Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

生成系AI時代に、「絵を描く」意味

以下の文章は、2022年11月25日にプライベートなFacebookアカウントで書いた内容です。

 

 

絵を描くAIが一般的に利用可能になって、色々話題になっている。
ある絵画コンクールで、AIに描かせたものが入賞したというニュースもあった。
そういうことを妻と話しながら、これから芸術作品の価値についても、力点が変わってくるのではないか、ということを議論した。
芸術作品の価値というものが、完成品としての作品にではなく、ますます、芸術を創作するというプロセスの方向に置かれるようになるのではないか、そして、妻も関心を持っている臨床美術のようなものが、芸術において価値あるものになるのではないか、ということを議論した。

小学校の教育レベルだと、絵を描く際に、「見たとおりに描く」という写生の能力が評価されがちである。
また、最終的に作品になったものが、「美しい」ものであることも評価される。
しかし、そのように、最終的な作品としてのクオリティに関しては、おそらく今後は、ますますAIが近づいていくだろう。
少し前にも話したが、私たちが求めるものが、本当の芸術ではなく、芸術の劣化版、カリカチュアでしかなくなっているという現状――カフェに似合う作品、おしゃれな建築物に似合う作品、というぐらいに、「場と調和した作品」が求められるだけで、そこに置かれている作品が「誰の」「どのような意図で」描かれたかは全く考慮されない現状――のなかでは、AIは、ますますそのような私たちのニーズにふさわしい作品を生産し続けることができるだろう。
そして、絵を描くということが、そのような作品を制作するということであり、作品の価値もまた、そのような状況の中で評価されるものである――ちょうど、交通安全を啓蒙するテーマを与えられて、それにふさわしい作品を書く、というように――ならば、芸術作品を創作する上での人間に固有な領域はないだろう。

では、芸術作品というのはその程度のものなのか、というと、やはりそうではない。
芸術作品は人間を作り変えるものであるし、人間をより人間らしくするものであるし、また、真理を開示するものでもあるし、また、ある面では、民主主義を可能にするものでもある。
芸術の機能や価値は豊富にあるが、そのうちの一つが、芸術を創作するプロセスにおける作り手自身の変化、だろうと思う。
絵を描くときに、人は、その被写体をより良く観察するようになる。
通常、人は花を、単なる「花」としてしか認識していないが、絵を描く態度でその花と向き合うことによって、人は、その花をよりよく観察することになる。
花ごとに種類が違うことに気づくのはもちろんのこと、花びらにも、一つ一つ特徴があることに気づくだろう。
ある部分はきれいだが、ある部分は枯れかかっていることもある。
大きさや色も様々だ。
また、茎の部分も、よく見ると産毛のようなものがあったり、虫がいたりもする。
花を描くというプロセスの中で、人は、通常の生活の中では気づくことのない世界のリアリティを、より知ることになる。
このように、花を描くという単純な行為においても、書き手は、世界に対する経験を深めることになる。
それは言い換えると、世界に対する理解を修正していくということでもある。
これが、もう少し規模が大きくなった場合を考えてみよう。
例えば、複数の職業に携わっている人々を描こうとする場合には、人は、その被写体(人物)についてより深く理解しようとする。
その人物を描くということは、その人の見かけだけではなく、その見かけが生まれることになる背景を理解することにつながる。
その人の性格や歴史や、その人が置かれた社会環境を理解することにつながる。
そうした探求を、一人、二人、三人と実行していく。
そのような探求をしていき、作品を作り上げていくならば、そのプロセスを通じて、その作り手自身が大きく変化することになる。
作家は、人物を知るだけではなく、その人物が携わっている職業を知ることになり、また、同時に、その職業が置かれている社会環境も理解することになるだろう。
こうして、芸術を制作するプロセスを通じて、作家は、以前に持っていた自分の理解や世界観を、少しずつ修正し、また深めていくのである。
単純に言えば、芸術作品を制作するプロセスを通じて、作家は成長するのである。

そして、そのプロセスの中で行われる作業――対象の理解――は、民主主義にも通じるものだと思われる。
制作プロセスにおける対象の理解は、他者理解に通じる。
そして、そのような他者理解は、民主主義のベースにあるものの一つだと思う。
一つの共同体に属している人々が、実際に生きている環境や状況は異なっており、互いに見ている世界は違うが、一旦、相手の立場になって考えてみる。
この「相手の立場になって考える」ということがなくなってしまうと、議論というものは実際には存在せず、ただ「相手を言い負かすゲーム」に過ぎなくなってしまうし、人数をどちらが獲得するかという闘争になってしまう。
それは民主主義の見かけをしているが、実際には別のものだ――と私は考える。
互いに相手を理解しながら、そのなかで合意を形成していくプロセスが民主主義だと、私は理解しているからである。
芸術作品を制作することは、その意味で、民主主義の健全な育成に通じるのではないか。

「絵を描く能力」という点でAIが成長したことで、逆に、「芸術と人間との関係」がより大切になってきていると思う。