Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

苦しんで食を得る

苦しんで食を得る

創世記3:16−19


おはようございます。
本当は5月に一度メッセージをする予定でしたが、コロナウィルスの関係で、今日まで伸びました。
お会い出来て嬉しく思います。

この数カ月間の間、メッセージ予定だから、というわけではないのですが、ずっと頭に思い浮かんでいた御言葉がありました。
それは、今日読んだ箇所にもある、「大地は、あなたのゆえに呪われる」という御言葉です。
私が物心ついてから、今回のコロナウィルスほど世界中で問題になった病気はありませんでした。
エボラ出血熱やサーズなど、恐ろしい病気はありましたが、それらはアフリカなど、遠いところで流行している病気であって、自分たちの生活しているところにまで及ぶものとは感じていませんでしたし、また、実際そうでした。
ところが、今回のコロナウィルスは、自分たちの生活に直結したのです。
とくに、先進国と呼ばれる国々ほど、影響が大きくなっています。
世界各国で、店舗などの営業の制限や移動の制限が行われました。
それに伴い、航空会社が倒産したり、チェーン店が店舗を減らしたり、同じことですが、失業する人々が増えました。
もちろん、コロナウィルスに感染して死亡する人々も膨大な人数になっています。
そして、こうしたなかで、人間の醜い罪性というのもまた、明らかになりました。
最初の頃は、コロナウィルスが中国から始まったということで、中国人差別が日本国内でも、また他の国々でも生まれました。
それはもっと広く、アジア人差別のようにもなったりもしました。
また日本国内では、東京から引っ越してくる人間を差別し、住居に住まわせないなどというケースもありました。
「自粛警察」などの用語が生まれましたが、営業している店舗に嫌がらせなどをする犯罪行為も生まれました。
ヤマトや佐川などの宅配員に対する差別、お店でレジをする人々に対する差別も報告されました。
「危機のときに人間の本質が現れる」とはよく言われることですが、まさにそのとおりに、このコロナウィルス流行によって各国が非常事態宣言下に置かれる中、人々の本質があらわになりました。
そういう様子を見ながら、私の脳裏には常に、「大地は、あなたのゆえに呪われる」という御言葉が思い浮かんでいました。
「大地は、あなたのゆえに呪われる。」
特に「あなたのゆえに」です。
アダムのゆえに、アダムが犯した罪のゆえに、つまり、人間の罪の故に、です。
この御言葉を詳しく見るのは後ほどですが、私は、この御言葉が、自然が人間に対して敵対的になった原因として、人間の罪を指摘しているものと理解していました。
私はそのことを繰り返し考えていました。
考えた、というよりは、ただその事実を深く受け止めていた、というほうが正しいかもしれません。
そして、この事実から、現在のこの災いに対して、クリスチャンはどのように対処することが可能なのか、ということを考えていました。
今日のメッセージは、そのことを考えていく内容になります。

 

1.差別

16節を読みましょう。

「女にはこう言われた。

「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産む。

また、あなたは夫を恋い慕うが、

彼はあなたを支配することになる。」」(創世記3:16、新改訳2017)


最初の「わたしは、あなたの苦しみとうめきを多いに増す」の「うめき」は、文字通りには「妊娠」という言葉です。
なので、ここは「苦しみと妊娠」を大いに増す、と訳すことができます。
神様は、人間を創造したときに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じているので、エバはそもそもたくさん妊娠し、たくさん生む予定になっていたでしょう。
この16節の言葉でさらに付け加えられているのは、「苦しみ」です。
エバはたくさん生むことになるが、その出産には、「苦しみ」が伴うようになるのだ、という内容です。
カルヴァンは、もしかすると人間の堕落前には、苦しみ無しで出産が可能だったのかもしれない、と言っていますが、それほど深く掘り下げてはいません。
創世記の記述では何も確定的なことは言えないでしょう。
16節の後半を読むと、「あなたは夫を恋い慕う」という表現があります。
ここで使われている単語は、聖書全体で3回しか出てきていないものです。
他の箇所は、創世記4:7と雅歌7:10です。
用例が少ないせいで、単語の意味を確定するのが難しい言葉の一つですが、とりあえず、新改訳2017の解釈でいいと思います。
「あなたは夫を恋い慕う」、つまり、あなたは夫を愛し、尊敬し、愛情を持って近づこうとする。
しかし、「彼はあなたを支配することになる」、つまり、夫の方はあなたを、権威的に、命令的に、奴隷や召使のように、支配しようとするだろう。
こういう内容です。
おそらく、堕落以前は、アダムとエバの関係はもっと平等なものだったのでしょう。
そしてそれは、パウロがエフェソ書で描いている夫婦のような姿だったと考えられます。
妻の方は尊敬を持って夫に従い、夫の方は妻を愛し、「頭」としての役割を果たすのです。
ところが堕落によって、その関係が変わります。
「愛と尊敬」の関係から、「支配と服従」の関係に変わるのです。
その関係の中では、女性の側には当然「苦しみ」があるでしょう。
こうして神様はエバに対して、子供を生むという苦しみ、そして、夫に従わざるを得ないという苦しみ、それらを受けることになるのだ、と語るのです。

ずっと前のメッセージで、アダムとエバは、人類最初の共同体であると語りました。
その共同体は、政治的でもあり、経済的でもあり、宗教的でもあり、また家族的でもある共同体です。
その共同体が、原罪を通じて、当初の調和を失うのです。
愛し合う、尊敬し合う、ことが失われる。
支配しようとする、自分が主導権を握ろうとする、自分の身を守ろうとする、相手に責任をなすりつける、互いに憎み合う、恨みを蓄積する。
男性、女性、それぞれを「罪が」支配するようになる。
罪に支配された罪人たちが、何が神の御心なのか、何が自分を幸せにするのか、何が調和を実現するのか、どうすれば平和が実現されるのか、わからないまま、自分の欲望と願望に従って生きる。
家族を作り、会社を作り、町を、また国家を作る。
それぞれの共同体が罪人たちによって作られ、やはり、至るところに「支配と服従」があり、苦しみ、苦々しさ、怒り、憎しみ、悲しみ、絶望が蓄積される。
私たちが生まれ育ってから目にするすべての共同体は、ことごとくこのような「壊れた」共同体です。
私たち自身もまた、そうした「壊れた」共同体の中で生まれ育ち、またそこに属し、働いたりしながら、やはり苦しみを感じたりしてきたでしょう。

この3:16が語っているのは、そのような「壊れた」共同体の起源です。

これもまた、この数カ月間で大きなトピックになったことの一つでしょう。
アメリカで、ジョージ・フロイドという一人の黒人が警察に首を絞めつけられながら殺されました。
それをきっかけに、黒人差別を批判し、撤廃する運動が大きくなりました。
かつてのキング牧師に率いられた公民権運動に匹敵するような大規模な運動になっています。
それはBlack Lives Matterというスローガンを掲げて、世界規模に広がっています。
そしてそれぞれの地域で、それぞれ文化の中で、アメリカにおける「黒人」のような人々がいて、彼らの人権の回復を求める動きが出てきています。
日本も例外ではありません。
日本は、非常にたくさんの差別がある国です。
女性差別に関しては、日本は世界で121位という結果が出ています。
これは男女の格差が「大きい」ということです。
また、他に数えていけば、部落差別、アイヌ・沖縄差別、在日コリアン差別、中国人・韓国人差別、黒人差別、外国人差別、障害者差別、非正規労働者差別。
こうした差別が日本にはあります。
そして日本人自身にとって特に問題なのは、差別に「気づいていない」という点です。
全てにおいて日本人は「無自覚」です。
無自覚である人々に「お願いだから自覚してほしい!」と訴えかける人々が、今度は逆に批判される。
無自覚であることの「幼稚さ」を擁護する声が大きい。
こうしたケースが日本では支配的です。

あらゆる政治的・社会的問題は、同時に神学的課題です。
今起きている出来事を、聖書的に、あるいは神学的に理解していないと、私たちは、力強く「今という時間」を生きることができません。
差別の問題も、これは、人権問題以前に、クリスチャンにとっては、神学的問題なのです。
差別の問題に積極的に取り組むにしろ、そうでないにしろ、クリスチャンは、それが存在する聖書的な理由、そしてそれが不正である理由を、神学的に、また聖書的に理解しておく必要があります。

現在問われている差別の問題というのは、単に「心」の問題ではありません。
私が「心」において、ある人種を好ましく思ったり、他の人種を悪く思ったりする、そういう「偏見」のことではありません。
現在、Black Lives Matterの運動で問われているのは、歴史的・社会的に、黒人が「不利」な条件で生きるようになっているという、その事実です。
それは、心の問題というよりは、「制度」の問題です。

このことを私たちはどのように理解するのか?
細かい歴史的経緯があるとしても、私たちはそれを、人間の原罪とその結果として理解できるのです。
人間が神様に反逆した。
神様の位置を自分たちが取って代わろうとし、神様の位置に自分を置こうとした。
つまり、人間自身が「神」に成り代わろうとした。
この罪の結果として、人間を罪性が支配するようなる。
「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」。
支配と服従の関係が、愛と尊敬によって営まれていた共同体を変質させる。
共同体自身が、「壊れた」ものとなった。
差別というのも、こうした「壊れた」共同体の結果なのです。
差別それ自体はたしかに「罪」ですが、しかしそれは、聖書的には「罪の結果」なのです。
このことを押さえる必要があります。

そこから、やはりクリスチャンにとっての差別問題の取り組み方というものが出てくるでしょう。
それは、通常、人々が行うアプローチとは随分異なるものです。
つまり、福音を信じることです。
「福音を信じる」とは、神による創造と、人間の反逆という歴史を信じることを含みます。
そして、イエス様によって自分の罪を赦していただいた人間は、神様が創造した当初の、人間と自然と神様が調和した状態を回復しようとするでしょう。
また、神様を前にして、自分を罪人と考え、そしてすべての人間を等しく愛する神様の心を大切にするならば、そのときに、隣人を大切にしようとする心の姿勢も生まれるでしょう。
こうした心を持つ人が増えること、それが差別の根本的な克服につながるのです。
クリスチャンの差別問題に対するアプローチは、このように人間の「根本」的な変化を目指すものなのです。
したがって、私たちが福音を伝えるのは、魂が救われるためですが、同時に、その魂が救われることによって、この世界が創造された当初の調和を回復するためでもあるのです。

 

2.労働
続いて、17−19節を読みましょう。

「また、人に言われた。

「あなたが妻の声に聞き従い、

食べてはならないと

わたしが命じておいた木から食べたので、

大地は、あなたのゆえにのろわれる。

あなたは一生の間、

苦しんでそこから食を得ることになる。

大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、

あなたは野の草を食べる。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、

ついにはその大地に帰る。

あなたはそこから取られたのだから。

あなたは土のちりだから、

土のちりに帰るのだ。」」(創世記3:17-19、新改訳2017)


17節で「大地はあなたのゆえに呪われる」と書いてあります。
これはどういう意味でしょうか?
今日のメッセージの冒頭で、私は、このたびのコロナウイルスに関連しながら、この御言葉を度々思い出していた、と言いました。
それは、自然の調和を破壊に導いたのも、人間の神様に対する罪であったからだ、そしてこの御言葉はそのことを語っているのだ、と思っていたからでした。
2月以降、コロナウイルスが日本で大きなトピックになりましたし、また7月に入ってからは、日本では大雨による災害がありました。
このような「自然災害」が頻発するようになったのは、人間の責任であり、その大本にあるのは、人間の神様に対する罪なのだ。
そう思っていました。
ところが、この創世記の箇所をよく読んでみると、その理解はいくらか誤っていると気づきました。
大本にある根本原因が、人間の神様に対する罪にあること、これは間違っていません。
間違っているのは、その罪によって引き起こされたものです。
罪によって引き起こされたのは、「自然の堕落」「自然の腐敗」ではありません。
「自然がその本来のあり方から外れて壊れた」ことではありません。
「破壊」されたのは、自然そのものではなく、自然と人間との「関係」なのです。
18節を読むと、「大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ」とあります。
楽園にいたときには、アダムとエバは、木の実を取って食べればいいだけでした。
「食べたい!」と思ったときには、そのへんにある木から自由に実を取って食べることができたのでした。
人間の「食べよう」とする行為に対して、何の障害もありませんでした。
ところが、楽園の外では、もはやそんなに容易に「食べる」ことはできません。
「茨とあざみ」が、人間に対して生える。
その2つの植物は、ともに「トゲ」があります。
人間の自然への働きかけに対して、何か「敵対するもの」が生まれるのです。
19節では、「顔に汗を流して糧を得」と書かれています。
大地を耕す、雑草を取り除く、種を蒔く、定期的に水をやったり雑草を取り除く、収穫する、収穫したものを脱穀したりしながら加工する、あるものは保存可能な状態にするためにさらに加工する、また他のものは食べられるように調理する。
「食べる」までにしなければならない仕事は、数えればもっとあるでしょう。
「食べたい!」と思ったらすぐに木の実からとって食べられる状態とは、大違いです。
「食べる」ためには、まさに、「顔に汗を流す」必要があるのです。
このように、人間と自然との関係は変化しました。
この変化のことを、17節では、「大地は、あなたのゆえに呪われる」と語っているのです。
大地、つまり自然が、アダムの罪のゆえにおかしくなった、ということを語っているのではありません。
人間と自然との関係が変質してしまった、ということを語っているのです。
その意味で、17−19節で神様が人間に対して言いたいことの中心は、むしろ、17節の後半の文章であると言えます。
「あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」

一体、この御言葉が言わんとしていることは、何なのでしょうか?

私は考えました。
まず、楽園にいた3章までと、楽園から追放された4章以降で、何が変わり、何が変わっていないのか、考えました。
4章以降でも、神様は登場します。
当たり前ですね。
そして、神様とそれぞれの人物は、交わりを持っています。
これはちょっと不思議な気もします。神様が、罪に対する裁きとして人間を楽園から追放したのだとすれば、人間との交わりを断ってもいいはずなのに、そうはしない。
人間との交わりは続くのです。
これは、楽園にいるときも、追放された後も変わりません。
また、自然そのものも変わりません。
「変わりません」と言い切っていいのか、もしかすると微妙ですが、でも、「変わらない」といっていいでしょう。
創世記1章で神様が創造されたときの世界は、同じ秩序で存続しているのです。

これに関連して、最近、ちょっとおもしろいなと思ったことがあったので、話させてください。
私の妻が、最近、酵母を培養しています。
酵母を培養して何をするのかというと、それを小麦粉に混ぜて、パンを作るのです。
つまり、天然酵母を自分で作ってパンを作っている、ということです。
この酵母の培養が面白いのです。
最初にやり始めたのは、レーズンです。
ガラスの瓶のなかにレーズンと水を入れて、蓋を占めてしばらくおいておくと、レーズンに付着していた酵母がどんどん増えていくのです。
しゅわしゅわと泡がたくさん出てきます
酵母が十分増殖したら、それを小麦粉に混ぜて、発酵させて、焼くと、パンになります。
レーズンに酵母が付着しているというのも面白いですが、レーズン以外にも、いちごで酵母を培養したり、ライ麦酵母を培養したり、いちじくで酵母を培養したりしています。
酵母というのは、いろんなところにいるんですね。
それを、水と糖分で培養すると、いろんな食べ物になります。
ビールになったり、ワインになったり、お酢になったりします。
日本では、ぬか床も酵母ですし、味噌も酵母、お酒も酵母で出来上がっています。
人類の食べ物の色んな所で酵母が用いられているのです。
酵母の歴史をwikipediaで調べると、古代シュメール王国の頃から酵母が使われていたようです。

ところで、この酵母をやはりwikipediaで調べると、酵母の「発酵」と「腐敗」は、科学的には違いがないとされているのがわかります。
「発酵」と「腐敗」は、日常的な用語としては全く別物ですが、科学的変化に関すると、違いはない。
違いは何かといえば、「発酵」は人間にとって「有益」だが、「腐敗」は「有害」である、その点なのですね。
人間にとって有益かどうかだけの問題で、発酵と腐敗は、自然のプロセスとしては同じなのです。

これと同じことが、人間が楽園にいたときと、追放されたときとの自然の状態についても言えると思います。
「茨とあざみ」は、本人たちとしては、普通に生きているだけです。
アダムとエバが楽園にいたときも、もしかしたら楽園の中には茨はなく、外に生えていたのかもしれませんが、ともかく、茨は、自分の生き方を貫いていただけでしょうし、それはあざみについても言えます。
茨もあざみも、ただ自分に正直に生きているだけです。
しかし、人間の彼らに対する関係が変化したのです。
そして、人間が食料を得るために働くこととの関係では、彼らは「困った」存在になったのです。
とはいっても、彼らは、ただ以前と同じように、自分らしく生きていただけでしょう。
だから、自然の状態も、3章までと4章以降とでは、変わらないのです。
いえ、もっと自明のことを言うならば、地球上の様々な自然のメカニズムは、変わっていないでしょう。
そして、オゾン層や太陽と地球の距離など、自然のメカニズムを考察するならば、人間に敵対的どころか、人間が生きるのに適切な環境が与えられていることがわかるはずです。
自然の恵みは、あふれるほどに豊かなのです。

神様との交わりは続けて存在している。
自然の恵みもあふれるほど豊かにある。
では、何が変わったのか?
「人間が、労働して食べるようになった」。
これが変わった。
では、一体、それには何の意味があるのか?
言い換えれば、神様がアダムとエバを楽園から追放したのは、なぜなのか?

そもそも、神様が人間を楽園から追放したのは、彼らが楽園にふさわしくなかったからです。
ユダヤ人の伝説では、神様は義人のために楽園を、悪人のためにゲヘナを作っていたとされていますが、その楽園にとって、アダムとエバはふさわしくなかった。
ところで、それならば、神様はすぐに人間をゲヘナにやっても良さそうなものですが、そうはしませんでした。
人間を生かしつづけます。
そして、楽園からは出ることになったとしても、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という命令ーーというよりは、これは祝福なのですが、それを享受できるように、人間を地上にとどめます。
なぜなのか?
人間が楽園にふさわしくないので、人間を楽園から追放した。
しかも、すぐにゲヘナに送るというのでもなしに、自然の恵みを豊かに与えながら、人間を生かす。
ということは、少なくとも、神様は、楽園から追放された状態で生活することによって、人間が「ふさわしい者になる」ことを期待していた、と考えられるでしょう。
それでは、その「ふさわしい者」とは、どういう者なのでしょうか?
そして、楽園から追放されて、「苦しんで食を得る」生活は、そのこととどのように関係しているのでしょうか?

私は、「ふさわしい者」とは、「神様を知る者」だと考えます。
そして、「苦しんで食を得る」生活は、人を、神様を知るように導くのだと思います。

今回の、そして現在も続いているコロナウイルスの状況下で、私たちの誰もが「苦しんで食を得る」生活を実感していることだろうと思います。
食べること、生きること、そのためにどれほど苦しまなければならいのか?
実際に、失業した人々や倒産した人々も増えています。
特にこの10年で非正規で働く人が増えており、その人々にとって、困難さは一層増しています。
しかし、「苦しんで食を得る」というのは、なにも、そのように実際に「食べて生きること」に限定された内容ではありません。
もっと広く、「生きること」に関わっているのです。
このコロナウイルスは、私たちに生きる困難を感じさせているだけではありません。
それは、私たちに「問い」を投げかけ、その問いを考え、悩むことを要求してもいるのです。
会社にとっても、学校にとっても、そして教会にとっても、問いは投げかけられましたし、今も投げかけられています。
会社にとっては、「働くとは何か?」が投げかけられました。
「働くこと」と「会社に体を移動させること」とは、同じことなのだろうか?
会社に、自分の体を持っていかなくとも、「働く」ことはできるのではないか?
むしろ、「働く」ということを、そのような意味で受け取っていかないと、会社そのものも、事業そのものも存続できないのではないか?
そのような問いが会社には投げかけられ、今も投げかけられています。
学校にとっては、「学ぶとは何か?」と投げかけられました。
「学ぶこと」と「学校に行くこと」とは、果たして同じなのだろうか?
学校に行って、椅子に20,30人とともに座らなくとも、「学ぶ」ことはできるのではないか?
むしろ、「学ぶ」ことをそのように定義し直さないと、「学ぶこと」は継続できないのではないか?
同じように、教会にとっても問いは投げかけられました。
「礼拝すること」と、「教会という建物に物理的に移動すること」とは、果たして同じなのだろうか?
教会に行って、小一時間他の教会員とともに椅子に座っていなくとも、「礼拝する」ことはできるのではないか?
むしろ「礼拝する」ことをそのように定義し直さないと、教会は存続できないのではないか?
会社、学校、教会。
それぞれに問いが投げかけられています。
そして私たちは、そうした問いから逃げることはできず、その問いに答えて生きていかなければなりません。
それは「苦しい」ことではないでしょうか?
できれば、曖昧にしておきたいことではないでしょうか?
でも、そのように放置しておくことはできない。
私たちは、そのような問いに答え、考え、生きていかざるを得ないのです。
これが「苦しんで食を得る」ことの内容です。
未知の状況で、新しい事態に直面して、手探りしながら答えを出していき、進んでいかないといけない。
それこそが「苦しんで食を得る」ことなのです。

「苦しんで食を得る」とは、単に労働することだけを語っているわけではありません。
それは、何より「この世界で生きる」ということを語っています。
そして「この世界で生きる」とは、問われ続けながら生きることなのです。
私たちが生きていて、前に進もうとするときに、問いが与えられます。
それは「茨やあざみ」のような形で来るかもしれません。
私たちが進むのを妨げる痛み、苦しみ、困難、障害物です。
これは取り除くべき障害物なのだろうか? あるいは、これは私たちが何か方向を転換すべきであるとの「しるし」なのではないか?
ーーこう問います。
続いて私たちは何をするのでしょうか?
神様の御心を探るのです。
「イエス様、これは、私たちがもっと成長するために与えられた試練なのでしょうか?」
あるいは
「イエス様、これは私たちが、進んでいる方向が間違っていることを示すサインなのでしょうか? 私たちが根本的に何かを変えるべきであることを示すサインなのでしょうか?」
「イエス様、あなたはこれを何のために私たちに与えたのでしょうか?」
このように私たちは祈り、神様の御旨を問い尋ねるのです。
最初は「試練」だと思い、忍耐して過ごしていたら、ある時点で、「これは試練というよりは、私が変わるべきだという合図ないのではないか?」と思い、実際そうであることもあるでしょう。
また、両方の意味合いが混ざっていることもあるでしょう。
いずれにしても、私たちは、神様の御心を探るように、導かれるのです。
「苦しんで食を得る」とは、私たちがこの世界で、そこで生まれる問題によって絶えず自分自身が問われながら、そして今度は、私たちのほうが神様に問い尋ねながら生きる、その姿を語っているのです。
絶えず問われるので、当然苦しみはあります。
また、私たちが神様に問い尋ねても、神様がすぐに答えを与えるとも限らないので、やはり苦しみはあります。
こうした苦しみのある生活を、神様は望みました。
たしかに、アダムとエバを楽園から追放したときに、神様はそういう生活を望んだのです。
なぜか?
すでに語っていますが、「神様を知る」ためです。
ヨハネによる福音書17:3を読みましょう。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

聖書全体で、至るところで、「神を知る」ということがほとんど「信じる」と同じように使われています。
以前も話しましたが、「知る」というのは、単に知識的に知ることを意味するのではなく、「体験的に知る」こと、さらには「愛する」ことも含んでいます。
こうした意味で、「神を知る」こと、それを神様は望んだのです。
そしてそれを、今もなお望んでいるのです。

今言及した御言葉に基づくならば、私たちはこのようにも問われるのです。
「私は本当に神様を知っているのだろうか?」
「私の神様を知る、そのあり方は、はたして十分なのだろうか?」
「神様をもっと深く、豊かに知るために、私には何ができるのだろうか?」
このように問いかけ、祈り続けることーー私自身が問われ、そして今度は私が問い尋ねること、この一連のプロセス全体が「神様を知る」ために大切なのです。
このことは逆に言うと、もし私たちが「私はすでに答えを知っている。こういう場合にはこうすべきだ。これこれの問題には、このように対処すればいい」と考え、自分自身が問われていることに気づかなかったり、あるいは、問われることを拒絶するならば、私たちは、実は、神様を知るというプロセスから脱落している、あるいは、脱落しつつある、ということも意味するのです。

 

3.まとめ
今日は、神様によるエバに対する裁きの言葉、また、アダムに対する裁きの言葉を見てきました。
エバに対する神様の言葉から、私たちは、原罪によって、この世界にある人間と人間が作る共同体が、いずれも「壊れた」ものになってしまったことを知りました。
愛と尊敬によって成り立つ共同体ではなく、支配と服従によって成り立つ共同体が、その後の人類の共同体の通常の姿となってしまいます。
家庭においても、学校においても、会社においても、社会においても、国家においても、「支配と服従」の原則が浸透しています。
そして反差別の運動というのも、こうした背景で生まれてきます。
私たちは、人間の罪が社会の不平等を生み出す根本的原因であることを踏まえながら、神の国を実現する、つまり、神と人間と自然との調和的関係を回復するためには、福音を真実に受け取る必要があることをわきまえなければなりません。
福音を真実に受け取る人数が増えれば増えるほど、世界は、神様の望むものへと変えられていくのです。

次に、私たちはアダムに対する神様の言葉から、私たちがこの世界で苦しみをいだきつつ生きることになる理由を見てきました。
神様は人間を、楽園、つまり、食べたいときに自由に食べられる世界から、この世界、つまり「苦しんで食を得る」世界に追放しました。
人間は、食べるために、言い換えれば、神様が語った「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という命令を実現するために、大変な労苦をしなければならなくなりました。
そればかりではありません。
人間は何より、前進するときに絶えず障害にぶち当たり、そのたびに自分自身を問われるようになります。
手探りしながら、神様の御心を尋ね求め、祈り、忍耐し、御心だと思ったものを行い、失敗し、また祈り、忍耐し、実行する。
これを繰り返す人生になります。
問われ続ける、また、神様に問い続ける、そして進み続ける、それこそが「苦しんで食を得る」生活なのです。
そして神様が人間をそのような生活に導いたのは、私たちが「神様を知る」ためです。
私たちがより深く、より豊かに、知的にも、情緒的にも、神様を知るために、神様は、恵みによって私たちを苦しみのある世界で、苦しみを感じる人生に導いたのです。

私は最近、よくこんなことを考えます。
何十年後かに、今を振り返るときがあるかもしれない。
そのとき、こんなふうに言いたいと。
「毎日を必死に生きました。そしてそのたびに、イエス様が助けてくださいました。今の私があるのは、全て主のおかげです。」
苦しみは苦しみで終わるのではない。
苦しみには、神様が答えてくれるという、何にも代えがたい喜びが待っているのです。
私たちは、その喜びを常に期待しながら生きるのです。