Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

渡辺一夫の『敗戦日記』を読む

「敗戦日記」
2006年08月12-13日

渡辺一夫の『敗戦日記』を読んだところ、とても印象的だったので、特徴的な文章を引用しながら、コメントしてみようと思います。

日本の無思想・無教養・無文化を嘆き、批判している日記を取り出してみました。

3/11
日本の絶望的なる理由
・国籍離脱、国外脱出の不可能なること。
・咀嚼不十分、表面のみ消化せる機械文明。日本精神主義者、この希薄なる文明を最も有難がる。しかもそれをesprit féodalに結びつける。
・国民小学校程度の教育の普及とその盲信。
・恐るべき外国嫌い
・コンフォルミスム、因襲の盲信。

3/15
先日の空爆でPantagruelの印刷所がやられ、刷り上がりのものが一切焼けた。ラブレーは遂に日本に無縁なのだろう。

3/16
新紋切り型辞典
・八紘一宇=己の言うことをきかぬと殺すぞ焼くぞ
・躍進日本=ダンピング
・一億総特攻隊=文句を言わず全員死んでしまえ
・玉砕=やけっぱちの死

4/3
粗笨な現実処理で満足する国民。ただ生きるだけで満足するégoïsteな国民。文化も思想も何も不要の筈――何故Impérialismeの真似事をした? 天譴あるのみ。

7/11
一、貧乏人で気の弱いやつが急に贅沢な着物を着る。とたんに失敗する、一種の罪業観に陥る。
二、成り上がり者の根性。あばれだす、ひっこみがつかない。

7/13
日本の使命
理想。世界にとってなくてかなはぬ国になる。東西文化を共に消化する。
現実。世界の邪魔になる。西洋文化の悪いところのみをとり、下痢を起こす。
結論。あくまで抗戦して滅び去るべし。かくの如き国はかくの如き運命に陥ることを世界に示すべし。大いなる貢献となるべし。

7/22
各紙はこの20日ポール・ヴァレリーがパリで死去したと報じている。「詩人・批評家。作品に『テスト氏』『ヴァリエテ』がある」と。そっけない。馬鹿馬鹿しい記事! しかし日本がこの西欧の卓越せる思想家を惜しむには、こんなやりかたしかないのだ。74歳だった。


7/14
中野さんは常々日本人は正直だと言う……が、僕としては逆だと言いたい。

 

ここで「中野さん」というのは、英文学者の中野好夫のことです。


中野好夫は、日本人は「正直者」だと言い、渡辺一夫は、日本人は「嘘つき」だと考えている。私は、二人の言っていることが両方分かります。つまり、日本人は「イノセント」だと言っているのです。純粋無垢。主観的心情の正しさで言葉を発するから、その意味では「正直」だけれども、しかし、客観的に認識していることと違うことを言うから「嘘つき」である、と……。しかも、たちが悪いのは、そのように「嘘」をついていることに悪気がなく、むしろ自分では、周囲の人間へ「配慮」していると考えていること。だから、明らかに日本代表が弱くても、周囲へ「配慮」して、日本代表は「強い」と言い張る……。

4/20
沖縄諸島における全く意味のない若干の戦果が、我々を盲目にしている。

6/20
友さんが言った。「私は最後までやりますよ!……たとえ死んでもね!……ここまで来てしまった以上、戦い続けるほかないでしょう……最後までね!」
この叫びは僕を強く打つ。つまり日本人一般の気持ちを表しているからだ。悲劇的な愚かしさ! この叫びが一度行動に移ると、国を無に帰するだろう。

7/6
どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。

7/24
辰野先生の話〔辰野隆:フランス文学〕。Hが元教授の池内先生〔池内宏:東洋史学〕を好ましからざる思想の持主として憲兵隊に密告した。池内先生は我々は敗北するだろうと言われた。ただそれだけなのだ!

 

こういう文章を見て、ラスキの次のような言葉を想い出しました。

「戦時の人民は、常に現状に盲目となり、朗報だけを信じようと焦慮し、政府は政府で、人民に快報のみを提供しようと腐心する。かかる快報が手元にない場合には捏造される。些細な成功は、赫赫たる大勝利にまで拡大され、敗北はで切る限り縮小される。」(p.141『近代国家における自由』岩波文庫

まさにその通りだと思います。このラスキの言葉で考えさせられる点は、戦時下において、朗報を望む「人民」と、朗報を提供しようとする「政府」とが、一致協力している点です。よく左翼の連中は、人民は政府に騙された、なんてことを言いますが、しかし人民自らが「騙されよう」と望まなければ、そもそもこんな奇妙な協調関係は成立しないのではないでしょうか?

「戦争と革命は、寛容が弱点と化すような限界状況である」(メルロ=ポンティヒューマニズムとテロル』)

このような「限界状況」では、騙すとか騙されるとか、そんな単純なものではないように思います。第一、「朗報のみを提供しようと腐心する」のは、ブルジョワ政府だけではなく、革命政府だって同じなのですから。自分たちがまさに参与している行動が、まだ切断されていない間は、言い換えれば、成功とも失敗とも言いえない間は、「成功している」と言いたくなるのが人間の条件だと思います。「成功」と言うと、意欲が増大し、実際に成功するかも知れないという希望が生まれ、逆に、「失敗」と言うと、意欲が減退し、実際に失敗するかも知れないという不安が生まれるのです。だから、この行動しつつある時間のなかでは、厳密に言って、客観的判断は不可能なのです。

「歴史においては絶対的な中立性も客観性もなく、可能事を確認する一見すると無辜な判断も実は可能事を下書きしており、どんな存在判断も実際には価値判断であり、放任も一つの行為である」(メルロ=ポンティヒューマニズムとテロル』)

あたかも、自分の愛する人が生命に関わる手術を受けているときに、「ダメかも知れない」と発言するのが憚れるかのようなのです。そのように「言う」ことが、あたかも、本当にその人を死の淵に追い込むかのように感じられるのと同じように、極限状況においては、即ち、多くの人々がある一定の方向に動いている状況においては、その「方向=意味」と異なる言説を語ることは、それがどんなに「客観的」なものであっても、みなが望む「現実」への裏切りとなってしまうのです。


しかしそれでは、私たちには狂気しか残されてはいない。歴史学者のE.H.ノーマンは、アメリカの憲法を作成した人々は、戦争が如何に人々から冷静な判断を奪い、狂気に陥れるかを熟知しており、狂気から人々を守るためにも、言論の自由を――しかも「無条件な」言論の自由を、憲法に盛り込んだのだと言っていました。

これらの人々は恐怖と憎悪、戦争と軋轢が人間をどれほど盲目的な行動と不当な抑圧に駆り立てるものであるかを、自分の苦い経験から知っていました。彼らは自分の欲する平和と自分の恐れる戦争との二つの場合を考慮において憲法を起草したのであって、そのいずれの場合にも言論の自由に対する制限を絶対的に禁止することを定めたのでした。(「説得か暴力」『クリオの顔』岩波文庫

そのように語ったノーマンは、マッカーシー旋風が吹き荒れるなか、「共産主義者」のレッテルを貼られ、自殺に追い込まれたのでした。丸山真男渡辺一夫が追悼文を書いていたのが思い起こされます。「戦争と革命は、寛容が弱点と化すような限界状況である」。言論の自由とは、寛容の要請であり、それは現実的には、常に既にある一定の方向に動いている自分の身体が、他の複数の方向へと切り裂かれることへの「寛容」なのです。それは大変苦しいことですが、しかし、言論の自由とはそういうものだと思います。そしてこのような苦痛を回避したら、私たちには「狂気」しか――それが「戦争」であれ「革命」であれ――残されていないでしょう。

「平和とは、生じうる諸々の貪欲に対して、これを制圧しうる諸々の力の収める潜勢的な、黙々とした、連続した勝利の謂いである。」(ポール・ヴァレリー

 

 

ここで「貪欲」とは、「狂気」のことです。

 


つづいて、渡辺一夫が、政府、軍国主義の無責任さを批判した箇所を集めてみました。

5/4
我が神国政府は自殺への道を歩んでいる。政府にとっては結構かもしれぬが、我々はそれでは困る。

6/12
戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳られた政府とは何か、今こそ全ての日本人は真にそれを悟らねばならぬ。しかし無念なことに、真実は徐々にしかその全貌を顕わにしない。地方では未だに最後の勝利を信じている。目覚めの時よ、早く来たれ! 朝よ、早く来たれ!

6/20
僕は始めからこの戦争を否認してきた、こんなものは聖戦でもなければ正義の戦いでもない。我が帝国主義的資本主義のやってのけた大勝負にすぎぬ。当然資本家はこれを是認し、無自覚な軍国主義者は何とか大義名分を見つけようとしたのだ。

6/20
沖縄諸島における我が軍の抵抗、依然続く。しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。沖縄制圧後の米軍がどうでるか、我々はどうするか? 徹底的な爆撃、これに対して我々はやけくその抵抗、軍人どもは至聖の御陵威を勝手に利用し、我々を殺人と自滅に駆り立てている。

6/29
日本はいよいよ自滅寸前なり。包囲の網を狭められ、もはや身動きもできない。我々は焼死だ。

7/9
首相曰く「国民個人の生命は問題にあらず。我が国体を護持せねばならぬ」と。
遅かれ早かれ、都会という都会は全て焼き払われて、炭と化し、住民は全て殺されるなり山中に追いやられる。我々は本州の生蕃というわけか! しかる時我が親愛なる国体何処にありや?

7/14
全国民は固き決意と共に百年戦争、二百年戦争を待ち構えている、とラジオが絶叫している。結構なことだ!!


6/20
"De guerre lasse"〔戦いに疲れて→精根尽きて→やむをえず〕という表現はまことに面白い。どうしてこういう表現が成立したか、歴史的詮索は措くとしよう。人々は戦争に疲れ果てている。すなわち、もう沢山だ! しかし戦争する以外にやりようがない。なぜならば戦争に反対する戦争をやめてしまうからである! 何とも悲しい詭弁!
ダルメストテールとアツフェルト〔の仏語辞典〕にはこう説明してある。"a bout de résis fance"〔抵抗力が尽きる〕

 

戦争をしている→戦争に疲れる→故に、反対する力も失われる……。悲しい循環です。「企業戦士」という表現(死語?)がありますが、労働も「戦争」に似たようなもので、それをし続けることに疲労してしまう、故に、反対する力も失われてしまう……「何とも悲しい詭弁!」

6/19
『動乱の上に立ちて』(ロマン・ロランの小説)を読み終えてつくづく思う。白人、とくにヨーロッパ人は幸せで、黄色人種は実に不幸だ。ロマン・ロランの呼びかけや要請は全人類に宛てられたものである。だが黄色人種、とくに日本人は、これを理解しようとも、素直に受け止めようともしない。一方の白人は、ドイツ人だろうとフランス人だろうと、そうしようと努める。この善意が白人を常に前進せしめ、我々の場合はこの善意の欠如が幸福に至ることを妨げる。言うなれば、我々は呪われた者、「人間的幸福」から決定的に除外されているのだ。

この言葉は、丸山真男が『日本の思想』のなかで指摘した、ある日本の思想受容の特徴と重ね合わせて読む方がよいでしょう。丸山はそこで、ヨーロッパではマルクス主義によって実現されたイデオロギー批判の方法、日本では会沢正志斉や本居宣長によって既に実現されていた、と言っています。それは具体的には、海外からもたらされる倫理的な「理念」を、性急に――あまりにも性急に!――政治的文脈で受容し、「理念」の裏の意図を詮索して、政治的支配をするための詭弁だと「理解」する様式のことです。理念を「理念」として受け取らない、つまり、理念の裏に常に「悪意」を読み取るのです。これが、渡辺一夫の語っている「善意の欠如」のことでしょう。こんな風に他者の言説から「悪意」しか読み取らない日本人は、永遠に人間の悪い面しか見ないし、人間の基本的善性を信頼することもできず、「人間的幸福」から閉め出され続けるでしょう。


こういう話を聞くと、東京裁判ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」という新しい概念が登場して、これによって裁かれたことに憤りを覚えている日本人を思い浮かべます。確かにこれは、「法は遡及しない」の原則からの逸脱と言えますが、しかしそんなことに拘泥するよりも、「罪」の概念が拡大したことを積極的に評価して、「過去」の罪よりも、「今」そして「これからの」罪の発生を防止するように、コミットしていく方がいいと思います。実際、いったん法的概念となった以上、それは「特定の国」のみに適用されるのではなく、「あらゆる国」に適用されるのであり、たとえ当時、その概念を「強国」が作ったといっても、今日ではその強国に「適用」されるようになるのですから。

3/17
共産主義は本来人類に対する愛から構想された。しかるに憎悪に燃える共産主義者は、この愛をなおざりにする。

スピノザじゃありませんが、やはり、憎しみ、怒り、嘲弄、軽蔑、嫉妬、復讐などという感情は悪だと思います。復讐心の発散場所を探している人間が、自分の復讐心を満足させてくれる人々を見つけたら、大変なことになると思います。情念を浄化することは、自分の内面のなかで行なわなければならない、重要な作業のはずです。

6/20
末期的資本主義、史的唯物論、コミュニスム、ファシスム……こうしたものがすべて、幻燈に映し出された途方もないフィクションのように思われることがある。現実として残るものは、人間理性の手からあれこれの詭弁を弄して逃れ去る獣性、動物性のみだ、と。こういう見方からすれば、あらゆるイズムは各国が自己正当化のために振りかざす、嘘で固められた口実にほかならない。

これは、先に語った日本の「イデオロギー暴露」の方法とは違います。むしろ、大仰な「思想-政治」的対立以前に、個人として解消しなければならない問題に、目を向けるための方法です。ルサンチマンに囚われた人間は、単なる狂人と同じです。

6/1
Semper solus esse volui, nihilque pejus odi quam juratos et factiosos (Erasmus)
私は常に独りであることを求めました。何よりも断言誓約する人、徒党を組む人を憎みました。(エラスムス

徒党を組むと、人は自分が力強くなったと錯覚に陥ります。本当はそうではないのに、人々が沢山いるだけで、まるで自分自身が強くなったように思うのです。さらに、徒党を組むと、人は感情に動かされやすくなります。感情が伝染し、容易に残虐な行為をできるようになります。しかも徒党を組んだ結果、人は仮に残虐な行為をしても、自分の責任ではない、と言い張ることがで切るのです。徒党を組みたがる弱者たち……。

Oder si potero, si non, invitus amabo
できうれば憎まん、然らずんば心ならずも愛さん
オウィディウス『愛の歌』3・11)

渡辺一夫の「日本」に対するアンビヴァレントな感情が表れているのだと思います。渡辺一夫は、やはり「日本」に愛着があります。しかし、であるが故に、暴力的な「日本」に嫌悪感を抱くのです。渡辺一夫が望んでいた「日本」は、おそらく、文化的に高い水準の「日本」であり、無教養で金儲けをしたり、軍事力開発をしたりするような「日本」ではなかったのだろうと思います。

7/14
からだは日本人だが精神的にはそうではない。すなわち僕が日本人たることを、人は拒否する。我が国が栄え、世界の進歩に貢献すればよいと僕は願っていた。だがこの願いは否認され、嘲笑され、圧殺された。

3/15
本郷の廃跡を見て思ふ。こんな薄ぺらな文化国は燃えてもかまひはせぬ。滅亡してもよいのだ。生まれ出るものが残ったら必ず生まれ出る。

 

戦後も、この精神的「薄ぺら」さは変っていませんね。現在の「ナショナリズム」と言われているものの軽薄さには、吐き気がします。どうして日本の保守というのは、あんなにも軽薄なのでしょうか? 一体、どこの世界にスポーツやサブ・カルチャーに浮かれる「保守」なんて存在するのでしょうか? 愚劣です。

 
7/14
埃にまみれ、荒れ果てた書庫に呆然と座す。この書物もいずれ灰となる。何ものかを築かんとして購ったこれらの書物は全て、無に等しい。

自己嫌悪。苦しみながら一人死ぬべし。我がなせし事、何らの価値もなし。何らの意味もなし。

7/19
死に対するあくがれは段々強くなる。生き残ったところでもう己は再び何も仕事はできまい。

渡辺一夫が目指していたのは「文化的な」日本だと思います。けれど、現実の日本は、軍国主義的で、帝国主義的な「日本」であり、軍事と経済が支配する「日本」の政治に翻弄されて、書物も「灰」と化す運命にある……。絶望的な様子が見えます。

6/6
vita brevis, ars longa,
occasio volucris,
experientia periculosa,
judicium difficile
人生は短く、学芸の道は通し、
機会は羽搏き逃れ
経験は滅び易く
判断は難し
ヒッポクラテス

 

戦時下にありながら、日本ではじめて本格的にルネッサンスのユマニスムを研究しようとした渡辺一夫の心情を物語っているように感じられます。ラブレーエラスムス、ルフェーブル・デターブル、モンテーニュ、という「学芸の道」。戦時中という「判断」。

6/6
「ある人間を知っていると思うことは、あやふやな感情で、一方確実に感じられること、つまり現実は、愛する者に対して自分が常に他人でしかないという不安なのです。」(マルロー)

どういう想いで引用したのでしょうか?

渡辺一夫は、至る所で、軍国主義的な「日本」が滅びることを求めています。例えば、6月12日の日記「我が国は死ぬべきだ。その上で生まれ変らねばならぬ」とあります。しかしその箇所にあるように、滅んだ後の、徹底して滅んだ後の「再生」に期待しているのです。渡辺一夫の眼差しは、戦時「中」を通り越して、戦「後」に向かっているのです。

6/12
我が国にとって、また人類にとって、この犠牲は無駄ではあるまい。多少なりと着実な「平和」は、おびただしい流血と苦悩の叫喚を経ずして得られるものではない。

常々「自殺」への誘惑を抱きながらも、渡辺一夫の眼差しは未来へ向いています。生きることが「義務」であるという記述(6月1日)も、「生きねばならぬ、事の赤裸々な姿を見極めるために」(7月11日)の記述も、絶望を耐え続ける事への決意を表していると思います。
5月のある日、渡辺一夫は、戦後の生き方の指針と思われる文章を書いています。それは以下の通りです。

5/25
文明とは何か?
・「人類」に属しているのだという個人の自覚
・人間の条件を高めようとする物質精神両面の努力
・「人間性」の改善に寄与するための自己犠牲の甘受
そういう意味だし、またそうでなければならぬ。この観念なくして、人は自ら文明人と称することはできぬ。

良心的な生活を営むこと
一、日本国を愛すること。日本国を世界の的としたidéologiesを十分に検討して、これの絶滅に志すこと。真の愛国心の何たるかを社会に教える準備をすること。
二、軽口をつつしむこと。
三、人類の敵を憎悪し憎悪すること。その絶滅の法を考え続けること。
四、自己の生活(日常)批判。極僅かな嘘も排除すること。
五、Idéesの為に死ぬ志を養ふこと。
六、生活のために自分の能力以上の地位につかぬこと。大学辞任のことを考えること。
七、情愛を断つことを考えること。

 

色々なことが考えられると思います。
「人類」に属しているのだという個人の自覚……「国民」ではなく「人類」。エラスムスラブレーモンテーニュという、未だラテン的中世の面影を残していた人々の唱える「ヒューマニズム」、つまり、「国民」の観点からではなく、普遍的な「人類」の観点から捉えるユマニスム、それを示唆しているのかも知れません。
文明人=市民civesとは、culture(教養=文化)を持った人のことですが、渡辺一夫が「文明」という語を使用するとき、そのような背景を踏まえているように思います。つまり、単なる「機械」(物質)だけではなく、「教養」(精神)をも高めようとする努力が「文明」である、と。


「良心的な生活を営むこと」の七ヶ条は、常に極限状況を意識して生活を営むことを意味しているようです。とてもストア派的な態度だと思います。

 

最後に、渡辺一夫「平和に耐えること」(1951)というエッセーから引用。朝鮮戦争が始まり、再軍備化が始まり、レッド・パージが行なわれていた時期のことです。「平和は辛いものであるが、これに耐えねばならない」と繰り返した後、次のように言います。

「優秀な殺人道具は危険なものである。弱い人間でもそれを持つことによって自ら異常な力を持ったという増上観に陥り、権力獲得のために歩み出すものである。そこにも機械化はある。これはマルクスレーニンスターリン主義でも何でも簡単に割り切り、異説を持った人間の抹殺を正とする機械人間が不寛容の故に自ら強くなったと思う場合と同じく、ともに機械化された悲しむべき結末である。人間の機械化への無反省、無謬性への狂信は、正統化された暴虐と不寛容とを生み、人間の最も悪しき部分を、最も善いものらしい口実の下に君臨させようとする。平和とは、暴虐が未だ公然と正当化されず、不寛容が未だ公然とのさばりでないでいる時期、しかもその機を狙っている時期、そして、そのために我々が奔命につかれさせられる時期に外ならぬ。」

「平和に耐える」……とても重要なことだと思います。