Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

教会の原型

創世記2:8-23


以前、人間の創造の目的についてメッセージをしました。
そのとき、人間の目的は、神を礼拝すること、そして神様の御心をもって人々や世界のものをケアすることだ、と話しました。
そのときは、その目的について話すだけで、「では、どうやったらそれを実現できるのか?」については話しませんでした。
今日は、そのとき話せなかった、その「どうやって?」の部分について話します。
「この世界において神様を礼拝する、神様と同じ心を抱きながらケアをする、人間と世界と事物との調和的な関係を回復する」
――このような課題を「どうやって」実現していくのでしょうか?
その答えは、「教会によって」です。
今日の本文では、その「教会」の原型が語られています。
そしてその教会に関する本質的な点が語られています。
今日は、そこから2点、話していこうと思います。
一つは、教会は神様が与えるものだということ、そしてもう一つは、教会における兄弟姉妹は「助け手」であるということ、この2点です。


1.本文全体の文脈の確認

まず、今日の本文全体の流れを確認しましょう。
8-9,15-17節を読みます。

ここでは神様が人間をエデンの園に置いたこと、そこには食べるのによい木がたくさんあったこと、また、善悪の知識の木があったことが述べられています。
そして10-14節で、そのエデンの園から水が湧き出ていて、四つの川となって流れ出ていたことが語られています。
ティグリス川、ユーフラテス川は知られていますが、ほかの二つの川はよくわかってはおりません。
また、エデンの園の場所についても、こうした個所から特定することはできません。
ただ、私たちがわかるのは、このエデンの園という場所は、とても豊かな場所だったということですね。
食べ物が豊富にあった。
そして水も湧き出ていた。
今の中東の地域というのは、全体的に乾燥していて、日本から比べると水がとても貴重な地域です。
そうした場所で「水が湧き出ている」というのは、私たちが思うよりも、もっと感動的なことだろうと思われます。
命の豊かさが満ち満ちていた場所がエデンの園だったと思われます。
そのエデンの園に神様は人間を置きました。
15節では、「耕させ、守らせた」とあります。
これについて、以前、「耕す」という言葉は「働く、仕える、奉仕する」の意味であり、ここは「神に礼拝する」と考えるほうがいいのではないか、と語りました。
そして「守る」は「ケアする」の意味です。
「礼拝する、ケアする」、この二つが神様が人間をエデンの園に置いた目的でした。
そのエデンの園において、16節で神様は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われます。
この点は少し重要です。
多くのノンクリスチャンは、またクリスチャンであっても、神様を信じることは、窮屈な人生を生きることだ、と考える傾向があります。
「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」――そのような禁止項目を多くすることが信仰生活だと考えるのです。
しかし、神様がアダムに対して最初に行ったことは、「禁止」の命令ではありませんでした。
「どの木からでも思いのままに食べなさい! 自由に食べていいよ!」そういう言葉でした。
これについて私は個人的に思い当たることがあります。
少し脱線しますが話しますね。

私がクリスチャンになったのは大学の修士課程の時なのですが、その時の私は、自分には何かを楽しむ権利というのはないのではないか、と感じていました。
その理由は主に2つありました。
一つは、大学に入ってから2年間くらい引きこもりの生活をして、ずいぶん両親に迷惑をかけたな、と感じていたことです。
ちょっと後ろめたい気持ちがありました。
もう一つは、修士課程に入るときに、ちょっと恥ずかしいですが、「自分は知識人として人類のために働くのだ」と考えていたことです。
どうしてそういうことを考えていたかというと、カール・マルクスがしばしば語っていた言葉に、travailler pour l’humaniteというものがあり、それは本当に大切だと思っていたからです。
そのtravailler pour l'humaniteとは、「人類のために働く」という意味です。
それを紙に書いて部屋に張ったりしていました。
自分の使命は、人類のために働くことであり、人類が幸せになるために貢献することなのだ、と考えていました。
そうは思っていましたが、やはりそのように信じて生きるのは、とても苦しいものでした。
そういうときにクリスチャンと出会って、教会にも行き、聖書も学ぶようになりました。
聖書を学んでから、自分が考えていたキリスト教とずいぶん違うことがわかって、驚きました。
「人類のために働く」がマルクスの言葉であるなら、聖書は「神のために働く」ことを語っていると考えていました。
「神を愛し、隣人を愛する」がキリスト教の中心的メッセージだと思っていました。
でも、聖書を学びながら、聖書の中心的メッセージはそこではないことを知りました。
聖書が語ろうとしていたのは、「あなたの罪は赦された、あなたは自由だ!」ということです。
もちろん、「イエス・キリストを信じる」という条件はありまが、中心は「あなたは自由だ」という内容です。
その当時私は、神様が聖書の学びを通じて、「あなたは幸せを求めていいんだよ! 幸福になる権利は、あたなにもまたあるんだよ」と語ってると思いました。
神様が、私たち一人一人の幸せを願い、自由になることを願っているのだと知りました。
「義務を生きる」以前に、幸せになることを願っているのだとわかりました。
このことにすごく自分は「ハット」して、また心が軽くなりました。

神様がアダムに対して「どの木からでも思いのままに食べてよい!」と語るとき、神様はアダムに対する愛を表現しているのです。
神様はアダムが自由であり、幸せであることを願っています。
親が子供に対して、自由に、伸び伸びと、幸せに生きてほしいと願うように、神様はアダムに対して語っているのです。
この点についてもう少し深く語るべきですが、今日は本題からずれるので、やめておきます。

次に17節で、神様は、「善悪の知識の木からは食べてはならない」と言って、一つだけ制限を提示します。
自由に食べていいけれど、一つだけ禁止の項目を設けます。
この点についても、ほかの機会に話そうと思います。

さて、18節で神様は次のように語ります。

「また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を作ろう。」(新改訳2017、創世記2:18)

次の19-20節を読むと、アダムがそれぞれの動物に名前を付けていたと書かれています。
その際、神様が動物や鳥を造ってアダムのもとに運んできました。
ある注釈者は、ここで連れてこられた動物たちは、「つがい」だったのではないかと語っています。
つまり、犬なら犬で、オスとメス、ラクダならラクダで、やはりオスとメス。
確かにそうかもしれないですね。
そしてその注釈者はこうも語っています。
自分のもとに連れられてくるそれぞれの動物を見て、名付けながら、アダムは、自分と同類のものを見つけることができなかった、と。
アダムの気持ちになってみると、寂しそうです。
自分が名前を付けているその動物たちは、オスとメスで、互いにセットになっている。
でも自分には、そういう存在がいない。
犬も、ラクダも、シマウマも、鶏も、みんな二人で一つなのに、自分だけ一人だけ!
おぉ、なんてことだ!というわけです。
神様が「人がひとりでいるのは良くない」と語ったのは、これを背景としていると考えられるのです。
そして神様は、アダムの肋骨をとってそこからイヴを作り、彼女をアダムのもとに連れていきます。
アダムは23節でこのように言います。

「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」(2:23)

ここにはアダムの驚きや感動があるのです。
今まで、色んな動物を見てきたけれど、そこには自分と同じ存在を見出すことができなかった。
ところが、ようやく自分と同じ存在を見出すのです。
「これこそ、ついに!」なんですね。
今日の本文はこのような流れになっています。


2.神様が教会を与える

さて、では初めのポイント、つまり、「神様が教会を与える」という最初のポイントを話していきます。
ところで、今日の本文のどこに「教会」があるのでしょうか?
もちろん、イヴという存在です。
イヴという存在が神様によって造られ、アダムに与えられます。
そこに、最初の共同体が成立します。
この共同体のことを「教会」と呼んでいるのです。
まぁ、名称はどうでもいいのですが、ともかく、神様によって最初の共同体がつくられます。

アリストテレスというギリシアの哲学者が「人間は政治的動物である」と語りました。
翻訳の仕方によっては、「社会的動物」とも、「共同体的動物」であるともいうことができます。
意味としては、単独で存在するのではなく、互いに係り合いながら共同体を作りその中で生きる存在である、という意味です。
実際、私たちも生まれた時から一定の共同体または組織の中で生きます。
例えば、赤ちゃんは、多くの場合、家族という共同体または組織の中で生まれ、育てられます。
日本の場合は、小学校、中学校、高校、大学という組織のなかで成長していきますし、そのなかでも、部活や地域のクラブ活動、サークル、あるいは宗教団体のようなもの、いろんな組織にかかわりながら生きます。
労働の面においても、何らかの組織の中で働くことが一般的ですし、人によっては労働組合にも参加するでしょう。
また、地方自治にも加わるでしょうし、国家の政治にもかかわるでしょう。
様々な共同体または組織と係り合いながら生きるのが私たちの現実です。

ところが、そうした共同体の中でたくさん傷ついた経験をするのも人間です。
いえ、単に傷を受けただけではなく、自分自身が傷を誰かに与えてもいるはずです。
私たちがこの世で経験するどんな組織や共同体も、理想的なものからは程遠いものです。
そして、不完全な組織・共同体の中で受けた経験によって、私たちのものの考え方も影響を受けます。

「あらゆる共同体が不完全である。」
その原因は何かと考えると、聖書的に言える答えは、やはり人間の罪です。
人間が罪を犯し、罪の性質が私たちの人間性の一部となったことで、「人間がいるところ、人間が集まるところ、どこにでも罪が存在する」ようになったのです。

ところで、そうした罪の性質が人間に及ぶ以前の共同体というのは存在するのか?というと、聖書は、それが存在したことを語っているんですね。
それが今日の箇所です。
つまり、アダムとイヴの共同体です。
この二人の関係は、普通に言えば「夫婦」と言えるでしょう。
しかしそれだけではなく、人類初の「共同体」でもあります。
一緒に働いて、一緒に食べたりするので、「農家」と同じように経済的な共同体でもあります。
また、神様との交わりも持っていたので、今日の「教会」と同じように宗教的な共同体でもあります。
現在では色々な組織で役割分担されているものが、すべて一つになって、しかもその中心に「神を礼拝する」ことがあるような共同体、それがアダムとイヴの共同体だったのです。
聖書全体は、そのような共同体が原罪によって失われたのち、旧約ではイスラエルにおいて、新約では教会という形で回復しようとする、神様のプロジェクトと考えらるのではないでしょうか?
新約聖書使徒の働き2:44-47を読んでみましょう。

「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒の働き2:44-47)

ここからうかがわれるように、生活のあらゆる面を共有した共同体が、初代教会でした。
「礼拝」するだけではない。
生活のすべての面をケアするような共同体が「教会」だったのです。
そしてその教会の「原型」はどこにあるのかというと、創世記の2章にあるのです。
そのアダムとイヴとの関係にあるのです。
夫婦なので、もちろん愛情で結ばれた共同体です。
しかしそれだけではなく、経済的であり、宗教的であり、また、統一した意思によって行動することが「政治的」といいうるならば、政治的な共同体でもあります。
こうした共同体を再び回復するのが神様の計画であり、神様によって呼び集められた者たちの集まりが「教会」であるとするならば、この最初の共同体を「教会の原型」と呼ぶことは許されるでしょう。

さて、その人類最初の共同体でありまた教会が、どのようにして出来上がったのか?
神様がアダムの肋骨からイヴを作ることによってです。
端的に言うならば、神様が、教会となるべきメンバーをアダムに与えることによってです。
神様が与えたのです。
これをしっかりと覚えましょう。

神様が教会となるべきメンバーを与えるという真理は、先ほど読んだ使徒の働きでも言及されておりますね。
そしてこれは、今の私たちにとっても真理です。
教会における兄弟姉妹というのは、神様が与えてくださった存在なのです。
その人たちと共に「教会」という共同体をつくるように、神様がわたしに与えてくださった一人一人なのです。

ところで、その兄弟姉妹は、どのような存在でしょうか?
今日の本文が語っているのは、その兄弟姉妹は、私にとって「助け手」であるということです。
神様は、私の「助け手」として兄弟姉妹を私に与えてくださったのです。
では、「助け手」とはどういう意味なのでしょうか?
最後に、その点を話していきたいと思います。


3.兄弟姉妹は、私の「助け手」である。

もう一度18節を読んでみましょう。
この「ふさわしい助け手」という表現は、だいぶ苦労して解釈した訳語です。
まず「助け手」というのは、元の語は「エゼル」という単語で、ただ単に「助け」「援助」「補助」を意味する言葉です。
よく知られる言葉では、「エベン・エゼル」(助けの石)という言葉に出てくる「エゼル」です。
また、「ふさわしい」という言葉も、もとは「向かい合った」や「対立した」を意味する言葉です。
この18節で使われる用例はほぼ存在しません。
なので、聖書学者たちが苦労して解釈したのだと思います。
その解釈はそのまま受け取りたいと思います。

では、この「助け手」という言葉は、どのような意味を持っているでしょうか?
それを黙想すると、次の四つのレベルで兄弟姉妹は「助け手」であると考えられます。
はじめに、神様を礼拝することに関する「助け手」であり、
次に、神の国を実現することに関する「助け手」であり、
三つ目として、様々な私の不足を補ってくれる点での「助け手」であり、
最後に、神様の恵みを豊かに悟るための「助け手」であります。

兄弟姉妹が神様を礼拝するうえでの「助け手」であるというのは、例えばこういうことです。
御言葉を理解するために丁寧に解き明かしてくれるとき、その人は「助け手」であるでしょう。
また、賛美をするときに、伴奏などをしてくれる兄弟姉妹は、やはり「助け手」でしょう。
一緒に通読してくれる場合にも、その人は「助け手」でしょう。
このように、私が神様と交わりを持ち続けるために必要なサポートをしてくれる時、その兄弟姉妹は「助け手」となりますね。

次に、神の国を実現するうえでの「助け手」とは、まさにアダムに対してイヴが与えられたような場合です。
アダムは、神様の代理として、神様と同じ心を持ってエデンの園をケアする任務を与えられていました。
ところが、それは一人でするにはとても大変な働きだったのでしょう。
神様はイヴという「助け手」を与えて、一緒にその働きをするようにしました。
アダムにとってイヴは、神様にゆだねられた働きを一緒にする「助け手」だったのです。
私たちもまた、神様と同じ心を持って、人と世界と神様との調和的な関係を回復する使命を持っています。
ところが、その使命を生きることはとても大変なことです。
協力してくれる人がやはり必要になります。
その場合の協力者が「助け手」でしょう。
協力する方法は沢山あります。
実際に働きを一緒にするのは「協力」ですが、それだけではありません。
悩みを聞く、相談に乗る、そういうことも「協力」の一つです。
祈るというのも、もちろん「協力」の一つです。
神の国を実現していくのは、大変なことです。
神様はそのための「助け手」を兄弟姉妹というあり方で私たちに与えてくださっているのです。

三つ目として、様々な私の不足を補ってくれるという意味での「助け手」とは、とても単純なことです。
私たちにはそれぞれ欠点や弱点があります。
それを補い、サポートするとき、そのひとは「助け手」となります。

四つ目の、神様の恵みを豊かに悟るための「助け手」という点は、気づかれることがあまりないかもしれませんが、大切な点です。
もっとも、この意味での「助け手」というのは、自覚的にするものではないかもしれません。
むしろ、兄弟姉妹が、兄弟または姉妹として、「共にいる」ということからおのずから生まれるものだとも言えるでしょう。

みなさん、「聖化」とは何でしょうか?
「聖化」というと、イエス様を信じたときに実現される「義認」のあとに来るものだということはご存知でしょう。
「イエス様を信じて救われる、それが義認であり、そのあとだんだん霊的に成長していって、イエス様に似たものへと変えられていくプロセス、それが聖化である。」
一般的にはそのように理解されているだろうと思います。
ところで、「聖化」は、確かにイエス様の姿に似るプロセスではあるのですが、その根底にあるのは、もっと別のものです。
それは何かというと、神様の恵みを悟ることです。
「聖化」というのは、神様の恵みをより深く悟るプロセスなのです。
神様の恵みをより深く悟れば悟るほど、私たちはイエス様の姿にも似るのです。

赤ちゃんは、たくさん愛されておりますね。
では、赤ちゃんはそのことを悟っているでしょうか?
一方的に言っては申し訳ないのですが、たぶん、赤ちゃんは、悟ってはいないと思うのです。
それはもう少し年を経た子供たちのことを考えてもいいでしょう。
彼ら、彼女たちも、愛されてはいるでしょうが、そのことを悟ってはいないでしょう。
それを悟るのはいつなのかと言うと、人によってバラバラですが、例えば、一人暮らしをしてからだとか、自分が結婚して子供を持ってからだとか、そういう場合だと思います。
「愛されている」ことと、それを「悟ること」とは、別のものであり、時間的にずれがあるのが一般的です。

これが「聖化」についても当てはまります。
「聖化」とは、神様の恵みをより深く悟ることです。
過去も、現在も、愛されていることは愛されているのですが、その「愛されている」ことを悟るのは、もっと後のことなのです。
だから、私たちの悔い改めというのは、しばしばこういう形になります。
「あー、こんなに愛されていたのに、自分は何をしていたんだー!」
愛されていたことに気づいていなかった。
愛されている、それに気づいたときに、自分の罪の大きさを悟るのです。
そのように、神様の恵みの大きさを悟り、それと同時に自分の罪の大きさも悟るようになる、そのプロセスが「聖化」なのです。

その「聖化」のために神様が私たちに与えてくださったのが兄弟姉妹です。
アダムにとってはイヴでした。
その人類最初の夫婦は、夫婦として歩みながら、神様の恵みを悟っていったでしょう。
妊娠して子供を産み、育てる、そのプロセスを通じて神様の苦労を悟るでしょうし、子供
同士で殺人がなされ、子供が自分の下から去っていくことを通じても、神様を裏切ることで神様がどれほど心を痛めるか、悟ることでしょう。
それは、自分たちがかつて神様を裏切ったことで神様がどれほどの痛みを覚えたか、より実感させたことでしょう。
アダムとイヴのように、私たちは共にいる兄弟姉妹を通じて、神様の恵みを悟るようになるのです。
一人だけでは悟ることのできなかったことを、兄弟姉妹の存在を通じて悟るようになるのです。
こうした意味で、兄弟姉妹は、私たちが神様の恵みを悟るための「助け手」と言えるのです。

「助け手」には、少なくとも以上のような四つの水準があります。
神様を礼拝するうえでの助け手、神の国を実現するうえでの助け手、不足を補ってくれる意味での助け手、そして神様の恵みをより豊かに悟るための助け手です。

最後に私は、次のように問いかけて終わりたいと思います。
「私は、兄弟姉妹にとって、助け手となっているのだろうか?」
四つの水準のそれぞれにおいて、自分は助け手になっているだろうか?
こうした問いを自分自身に問いかけてみてください。
それに問いかけ、答える生き方をするときに、私たちはイエス様の弟子として生きることになるでしょう。