に思い至ったでしょう。
「なんてことだ、これは大変なことだ。俺の人生はもう終わった!」と思ったかもしれません。
「祭司として、ただ儀式をやっていて、ときどき、ただ時宜に応じて人々に慰めのことばを語ったりしていればいいと思っていたのに。ああ、なんてことだ! 人々に、神様の真実を伝えないといけないとは!」と。
そこでエレミヤは、言い訳を神様に訴えます。
1:6です。

私は言った。
「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません。」

私は若いです、人々からあなどられるだけです。
「若い」から、誰も真剣に聞いてなんてくれないでしょう。
もっと歳を重ね、経験を重ねた人のほうが、説得力があるでしょう。
私のような若い人間が話すのは、話すだけ無駄です。
もっと他に適切な人がいるはずなので、そちらに聞いてみてください。
――まるでそんな風に言っているかのようです。

エレミヤはすごく弱気です。
神様が自分に求めている働きがどんなものかわかるだけに、余計に怖くなり、逃げたくなっています。
そして言い訳を語る。
冒頭で話したように、聖書にはこういう弱気で自身のない人が結構出てきます。
モーセは、神様とのやり取りですごく弱気で、度が過ぎて神さまを怒らせるほどでしたね。
士師記のギデオンもそうですね。
エレミヤも弱気な人間の代表者のようなものです。
預言者」という働きがどんなものか知っているだけに、恐れ、不安が大きくなり、逃げ出したいのです。

エレミヤは、神様から「国々への預言者」になるという使命を受け取ったとき、恐れや不安が大きくなりました。
私たちもそういうことがあります。
何らかのヴィジョンを受け取るとき、私たちは、たしかに興奮したり、ワクワクしたりしながらも、同時に、不安や恐れをいだきます。
御言葉を伝えるということだけがヴィジョンではありません。
どこどこに住むということ、何らかの組織で働くということ、誰かと結婚するということ、何か新しい仕事に着手するということ、これら全てに、何らかのヴィジョンが伴います。
そしてそのヴィジョンを生きようとするときに、現在の自分は変わらざるを得なくなります。
そこに不安が生まれます。
自分にとってのコンフォートゾーンから出なければならないからです。
では、どうすればそのコンフォートゾーンから出て、ヴィジョンに生きることができるのでしょうか?

3−2.召命の性質

ここで、2つめの点、エレミヤの召命の性質を考えてみましょう。
おそらくエレミヤは、自分に対する神様の召命、「国々への預言者と定めていた」という神様の決定が、絶対的なものだということを感じていたでしょう。
5節を見ますと、「あなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し」と言われています。
預言者になるのは神様の意思であり、それは、はるか昔からすでに決まっていたのだ、ということです。
自分が意識する前から、物心がつく前から、自分は預言者になる存在だったのだ、ということです。
これは、今の私たちの立場で言い換えるとどうなるでしょうか?
つまり、イエス様が直接私の前に現れて、「これをしなさい、あれをしなさい」という指示を日々受け取っている、わけではない私たち、つまり、平凡な人間に過ぎない私たちの立場では、どのように言い換えられるでしょうか?
私は、こういう風に言い換えられると思います。

預言者として生きることが真実に私らしく生きることであり、預言者として生きることが真実に私が満足し、喜び、充実して生きる道なのだ。
私はずっとそのことに気づいていなかったし、ちょっと思ったとしてもすぐ忘れたり、あるいは気づいていないふりをしていたけれど、やはり認めざるを得ない。
預言者として生きなければ、私はもはや私ではない。」

エレミヤが受け取ったヴィジョンを言い換えると、こうなるのではないでしょうか?
そして、ヴィジョンというものがこういうものであるなら、私たちも理解できますね。
こうしたヴィジョンを、人それぞれ異なりますが、誰もが持っています。
いや、神様が与えているのです。
私たちは、ただそれを見出し、再発見するのです。
「それをすることで真実に私が満足し、喜び、充実感を抱くものは何か?」
「それをすることで真実に私が私らしくいられるものは何か?」
それをすることに困難が伴うかどうか、あるいは果たしてそれが可能かどうか、それはひとまず考える必要はありません。
大切なのは、ヴィジョン、夢なのです。
自分自身の存在理由そのものであるようなヴィジョン、「そのように生きなければ、もはや私は私ではない」と、そのように言えるヴィジョン、それが問題なのです。
私たちは、そうしたヴィジョンを持っているでしょうか?
さらに、ヴィジョンを持っているとして、そのヴィジョンを生きているでしょうか?
かつて、何からのヴィジョンを受け取り、それに向かって決断した、そして生き続けてきた――そういう経験をお持ちの方もたくさんいらっしゃるでしょう。
そのヴィジョンは、今もあなたの心を燃やしているでしょうか?
あるいは、そのヴィジョンが一旦一区切りついたとしたら、今あなたを動かしているヴィジョンは何でしょうか?
ぜひ、自分自身に問いかけてみてください。
また、もし、今、何のヴィジョンも持っていないとしたら、ぜひそれを見出してください。
なぜなら、神様は私たち一人ひとりにヴィジョンを持っているのであり、私たちとしては、そのヴィジョンを生きるときに真実に幸せであり、真実に喜び、充実感をいだき、真実に「私らしく」いられるからです。
そして、同じことなのですが、そのヴィジョンを持つときに、私たちは自分のコンフォートゾーンから出ることができるのです。
ここで大切なのは、そのヴィジョンの性質です。
エレミヤに対して神様から示されたヴィジョンは、絶対的な性質を持っていました。
それは、はるか昔から、永遠の昔から決まっていて、動かしがたいものとしてエレミヤに提示されました。
私たちに示されるヴィジョンも同じです。
それは動かしがたい、変更できない、絶対的という性質を持ちます。
単なる願望は、時間がたてばなくなったり、変化したりします。
単なる思いつきだと、それに対して人生を賭けようという決断にはなりません。
ヴィジョンというのは、コロコロ変化したりはしません。
それは、時間が断っても、日にちが断っても、何度も何度も同じように私の脳裏にやってくるものです。
またヴィジョンは、それに対して自分の人生を賭けても良いと思わせるものです。
であるがゆえに、ヴィジョンは、私自身のアイデンティティと一体になるようなものなのです。
そうしたヴィジョンを持つことで、私たちは自分のコンフォートゾーンを超えることができますし、また、ヴィジョンを持つことが、それを生きるための前提なのです。
だから、私たちは何よりもまず、ヴィジョンを見出さなければなりません。
そのために何ができるでしょうか?
まず、聞き飽きていることとは思いますが、祈り、また聖書を黙想してください。
また、祈りの心を持ちながら、自分の人生を振り返り、社会を観察しましょう。
さらに、人々と対話をし、積極的に読書をし、気になる活動には参加してみてください。
あらゆる通路を通じて神様は語りかけるからです。
そういう活動のすべてが、神様の御旨を尋ね求める祈りの一貫なのです
そしてそれら通じて、結局は、エレミヤ書33:3の御言葉が実現するのです。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」

神様は、呼び求める私たちの祈りを聞いてくださいます。
そして、私たちには思いもよらない「大いなること」を準備されています。
それを期待しながら、私たちはヴィジョンを求めましょう。
神様は、私たちにそれを告げてくださるでしょう。


4.神様の約束と信頼

エレミヤの召命の内容と、召命の性質について話してきました。
召命の内容は「国々への預言者」であり、召命の性質は絶対的なものでした。
永遠の昔からの神様の決定という絶対的な性質を帯びながら、「国々への預言者」というヴィジョンが、エレミヤに示されたのでした。
そのヴィジョンに対して、エレミヤは恐れおののきます。
「若いのでできません!」と語る。
最後に、そのように恐れ、臆病になっているエレミヤに対し、神様がどう対応したのかを見ていきます。
1:7−9を読みます。

主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主のことば。」
そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしはわたしのことばあなたの口に与えた。

これはいきなり、結構驚きだと思います。
「まだ若い、と言うな!」と神様はエレミヤを叱りつけているのです。
「できません!――できないっていうな、ばかやろ!」みたいな感じですね。
今の会社で、上司と部下との関係で再現したら、若干パワハラっぽいです。
エレミヤは、「若いので、どう語ってよいかわかりません」と訴えましたが、これに対して神様は、「若いことは関係ない」と言います。
なぜなら、エレミヤがすべきことは、神様が遣わすすべてのところへ行くこと、そして、神様が命じるすべてのことを語ることだからです。
何を語るべきか、どのように語るべきか、それをエレミヤは心配する必要はないのです。
エレミヤに要求されているのは、「神様が命じるすべてのことを語る」ことだからです。
自分で考えるなら難しいけれど、「言われたことを、その通り語るだけ」なら簡単じゃないか、というわけです。
しかしながら、依然として、預言者として活動をしているときの危険はあります。
「神様がこれこれ言っているんだから、仕方ないじゃないか」という言い訳は成り立ちません。
聞いている方は、「結局、それを言っているのは、エレミヤ、お前じゃないか!」と思うからです。
この場合に生まれる危険に対してはどうなのか?
8−9節で、神様はエレミヤに、一つの約束と一つの確証を与えます。
「約束」というのは、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す」という内容です。
危険はあるし、危ない状況にも陥るけれど、私はあなたと共にいて、あなたを救い出す――そういう約束です。
たしかに、私たちはエレミヤ書を読むと、エレミヤが牢屋に入れられたり、泥水に入れられたりしながらも、助けられ、生き延びている様子を見ることができます。
神様はたしかにエレミヤを助け出しています。
また、「確証」というのは、神様が御手を伸ばしてエレミヤの口に触れ、エレミヤに、「わたしのことばをあなたの口に与えた」と言った出来事のことです。
神様が口に触れるという出来事は、イザヤ書でも描かれています(イザヤ6:7)。
イザヤの場合は、その口に触れる出来事は、イザヤ自身の罪を赦す意味を持っていました。
ここではそれ以上に、神様がエレミヤを預言者として「実際に選んだ」ことを示す意味合いがあるでしょう。
かつて神様は、モーセに対して、次のような約束をしていました。
申命記18:18です。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼は私が命じることすべてを彼らに告げる。

祭司の家系に生まれて聖書の教育を受けていたモーセが、この約束を知らないはずがありません。
神様が、エレミヤの口に触れて、「わたしのことばをあなたの口に与えた」といったとき、エレミヤは、自分がモーセに約束された「預言者」だと思ったことでしょう。
「自分は、あそこで約束されていた預言者として選ばれたのだ」と。
逃げ腰になっていたエレミヤに対して、神様はこのように励ましました。
約束だけでなく、確証を与えたのです。
実際、この後エレミヤは預言者として活動するので、神様のこのような励ましは効果的だったのでしょう。

さて、私たちもまた、神様からヴィジョンを受け取ったとしても、やはり依然として心には不安や恐れがあります。
コンフォートゾーンから出ていくことに伴う恐れがあります。
ヴィジョンを持つことで、コンフォートゾーンから出ていきたい、でなければならない、出るのが本当の生き方だ、とは思ったとしても、やはり恐れや不安があります。
その恐れや不安を乗り越えさせるものは一体なんでしょうか?
何によって、恐れや不安を乗り越えることが可能なのでしょうか?

ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭がいますね。
伝記によりますと、彼はサーカスが好きだったようです。
特に空中ブランコが好きだったそうです。
空中ブランコでは、ブランコから手を離して飛び出す人と、それを受け止める人がいますが、これが、私たちの信仰の姿と同じだと考えているようです。
私たちは、信仰において、チャレンジするときがあります。
それは、ブランコから手を離すときですね。
しかし、チャレンジというのは、無闇矢鱈にするものではない。
そこには、手を離して飛び出してくる私たちを、受け止めてくださる方がいる。
それがイエス様です。
私たちは、イエス様が必ず受け止めてくださることを信じ、信頼している。
だから、いよいよ大胆に、勢いをつけて手を離し、飛び出すことができるのです。
信仰生活というのは、イエス様が受け止めてくださることを信じながら、大胆に飛び出していく歩みである。
そのようにナウエンは考えているようです。

このナウエンの信仰理解を、最近娘と遊びながらよく思い出します。
娘は最近、坂道を小走りしてきて、私が受け止める、という遊びが好きで、何度も繰り返します。
私がもし受け止めようとしなかったら、この遊びは成り立ちません。
娘は、私が受け止めてくれるのを信頼して、坂道を小走りしてくるのです。
娘にとっては、本当にちっちゃなチャレンジかもしれませんが、私としては、こういう遊びを通じて、人を信頼することを学んでいくのではないか、と考えています。

何を言いたいのかと言うと、私たちが恐れに打ち勝つ方法は、イエス様に対する信頼である、ということです。
私たちが、空中ブランコから手を離して飛び出していったとき、イエス様が必ず受け止めてくださるという信頼、坂道をすごい勢いで下っていったときに、やはりイエス様が受け止めてくださるという信頼です。
恐れや不安の対義語は、勇気や安心ではなく、あるいは勇気や安心に先立って、まずもって「信頼」なのです。
今日は、どうすればその「信頼」を深められるか、という話はしません。
ただ、次のように言います。

私たちが、ヴィジョンを抱いてコンフォートゾーンを飛び出していくとき、そこに、イエス様がいらしゃって、必ず受け止めてくださるという信頼があるならば、私たちは恐れに打ち勝つことができます。
コンフォートゾーンから飛び出して、危険な状況になったとき、苦しい状況になったとき、敵対者たちがたくさん現れたとき、八方塞がりになったとき、それでもイエス様が守り、救い出してくださるという信頼があるならば、私たちは恐れに打ち勝つことができるます。

これです。

エス様はどんなお方でしょうか?
弟子たちが散々失敗したり、裏切ったりしても、救い出し、赦してくださいました。
また、私たち自身が罪人であったとき、このつまらない人間たちのためにも、イエス様は死んでくださいました。
ローマ人への手紙5:6−8を読みます。

実にキリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

善良な人のためなら、もしかすると、身代わりに死ぬ人はいるかもしれない。
しかし、犯罪者、極悪人、つまらない人間、いてもいなくてもいい人間、無能な人間――そんな人間のために、身代わりに死ぬ人はいません。
ところがイエス様は、そういう人のために死なれました。
私たちを愛していたからです。

みなさん、私たちは残念ながら、つまらない人間です。
また、神様の前では、犯罪者でしかありません。
ところが、イエス様が私たちを愛し、身代わりとなって十字架につけられたことで、救われた存在です。
私たち、このつまらない私たちのために身代わりになってくださるほど、イエス様の私たちに対する愛は大きいのです。
そのイエス様が、マタイによる福音書の最後の言葉によれば、「世の終わりまで」私たちと共にいてくださるのです。
エス様はこのように、私たちを愛しているという確証と、またその約束を与えています。
今述べた以外のこともたくさんあるでしょう。
そのようなイエス様を、私たちはどう考えるべきか?
信頼せざるを得ないでしょう。
聖書の記録は、2000年前で終わったものではありません。
エス様は生きておられます。
神様の御業は、今もなお継続中です。
だから、今この時に、イエス様を信頼しましょう。
ヴィジョンを抱いて飛び出していこうとするとき、恐れや不安が私たちを後ろに引き止めようとしますが、それに対して、イエス様への信頼によって闘いましょう。
信頼によってコンフォートゾーンを超え出ていく時、私たちはヴィジョンを実現していくのであり、神様の計画を実現していくのであり、また結局は、主の栄光を表していくのです。
エス様が全て受け止めてくださり、守り、救い出してくださる、だから私たち、このつまらない、勇気のない、弱い人間もまた、一歩足を踏み出すことができます。
それによって私たちは、本来の私自身となり、幸せと充実感を感じながら、そして、自分の能力でやっているわけではないので、謙遜になり、こうして主の栄光が私たちにおいて表されるのです。
私たちはそのような人生を歩むことができるのです。
素晴らしいと思いませんか?
そのように生きてみたいと思いませんか?
できます。
何が大切なのか?
エス様への信頼です。
ハレルヤ!

主の名を呼ぶ

創世記4:25-26

 

おはようございます。

今日は、「主の名を呼ぶ」という言葉が、今の私たちにとってどのような意味を持つのか、共に考えていきたいと思います。

だいぶみなさんご存知のことが多いとは思いますが、改めて「主の名を呼ぶ」ということのいくつかの次元を考えていきます。

その前に、まずは今日の本文が置かれている文脈を確認しましょう。

 

 

1.本文の位置づけ

 

前回は、アベルとカインの話を扱い、カインが神様の裁きとして追放されるところまで読みました。

カインが追放された後、聖書は、カインの子孫の系譜を物語っていきます。

4:17以下ですね。

その系譜の話が続いていって、23と24節で、少し不思議なエピソードが挿入されます。

レメクが、自分を傷つけた人物を殺した、そのことをアダとツィラという二人の妻に誇っている言葉が挿入されます。

新改訳2017は、「私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す」と、現在形で翻訳していますが、これは普通に読んだら、「殺した」と訳すべきものです。

外国語の翻訳ではそうなっています。

なぜわざわざ現在形で訳しているのかは分かりません。

また、ここでの「一人の男」と「一人の子ども」は、二人の人物のことではなく、同じ人物のことを言い換えていると考えられています。

「子供」という単語も、実際には40歳くらいまでの人物を指したりする場合にも使われている単語なので、文字通り「子供」と考える必要はありません。

ここに出てくるレメクは、自分が受けた傷に対して、77倍の復讐をしたのだ!と誇っています。

このエピソードがここにある理由ははっきりとは分かりませんが、ただ、アダムとエバから始まった人間の罪が、深刻になっている様子は見て取れるでしょう。

 

少し創世記のセクション分けの話をします。

ご存知とは思いますが、聖書の「章」や「節」というのは、後から付け加えられたもので、もともとはありませんでした。

では、どのようにしてそれぞれのセクションを分けていたのかというと、何か特定の言い回しを繰り返したりすることで分けていました。

創世記の場合は、トルドットという単語が、セクションを分ける働きをしています。

それがどこで使われているかというと、まず、2:4です。

「これは、天と地が創造されたときの経緯である」の「経緯」という言葉です。

次に、5:1の「これはアダムの歴史の記録である」の「歴史」という言葉です。

また、6:9の「これはノアの歴史である」の「歴史」という言葉です。

もうお分かりだと思いますが、創世記にはこのように「・・・の歴史である」という言い回しが多いですね。

これは全部トルドットという単語なのです。

ちなみに、このヘブライ語が、70人訳でギリシア語の「ゲネシス」と翻訳され、創世記(ジェネシス)の本の名前となりました。

 

創世記が「トルドット」という言葉で区切られているとすると、先ほどのレメクのエピソードというのは、2:4から始まるセクションの終わりに位置しているのが分かります。

そのセクションの中では、まず神様は人間を創造しますが、その人間は、神様に反逆して罪を犯します。

さらに、その人間の息子たちにおいては、兄弟同士で殺人がなされます。

そして、カインの子孫において、自分が受けた被害に対し、まったく釣り合わない復讐を自慢げに語る人間が出てきます。

セクションの終わりに際し、聖書は、まるで「罪がだんだん深刻になっている」とまとめているかのようなのです。

ところが、その直後に、また別なことを語る。

それが今日の本文です。

そこでは、アダムとエバの間に、セツという子供が与えられます。

そのセツからエノシュが生まれ、5章以下で分かるように、その子孫からノアが生まれます。

ノアは、神様が行う裁きの中にあって、救いを実現する人物です。

聖書は、2:4から始まるセクションの終わりにあたって、罪が蔓延し深刻化する中で、希望の芽生えを語っているのです。

罪が人々をむしばみ続けるそのさなかにあって、そこからの救いがあることを語る。

今日の本文はまさにそういう流れの中にあります。

そしてそこで、ノアに続く人物の誕生とともに語られているのが、「主の名を呼ぶこと」の始まりです。

では、この「主の名を呼ぶ」とはいったい何のことでしょうか?

 

 

2.礼拝する

 

「主の名を呼ぶ」という表現は創世記において何度か登場します。

例えば創世記12:8の後半です。

「彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。」

これが典型的ですが、「主の御名を呼ぶ」というのは、祭壇を築き、礼拝をすることです。

賛美や祈りが含まれていると考えてもよいでしょう。

セツの子、エノシュの時代に、神様を礼拝するという行為が人々の間で実践され始めたのです。

 

「主の名を呼ぶ」、それは、「礼拝する」ことです。

その「礼拝する」ことも、この一年間でずいぶん変化し、また考えさせられるようになりました。

私たち家族が仙台にいるときに通っている教会は、新型コロナウィルスの蔓延を機に、オンライン中心の礼拝に変わりました。

説教者と、一部の奉仕者だけが教会に行き、司会者と説教者でなされる礼拝が映像で配信されます。

インターネット環境のある人々は基本的にはオンラインで礼拝に参加し、そういう環境がなかったり、あるいはインターネット技術を使えない人が実際に教会に行って礼拝に参加するという状態です。

おそらく、そういう風にし始めた教会は、全国、いや全世界的に多いだろうと思います。

そしてこの一年間、オンラインでの礼拝が広がり、ある程度時間がたったことで、そのメリットとともにデメリットもだんだんわかってきたのではないかと思います。

少し参考になる調査結果を見てみましょう。

といっても、残念ながら教会やクリスチャン限定の調査については知らないので、類似したケースとして、テレワークを導入した会社やその社員に関する調査を見てみようと思います。

テレワークも、コロナウィルスのパンデミックを機に、全世界的に拡大しました。

そしてしばらく実行されることで、当初は分からなかった課題がだんだん報告されるようになってきました。

例えば、こういう問題が報告されています。

 

・働きすぎの問題――会社にいたら、適度に他の人とおしゃべりなどして過ごしていたけれど、テレワークだと、そういう時間がなく、働きすぎてしまう、そして疲労が大きくなる、という問題です。

・孤独の問題――これも同じですが、会社にいると自然と他の人との関わりができますが、テレワークだとそういうものがなくなってしまいます。

・切り替えができない問題――会社に行く場合には、出社や帰宅にかかる時間で、頭の切り替えができていましたが、テレワークだとそういう切り替えができず、結果、ストレスのかかる時間が増えてしまうという問題です。

また、これはストレスとも関係しますが、家庭内での女性と子供への暴力、そしてネットなどへの中毒の増加も報告されています。

 

こうした問題の報告は、オンライン礼拝をする教会にとっても示唆的なものだと思います。

共通する問題もあるでしょう。

例えば、孤独の問題というのは大きいですね。

教会に来て礼拝に参加する目的って何でしょうか?

もちろん神様を礼拝するためですが、同時に、他のクリスチャンとおしゃべりするためでもないでしょうか?

今でこそ私は孤独ではないのですが、まだ洗礼を受ける前のことですが、とても孤独な時期がありました。

一週間に、ほとんど人と話をしないです。

話をするとしても、業務連絡的なことだけ、そういう状態です。

そういう時期に、教会に行くと、人間がいるんですね。

これは驚きです。

人間と話ができる――これは、そういう孤独な時期の私にとって、本当に貴重なことでした。

業務連絡でも、事務的な話でも、仕事の話でもなく、個人的なことを互いにやり取りできる。

これは、孤独を感じている人間にとっては、かけがえのない大切な時間です。

当時の私にとっては、本当に単純に「話し相手がいない」ということでしたが、クリスチャンにとっては、「ほかのクリスチャンとおしゃべりする」ことが欠けると、やはり孤独を感じるでしょう。

信仰という自分の最も大切なものを誰とも分かち合えないというのは寂しいものです。

日々生活する中で、クリスチャンだから感じる葛藤や痛み、あるいはクリスチャンだから感じる喜びというのもあります。

そういうのは、同じ信仰を持つ人とでないとシェアできないんですね。

教会に来て共同の礼拝をすることは、そういうクリスチャン同士のシェアリングの機会を提供します。

オンライン礼拝中心だと、その機会を作るのが難しかったり、うまくいかなかったりして、孤独の問題は生まれるでしょう。

 

私個人としては、「切り替えができない」という問題が結構大きいかな、とも感じています。

家庭でオンライン礼拝をしていると、スマートフォンやパソコンを使って、ちょこちょこっと操作するだけで、その礼拝に参加できます。

テレビ番組を変えるように変えられるんですね。

礼拝の映像配信が終わったら、またすぐに映像を変えられる。

こういう言い方で伝わるか分かりませんが、自分の体が「礼拝モード」にならないのです。

教会に行って礼拝する場合は、例えば、朝起きて、ご飯を食べて、ちょっと早めに洗濯をして、などなど、教会に行くための準備を、礼拝の始まる数時間前からしています。

そして車に乗って、駐車場に車を止めて、歩いて、教会に行って、椅子に座って、祈って、と時間を過ごします。

こうした一連の流れのすべてが、頭、心、体、すべてが「礼拝モード」になるための準備なのだろうと思います。

こういう風に時間をかけることで、私たちの心が、ふつうの「日常生活モード」から切り替わって、「礼拝モード」になると思うのです。

そして、その「礼拝モード」になると、ちゃんとメッセージを聞く準備が――心の準備が、集中力も含めて、できるのです。

ところが、自宅でのオンライン礼拝だと、自分自身の「モード」が切り替わらないのです。

いわば、ずっと「日常生活モード」なんですね。

頭だけ、目だけ、あるいは耳だけ、礼拝の様子を見たり、話を聞いたりする。

でも、心も体も「日常生活モード」にいて、ちっとも集中していないのです。

これは問題です。

ある教育学のデータでは、オンライン授業と対面の授業とで、学習効果に違いはないようです。

もしかすると、ただ単に知識を学ぶという点では、違いはないのかもしれません。

ところが、礼拝というのは、私たちの魂に関わり、生き方に関わるのです。

全人格的な変化、つまり、主の御言葉を通じて、聖霊によって新しく作り変えられる、それを備えるのが礼拝です。

そうした礼拝が、オンラインの場合と、実際に教会に来て会衆とともにする場合とで同じなのか、というと、そうではないと思います。

実際に教会に足を運ぶ、その移動の時間、費やしたエネルギー、教会の中でわずかに自由が拘束されること、それらすべてが私たちの心を備えていきます。

また、メッセージを聞くときにも、私たちは、ただ単に「声」を聴いているのではなく、説教者の表情や、振る舞いや、態度や、声の大きさ、イントネーションも受け取るのです。

時には若干の圧迫感なども感じながら説教を聞きます。

もちろん、礼拝中の雰囲気というのもあります。

これらすべてを通じて礼拝がなされます。

言い換えると、言葉だけではなく、声だけでもなく、それらすべてを通じて、「主の心」が私たちにもたらされ、私たちもそれに応答せざるを得なくなります。

こうして礼拝が実現されるのです。

これは、オンライン礼拝では実現できないことです。

 

テレワークの満足度に関する面白い調査がありました。

それによると、満足しているのは中堅社員であり、不満が多いのは20代の若手社員だということです。

会社がどういう風に動いているのか、また、そのなかでの自分の役割は何か、それをしっかり理解している中堅社員は、テレワークに満足している。

ところが、まだ会社全体の動きが分からなかったり、自分の役割が不明だったり、自分の将来のキャリアが分からない20代の社員にとっては、テレワークは不安を大きくするものだというのです。

そして全体としては、完全テレワークでも、完全オフィス勤務でもなく、両者が混ざり合っている状態が望ましいと考える人が多いそうです。

この調査もまた、教会の在り方を考える上で参考になります。

オンライン礼拝には、あきらかなメリットがあります。

諸事情によって、その日、その時間、教会にいくことのできない人が、等しく礼拝に参加できるからです。

ところが、私たちが礼拝を通じて主の民として形成される点においては、デメリットというか、懸念される側面もあります。

その両者を考えながら、今の時代の礼拝の在り方を模索するのが、私たちの課題ではないかと思います。

 

 

3.社会とのはざまで

 

これまでは、礼拝行為としての「主の名を呼ぶ」ことを考えてきました。

次に、「主の名を呼ぶ」ことの証としての側面を考えてみたいと思います。

 

皆さんは、イエス様という名前を出すときに、どのような感情を抱くでしょうか?

例えば、祈るときなどに、最終的には「イエス様のお名前でお祈りします」と締めくくったりしますが、そのときに、「イエス様」という名前を口に出します。

そういうときにどのような感情を抱くでしょうか?

喜びや、感動や、あるいは興奮を感じる人もいるでしょうし、いつもそうだとは限らないまでも、そういう場合もあるでしょう。

「イエス様」という名前を口に出すだけで、イエス様が行った御業が思い出され、十字架上での苦しみや、復活されたこと、そして私自身に出会ってくださって罪を赦してくださったこと――そうした事柄が一気に思い出されて、涙が出てくる、という場合があるでしょう。

私たちがそういう状態にあるなら、それは大変素晴らしいことです。

逆に、プレッシャーを感じる人もいるでしょう。

人前で「私はクリスチャンです」と語るときに感じるようなプレッシャーですね。

クリスチャンであり、イエス様を信じる人間であるなら、当然期待される生き方というものがあります。

誠実で、愛が豊かで、寛容で、いつも喜んでいて、感謝が豊かである、などなどです。

こういう風に期待されることからくるプレッシャーです。

人に対してクリスチャンであることを語ると、そういうプレッシャーは感じると思います。

同じように、「イエス様」という名前を口に出すときも、プレッシャーがあるものだと思います。

少なくとも、私もよくそのように感じます。

「イエス様の御名によって祈ります」とことばに出すときに、「今祈った内容は、イエス様の御心にかなっているのだろうか?」と感じたり、「こういう祈りをしながら、自分はそれに向けた活動を全然していないな、いや、むしろほとんど無関心に過ごしていることのほうが多いな」と感じたりします。

「イエス様」という名前を語るときに、喜びを感じるか、あるいはプレッシャーを感じるか、どちらが正しいというわけではありません。

どちらも正しいし、私たちは大抵の場合、両方の感情を抱くでしょう。

それが普通だと思います。

では、なぜそのような感情を抱くのかと考えると、これも当たり前のことですが、私たちがイエス様のことを大切にしているからですね。

エス様のことを大切にし、その語ったこと、その行ったこと、それを真剣に受け止めているからです。

だから私たちは、「イエス様」という名前を出すときに、その十字架の御業を思い出して喜びもすれば、大宣教命令を思い出したり、あるいは「主よ、主よ、と言う者がみな救われるわけではない」(マタイ7:21)という御言葉を思い出したりしてプレシャーも感じるのです。

 

ここで確認しておきたいのは、「主の名を呼ぶ」ということは、「主」を、つまりイエス様を大切にしているということを前提とする、ということです。

例えば、私にとって比較的どうでも良い人物、ルイ14世とかそういう歴史上の人物の名前を呼ぶ、ということとは次元が違うのです。

エス様の救いの恵みを受け取り、イエス様に従っていく決断をしたことがある、そして、イエス様という存在が自分の人生で重要な位置を占める、そういう前提を踏まえた上で、「主の名を呼ぶ」という言い回しが存在するのです。

「主の名を呼ぶ」という表現は、そういうイエス様との深い関わりと一体のものなのです。

 

そのことを念頭に置いて聞いてほしいのですが、私は最近いくつか聞いたニュースにショックを受けていました。

2つあります。

一つは、アメリカの大統領選挙で民主党のバイデン氏が選ばれましたが、破れたトランプ大統領を、以前の2016年の大統領選挙のとき、福音派の白人クリスチャンの81%が支持していた、というニュースです。

https://www.editions-mennonites.fr/2020/07/trump-est-un-danger-spirituel-affirment-des-auteurs-evangeliques-nord-americains/

 

また2019年時点の調査では、福音派の白人クリスチャンは、平均よりも25%多くトランプ大統領を支持し、しかも、教会によく通う人のほうが、そうでない人よりもトランプ大統領を支持する割合が高いというのです。

Chapter 9, The Deepening Crisis in Evangelical Christianity, in The spiritual danger of Donald Trump, ed by Ronald J.Sider, 2020.

 

もちろん、クリスチャンであることと、支持する政党や政治信条とは、直接的には関係ありません。

クリスチャンであっても、共和党を支持する人もいれば、民主党を支持する人もいるでしょう。

歴史的に遡れば、ナチス・ドイツを支持するクリスチャンもいれば、それを批判するクリスチャンもいましたし、アメリカの奴隷制を容認するクリスチャンもいれば、それを否定するクリスチャンもいました。

だから、クリスチャンが共和党を支持するとしても、それはおかしいことではありません。

ところが、福音派のクリスチャンの81%、しかも、教会によく通う熱心な人ほどトランプ大統領を支持していたという事実は、私には全く理解できないことでした。

日本では、麻生太郎氏がカトリックの方で、2019年に教皇が日本に来たとき、そのことを誇らしく語っていましたが、果たして日本のクリスチャンの80%が麻生太郎氏を熱烈に賛美するでしょうか?

私がショックを受けたニュースの一つはこれです。

 

もう一つは、フランスでカトリックのクリスチャンたちが、ミサの再開を求めてデモをしたのですが、その際に、デモのなかで「祈り」を行った、それが問題になったことでした。

「一体どういうことなのだろう?」と思って調べたら、フランスのライシテ、政教分離の原則では、公的な場所で祈りを行うことは禁じられているということがわかりました。

これにもまたショックを受けました。

https://www.liberation.fr/france/2020/11/15/nous-voulons-la-messe-dimanche-de-mobilisation-chez-les-catholiques_1805627

https://www.nouvelobs.com/societe/20201115.OBS36111/manifestations-pour-la-messe-prieres-de-rue-a-bordeaux-la-police-convoque-les-organisateurs.html

 

 

「主の名を呼ぶ」というテーマでメッセージをしようと考えてから、こういうニュースを目にしていました。

そして、それらのニュースの中で、またそういう状況を思い浮かべながら、クリスチャンが「主の名を呼ぶ」とはどういうことを意味するのだろうかと考えていました。

アメリカのクリスチャンたちが特にトランプ大統領を支持するようになっている理由や、またフランスにおける政教分離の歴史や今日的背景については、今も研究中であり、まだはっきりしたことを言える段階ではありません。

ただし、「主の名を呼ぶ」というテーマでメッセージしようと思ってから、こういうニュースを目にするようになった理由、少し言い方を変えれば、神様がこういうニュースを私に見せた理由というのは、あるのだろうと思います。

そして、それは語ることが可能だろうと思うのです。

 

トランプ大統領を熱心な福音派のクリスチャンほど支持することに私がショックを受けた理由は、端的に言えば、「あれほどキリストに似ていない」人物をクリスチャンが支持していることです。

様々なスキャンダルがあり、性差別的で、人種差別的で、法を遵守する心も少ない、そういう人物を、なぜクリスチャンが支持するのか?

またもちろん、「福音派」という点でもショックを受けました。

私自身も、自分では、福音主義の伝統に属していると考えているからです。

私は、ここには、単にアメリカの福音派の白人クリスチャン、ということだけにとどまらない問題があると思うのです。

福音派に共通する問題、あるいはもっと広く、クリスチャンに共通する問題、それがあると思うのです。

それは何か?

それは、「主の名を呼ぶ」ことの軽視です。

あるいは、「真実に主の名を呼ぶ」ことの軽視です。

先程語ったように、「主の名を呼ぶ」ことの前提には、イエス様を大切にすることがあります。

エス様を大切にせずに主の名を呼んでいたら、私たちはただの偽り者になるでしょう。

イザヤ書29:13ではこのように言われています。

 

「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。」

 

クリスチャンであるならば、口先でイエス様の名を語っているのか、あるいは、心からイエス様の名を語っているのか、問題とすべきです。

そして、心からイエス様の名を呼んでいるならば、そこには、イエス様の名前に伴って、喜びや感謝、感動があり、また悔い改めがあるでしょうし、さらには、「もっとこのようにしないといけない」と身を引き締める思いや、困難であっても主の喜ばれる義を貫いていこうという決断、また、御旨に適うことならば神様は必ず実現へと導いてくれるはずだという希望も、生まれるでしょう。

私たちがイエス様の名を呼ぶ存在であるならば、当然そのようになるはずなのです。

そういう私たちが、口先だけでイエス様の名を呼んでいる人物を支持することはできるのでしょうか?

これは、できないのです。

寛容の対象にはなりえますし、注意したり、愛したりしながら、本人が自覚して悔い改めるようになるのを待ち続ける、そういう対象にはなりえます。

しかし、支持する対象にはなりえません。

 

かつてガンジーは、キリストは好きだが、キリストを信じている人々は嫌いだ、と語っていたことがあります。

彼らは、「キリストに似ていない」から、というのです。

このガンジーの言葉が印象的なのは、ガンジーが、クリスチャンの偽りの姿にうんざりしているからだけではなく、その偽りの姿が、福音を伝える働きにとってもマイナスになっていることを示しているからです。

これは、今日話している文脈に即すならば、「イエス様の名前を口先だけで呼び、心では呼んでもいないし、さらには、イエス様から遠く離れている」、そういうクリスチャンは、福音を伝える働きを妨げることになる、と言えるでしょう。

 

トランプ大統領を支持するクリスチャンたちを分析したある本の中で、こういう内容が書いてありました。

「彼らは、自分たちクリスチャンが陥っている苦しみを、政治的に解決してくれるリーダーを求めたのだ。しかしそれは、聖書的な原則では間違いである。」

およそそういう内容です。

Chapter 15, Trump, the last temptation, in The spiritual danger of Donald Trump, ed by Ronald J.Sider, 2020.

かつてのアメリカでは、クリスチャンであるということは社会的に有利になるポイントだったけれど、今ではそうではなくなっている。

そういう社会に不満を抱いたクリスチャンたちが、「政治的力」によってクリスチャンたちの苦しみを解決してくれる存在として、トランプ大統領を支持した――とその著者は分析しています。

 

そもそも、クリスチャンであることが社会生活上有利になるポイントどころか、むしろ様々な苦しみを経験することが多い日本に住むクリスチャンにとっては、少し共感しづらいことかもしれません。

しかし、私たちにも、そのような誘惑――つまり、「邪悪な」権力者であるが、クリスチャンに有利になるような政策を一時的に行うが故に、クリスチャンがそのような権力者を支持するようになる、そのような誘惑が、来ないとも限りません。

聖書の原則は明確です。

第一ペトロ3:8−9、13−14を読みます。

 

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

(中略)

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。

 

このような聖書的な原則どおりに生きることが、まずは必要です。

それをすることなく、政治的権力に頼って、しかも、聖書的にも、普通の人間の道徳的な基準でもおかしい人物の政治的権力に頼って、何か問題を解決しようとしたら、私たちクリスチャンは偽り者です。

主の名を口先だけで呼んでいる偽り者であり、主の御名を汚す存在であり、イエス様の名前が広がるのを妨げる存在になります。

私たちは、イエス様の名前を真実に呼ぶものでなければなりません。

口でも主の名を語り、また心でも、主の名を語るものでなければなりません。

 

フランスで、公の場で「祈る」行為が禁じられている問題――これについて多くを語る余裕はありませんが、基本的にはこれまで語ってきたことと同じです。

政治的権力で「一気に」解決することよりも、もっと別な形で解決されることをクリスチャンは望むべきです。

そして何より、自分自身の生き方において、嘘偽りなく、主の名を呼ぶ存在、主の名を崇める存在であること、それを優先しなければなりません。

苦しみは伴いますが、そうした生き方こそが聖書が求めている私たちの姿なのです。

 

 

4.「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ヨエル2:32)

 

最後に、もう一度礼拝について話します。

「主の名を呼ぶ」は、旧約聖書では祭壇を設けて礼拝することだったと話しましたが、祭壇を設けて主を礼拝する行為は、定期的というよりは、何か特別な区切りとなる出来事のたびにしていることに気づきます。

最近私たち家族は、仙台で住んでいる家で、「引っ越してきて、しばらく住む」ための家庭礼拝をしました。

私が信仰を持つようになったのは、韓国系の教会を通じてなのですが、韓国教会は、「・・・記念礼拝」を結構します。

教会員が引っ越しをしたら、新しく引っ越した家で、礼拝が持たれます。

私は実際には目にしてないですが、教会員が新しく事業を初めて、お店をオープンするときにも、そこで礼拝が持たれるとも聞いたことがあります。

そういう礼拝の習慣は、なかなか意味があると思います。

というのも、私たちの人生には、やはり何らかの区切り、節目というものがあるからです。

ギリシア語では、物理的な・自然科学的な時間のことをクロノス、自然的・社会的・文化的な節目の時間のことをカイロスと呼びます。

私たちが肉体を持った存在としてこの世界を生きている限り、また、一定の社会の中で生きている限り、否が応でもこのカイロスのリズムの中で生きるのですね。

子供が生まれること、学校に入学すること、卒業すること、就職すること、引っ越すこと、結婚すること、死ぬこと。

私たちの人生には、そういう節目、カイロスがあります。

様々な文化的習慣や宗教は、そういう節目に際し、特殊な儀式を行うものですね。

私は、もともとは、引っ越しして、新居で引っ越しの礼拝をすることは、キリスト教以前の文化のような気がして、否定的な考えでした。

しかし、私たちの人生に節目があること、また、そのことを頭では軽く考えようとしても、実際にはその影響を強く受けていること、その点を踏まえて、考えを改めました。

そして、引っ越しが終わって、新しい部屋で新しくスタートをきる「礼拝」を行いました。

短い時間でしたが、良いものでありました。

 

結局、今日の話をまとめると、ヘブル人への手紙10:25に行き着きます。

私たちはその御言葉の意味を、もう一度深く考えるほうが良いのかもしれません。

 

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」

 

聖書が「集まりをやめてはならない」と語っているのです。

これはオンライン礼拝のようなものではないです。

ここで言われているのは、たしかに、私たちの肉体が、ある一定の場所に集まることです。

オンライン礼拝のメリットともにデメリットも語ってきましたが、聖書から理解できるのは、具体的に、肉体を持った私たちが、一定の場所に集まるということ、そのことに、私たちにはまだ十分に理解できていないとしても、何らかの意味があるということです。

そして同じことが、「節目」と言われる時期に、特別な礼拝をすることについても言えます。

「節目」もまた、私たちにははっきりとはわからないとしても、私たち影響を与える存在です。

そこにおいて礼拝をすることにも、信仰的には意味があるのでしょう。

 

最後に、ヨエル書2:32の有名な御言葉を読みます。

 

「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」

 

新約聖書でも繰り返し引用される有名な箇所です。

ここで「主の御名を呼び求める者」とは、もちろん、口先で主の御名を呼ぶ者のことではありません。

エス様の十字架上での罪の贖いを信じ、また、イエス様に従う決意をした人、つまり、イエス様を何よりも大切なお方として心の中に受け入れている人、そういう人のことです。

そういう人がまた、主の御名を口にすることに危険を伴うようなことがあったとしても、それでもなお主の御名を呼び求めるときに、神様はそういう人をお救いになる。

そのような約束を語っています。

 

今日はこれまで、真実に「主の名を呼ぶ」条件について語ってきました。

心でイエス様を大切にする、ということです。

またそれは、礼拝するということでもありました。

ともすると、それは義務・使命を強調する面が強かったかもしれません。

しかし聖書はまた、主の名を呼ぶことの幸い、主の名を呼ぶものが受け取る祝福についても語っています。

つまり「救い」です。

主の名を呼び求める者は、救いを得るのです。

それは、神の国でイエス様と共にいるという救いだけではありません。

私たちが今生きているとき、まさにそのときに、私たちに必要な救いが与えられるのです。

そのような祝福を、主の御名を呼び求める者は持っているのです。

 

カインの何が悪かったのか? 創世記4:3-7

 

おはようございます。
読んでもらった聖書の箇所は3-7節ですが、今日の内容的には、1-15節までです。

まず簡単にこのカインの物語全体を振り返りましょう。
アダムとエバとの間に生まれた最初の子供がカインでした。
カインの名前の由来については、ヘブライ語のカーナー(獲得する)に由来していると考えるのが一番無難です。
他にも、4章の後半を見ていくと、カインの子孫として音楽をする人や製鉄に関わる人が出てきますが、楽器の名前や製鉄業の名前と、カインという名前が似ているケースが指摘されたりもします。
アベルの名前は、ヘブライ語ではへベルと言うのですが、これは「息」や「はかないもの」などを意味する言葉に由来していると考えられています。
そのカインとアベルが、ある日、神様に献げ物をしました。
そのときに、神様はアベルとその献げ物には目を留めましたが、カインとその献げ物には目を留めませんでした。
それでカインは怒ります。
その後カインはアベルを殺します。
そしてカインは神様から問い詰められ、裁きを受けます。
カインが、その罰はあまりにも重すぎると語ったので、神様はカインにあるしるしをつけて、カインが殺されないようにしました。
カインはもともと住んでいた地から追放され、ノデという場所に住むことになります。
これがカインの物語のアウトラインです。

今日は、「カインの何が悪かったのか?」というタイトルにしていますが、カインの過ちを3点確認していきます。
それぞれは私たちにも関係するものなので、カインの過ちを確認しながら、私たち自身の信仰の歩みを整える時間になればと思います。


1.カインの過ち:初物を献げなかった

カインとアベルの話を読みながら、おそらく誰もが疑問に思うのは、「なぜ神様はアベルとその献げ物には目を留めて、カインとその献げ物には目を留められなかったのだろうか?」という点だと思います。
確かに、明確に理由が書かれていないので、すごく不可解な感じがします。
これについては、色々な解釈が出されているのですが、伝統的な解釈でいいでしょう。
つまり、アベルは「初子」を献げたのに対し、カインは、農作物のただ「一部」だけを献げた、その違いが、神様の態度の違いになったという解釈です。
4:3は、日本語はちょっと言葉が足りないのですが、正確に訳すと、「大地の実りの一部」です。
カインはあくまで、収穫した農作物の、ただの「一部」を献げただけで、「初物」を献げたわけではありません。
ユダヤ人たちの伝説では、カインは、収穫した農作物を消費したうえで、「残り物を献げた」とも言われています。
ともかく、「初物」ではなく「ただの一部」をカインは献げました。
それに対しアベルは、「初子」を献げました。
この違いです。
旧約聖書を読み進めると、「初子」や「初物」というのが「神様のもの」という考えが至る所にあることに気づくと思います。
例えば出エジプト13章や23章を後で見てみてください。
こうした規定が明確に語られるのは出エジプト記以降になりますが、このように「初子」や「初物」を特別に神様のものとする考え方は、もっと前から存在していたと考えてもよいでしょう。
アベルは、このように神様の望まれる献げ物をしたのに対し、カインはそうではなかったのです。
これが、神様がアベルとその献げ物には目を留め、カインとその献げ物には目を留めなかった理由です。

これは私たちにも教えるところが多いと思います。
カインとアベルの話は、ユダヤ人の間では伝統的に、祭司の働きを教える文脈で読まれてきました。
この箇所が、聖書で初めて、人間が神様に「献げ物をする」話を記録しているからです。
ところで一つ注意しないといけないのは、カインとアベルの話の中で使われている「献げ物」という言葉は、「贈り物」(創世記3:21)や「貢物」(1列王記4:21)という言葉に近い言葉だという点です。
日本語で「献げ物」と訳される言葉にはいくつかありますが、最も広い意味での「献げ物」はコルバンです。 
レビ記で「全焼の献げ物」と訳されている単語はオーラ―です。
カインとアベルの物語で使われる「献げ物」はミンハーという単語で、これは献げ物の文脈では「穀物の献げ物」を指すことが多いです。
それ以外では、「贈り物」や「貢物」の意味で使われます。
これは、立場の下の人が上の人に何か贈り物をする場合のものについて言われる単語なのです。

このことはとても意義深いですね。
聖書で初めて書かれている「献げ物」に関する記述が、いわゆる「いけにえ」を書いているわけではなく、「贈り物」について書いている。
罪を消し去るための儀式が初めに書いてあるのではなく、「贈り物」が書いてある。
これは、私たちの神様との関係の基本的なところに、「贈り物」を与える、あるいは贈り物が「与えられる」という関係があることを示唆しているでしょう。
とても興味深いことです。

私たちは教会で礼拝や献金や奉仕をしたりします。
これはプロテスタントカトリックとの違いともいえますが、私たちが行う礼拝や献金や奉仕は、自分の罪を滅ぼしたり、罪を償ったりするための献げ物ではなく、意味合いとしては、「贈り物」、今日の本文で使われているミンハーというものですね。
罪を滅ぼす力は、私たちにはありません。
エス様が十字架上で流された血だけが、私たちの罪をあがなうことができます。
私たちはそのイエス様によって罪が赦されたことで、神様の子供となりました。
そして、神様に「贈り物」をすることができる、そういう関係になったのですね。
その「贈り物」として、礼拝や献金や奉仕というものがあります。

今は「贈り物」としての「献金」、あるいは「初物」としての「献金」とはどういうものなのか、考えてみます。
家畜を飼っていて「初めて生まれたもの」は分かりやすいですね。
農業をやっていて「初物」もわかりやすいです。
では、今ほとんどの人がそうであると思いますが、毎月給与を得る人間にとっての「初物」とはいったい何でしょうか?
一定額のお金にとっての「初物」、これを考えてみたいのですね。

ところで、「初物」を献げるということには、どういう意味があるのでしょうか?
「初物」が特別だという感覚は、旧約聖書の世界だけではなく、結構一般的に共有されているようにも思います。
ノンクリスチャンの日本人でも、よく、就職した最初に得た給与で、両親にいくらか贈り物をするケースがあります。
働いて得たものの「最初のもの」を、自分にもっとも「恩恵」を与えた人、つまり恵みを与えた人にお返しする、ということです。
「最初のもの」を「贈り物にする」という点に、その人の感謝の強さが現れているのでしょうし、だから、両親に、「自分を育ててくれてありがとう」という意味を込めて、「最初のもの」を贈り物にするのでしょう。
「初物」は、ここでは「感謝を表す」意味があると言えます。

旧約聖書を見ると、「初物で最上のもの」という表現も出てきます。
しかし、「初物」が必ずしも「最上のもの」、つまり品質において「最高のもの」だとは限りませんね。
今年もサンマはとれていますが、「初物」は結構小ぶりのものが多いと聞いています。
「最上のもの」は、もしかすると「初物」ではなく、もっと後にとれたものになるかもしれません。
それでも大切なのは、「最初のもの」を贈り物にすることなのです。
そこには、おそらく「神様への信頼」を表すという意味もあるかもしれません。
特に家畜の場合はそうですが、「初子」が生まれたからと言って、そのあとも子供が生まれるとは限らないでしょう。
「初子」が「最初で最後」かもしれません。
それでも「初子」を神様に捧げるということは、「そのあとも子供が生まれる、神様は子供を与えてくださる」と信頼する、ということを意味します。
従って、初子・初物を捧げるということには、どうやら神様への感謝と信頼が現れているのだろうと考えられます。

それでは、毎月の給与からの「初物」とはいったい何でしょうか?
これはみなさん考えてもらっていいと思うのですが、私は、こういう風に考えられるのではないかと思います。
つまり、「給与が入ったときに、そのお金を何に使いたいか、そこで最初に思い浮かんでくるものが私たちの関心を表している」
そして、「最初に浮かんでくるものが神様のためのものならば、私たちは初物を捧げる準備ができている」
そのように考えられると思います。

間違っている例を話しますと、クリスチャンでそういう人はいないと思いますが、給与が入って、さんざん自分の使いたいもののためにお金を使って、また貯金もして、そして「余ったお金」を献金する。
これはちょうど、ユダヤ人の伝説の中にあるカインのような振る舞いですね。
「余り物」を贈り物にする。
これは神様を愛してもないし、感謝もしていない態度です。
また、多くのクリスチャンがそうしていると思いますが、給与が入ったときに、あらかじめその月に捧げる献金を取り分けておく。
十分の一献金や感謝献金、それをあらかじめ計算して準備する。
これはすごく正しいのですが、どうも、それで本当にいいのかな?とも思うのです。

私の家庭では、給与は全部夫婦の共有の口座のほうに入り、私が自由に使えるお金は、お小遣いとして私に来ます。
それで、最近自分を振り返って情けなくなったのですが、「自分にお金が入ったらこれに使いたいな」と思ったその内容が、ヘッドフォンとかスピーカーとかミキサーとか、自分を豊かにするためのものばかりだったのですね。
どこかの宣教師を支えるとか、どこかの団体をサポートするとか、あるいは神学書を買うとか、そういうことは1ミリも頭に入ってこない。
これはひどいことだなぁと思いました。
神様が私たちの「心」を見るお方だとするならば、神様が見ているのは、私たちが形式的に一定の金額を「献金のため」として取り分けておく、ただそれだけではなく、「収入が入ったら神様のためにどんな風に使おうか?」という気持ちが、私たちの心の中でどれほど大きいか、ということでもあると思うのです。
誰かを愛しているという状態は、そういうものだと思います。
そして、愛している存在のために「どんなふうにお金を使うか」、それを考えて、想像して、ワクワクする。
これが主に対しても当てはまります。
どれほどワクワクしているか、「主のためにお金を使う」ことをどれほど待ち望んでいるか、「主のためにお金を使う」ことで生まれる変化をどれほど想像しているか――「愛している」とは、心がそういう状態であることであり、神様はそういう心を見ていると思うんですね。
そして「初物」を捧げるということは、心がまさにそういう状態になっていることで、「主のためにお金を使いたい」と、主が最優先になっている状態なのです。

カインは、神様に「初物」を捧げるという点で間違っていました。
私たちも同じように間違うことがあります。
余りものをささげたり、心が冷えて切っていたりします。
そうであってはいけません。
神様はあくまで私たちの「心」を見るお方なので、私たちは心において、「収入が入ったら神様のためにこんな風に使いたい」という気持ちがいつも豊かであるようにしましょう。

 

2.カインの過ち:アベルと比較した

カインが間違っていたことの一つは、彼が「初物」を神様に捧げなかったことです。
もう一つは、カインが神様を見るのではなく、アベルを見ていたことです。
つまり、カインは、自分の献げ物が神様との関係の中で、単純に神様に認められようとしたのではなく、「アベルとの比較の中で」認められようとした、ということです。
ここにカインの過ちがあります。

ちょっと思考実験してみましょう。
もしアベルがいなくて、カインと神様だけがいた場合にはどうなっているでしょうか?
たぶん神様は、前々から「献げ物をするのならば、こういうものでなければならない」ということは伝えていたでしょう。
神様はそういうお方ですから。
そしてカインが、間違った献げ物をしたなら、やはり神様はそれを受け取らないでしょう。
そのときには、カインは単純に、「自分が間違った献げ物をしたんだな」と悔い改めるか、あるいは、「献げ物を準備する際の自分の心持が悪かったのだな」と悔い改めたりするでしょう。
ところが、ここにアベルが加わると、こういう単純さがなくなってしまいます。
両方とも受け入れられたり、両方とも受け入れられなかったりした場合にはそれほど問題ではありません。
聖書で描かれているように、一方だけが神様に認められ、もう一人の方は認められない場合に問題が大きくなります。
これも思考実験ですが、もし、カインの献げ物とカインが認められ、アベルの献げ物とアベルが認められなかったら、カインはどういう気持ちになったでしょうか?
あくまで想像です。
「神様は、アベルよりも俺の方を愛しているんだな!」
アベルよりも俺の方が、いいものをささげたんだ。だから神様は俺の方を認めたんだ。」
カインはこういう気持ちになるのではないかと思います。
こういう感じ方の根底にあるのは、「ほかの人と比べて自分はすごい」という考えですね。
比較する人数が増えればますますそのことははっきりするでしょう。
自分の献げ物が認められたら、「この人、あの人、その人、その他みんなよりも、『自分はすごい』」という気持ちになるでしょう。
これは、神様という基準で自分は認められた、そういう「絶対評価」ではなく、他の人々との比較で自分は認められた、そういう「相対評価」をしているのです。
だから、自分が認められて「喜んだ」としても、その喜び方は「間違っている」のです。
喜ぶべきなのは、自分の献げ物が神様に認められたこと、また、その献げ物を準備する際にも、適切に準備する心が守られ続けたこと、そのように神様が守ってくださったこと、そのことを喜ぶべきなのです。
「ほかの人に比べて自分が優れている」ことは、喜ぶべきことではないのです。
もちろん、「ほかの人に比べて自分が劣っている」ことも、悲しむべきことではないのです。
神様の前では、私たちはみなそれぞれ、個別に、愛される存在なのですから。

ちょうど新約聖書で、イエス様が、たとえ話のなかで語ったパリサイ人の祈りが、他人との比較で喜んでいる姿を現していますね。
ルカ18:11-12はこう語っています。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」

このパリサイ人は、自分をほかの人々と比較して優れていると感じ、それに喜び、そのことで感謝の祈りをしています。
このパリサイ人の姿勢について、イエス様は「自分を高くしている」と評価します。
感謝をしていますが、この祈りは、その心の在り方の点で間違っているのです。

今日読んでいる箇所では、実際には、カインは、自分の献げ物が受け入れられなかったことで悲しみました。
神様という絶対的基準を前にして、自分の過ちがあるがゆえに悲しんだのではなく、「アベルは受け入れられたのに自分は…」という風に、他の人との比較の中で自分が劣っていると考えたので悲しんだのです。
そして、おそらくその悲しみは、屈辱だったのでしょう。
自分のプライドが傷つけられる出来事だったのでしょう。
そのプライドが傷つけられた怒りを、カインは外に発します。
神様に発したでしょうし、また、アベルにも発することになりました。

ユダヤ人の聖書解釈や伝説が入り混じった文献に、タルグムというものがあります。
そのタルグムの中では、カインがアベルを野に連れ出したのち、そこで口論を始めている内容が書かれています。
それはおよそこういう内容です。
カインが、「世界は神の憐みによって創造されたのでもないし、御言葉によって導かれているのでもない。また神の裁きにはえこひいきがある」と言うと、アベルは、「世界は神の憐みによって創造されたし、御言葉によって導かれている」と言って、カインの考えを否定します。
そしてカインが、自分の献げ物が神様に受け入れられなかったのは、神様がアベルをひいきにしているからだと言うと、アベルはそれを否定し、自分の献げ物がカインのものより良かったからだ、と反論します。
ついにカインは、「最後の審判なんて存在しないし、あの世なんて存在しない。善人への報酬も、悪人への罰も存在しない」と言うに至ります。
これもアベルは否定します。
そしてカインはアベルを殺す。
こういったことがタルグムに書いてあります。
新約聖書を見ると、アベルが最初の殉教者のように語られる箇所がありますが、それはこのような伝説を踏まえているのでしょう。

このタルグムの内容を見ると、カインが神様に怒っているのが分かるでしょう。
「神の裁きにはえこひいきがある」と言うのです。
ついには、最後の審判までも否定し、無神論者であることを宣言するに至ります。
そして、正論を言い続けたアダムを殺します。

このカインの姿は、結構身に覚えのある方も多いのではないでしょうか?
というよりは、こういうカインの心と同じような心を持ったことのない人の方が少ないだろうと思います。
誰もがカインと同じような心を持っています。
カインと同じような嫉妬や怒りが生まれるのは、とても簡単です。
「どこそこの人が、めっちゃ活躍している!」
もうそれだけで、自分の心の中のカインがムクムクと活動し始めます。
「くそっ、俺とあいつ、何が違うんだ! 俺の方がいい作品を作っているのに!」
「なんであんな作品が売れるんだ! 全然クォリティが低いじゃないか!」
あるいは、誰かが評価されただけでも、私たちのカインは活動し始めます。
「なんであの人があんなに評価されるの? 私だって同じだけ、いやそれ以上に頑張っているのに!」
そういう考えを突き詰めていくと、最終的にはタルグムの中にあったカインと同じようなセリフを言うようになります。
「神様は不公平だ!」

神様が公平なのか不公平なのか、それを判断する立場に、私たち人間はありません。
ただし、私たちは、カインのようになってしまってはいけない、ということはここで言えるのです。
カインのようになるとは、つまり、他の人々と比較して喜んだり悲しんだり、調子に乗ったり落胆したり、機嫌がよくなったり恨んだりする、そういうことです。
そして結局は、神様を基準にして自分を見るのではなく、他の人々を基準にして自分を見ることです。
これは間違っているのです。

私たちは、他の人々を基準にして喜んだり悲しんだりするのではなく、神様を基準にしないといけないのです。
他の人と比較してどうか、ではなく、神様が私に求める姿と比較して、今の私はどうなのか、それを考えないといけないのです。
第一コリント12:4-11を読みましょう。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ聖霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒しの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(第一コリント12:4-11)

私たち一人一人に、神様から与えられた賜物があります。
またそれは、神様から与えられた召命でもあります。
単純に言えば、神様から与えられた人生、一人一人が違っていて、オリジナルで、違う道を歩む、特有の人生です。
ある人は、今は坂道を歩いているかもしれない。
ある人は、坂道を下っているところかもしれない。
ある人は、森の中の、草で覆われた道を歩いているのかもしれない。
それぞれ違う道を歩んでいるのです。
今坂道を歩いている人が、坂道を下っている人を見たら、「いいなぁ。うらやましいなぁ。なんで俺は、くそっ!」となるかもしれません。
そしてそこで、坂道を歩むのをやめてしまったら、本当にそれで終わってしまいます。
私たちは、自分の道を歩むのをやめてしまってはいけないのです。
だから、他の人を見るのではなく、神様を見るのです。
エス様を見るのです。
そして、イエス様が望まれるとおりに歩んでいくのです。
これが、カインと同じ過ちを繰り返さないために私たちがすべきことなのです。


3.カインの過ち:神様の赦しを信じなかった

カインの過ちの三つめは、神様の赦しを信じなかった点です。
創世記4:6-7を読みます。

主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

この7節は、「創世記で最も判然としない節」と評されるほど、理解しづらい文章です。
7節の前半「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」が、難しいのです。
例えば、新共同訳はこう訳しています。
「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
ちょっと文章の解釈のプロセスは省いて、結論だけを述べますと、私は次のように翻訳するのがいいと思います。
「もしあなたが良いことをするのなら、罪の赦しはないだろうか?」
そのあとは新改訳2017と同じで大丈夫です。
こうした理解だと、この7節はどう意味になるのかというと、こうです。
「もしあなたが良いことをするのなら、罪の赦しはないだろうか?
――良いことをするなら、神であり主である私は、あなたを赦さないだろうか?
いや、もちろん赦すだろう。
しかし、もし良いことをしないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。
――つまり、良いことをしないのなら、罪への誘惑があなたの心の扉にやってきて、あなたを罪へと誘うことになるだろう。
あなたはその罪への誘惑と取り組むことになるだろう。」
こういう意味です。
そして8節以降は、カインが「良いことをしなかった」ことの結果が書いてあると考えることができます。

神様は、怒りを抱いていたカインをそのまま放置しておくことはしませんでした。
放置しないのは神様の愛なんですね。
そしてカインに、「良いことをするなら、罪の赦しはあるし、しないなら、罪への誘惑にさらされることになる」と語ります。
これは、例えばこんな感じですね。
親がご飯を用意したけど、子供がそのご飯を食べたくないと言い張る。
その子供に対して親が、「食べたいなら、いつでも用意はあるけど、食べたくないなら、おなかが減って苦しむことになるよ」と言っているような感じですね。
可能な事実を示して、「あなたはどちらを選ぶの?」と聞いているのです。
神様は、あくまでカインの自由を尊重するのです。

カインはどう思ったでしょうか?
先ほど軽く言及しましたが、神様に献げ物をする場合は「初物」を献げるということは、たぶんカインは知っていたのでしょう。
なので、カインは、自分が「間違ったことをしてしまった」ことにはうすうす気づいていたと思います。
しかし同時に、自分の献げ物が無視され、アベルの献げ物が受け入れられたことへの怒りも感じている。
だから、カインの心では、「自分を正しいとする」か、あるいは「自分の間違いを認める」か、その両者で葛藤があったのです。
献げ物の件で、怒りを感じる。
怒りを感じるということは、「自分は間違ったことをしていない」「自分は正しい」と思っているからです。
「自分は正しく献げ物をした。それなのに、神様はえこひいきをしてアベルの献げ物だけ受け取った。許せない!」
そういう思いが、一方で心を占めています。
他方では、「初物を献げるべきだったのに、自分はそれをしなかった」とも感づいており、その場合には、「自分は間違っていた」ことになります。
自分をあくまで「正しかった」とし続けるのか、あるいは、自分の「間違い」を認めるのか、それをカインは選ぶことができました。
そして、おそらくカインは、自分の間違いを認めた場合に与えられる「罰」を恐れていたのではないか、と思います。
だから神様は、「良いことをするなら、罪の赦しはある」とカインに語ったのだろうと思うのです。
ちなみに、その場合の「良いこと」というのは、「罪の告白」のことです。
自分の過ちを認めるのは、苦しいことですね。
プライドの高い人間ならなおさらそうです。
さらに、過ちを認めたら、「罰」も与えられるかもしれない。
そうであるなら、自分に過ちがあった可能性はもう見なかったことにして、「神様は不公平だ!」という考えを主張するほうが安全で快適ではないか?
――カインはそう考えたのではないでしょうか?
それに対して神様は、「いや、罪を認めるならば、当然赦しはある。逆に、認めないならば、楽な人生になるどころか、罪への誘惑でお前は苦しむことになるし、さらにひどい状態に陥っていくのだぞ」、そういう風に言っていると思うのです。
神様は、「お前の目には、自分の罪を認めない人生の方が幸せに見えるかもしれないが、それは真実ではないのだ。自分の罪を認めて、赦しを得たほうが、はるかに幸せな人生になるのだ。どうかそれを分かってくれ」と言っているかのようなのです。
カインとしては、「本当に赦してくれるんですか?」という思いがあるでしょう。
神様は、「赦しは当然ある」と断言します。
でも、恐れに取りつかれた人間は、「本当に? 本当に?」と疑い続けます。

こうした神様とカインとのやり取りというのは、私たちも心の中でしていることでしょう。
そして、カインと同じような葛藤を抱えるでしょう。
自分を正しいとするのか、それとも、自分の過ちを認めるのか。
どちらを選ぶかによって、私たちの人生は変わっていきます。
そして私たちは、やはり、カインと同じ歩みをしないようにしていきましょう。
ところで、私たちには、カインとは違う有利な点があります。
それは、イエス様の十字架の死と復活を歴史的出来事として知っていることです。
私たちのあらゆる罪に対する罰を、イエス様は十字架上で引き受けてくださったのです。
だから、私たちにはもはや最悪な罰というのは存在していないのです。
存在するのは、ヘブライ書にあるような、親が子供を成長させるための「お仕置き」程度です。
親は、子供を常に「赦しの目」をもって見るものです。
いつでも赦す準備ができている。
それでいて、子供がしっかり成長するために、必要なしつけはする。
同じような「赦しの眼差し」を、神様は常に私たちに降り注いでいるのです。
エス様を通じて神の子供とされた私たちは、その神様の「赦し」を常に信じていなければなりません。
神様は、私たちがイエス様を信じた時だけ赦したのではなく、洗礼を受けた時だけ赦したのでもなく、昨日も赦し、今日も赦し、明日も赦し、明後日も、しあさっても、将来までずっと赦すつもりでいるのです。
その神様を信頼するなら、罪の告白を恐れることが、少なくなるのではないでしょうか?
恐れは、確かにあるかもしれないし、消えることはないでしょう。
しかし、その恐れに対し、神様が赦しを与えてくださる確信が、少しずつ高まっていくならば、私たちの人生は変えられていくでしょう。
私たちは、神様の赦しを信じながら、この人生を歩んでいきましょう。