Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

馬鹿になる勇気

馬鹿になる勇気 使徒言行録8:26-40

(2017年11月17日になされた使徒言行録連続公開説教)

 

 

最近は、お笑い芸人でニュースのコメンテーターをやる人が増えてきました。何人か、思い当たる人がいると思います。そういうものを通じて、「お笑い芸人というのは、馬鹿なことをやっているけど、頭がいいんだな」ということを知る人もいると思います。

お笑いをする人、コメディをする人というのは、基本的に頭のいい人が多いですね。というよりかは、頭がよくなければ、人を笑わせることができないのだと思います。

喜劇王と言われたチャップリンや、僕の知っているところだと、ミスタービーンをやっていたローワン・アトキンソンも、頭のいい人たちですね。

ところで、チャップリンローワン・アトキンソンのすごいと思うところは、本当は頭がいいし、色々計算しているのに、まったくそういうところを見せない点です。

彼らの劇を見ているほうは、「あいつら、本当に馬鹿だなぁ」と思うんですね。

完全に馬鹿になりきっている。本当は計算されつくして馬鹿になっているのですが、見ているほうは、「本当に馬鹿だ」と思うほど、馬鹿になっている。これが彼らの偉大なところです。

この点が、クリスチャンにとっても同じだと思います。

完全に馬鹿になりきれるかどうか、それが私たちにとっての勝負です。

「バカのふりをしている」だけではなく、「完全に馬鹿だ」と思われること。これがクリスチャンにとって必要です。

そして、完全に馬鹿になるときに、私たちは神様の恵みを真実に体験することができます。

今日はこの点を見ていきたいと思います。

 

 

 

今日の本文の中心にあるのは、フィリポとエチオピアの宦官との出会いのところでしょう。

その一連の流れを見るときに、僕が思い浮かんだのは、「こんな状況なら、俺でも伝道できる」ということでした。

以前、「ごっつぁん・ゴール」の話をしたことがあります。

ごっつぁん・ゴールというのは、サッカーで、ゴールのすぐそばに自分がいて、その自分の足もとにボールがやって来て、ただそのボールを押し込むだけの状況でのゴールのことです。日本では、武田修宏選手が有名でした。

福音伝道についても、そういうごっつぁん・ゴールの場面があるのだ、ということを以前話したことがあります。

今日のフィリポは、まさにそのようなごっつぁん・ゴールです。

ここまで用意が整っていたら、「俺でもできる」と思う。そのような場面です。

 

その場面を、まず読んでみましょう。30節を読みます。

 

フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。(使徒言行録8:30)

 

馬車が走っていて、近寄って行ったら、エチオピアの宦官が、イザヤ書を朗読している。こんなことがあるでしょうか? 「エチオピア」、「宦官」が、「イザヤ書」。このセットが、驚くべきことです。

順番に見てみましょう。

 

まず、「エチオピア」人ということは、この人は「異邦人」です。その異邦人である者が、わざわざエルサレムに礼拝に行っていたのです。ということは、この異邦人であるエチオピア人は、イスラエルの神を信じるものだった、ということです。このように、異邦人でありながらもイスラエルの神を信じる者が、当時いました。使徒言行録でこの後出てくるコルネリウスもそういう人の内の一人でしょう。

でも、彼は、やはり異邦人なので、エルサレムの神殿の中では、「異邦人の間」と呼ばれるところまでしか入ることができませんでした。

大雑把に言うと、エルサレムの神殿は、一番外側に誰でも入れるエリアがあり、その内側に、イスラエル人だけが入れるエリアがありました。さらにその中には、イスラエルの男性だけが入れるエリアがあり、またその中には、祭司だけが入れる場所がありました。

このエチオピアの宦官は、異邦人だったので、神殿の中の異邦人なら入れる場所に入って礼拝していたのでしょう。そこからさらに内部には入れませんでした。

ちなみに、神殿で献げる動物などが売られていたのが、この異邦人の間です。イエス様は、そのような商売が、異邦人が礼拝する妨げになっていることに、憤りを感じていたのでした。異邦人は、そこまでしか入ることが許されていない。にもかかわらず、そこが商売の場所になっている。それが憤りの理由でもありました。

 

このエチオピアの宦官は、単に「異邦人」というだけではなく、また「宦官」でもありました。「宦官」であるということも、イスラエル人が入ることのできるエリアに入れない理由でもありました。申命記23:2を読みましょう。

 

睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。(申命記23:2)

 

こうしてこのエチオピアの宦官は、エルサレム神殿の一番外側にだけはいることができ、そこで礼拝していたのです。

 

その人が読んでいたのが、イザヤ書でした。とくに、彼は53章を読んでいました。イザヤ書53章といえば、私たちはみんな知っているでしょう。イエス様が預言されていることが最もはっきりわかる旧約の箇所です。

さらに、イザヤ書をもう少し進んで、56章になると、宦官にとっては本当に恵みの御言葉になります。少し長いですが、56:3-8を読みましょう。

主のもとに集ってきた異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこういわれる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。すでに集められた者に、更に加えて集めよう、と。(イザヤ56:3-8)

ここでは、異邦人も宦官も、神様の祈りの家に、分け隔てされることなく連なる、という預言が語られています。

エチオピアの宦官がイザヤ書を読んでいる、しかも、イエス様の預言に関する箇所を読んでいる、さらにそのすぐ後には、宦官もまた神の民として加えられるという預言も続く。

こんなにいろんな条件が整っていることなんて、あるんでしょうか?

 

30節で、フィリポは、「読んでいることがお分かりになりますか?」と尋ねます。

それに対してエチオピアの宦官は、31節でこう答えます。

宦官は、「手引きをしてくれる人がなければ、どうしてわかりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。(31節)

要するに、エチオピアの宦官は、「教えてください!」と言ったということです。「自分の隣に座って、じっくり教えてください」と言ったということです。

こんな場面に、私たち、遭遇したことがあるでしょうか?

大抵の場合、私たちの場合は、「聖書のことを伝えたいのですが…」と言っても、「結構です」「大丈夫です」「自分で調べられます」という反応が返ってきますね。

「ぜひ私に教えてください!」なんてこと、ほとんどありません。

「ぜひ教えてください」なんて言われたら、みなさん、どうでしょうか? うれしいですね。そして、喜んで教えますね。

フィリポもそうしました。

そうしたら、今度は宦官は、自分のほうから洗礼を受けたいと言います。36節を読みます。

 

道を進んでいくうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(36節)

 

自分のほうから洗礼を受けたいというのです。

エチオピアからはるばるエルサレムに来て、異邦人の間にしか入れないのにそこで礼拝して、帰り道にイザヤ書を朗読している人間が、イエス様の福音を聞いて、洗礼を受けたいと言っている。

洗礼を与えない人など、いるでしょうか?

 

 

 

このような一連のフィリポとエチオピアの宦官とのやり取りを見ていると、フィリポがやったことに、特別なことは何もないことが分かります。

最初に言ったように、「俺でもできる」ようなことしかやってはおりません。

エチオピアの宦官との関係でフィリポがしたことは、「俺でもできる」こと、つまり、誰でもできることばかりです。

全ては、神様があらかじめ整えてくださっています。

フィリポは、最後の締めくくりをちょっとやっただけです。それは誰でもできることです。

私たちも、もしフィリポの代わりに、エチオピアの宦官と向かい合ったら、フィリポと同じようにすることができるでしょう。

イザヤ書の53章について聞かれたら、答えるでしょう。そしてイエス様の十字架の死と復活、罪の贖いについて話すでしょう。「イエス様を信じる者は永遠の命を得るのです」と語るでしょう。

このようなことは、全て容易なことです。

 

 

でも、ここでやはり立ち止まって考える必要がありますね。

「なぜフィリポはこのようなエチオピアの宦官に出会って、私たちは出会えないのだろうか?」

こういう問いは考える必要があります。

どうすれば私たちは、私たちの時代の「エチオピアの宦官」に出会えるのでしょうか?

そのヒントを、残りの時間に考えてみようと思います。

 

 

結論を先に行ってしまえば、私たちが「エチオピアの宦官」に出会うためには、私たち自身が馬鹿になる必要があります。

フィリポはバカでした。だから彼は、エチオピアの宦官に出会うことができました。

フィリポが馬鹿であった点は、彼が計算しなかったというところから見ることができます。

 

 

彼は計算しませんでした。8:26を、新改訳で読んでみましょう。

 

ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)(新改訳、使徒言行録8:26)

 

新共同訳と大きく違う点は、一番最後です。新共同訳は「そこは寂しい道である」と翻訳しています。

これは読み方としては両方の可能性があります。ただ、大抵の翻訳では、ここは新改訳のように翻訳しています。そして僕も、そのように翻訳するほうが意味深いと思うのです。

フィリポはこの主の天使からの言葉を聞いた時、おそらくサマリアにいたでしょう。特に、サマリアのシェケムという町であったと考えられています。

御存じのように、サマリア人は、ユダヤ人の嫌う人々でした。ユダヤ人は、このサマリアの地を踏み入れるのも嫌い、あえて別ルートを通って移動していました。

なので、イエス様がサマリアを通ったのは、すごく特別なことでもありました。

考えようによったら、フィリポは、このサマリアにいれば、とても安全であったとも思われます。ユダヤ人たちは、サマリア人のところに入ってこようとはしないでしょう。逃げる場所としては、いい場所かもしれません。

ところが、主の天使は、エルサレムからガザに下る道に行きなさい、と命じるのです。

ここで、一つ画像を見せます。

 

 

これは、フィリポが通ったであろう道です。

エルサレムからガザに至る道に行くためには、いったんエルサレムに行かなければならないのです。

これは、エルサレムから逃げてきた人にとっては、とても嫌なことではないでしょうか?

エルサレムで迫害が厳しくなったから逃げ出してきたのに、主の天使は、再びエルサレムに南下することを命じるのです。

しかも、そのエルサレムから向かっていくガザはどういう場所かと言えば、それは、「荒れ果てている」場所です。

これは、アレクサンドロス大王による戦争の際に、荒廃したと言われています。人が住んではいない、廃墟である、ということです。

そのような場所に行きなさい、と主の天使は語るのです。

これは、明らかにリスキーな命令です。自分の命が危険になるという意味で、とてもリスキーな命令です。

また、「伝道」ということも考えても、合理的ではない命令です。全然人が住んでいないところへ行きなさい、という命令なのです。もっとサマリアより北にある、アンティオキアに行きなさい、その大都市で伝道しなさい、ではないのです。

人が全くいない、荒れ果てた町に向かって、行きなさい、という命令なのです。

神様が「伝道」ということを大切にしているなら、これはすごく不合理な命令だと言えます。

こういう不満を、フィリポは語ろうと思えば語ることができたでしょう。

「主よ、あなたは、人々に福音を伝えなさい、と命じました。では、なんで僕を、人のいない場所に送ろうとするのですか?」

 

でもフィリポはそうしませんでした。

「自分の命も危険になる、福音伝道にも無意味、何だこの命令は?」と考えることができましたが、そうしませんでした。

彼は、馬鹿だったんですね。

彼は計算しませんでした。リスクがどのくらいなのか、計算しませんでした。また、伝道の成功率、伝道でどれほどの人が救われるか、そのような人数の予測も計算しませんでした。

彼は、単純に従順しました。

フィリポの考えは次のようになるのではないでしょうか。

「主の天使が語っている、いや、主が語っている。それ以上、何が必要なのか?」

 

「主が語っている」それだけで、私たちにとっては十分です。

私たちは、「主が語っている」ことが分かったら、あとはそれに対して、信頼を持って従順すればいいだけです。

それ以外のことは考える必要はありません。

アブラハムが、ウルから出発するときも、彼は単純に「信頼を持った従順」をしただけです。

それは、はたから見たら、ただの馬鹿です。

でも、馬鹿でいいのです。馬鹿みたいに信頼していいのです。逆に、主の立場から考えたら、馬鹿みたいに信頼されなかったら、とても寂しいことでしょう。

「かならずあなたを良い場所へ導く」と主が語っているのに、私たちがその言葉を疑い、リスクや可能性や期待値を計算し始めたら、主にとってはそれは寂しいことです。

 

私たちは、色々な思い煩いがあるでしょう。

これを語ったらどうなるだろうか? 自分の立場がどうなるだろうか? 変な人と思われないだろうか? 自分の出世や将来の成功にとってまずいのではないか?

色々な思い煩いがあるでしょう。

心配しないでください。

私たちは、すでにみんな変人です。すでにみんな愚か者であり、バカ者です。

この日本で、ほとんど誰も信じていないことを、本気で信じている、大バカ者です。

唯一の神が存在し、その唯一の神が、私を愛して、私のために十字架につけられた!

そんな突拍子もないことを本気で信じている、大バカ者。それが私たちです。

だから、他の人からどう思われるか、心配する必要はないのです。

 

むしろ、私たちが、その愚かさに徹しないことが、私たちの問題なのです。

お笑い芸人が、本気で馬鹿にならなかったら、みなさん、どうなると思うでしょうか?

面白くないですね。徹底して馬鹿になるから、それは見ていて面白いのです。

もしクリスチャンが徹底して馬鹿にならなかったらどうなるでしょうか?

全然感動しないですね。

「信じたって、信じなくたって、何にも変わらないな」と思うだけです。

しらけさせるだけです。

 

エス様は、大バカだったんですよ。

みなさん、それを信じていますか?

だって、私たちのために十字架にかけられたのですよ。こんなに、ほとんど何にもできない私たちのために。いつも主を忘れて生きているような私たちのために。何度も何度も主を裏切るような私たちのために。大したことを何にも成し遂げることのできない私たちのために。こんなにしょうもない、無力な、偽善的な、悪質な私たちのために、イエス様は十字架にかけられた。

なんでこんなにイエス様はバカなんでしょう?

本当に大馬鹿です。

色々計算して、費用対効果などを計算していけば、イエス様が私たちのために身代わりとなったことは、まったく不合理なことです。

なんでこんなにイエス様、大バカなんでしょうか?

 

それは、私たちはみんな知っていると思います。

エス様が、私たちを愛しているからです。

愛している、というのは、バカ者ですね。

愛している人は、馬鹿ですね。どんな服を着ても、きれいだな、と思うし、後先のこと考えずにお金も出しますね。どんな料理を出されても、おいしいと思いますね。どこに住んでいたとしても「天国だ」と思いますね。病気になったら、「自分が代わりに病気になればよかったのに」と思いますね。臓器移植が必要になったら、「ぜひ僕の臓器を使ってください」と言いますね。恥ずかしがることなく、相手を他の人に自慢しますね。だって、それが事実だからです。

愛している人は、みんな馬鹿です。

本気で馬鹿になることができなければ、愛しているのではないのです。

 

そして、イエス様は、私たちのことを本気で愛していたので、徹底的に馬鹿になったんですね。

馬鹿になって、私たちのために十字架につけらえたのです。

私たちが、裏切り続けること、しょうもない自己中心的な活動ばかりすること、恐れてばかりいること、そんなすべてのことを一切無視して、イエス様は、馬鹿になりました。

だから私たちは、救われました。

ハレルヤ。

 

私たちは、どれほど馬鹿でしょうか?

フィリポは、計算せずに、主の言葉に従いました。信頼に基づく従順です。私たちも、そのように馬鹿になる必要があります。

 

御言葉に従うことが、どのような結果をもたらすか? どのような利益があるか? どのような伝道の効果があるか? 将来に対してどのように影響するか? そういった計算は、ひとまず置いておきましょう。

私たちが、仮にフィリポがエチオピアの宦官に出会ったように、今日の「エチオピアの宦官」に出会いたいと思うならば、そのような計算は不要です。

私たちにとって必要なのは、主の言葉に対して、徹底的に馬鹿になることです。馬鹿になって、主の言葉に従い続けるときに、私たちは、主が望まれる場所へと導かれるでしょう。そうしていくならば、私たちは、主の恵みによって、今日の「エチオピアの宦官」に出会うことができるでしょう。

私たちは、「エチオピアの宦官」に出会いたいでしょうか?

であるならば、ぜひ、馬鹿になって従順するものとなりましょう。

そして、神様が私たちに味わってほしいと思う喜びを、経験する私たちとなりましょう。