Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

「私をここに遣わしたのは神なのです」 創世記45:4−8

おはようございます。
御言葉の奉仕がゆだねられていることに、感謝します。

私たちは人生において色々選択をしながら生きているでしょう。
何を勉強するか、どの会社で働くか、どこに住むか、誰と結婚するか。
色々選択してきましたし、またこれからもするでしょう。
私たちの人生は、そのような一連の選択によって形成されているといってもよいかもしれません。
ところがまた、私たちはまた、自分が選択したものではないものによっても作られています。
例えば、生まれた場所、生まれた家庭環境や家族、あるいは人種や性別。
そういうものは私たちが選択したものではありませんね。
「誰も生んでくれと頼んだ覚えはない!」なんて反抗期の子供は言うかもしれませんが、自分の子供にそういうこと言われたら、ショックかもしれません。
私たちの人生は、自ら選択したものではないものによっても成り立っているのです。
いや、もしかすると、そういうもののほうが割合的には多いかもしれません。
そして、自分で選択したものの場合は仕方ないですが、そうではないものについては、時に不満が生じます。
自分が選択したら、まぁ、あきらめがつきます。
でもそうではないものについては、怒りや不満など、どこにぶつけたらいいのかわからない感情が生まれます。
そういうときに、今日のタイトルにもしたような言葉、「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができたとしたら、どんなにすばらしいでしょうか?
そういう風に言い切ることができたとしたら、私たちは、なんというか、「人生の勝利者」でしょうね。
そうじゃなかったら、いくらか意気消沈した人生を歩むことになるでしょう。
ヨセフは、まさに「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができました。
今日は、彼の歩みを見ながら、どうしたらそんな風に言えるのか、その秘訣を考えてみようと思います。

 

1.神様の恵みを体験する

初めに、45:4-5を読みます。

「ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(新改訳2017)

これは本当に素晴らしいシーンですね。
まずは、このシーンがどのような文脈で言われているのか確認するために、ヨセフの物語を簡単に振り返ってみましょう。
創世記は、途中から物語の中心がアブラハムの家系になります。
アブラハムについての話が続き、その後、子供のイサク、さらにその子供のヤコブへと話が続きます。
ヨセフは、そのヤコブの子供のひとりですが、ヤコブがだいぶ年を取ったときに生まれた子供でした。
そのため、ヤコブはヨセフを、ほかの兄弟たちよりもだいぶひいきにしてかわいがりました。
それによって、ヨセフのお兄さんたちからひどく嫉妬を受けるようになります。
また、ヨセフが兄たちの怒りを買うような夢を見て、それをみんなに言いふらしたりします。
その夢は、ヨセフの兄たちや両親が、ヨセフにひれ伏すようになる、という内容です。
そんな夢を調子こいて言われたら、兄の方としてはむかつきますね。
そこである日、兄たちは、ヨセフを殺そうとします。
でも殺すことはせずに、ヨセフを奴隷商人に、奴隷として売り飛ばします。
そしてヨセフは、エジプトの政府高官ポティファルという人物に買われます。
ヨセフはその家で働き、その働きぶりがよくて、奴隷たちの中で最も高い地位になります。
ところが、そのポティファルの妻に言いがかりをつけられて、牢屋に入れられます。
その牢屋で数年過ごしたのち、ヨセフは、エジプト王ファラオの夢を解読したことで、エジプトの首相となります。
そのファラオの夢とは、7年間の豊作の季節の後、7年間の飢饉がやってくるという内容でした。
そして、夢の通りに、エジプト、というかその中東全域で、7年間の豊作があり、7年間の飢饉がやってきます。
その飢饉のときに、ヨセフの兄たちは、まだ現在のイスラエルのあたりに住んでいましたが、食糧がなくなり困り果てます。
そして彼らは、エジプトの方には食糧が蓄えられていると聞き、エジプトに食糧を買いに行きます。
こうして、エジプトに行った兄たちは、エジプトで首相となったヨセフと出会うことになります。
初めは、ヨセフは自分の身分を隠していました。
その後いろいろありましたが、結局ヨセフは、自分の正体を兄たちに明かすことにします。
今日読んでいる箇所は、まさにその場面となります。

まさにそのときに、ヨセフは兄弟たちに向かって言うのです。
「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(45:5)
これは本当に素晴らしい内容ですね。
このヨセフの言葉には色々な側面がありますが、今は、そのうちの一つだけを取り上げます。
それは、「人間の視点」と「神様の視点」という側面です。
ヨセフは、兄たちによって奴隷として売られました。
これは「人間の視点」です。
人間による現実理解の仕方としては、兄たちがヨセフを、奴隷として商人に売りました。
しかしそれは、「神様の視点」では、ヨセフがエジプトに派遣されるという出来事だったのです。
同じ出来事が、人間の視点と神様の視点、二通りに理解することができるのです。
ここでヨセフが兄たちに言っているのは、ヨセフ自身を奴隷として売った出来事を、人間的な視点で見ないでください、ということです。
「心を痛める」とは、嘆き悲しむという意味であり、「自分を責める」は、文字通りには「怒りを抱く」という意味です。
兄たち自身は、ムカつく弟であるヨセフを売り飛ばして、そのときは心がすっきりしたのかもしれません。
しかし、父親のヤコブは、彼は兄たちから、ヨセフが死んだと報告されたこともあり、ヨセフを失ってからものすごく落ち込みます。
その父親の様子を毎日見ながら、兄たちはだんだん後悔する気持ちが出てきたのではないと思います。
また、兄の一人ルベンは、ヨセフに危害を加えることに反対していましたが、そのことで、ほかの兄弟たちに怒っている箇所もあります。
ヨセフを売った出来事を人間的に理解する限り、兄たちは後悔や怒りを抱くだけになります。
その兄たちに対してヨセフは、「自分を売った出来事を、そんな風に理解しないでください、自分の目で見るままに、人間的に理解しないでください」と語るのです。
「自分の目で見たままに理解したら、嘆き悲しんだり、いかったり、落ち込んだり、責め合ったりするばかりです。そうしないでください」と語るのです。
そして、神様の視点から見るように促すのです。


なーんでそんなことができるんかな?
だって、ヨセフは「超被害者」でしょう?
急に兄たちに捕らえられ、着てるものを脱がされ、奴隷にされてしまう。
エジプトに行って、そこでも濡れ衣を着せられて牢屋に入れられてしまう。
今は幸運にも、エジプトの首相の地位にいる。
そこに、かつて自分を攻撃した兄たちが来たら、ふつうは復讐しますね。
当時の中東で最も大きな国のエジプト、そのほぼトップに近い権力を持っているのですから、復讐し放題です。
「ようやくきやがったな。このときを待っていたぜ!」
でもそういうことはせず、むしろ逆に、兄たちのメンタルの心配をする。
なーんでそんなことができるんかな?

これは今日のテーマとも関わりますが、少しの間、ヨセフの生き方に関する聖書の記述を見てみて、そして考えてみましょう。
とはいっても、ヨセフの生き方について聖書が書いている記述はそれほど多くはありません。
すごく単純に、「主が共にいる」という記述だけです。
ヨセフがポティファルの家で働いていたとき、主がヨセフと共にいました(創世記39:2)。
また、監獄にいたときも、主がヨセフと共にいました(創世記39:21)。
これ以上の記述を聖書はしていないので、ヨセフが心のなかで何を考えていたのかは、実のところわかりません。
ただ、ほんの僅かだけ、ヨセフが結婚して子供が生まれたときに、ヨセフの内面に関する記述が現れます。
創世記41:51−52です。

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。」

ここからは、どうやらヨセフがどんなときも幸せだったわけではなさそうだ、ということが伺われるでしょう。
たしかに、神様はヨセフとともにいました。
そして、きっとヨセフも、神様と共にいようと心がけていたでしょう。
主の喜びとなりたい、そのような思いで、毎日、毎瞬間、生きていたでしょう。
けれども、「あぁ、神様が本当に私に目をかけて、報いてくださった!」と思うようになるのには、時間がかかったのではないか。
牢屋から出る。
宰相の地位になる。
結婚する。
子供が生まれる。
これらは、本当にヨセフの努力や頑張りではどうにもならない状況の変化です。
こうしたものを通じて、「あぁ、神様が本当に私を豊かにしてくださった!」と実感したのでしょう。
そしてこのことは逆に言うと、それまでずっとヨセフは、奴隷としてエジプトに連れられてきたことを根に持ちながら生きてきた、ということでもあります。
その過去の出来事が、常に心のなかに引っかかりながら生きてきたのです。

こうしたヨセフの歩みを見ながら、私はこういうことが言えると思うのです。
それは、神様の恵みを体験することは大切だ、ということです。
そして、ヨセフが兄たちに復讐することなく、むしろ赦すことができた理由の一つも、ヨセフが神様の恵みを体験していたからだ、そう言えると思うのです。

「恵みを体験する」とはどういうことでしょうか?
詩編34:8は次のように語っています。

「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」(新改訳2017)

「いつくしみ深い」という箇所は、英語では単にgoodと訳しています。
原文でもそうなのですね。
「主が本当に良いお方であること、それを味わい、見なさい!」
この詩編はそう語っています。

「味わう」という言葉は、いい言葉ですよね。
難しく言うと「享受する」とでも言えるのですが、単に「味わう」で十分です。
私たちが食べ物を「味わう」とは、いったいどういう状態でしょうか?
「これは、お酒としょうゆとみりんの割合が、1:1:1か。お、この食材は少しゆですぎだな。」そんな風に分析しながら食べることではないですね。
あるいは、「これを作ってくれた人は私の上司の妻なので、気分を悪くさせないために、どんな味でも美味しそうな顔をしないといけない。主よ、どうか私の顔の表情を守ってください!」そういう風に、人々を気にしながら食べることでもないですね。
あるいは、「うん、これはすしだ。うん、これは牛丼だ。うん、これはイタリア風サラダだ。」そんな風に、カテゴリー化して食べることでもないですね。
私たちが食べ物を「味わう」というとき、それは、食べ物を分析したり、作ってくれた人を色々配慮したり、あるいは、ただ料理名だけを確認したり、そういうことを意味しているのではないでしょう。
「味わう」というのは、本当に、その料理を、純粋に楽しむことを意味しています。
おいしいなぁ、ちょっとまずいなぁ、酸っぱいなぁ。
色んな余計なものを置いといて、その食べ物を味わい、楽しむ、それに集中することですね。

詩編が語っているのは、私たちは、神様が本当に良いお方であることを、ただ素直に味わいなさい、ということです。
でもこれが、信仰生活を送っていると、だんだん難しくなって行ったりしますね。
最初は、他の人の祈りを聞いていても、ただ「あぁ、素晴らしいなぁ」と思うだけだったのに、いつのまにか「あの祈りは、神学的にどうなのか? ちょっとおかしいのではないか?」などと考えるようになります。
そして、祈る人と一緒に心を合わせて祈るよりも、その祈りを批評的に聞いている自分に気づくようになります。
あるいは、最初はイエス様のすばらしさに心が躍って生きていたのに、「他人に証をしないと、愛のある私でないと!」などと思いながら、自分を固くしていってしまいます。
そして、イエス様を心から感動する心を失ったまま、人の見える姿では「恵まれた表情」をするようにしてしまいます。
そのように信仰生活を送りながら、私たちは、しばしば、神様が本当に良いお方であることを、味わうことなく過ごしてしまいます。

子供から大人に成長するとき、だんだん物事を複雑に考えるようになります。
「複雑に」というのは、実は、「多角的に」ということですね。
子供は、自分の視点から見たものをすべてと思いがちですが、成長するにしたがって、他の視点から見た場合を考えるようになります。
これが成長です。
でも、そのように多角的に見るだけだと、単に混乱するだけなのですね。
情報が多くなるだけだと、ただ単に判断に迷うだけになります。
大人になった人間が、さらに成長しようとするためには、子供と同じように、単純になる必要があります。
でもそれは、ただ単に子供に戻る、ということではありません。
様々な角度からの理解を踏まえたうえで、「本当に大切なもの」に目を向ける、ということです。
「これも、あれも、それも、どれも大切なんだけど、これが本当に大切なことだ!」そういう一つのことに目を向けることです。
これが、大人にとっての「単純になる」ということです。

クリスチャンの信仰の歩みにとっても、これは当てはまるでしょう。
クリスチャンになって、聖書も良く読むようになって、神学的なことも多少はわかるようになって、また、教会での振る舞い方というのも分かるようになって、いろんなことがわかるようになって、では、「本当に大切なことは何か?」、それが実はおろそかになる。
大切なことは何でしょうか?
主が良いお方であることを、味わう心です。
主が本当に良いお方、素晴らしいお方、憐れみ深く、慈しみ深いお方である、そのことを深く味わい、楽しみ、喜ぶ、単純な心なのです。
これが、どんなときも、どんな状況でも、ベースになければなりません。
私たちは、主の恵みを味わう心を、忘れないようにしましょう。

ヨセフは、主の恵みを本当に味わったのだと思います。
十分に味わったのでしょう。
そうしながら、過去に負った自分の心の傷が、徐々に癒されていったのではないでしょうか?
突然お兄さんたちに襲われ、そして、一人で言葉も分からない外国で、奴隷となるのです。
そこでもさらに苦難が続いた。
そういう歩みで受けた傷が、牢屋から出て、結婚して、子供が生まれて、という生活の中で、またそこにはもちろん、普通の家庭生活の一瞬一瞬の出来事もあるでしょうが、そういう全てを通じて、癒されていったのでしょう。
その毎日の歩みのなかで、神様の恵みを少しずつ味わっていったのでしょう。
それがヨセフだったのです。


2.神様の計画を悟る

神様の恵みを体験していたこと、これが、ヨセフが今日の本文にあるように「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができるようになった、一つの理由です。
もう一つの理由は、ヨセフが、神様の救いの計画を悟り、その計画の中における自分の使命を悟っていたことであります。
45:7-8を読みましょう。

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」(新改訳2017)

ここでは特に45:7の「大いなる救いによって」の「よって」の部分を考えます。
これは前置詞の翻訳なのですが、この前置詞を「よって」と手段のように解釈するのは、あまり例がありません。
通常は「…のために」「…に向かって」、つまり英語のfor、あるいは、「…として」つまり英語のasと同じように使われます。
あるいはまた、英語のbelonging to 「…に属する」の意味で使われることも多いです。
私は、この7節は、意味的にはこのasやbelonging toが適当なのではないかと考えます。
つまり、「残りの者をこの地に残す」ことと「あなたがたを生き延びさせる」こと、それ自体が「大いなる救い」、あるいはそれに属する事柄なのです。
「大いなる救い」として、お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトにやってきて生きることがあります。
いや、もっと言うならば、ヨセフがエジプトの宰相になったこともまた、「大いなる救い」の一部でしょう。
さらには、ヨセフがエジプトに売り渡されるときから、既に「大いなる救い」は始まっていたともいえます。
要するに、ヨセフが生まれ、お兄さんたちの嫉妬を受けてエジプトに売り渡され、そのエジプトで奴隷として働き、囚人となり、そして宰相となる――これらすべてがまさに「大いなる救いとして」存在していた、あるいは、「大いなる救いに属していた」ということです。
ヨセフは、そのことを悟っていたのです。
自分の人生が、神様が導いている「大いなる救い」のまさに一部であることを悟っていたのです。
お父さんの家にいたときは分からなかった。
エジプトに売られたときも分からなかった。
囚人の時も分からなかったかもしれません。
しかし、突然エジプトの宰相となり、エジプトの国を、そしてその周辺諸国を導くような立場になりながら、彼は悟っていったのではないでしょうか?
自分の人生は、自分が導いているのではなく、神様が導いているのだ、ということを。
そして、自分の人生が、神様の「大いなる救い」の一部としてまさに存在しているのだ、ということを、悟っていたのではないでしょうか?
そして、ヨセフはそのことを十分に悟っていたからこそ、「私をここに遣わしたのは神なのです」と語ることができたのだと思うのです。

このことは、今の私たちにとっても、とても意味のあることです。
エフェソ書の有名な1:4−5を読みます。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(新改訳2017)

私たちは、イエス様を信じることによって救われました。
しかし、そのことも天地創造の前から神様の計画にあったことなのです。
そして、救われた私たちは、まさにその神様の計画の中を生きているのです。
これはとても驚くべきことだといえるでしょう。
どのような瞬間も、私たちは神様の救いの計画の中を生きている、ということなのです。
だから、こうも言えるのです。
ヨセフが、エジプトに売られ、奴隷として生活し牢屋に入れられた、そのことが「神様の計画」ではないところで起きた偶然な出来事や不幸ではなく、そうした出来事もまた「神様の救いの計画の一部」である、
それとまったく同じように、
私たちが、今現在どのような状態にあろうとも――思いがけない形で、自分が今までと異なる境遇に陥っても、病気になっても、失業しても、苦しみにあったとしても、それらは、神様の計画とは別のものではなく、それらもまた、神様の救いの計画の一部なのだ、と。
そのように言うことができるのです。
この事実は、大変恵み豊かなことです。


私がこの創世記45章の御言葉を頻繁に考えるようになったのは、今からちょうど二年前ぐらいですね。
その時、ふとこの御言葉を読みながら、「自分は、まだヨセフと同じように語ることはできない」と思ったのでした。
それにはこういう事情があります。
私は二年前の8月まで、つまり2018年の8月まで京都の教会で伝道師として働いていたのですが、その頃、妻が精神的に疲れてしまい、しばらく京都から離れたほうがいいということで、休みをいただきました。
そして、仙台に私の実家で所有しているアパートの一室があり、長期滞在が許されたので、そこでしばらく静養することにしました。
ところが、そのように生活しながら、私自身は、内面的にはイライラしてばかりいました。
休みを頂いた頃、京都の教会では、いろいろ教会改革しようとしていた頃で、変化がありました。
そして私自身も、「教会をこのようにしていけばいいだろう」と色々考えていました。
まさにそのときに、そこの教会から離れることになったのです。
頭では、自分が京都から離れて仙台にいることを理解していました。
「創世記にあるように、夫と妻は一体なのだから、妻が弱っていたら夫はそれを支えるように生きないといけない。そしていまはそのために休暇を頂いて、京都から離れているのだ。」
そのように理解していました。
しかし、心の方では、納得していないのでした。
20代後半にクリスチャンになって以降、イエス様と教会は私の人生の中心であり、人生の多くの時間を伝道や教会の働きや活動にささげてきました。
教会というのが人生の殆どであり、生きる意味であり、また生きがいの対象でもありました。
ところが、今やそこから離れているのです。
そして、SNSなどを通じて教会の様子が情報として色々入ってきます。
それを見ると、すごくしっかり教会の運営がされているようにみえるのですね。
イキイキしているようにみえるんですよ。
そこで、私はイライラするようになりました。
「本当は、自分もそこにいるはずなのに」という悔しさがありました。
またそれだけでなく、同世代の献身者たちがそれぞれ教会を牧会しているのを見聞きしても、嫉妬もあり、自分がそれをできない、できていないことで、イライラしました。
フェイスブックを見るのも嫌になりました。

だから、頭と心、理性と感情で、バラバラだったのです。
京都を離れて仙台に行くことは、まさに自分が決めたことです。
それは、頭ではわかっていました。
しかし心の方では、私は京都から追い出されて、仙台に送られた、そのように感じていたのです。
つまり、心の方では、私は被害者意識をもっていたのです。
だからイライラしていたのでした。

そのような心の状態のときに、創世記45章を読みました。
そしてこう思ったんですね――ヨセフは、「神が私をエジプトに遣わした」と言っているけれど、自分には、まだそのように思うことはできないな、と。
「私はまだ、京都から追い出されていると感じている」と思ったのでした。
しかしながら、ヨセフが告白したように自分も告白すること、それが正しいことだし、そのように告白することができるようになることが、自分にとっての目標だな、ということも同時に覚えたのでした。
「京都から追い出されて、仙台に来た」のではなく、「神様が私を仙台に、あるいは宮城県に遣わしたのだ」そのように心から思い、納得するようになることが、自分にとって、そして夫婦にとっての目標だ、と思いました。

仙台に来てから、もう二年以上が過ぎました。
この期間を通じて私は、だんだん「神様が私をここに遣わした」ことを、納得するようになってきました。
そのような心境の変化は、やはり神様の計画を悟ることにあると思います。
仙台に来てしばらくして、京都にいたときには気づいていなかった、あるいは、特に表面化していなかった自分の課題や弱点があることに気づきました。
そして、神様が私を仙台に送ったのは、私自身が、その課題や弱点を克服し、成長させるためであると納得するようになりました。
神様が、「あなたはその教会、その組織にいては、自分の弱さを成長させることができない」と考え、そしてそこから出るように導いたのだとわかりました。
そしてまた、私も妻も、神様の恵みを味わうことを大切にしながら、この二年間を過ごしてきました。
働く場所が与えられ、ちょうどヨセフと同じかもしれませんが、娘も生まれました。
毎日を、一日一日夫婦で共に歩むという、この当たり前のことを二年間し続けながら、私も妻も、静かに、本当に静かに、癒されていきました。
もし私たちが、神様の計画、神様の意思、それを本当に悟り、心から納得するならば、この人生を「被害者」として生きるのではなく、神様の素晴らしい計画の「主人公」として生きることができるようになるでしょう。
私自身は、まだ神様の計画を十分に悟ってはいませんが、悟ることができる日が来ると信じています。


さて、最後に言い残したことがあります。
ヨセフが神様の計画を十分に悟り、その計画の中で自分に与えられた使命を悟ったとき、ヨセフの人生において一つの偉大な出来事が実現されます。
それは何か?
赦しと和解です。
ヨセフが神様の計画を悟ることで、ヨセフは、お兄さんたちを赦すことができるようになったのです。
もう説明するまでもないでしょう。
私たちの人生における本当に偉大な出来事は、赦しと和解です。
ヨセフの人生においても、奴隷にされたり、えん罪で牢屋に入れられたりもしたヨセフの人生においても、赦しと和解が実現したのです。

私たちには、赦せない人物や事件、出来事はあるでしょうか?
もし、それらもまた、神様の救いの計画の一部であるとしたら、どうでしょうか?
もしそうであるなら、これは素晴らしいことでしょう。
イライラがある、怒りがある、憎しみがある、そういう人生は、そのような感情を抱く本人にとって不幸です。
赦すことのできる人生とは、どれほど心が軽く、幸せなことでしょうか?
しかし私たちは、「クリスチャンだから赦さないといけない!」とは考えないようにしましょう。
そうした義務感によって赦しの心は与えられません。
むしろ、神様の計画を悟り、赦しの心が自然に与えられるときを待ち望みましょう。
そのような時を私たちは期待してよいのであり、期待すべきなのです。

主は良いお方です。
その主の豊かな恵みを十分に体験しましょう。
そして、人間の目、肉の目で出来事を見るのではなく、神様の目で出来事を見るようにしましょう。
そのように日々歩みながら神様の救いの計画を悟り、そして、その計画の中での自分の役割を悟るようになるならば、私たちは、被害者として人生を生きるのではなく、主人公として生きることができるようになり、そしてなにより、赦しの心を持つことができるようになります。
そのような時が来ることを、祈りつつ、期待しながら歩んでいきましょう。

 

裁きの中の憐れみ

裁きの中の憐れみ 創世記3:20−24

 

おはようございます。
前回までは、創世記の本当に最初の物語が、私たちが生きている現実の根幹をなしているということを語るために、ずいぶん抽象的な話を続けてまいりました。
自然について、また、人間と自然との関係について、人間と人間との関係について、人間の使命について、などなどを、創世記についてメッセージする中で扱ってまいりました。
それも前回で終わりました。
今日からは、メッセージはもう少し一般的なものになって行くと思います。

さて、今日のタイトルは「裁きの中の憐れみ」です。
裁き、つまり罰のことですが、私たちは、罰を与える側になることもあれば、罰を受ける立場になることもあるでしょう。
罰を「与える」のも「受ける」のも、罰というものの性質を考えるとき、私たち人間はとても苦しむものです。
神様は、創世記の3章の後半において、人間への裁きのことばを語り、また実行しています。
しかしそのなかには、同時にまた、憐れみも含まれております。
一見するととてもわかりにくいですが、たしかに神様の憐れみがあります。
今日はそれを順番に確認していこうと思います。
神様は3つの仕方でアダムとエバに憐れみを与えました。
まず、「希望を与える」という仕方で、
つぎに、皮の衣を作ってアダムとエバを覆うという仕方で、
最後に、二人を追放するという仕方で、です。
これらを順番に確認しながら、私たちは、神様の恵みを理解していきたいと思います。

 

1.神は希望を与える

まず最初に、神様は希望を与えるという仕方で憐れんだという点についてです。
3:20を読みましょう。

「人は妻の名をエバと読んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。」(創世記3:20)

エバ」と日本語で表記されていますが、これはヘブライ語の発音では「ハウァ」です。
韓国人のクリスチャンがよくエバのことを「ハウァ」と呼んでいて、最初は何のことかわからなかったのですが、韓国語聖書がエバを「ハウァ」と訳しているのです。
とてもヘブライ語の音に近いかたちで翻訳しています。
この「ハウァ」という名前は、「生きる」を意味する動詞の「ハーヤー」に基づいています。
新共同訳は、ここを訳す際に、「エバ(命)」としています。
おおよそそのような意味です。

カルヴァンは、この20節が、創世記の話の中の「いつ」の出来事なのか、という問いを立てています。
ヘブライの動詞の時制は、完了形と未完了形という二つだけです。
そして完了形の場合には、過去の完了も、現在の完了も、未来の完了も、すべて表現することができます。
これがとても特徴的です。
文脈に応じて、その完了形が、過去のことなのか、今のことなのか、あるいは将来のことなのか、変わってくるのです。
そしてこの20節では完了形が使われているので、これだけでは、この20節が「いつ」の出来事なのか、実はわかりません。
なのでカルヴァンのような問いも出てきます。

それでは、この20節は「いつ」の出来事でしょうか?
もし20節の動詞が「過去完了」である場合には、この20節は、アダムとエバが蛇に誘惑されて罪を犯す事件よりも「前」のことだと考えることができます。
すると、20節は例えばこういうことを言おうとしている、と考えられます。

「アダムは妻を、ハウァと呼んでいた。全ての生きるものは彼女から生まれるからだった。
それなのに、彼女は蛇に誘惑されて、罪を犯し、アダムにも罪を犯すように仕向けた。
それによって、二人は死ぬべき存在になった。
彼女は生きるものの「母」だったのに、「死」を招き入れた張本人だった――。」

要するに、このように考えると、20節は、〈エバは「生きるものすべての母」だったのに、残念なことになってしまったなぁ〉と、失望、落胆を表現する箇所だということになります。

カルヴァンはもう一つの可能性として、現在完了形、つまりただの過去形の場合を上げています。
新改訳2017もそのように翻訳しています。
この場合、この20節の出来事は、19節までの話の「後」のこととなります。
すると、先程の解釈だと20節は、失望、落胆を意味していたのですが、今度は、喜び、感謝を意味するようになります。
どういうことでしょうか?
アダムとエバが犯した罪に対する裁きの言葉は14節から続いています。
そこから色々なことが分かりますが、2つのポイントが今は関係します。
一つは、「アダムとエバはすぐに死ぬわけではない」ということです。
罰を受けてすぐに死ぬわけではなく、エデンの園の外で労働する生き方をすることになります。
すぐには死なないのです。
もう一つは、「蛇がアダムとエバの子孫によって打ち砕かれる」という点です。
神様はこれを約束します。
この約束は、もっと言えば、アダムとエバの子孫の中から、ただ単にこの世の命を与えるだけではなく、永遠の命を与える存在が生まれるということ、そのお方が、罪を滅ぼし、死を滅ぼし、神の国を実現させるということ、これも意味しているのです。
これが希望です。
神様はこのような形で人間に希望を与えたのです。
そしてアダムは、神様の言葉からその希望のメッセージを受け取るのです。
「自分たちは罪を犯した。そして、死を生み出してしまった。しかし神様は、私たちの子孫から、死を滅ぼし、永遠の命を与える存在を誕生させてくださるのだ!」
というわけです。
私たちは、自分が犯した失敗が、予想外に大きな影響を及ぼすことになると知ったら、すごく焦りますね。
その後で、実は影響がそんな広範囲には及ばないとわかったら、どんなに安心するでしょうか。
アダムは、それに近い気持ちだったということです。
そこで喜びが湧き上がってきた。
そして、妻の名前をハウァ、「生きる」あるいは「命」とするのです。

このように理解すると、この箇所は、聖書で度々現れる「名付ける」出来事の一部だと考えることができます。
モーセ、ゲルショム、色々あるでしょう。
そして思い出してほしいのですが、そういう場合、しばしば日本語だと、カギ括弧を使って名前の由来を説明していたりしますね。
ここもそうすることができるでしょう。
その場合、「彼女が、生きるものすべての母だからであった」は、未来の出来事として解釈し、将来に対する預言の内容だと読むことができます。
つまり、「彼女は、生きるものすべての母になっているだろうから」というわけです。
そうすると、この箇所は次のような意味になります。

「アダムは妻の名前をハウァとした。
なぜなら、彼女は、神様が約束されたお方が生まれるとき、そして蛇を打ち砕くときには、まさに生きるものすべての「母」になっていることだろうからである。」

これはまさに、アダムの神様の言葉に対する信仰を表現する内容なのです。

神様は、3:14−19にわたって裁きの言葉を語ります。
その中には、アダムとエバの子孫から、蛇を打ち砕くお方、つまりメシアが誕生するという約束がありました。
それが希望です。
アダムはその希望を受け取り、喜びから、妻の名前を「ハウァ」としたのでした。

 

 

2.神は皮の衣をもって人間を覆う

次に、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてあげました。
3:21を読みます。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」

ここで「皮の衣」が作られるということは、神様は動物を殺しているのですね。
殺して、動物の血を流している、ということです。
ここに、後の「いけにえ制度」の出発点を見る人々は多くおります。
レビ記を読んでいくならば、個人の罪、共同体の罪、リーダーの罪、祭司の罪、それらを赦してもらうために、牛や羊や鳩が犠牲になっていたことを知るでしょう。
そのようないけにえ制度の出発点がこの箇所だというのです。

このいけにえ制度ですが、言葉で言うとすごく簡単なことですが、実際の様子を想像すると、すごく大変なことだと思います。
鳩はまだ小さいですが、羊でさえも、結構大きいです。
牛も、実際に見るとわかりますが、かなり大きいです。
レビ記では、その動物を祭司の前に連れて行って、そこでその動物を屠る、つまり殺す、と書かれています。
「果たして、簡単に殺せたのだろうか?」と思います。
「あの大きな牛を一発で殺すのは、無理なのではないか? だとすると、どこかに刃物を入れて、出血しながら弱っていくのを待ったり、あるいは、何度か刃物を入れないといけないのではないか?」
そう思いながら、ネットで調べてみると、現代のイスラームの犠牲祭の様子が出てきました。
その犠牲祭では、牛がいけにえになっていて、その様子を紹介しているページがいくつかあり、見てみました。
そうすると、だいたい次のように牛を屠っているのがわかりました。
牛の足をロープで縛って、また顔と柱をロープで繋いで、その上で、数人で牛を押さえる。
そして、首を切り裂く。
血が激しく飛び散り、そして牛は死んでいく。
すごい姿です。
古代イスラエルにおける屠り方と、現代イスラームの犠牲祭での屠り方が同じとは限りませんが、現代的器具を使わない点で、だいぶ近いのではないかと推測されます。
そうすると、古代イスラエルで「牛を屠る」ということは、大変なこと、壮絶なことだっただろうと想像できます。

「私の罪のゆえに、一つの動物の命が奪われる。」
これは本当にすごいことです。
すごいというか、尋常でないというか、大変というか、ともかく、凄まじいことです。
私たちは、自分の罪というのがどれほど由々しいものか、あまり実感できなかったりしますが、罪の重さ、あるいは、罪が神様にとってどれほど忌まわしいものであるか、それを実感する方法として、一つの動物の命が奪われるというのは、効果的だったのかもしれません。
動物は、もちろん家畜であり財産ではありましたが、やはり「命」です。
動物を飼っている人なら、動物それぞれに個性があり、表情も違うことも知っているでしょう。
そういう動物を縛り上げて、身動きできない状態にして、それでも暴れるのを必死で取り押さえながら、首を切り裂く。
「私の罪」とは、それほどまでに重大なものなのです。
このことは逆に言うと、私の命は、それほどまでに神様にとって尊いということでもあります。
罪ある者は神様とともにいることはできません。
しかし神様は、その罪人そのものは愛しております。
だから、その罪を解決する手段をお与えになりました。
それが旧約においては「いけにえ」という方法です。
この「いけにえ」によって神様は、それを捧げた人間の罪をないものとし、人間と和解することにしていたのです。
大切にしてきた家畜を自分の手で屠るのは、大変苦しく辛い経験でしょう。
それは一種の罰かもしれない。
そして、「こういう苦しい思いをするなら、もう、罪を犯すことはできない」と人が決意するように導くかもしれません。
また同時にそれは、神様が、動物の命よりも遥かに人間の命を大切にしている、ということをも表しているのです。

「私の罪のゆえに、一つの動物の命が奪われる。」
今読んでいる3:21は、この旧約における罪の贖いの方式を示しています。
さらには、新約のイエス様の十字架も示しているでしょう。
エス様もまた、私たちの罪の身代わりとなって十字架上で血を流され、死なれたからです。
そして、この箇所で忘れてはならない重要な点は、ここに、神様の特有の救いの方法が示されていることです。
どいうことかというと、「罪を代わりに引き受ける存在、それを神様ご自身が用意する、そして、赦しを一方的に与える」ということです。
ちょうどアブラハムがイサクを捧げようとするときに、神様が身代わりとなる羊を用意したようにです。
アダムもエバも、自ら動物を殺そうとしたわけではないでしょう。
神様が一方的に動物を殺し、その皮によって衣服を作ったのです。
ヘブライ語では、「赦す」という言葉と「覆う」という言葉は同じ単語を用います。
神様自身が、罪を赦すためのあらゆる準備をして、そして、罪を一方的に赦し、罪を「覆って」、罪を見えなくしたのです

娘が生まれて、その成長の速さに驚いています。
それと同時に、自分の子供の頃を思い出すことがよくあります。
親目線で子供の成長を見ると、一年、一年がとても早く過ぎ去っていきます。
でも子供の頃のことを考えると、一年はとても長く感じていたと思うのです。
だから、親から見ると「まだまだ子供だ!」と思っていても、子供の方では「もう自分は大人と同じようにできるんだ!」と思ったりする、そういうズレが出たりします。
そして、自分の子供の頃のこと、また思春期のことを思い出すと、ずいぶん色々悪いことをしていたものだ、と思うのです。
それは、もちろん大人になってから私のことを知っている人は、知らない。
私自身も、ほとんど忘れてしまっていたりする。
でも、たしかにそういう悪いことをしていた、それは確かなのです。
そいういう罪のほとんど全ては、「覆われて」います。
誰の目からも、自分の目からさえも「覆われて」います。
「覆われている」ので、何事もなく平和に過ごすことができます。
しかし、果たしてそれで満足していいのだろうか?

ヨハネス・クリュソストモスというギリシア教父がいます。
ちょうどアウグスティヌスと同時代の人です。
彼がこの箇所でしている説教の中で、この神様がアダムとエバに着せた皮の衣は、彼ら二人に自分たちの不従順を思い起こさせることになっただろうと語っています。
この指摘はすごく意味深いですね。

エス様を信じる前のことはひとまずおいておくとしても、イエス様を信じるようになった後、罪とは、基本的には「不従順」のことです。
何かをするかしないかの問題ではなく、私の「心」が、神様の御旨に従おうとしたか否かの問題です。
それは、誰の目にも「隠れて」います。
不従順は、私と神様だけが知っていることです。
他人に対しては、「主の御心ではありませんでした」とか、「主の導きがありませんでした」とか言っておけば、ごまかせる、というか「隠す」ことができます。
しかし不従順は、他人はごまかせても、私と神様をごまかすことはできないのです。

ところが神様は、恵みによって、私のそのような不従順を「覆って」くださいます。
問題はそこです。
そのとき、「どのような心の姿勢を取るのか?」が信仰的には大切なのです。
ここで、先程のクリュソストモスの言葉が意味を持ちます。
私たちは、罪を神様に覆っていただいて、そして「平和」な生活を送っています。
そのときに、その「平和」な生活を、ただ単に「ラッキー」なこととするのではなく、神様の恵みとして受け取る、つまり、ちょうど「皮の衣」と同じようなものとして受け取るのです。
すると、その平和な生活は、私の不従順が赦された「結果」与えられているものとなるでしょう。
そのときには、私はその平和な生活を、神様の「憐れみ」として受け取り、自分の不従順にもかかわらず神様が「覆い」をかけてくださっていることに、感謝を抱くようになるでしょう。
そのとき私たちはどうするのでしょう?
密室の祈り――つまり、誰にも気づかれない、心の奥深くでの祈りをするようになります。
危機のときに動き出すのは、誰でもすることです。
危機ではないとき、つまり平和なときに動き出すとき、人は本物なのです。
私たちは、イエス様を信じるものとして、本物であるようにしましょう。
平和なときに密室で祈り、そして私と神様だけが知っている罪を悔い改め、生き方を変える。
それこそが、イエス様に真実に従う姿勢なのです。
私たちは、一見穏やかで、何事もなく時間が過ぎている、その「平和なとき」を真剣に受け取るようにしましょう。

 

 

3.神は二人を追放した。

最後に、神様は、アダムとエバを楽園から追放しました。
憐れみをもって二人を追放しました。
最後にこの点を確認します。
3:22を読みます。

神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記3:22)

この箇所は昔から難解なところとして有名です。
というのも、普通に読み進めてみると、ここで神様が語っている内容からは、蛇が言っていたことが正しいように思われるからです。
創世記3:5の蛇の言葉は、「善悪の知識の木の実を食べると、神様と同じように善悪を知るようになる」ということだけを語っているわけではありません。
その言葉は暗に、神様はアダムとエバが、ご自分と対等な存在になることを望んではいない、アダムとエバがいつまでも「従属的」な存在であることを望んでいる、そのために「食べたら死ぬ」という脅しの言葉も語った、ということも語っているのです。
つまり、神様が「自分本位」で「嘘つきだ」、ということを示唆しているのです。
そしてこの3:22を見ると、確かに神様は、人間がご自分と等しい存在になることを望んでいないように見えるのです。
「永遠に生きることがないようにしよう」ということの理由が書かれていないだけに、余計そのように見えます。
ところで、こうした解釈は、たしかに創世記3章だけを見るならばそれなりに成立します。
しかし、聖書全体を見たときには、つまり、神様が人間を救うという聖書全体に一貫しているメッセージを踏まえたときには、逆に成立しません。
では、聖書全体と一致した形でこの箇所を解釈するにはどうすればいいのでしょうか?

この箇所に関する注釈を読むと、はじめに出てくるのが、「人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」という言葉を、皮肉と考える解釈です。
私の調べですと、カルヴァンや、先程語ったクリュソストモスにまで遡れる解釈です。
皮肉というのは、文字通り語っている言葉と逆の意味を伝える言い方ですね。
あまり美味しくない料理を食べて、「とても美味しくて、頭がくらくらするほどです!」みたいに言うことです。
このように考えると、たしかにある部分では問題がなくなります。
しかし私は、神様が「皮肉を語る」というのはどうも神様のご性質から考えておかしいのではないかと思います。
「皮肉」というのは、ちょっと嫌味な攻撃の仕方です。
それは神様の方法ではないように思います。
神様はほとんどの場合で、もっと直接的に語っています。
非難する言葉も、間接的にではなく、直接に語ります。
そのように飾りっけなくストレートに非難するところにこそ、神様の愛があります。
皮肉というのは、そういう神様の人間に対する接し方、他の聖書の箇所でたくさん見られる接し方とは相容れないです。

だから、この「人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」という言葉は、皮肉、つまり、本当は「嘘」だという言葉ではなく、まさにそのとおり、文字通りに受け取るべき言葉なのです。
そのように受け取るとき、どのように理解できるのでしょうか?
私はこの点では、アメリカのジョン・マッカーサー先生の解釈が妥当だと考えています。
その解釈のポイントは2つあります。
一つは、「善悪を知る」という言葉の内容に関してです。
アダムとエバは、たしかに善悪を知ったのです。
ただしそれは、彼らが「罪を犯す」ことを通じて、体験的に知ったものでした。
罪を犯すことで、悪の恐ろしさ、そして善の価値を体験的に、身震いするような恐ろしさとともに知ったのです。
自分たちがしたことの影響の大きさを知り、恐ろしさ、後悔、いろんなものを感じたでしょう。
神様は、最初から悪の恐ろしさはご存知です。
しかし人間は知らない。
だから誘惑されて、罪を犯し、善悪の本当の意味を知るようになった。
アダムとエバは、こうした意味で、たしかに「善悪を知るようになった」のです。

二つめのポイントは、神様がこの言葉を語るときの「感情」に関わっています。
マッカーサー先生は、神様は「憐れみ」の心から語っていると言っています。
先程の「皮肉」とする解釈ですと、神様の心は「非難」「攻撃」「軽蔑」だとされます。
しかしマッカーサー先生は、ここでの神様は、罪を犯し、善悪を体験的に知るようになった人間に対して「憐れみ」を抱いていると考えます。
私もこの解釈が妥当だと思います。
言い方で表現できるかどうかわかりませんが、やってみます。
「皮肉」とする解釈ですと、こうです。
「善悪を知るようになったんだとさ! へー、おめでたいことだ! 拍手!」
「憐れみ」とする解釈ですと、こうです。
「善悪を知るようになってしまったのか。かわいそうに......。」
うまくニュアンスの違いが伝わったかわかりませんが、ともかく神様は、罪を犯し、事の重大さを知って恐ろしくなったアダムとエバに対し、憐れみを抱いているのです。

そこで、22節後半の言葉も、その流れで理解できます。
神様がアダムとエバを命の木から食べられないように、楽園から追放するのも、神様の憐れみ、ご配慮からなのです。
もしアダムとエバが命の木の実を食べて、永遠に生きるものになってしまったらどうなるでしょうか?
彼らは依然として罪を犯しやすい状態であり、また、二人の関係も、前回述べたように、創造された当初の状態とは異なり、支配と隷属によって成り立つものに変わってしまいました。
それはつまり、不幸で、苦しみの多い生活を意味します。
そういう苦しみの多い状態で「永遠に生きる」ことになるのは、それこそ激しい罰と言えるでしょう。
やはり「永遠に生きる」場合には、「幸せな状態」で生きたいものでしょう。
神様は、苦しみが永遠に続くことのないように、憐れみを持って二人をエデンの園から追放したのでした。

「憐れみを持って追放した。」
何か奇妙な感じがしますね。
「追放」という言葉はネガティブなイメージがあるので、それと「憐れみ」というのは、どうも調和しないように感じます。
ところが、「追放」をもう少し一般化して、「自分がいたいと思う場所にいられなくなること」と捉えるとどうでしょう?
そうしたケースは聖書では数多くあることに気づくでしょう。
例えばダビデは、サウルに仕え、イスラエルに勝利をもたらしていましたが、あまりにも勝ちすぎることで、人々からの人気が高まり、それによってサウルから嫉妬を受けるようになります。
そしてサウルから殺されそうになり、イスラエルから逃亡することになります。
また、使徒言行録を見るならば、パウロがある地域で宣教を行っていたら、ユダヤ人たちによる迫害が強まり、もはやそこに滞在することができなくなってしまい、別の場所に移動する、というケースを何度も見ることができるでしょう。
出エジプト記モーセもそうかもしれません。
エジプトで成長し、奴隷とされたユダヤ人がエジプト人虐げられているの見て、そのエジプト人を殺してしまい、そのことでエジプトにいられなくなり、ミディアンの荒れ野に逃亡します。
このように、聖書には「自分がいたいと思う場所にいられなくなる」出来事がたくさん描かれています。
忘れてはいけません、一番大規模なのは、バビロン捕囚ですね。
南ユダがバビロンに滅ぼされて、大量のユダヤ人たちが捕虜としてバビロンに連れられていきます。
彼らもまた、「いたいと望む場所」、つまり故郷から追放された人々でした。

「自分がいたいと思う場所にいられなくなる」。
これは苦しく、つらい経験ですね。
例えば、「家」のことを考えてみましょう。
自分がずっと住んでいた家は、きれいでも汚くても、ともかく「居心地」がいいですね。
すべてのものが慣れ親しんでいて、どこに何があるかも知っていて、なんなら、目をつぶっても歩くことができる。
また、それぞれの部屋や、家具や、あるいは柱や壁には、みんな思い出がある。
私の娘が、本が好きで――というのは、読むのが好きなのではなく、本をぐちゃぐちゃにするのが好きで、家族で毎朝読んでいる『ハイデルベルク信仰問答』もぐちゃぐちゃにしてしまうのですが、昔だったら、そういう本を見たら、ただ単に「あぁ、残念なことになったなぁ」と思ったところです。
もしかしたら、「もう一冊同じ本を買おうかな」と思ったかもしれません。
ところが今では、ぐちゃぐちゃになった本もまた大切な思い出となっています。
家には、それこそいろんな傷があるものですね。
でもその色々な傷が、単なる「欠点」ではなく、家族が生きて、共に成長してきた証、大切な思い出となっているのです。
色んな思い出や記憶が「家」には詰まっている。
そればかりではありません。
家から見える風景、家の中で聞こえる外の様々な音。
家の外を出歩いたときに色々目にする風景、回りにいる人々。
そのような環境も、私たちの人生の一部となり、私たちの生活や「心」を気づかないところで支えているのです。
だから、そういう「家」にいられなくなってしまうということは、とてもつらい経験なのです。
それは、大きな喪失の経験となるのです。

ある家にいられなくなる。
ある町にいられなくなる。
ある地域にいられなくなる。

「憐れむなら、今の私を憐れんでくれー!」と言いたいかもしれません。
にもかかわらず、です。
にもかかわらず、にもかかわらず、今日の本文が示しているのは、神様が人間を「憐れむがゆえに」その人間を追放する、つまり、「いたいと思う場所にいられなくさせる」ことです。
また、先程言及した他の聖書箇所を踏まえるならば、全てが「神様の計画の一部」となっているのです。
たとえ今の私たちにはそれが見えないとしても、見えないが故に、ただ単に追放される苦しみだけが感じられるとしても、です。
私たちはそれを信じないといけません。
私たちには見えていなくとも、神様は見ていることを信じ、信頼しないといけません。
ヤーウェ・イルエ、主は見ており、備えてくださっているのです。
モーセは、ミディアンの荒れ野にいるときに謙遜さを学びました。
パウロの場合、ある地域にもはや滞在できないという仕方で、宣教が拡大していきました。
全ては神様の計画の中にあるのです。


エレミヤは、イスラエルの人々が、バビロンに抵抗するよりも、むしろ従い、バビロンに連れられていくことを語った預言者でした。
そのエレミヤの慰めに満ちた預言を最後に読みます。

諸国の民よ、主のことばを聞け。
遠くの島々に告げ知らせよ。
イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。
主はヤコブを贖い出し、
ヤコブより強い者の手から、
これを買い戻されたからだ。
彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、
主が与える良きものに、
穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。
彼らのたましいは潤った園のようになり、
もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、
若い男も年寄りも、ともに楽しむ。
「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
祭司のたましいを髄で潤す。
わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。
――主のことば。
(エレミヤ31:10−14)

苦しんで食を得る

苦しんで食を得る

創世記3:16−19


おはようございます。
本当は5月に一度メッセージをする予定でしたが、コロナウィルスの関係で、今日まで伸びました。
お会い出来て嬉しく思います。

この数カ月間の間、メッセージ予定だから、というわけではないのですが、ずっと頭に思い浮かんでいた御言葉がありました。
それは、今日読んだ箇所にもある、「大地は、あなたのゆえに呪われる」という御言葉です。
私が物心ついてから、今回のコロナウィルスほど世界中で問題になった病気はありませんでした。
エボラ出血熱やサーズなど、恐ろしい病気はありましたが、それらはアフリカなど、遠いところで流行している病気であって、自分たちの生活しているところにまで及ぶものとは感じていませんでしたし、また、実際そうでした。
ところが、今回のコロナウィルスは、自分たちの生活に直結したのです。
とくに、先進国と呼ばれる国々ほど、影響が大きくなっています。
世界各国で、店舗などの営業の制限や移動の制限が行われました。
それに伴い、航空会社が倒産したり、チェーン店が店舗を減らしたり、同じことですが、失業する人々が増えました。
もちろん、コロナウィルスに感染して死亡する人々も膨大な人数になっています。
そして、こうしたなかで、人間の醜い罪性というのもまた、明らかになりました。
最初の頃は、コロナウィルスが中国から始まったということで、中国人差別が日本国内でも、また他の国々でも生まれました。
それはもっと広く、アジア人差別のようにもなったりもしました。
また日本国内では、東京から引っ越してくる人間を差別し、住居に住まわせないなどというケースもありました。
「自粛警察」などの用語が生まれましたが、営業している店舗に嫌がらせなどをする犯罪行為も生まれました。
ヤマトや佐川などの宅配員に対する差別、お店でレジをする人々に対する差別も報告されました。
「危機のときに人間の本質が現れる」とはよく言われることですが、まさにそのとおりに、このコロナウィルス流行によって各国が非常事態宣言下に置かれる中、人々の本質があらわになりました。
そういう様子を見ながら、私の脳裏には常に、「大地は、あなたのゆえに呪われる」という御言葉が思い浮かんでいました。
「大地は、あなたのゆえに呪われる。」
特に「あなたのゆえに」です。
アダムのゆえに、アダムが犯した罪のゆえに、つまり、人間の罪の故に、です。
この御言葉を詳しく見るのは後ほどですが、私は、この御言葉が、自然が人間に対して敵対的になった原因として、人間の罪を指摘しているものと理解していました。
私はそのことを繰り返し考えていました。
考えた、というよりは、ただその事実を深く受け止めていた、というほうが正しいかもしれません。
そして、この事実から、現在のこの災いに対して、クリスチャンはどのように対処することが可能なのか、ということを考えていました。
今日のメッセージは、そのことを考えていく内容になります。

 

1.差別

16節を読みましょう。

「女にはこう言われた。

「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産む。

また、あなたは夫を恋い慕うが、

彼はあなたを支配することになる。」」(創世記3:16、新改訳2017)


最初の「わたしは、あなたの苦しみとうめきを多いに増す」の「うめき」は、文字通りには「妊娠」という言葉です。
なので、ここは「苦しみと妊娠」を大いに増す、と訳すことができます。
神様は、人間を創造したときに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じているので、エバはそもそもたくさん妊娠し、たくさん生む予定になっていたでしょう。
この16節の言葉でさらに付け加えられているのは、「苦しみ」です。
エバはたくさん生むことになるが、その出産には、「苦しみ」が伴うようになるのだ、という内容です。
カルヴァンは、もしかすると人間の堕落前には、苦しみ無しで出産が可能だったのかもしれない、と言っていますが、それほど深く掘り下げてはいません。
創世記の記述では何も確定的なことは言えないでしょう。
16節の後半を読むと、「あなたは夫を恋い慕う」という表現があります。
ここで使われている単語は、聖書全体で3回しか出てきていないものです。
他の箇所は、創世記4:7と雅歌7:10です。
用例が少ないせいで、単語の意味を確定するのが難しい言葉の一つですが、とりあえず、新改訳2017の解釈でいいと思います。
「あなたは夫を恋い慕う」、つまり、あなたは夫を愛し、尊敬し、愛情を持って近づこうとする。
しかし、「彼はあなたを支配することになる」、つまり、夫の方はあなたを、権威的に、命令的に、奴隷や召使のように、支配しようとするだろう。
こういう内容です。
おそらく、堕落以前は、アダムとエバの関係はもっと平等なものだったのでしょう。
そしてそれは、パウロがエフェソ書で描いている夫婦のような姿だったと考えられます。
妻の方は尊敬を持って夫に従い、夫の方は妻を愛し、「頭」としての役割を果たすのです。
ところが堕落によって、その関係が変わります。
「愛と尊敬」の関係から、「支配と服従」の関係に変わるのです。
その関係の中では、女性の側には当然「苦しみ」があるでしょう。
こうして神様はエバに対して、子供を生むという苦しみ、そして、夫に従わざるを得ないという苦しみ、それらを受けることになるのだ、と語るのです。

ずっと前のメッセージで、アダムとエバは、人類最初の共同体であると語りました。
その共同体は、政治的でもあり、経済的でもあり、宗教的でもあり、また家族的でもある共同体です。
その共同体が、原罪を通じて、当初の調和を失うのです。
愛し合う、尊敬し合う、ことが失われる。
支配しようとする、自分が主導権を握ろうとする、自分の身を守ろうとする、相手に責任をなすりつける、互いに憎み合う、恨みを蓄積する。
男性、女性、それぞれを「罪が」支配するようになる。
罪に支配された罪人たちが、何が神の御心なのか、何が自分を幸せにするのか、何が調和を実現するのか、どうすれば平和が実現されるのか、わからないまま、自分の欲望と願望に従って生きる。
家族を作り、会社を作り、町を、また国家を作る。
それぞれの共同体が罪人たちによって作られ、やはり、至るところに「支配と服従」があり、苦しみ、苦々しさ、怒り、憎しみ、悲しみ、絶望が蓄積される。
私たちが生まれ育ってから目にするすべての共同体は、ことごとくこのような「壊れた」共同体です。
私たち自身もまた、そうした「壊れた」共同体の中で生まれ育ち、またそこに属し、働いたりしながら、やはり苦しみを感じたりしてきたでしょう。

この3:16が語っているのは、そのような「壊れた」共同体の起源です。

これもまた、この数カ月間で大きなトピックになったことの一つでしょう。
アメリカで、ジョージ・フロイドという一人の黒人が警察に首を絞めつけられながら殺されました。
それをきっかけに、黒人差別を批判し、撤廃する運動が大きくなりました。
かつてのキング牧師に率いられた公民権運動に匹敵するような大規模な運動になっています。
それはBlack Lives Matterというスローガンを掲げて、世界規模に広がっています。
そしてそれぞれの地域で、それぞれ文化の中で、アメリカにおける「黒人」のような人々がいて、彼らの人権の回復を求める動きが出てきています。
日本も例外ではありません。
日本は、非常にたくさんの差別がある国です。
女性差別に関しては、日本は世界で121位という結果が出ています。
これは男女の格差が「大きい」ということです。
また、他に数えていけば、部落差別、アイヌ・沖縄差別、在日コリアン差別、中国人・韓国人差別、黒人差別、外国人差別、障害者差別、非正規労働者差別。
こうした差別が日本にはあります。
そして日本人自身にとって特に問題なのは、差別に「気づいていない」という点です。
全てにおいて日本人は「無自覚」です。
無自覚である人々に「お願いだから自覚してほしい!」と訴えかける人々が、今度は逆に批判される。
無自覚であることの「幼稚さ」を擁護する声が大きい。
こうしたケースが日本では支配的です。

あらゆる政治的・社会的問題は、同時に神学的課題です。
今起きている出来事を、聖書的に、あるいは神学的に理解していないと、私たちは、力強く「今という時間」を生きることができません。
差別の問題も、これは、人権問題以前に、クリスチャンにとっては、神学的問題なのです。
差別の問題に積極的に取り組むにしろ、そうでないにしろ、クリスチャンは、それが存在する聖書的な理由、そしてそれが不正である理由を、神学的に、また聖書的に理解しておく必要があります。

現在問われている差別の問題というのは、単に「心」の問題ではありません。
私が「心」において、ある人種を好ましく思ったり、他の人種を悪く思ったりする、そういう「偏見」のことではありません。
現在、Black Lives Matterの運動で問われているのは、歴史的・社会的に、黒人が「不利」な条件で生きるようになっているという、その事実です。
それは、心の問題というよりは、「制度」の問題です。

このことを私たちはどのように理解するのか?
細かい歴史的経緯があるとしても、私たちはそれを、人間の原罪とその結果として理解できるのです。
人間が神様に反逆した。
神様の位置を自分たちが取って代わろうとし、神様の位置に自分を置こうとした。
つまり、人間自身が「神」に成り代わろうとした。
この罪の結果として、人間を罪性が支配するようなる。
「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」。
支配と服従の関係が、愛と尊敬によって営まれていた共同体を変質させる。
共同体自身が、「壊れた」ものとなった。
差別というのも、こうした「壊れた」共同体の結果なのです。
差別それ自体はたしかに「罪」ですが、しかしそれは、聖書的には「罪の結果」なのです。
このことを押さえる必要があります。

そこから、やはりクリスチャンにとっての差別問題の取り組み方というものが出てくるでしょう。
それは、通常、人々が行うアプローチとは随分異なるものです。
つまり、福音を信じることです。
「福音を信じる」とは、神による創造と、人間の反逆という歴史を信じることを含みます。
そして、イエス様によって自分の罪を赦していただいた人間は、神様が創造した当初の、人間と自然と神様が調和した状態を回復しようとするでしょう。
また、神様を前にして、自分を罪人と考え、そしてすべての人間を等しく愛する神様の心を大切にするならば、そのときに、隣人を大切にしようとする心の姿勢も生まれるでしょう。
こうした心を持つ人が増えること、それが差別の根本的な克服につながるのです。
クリスチャンの差別問題に対するアプローチは、このように人間の「根本」的な変化を目指すものなのです。
したがって、私たちが福音を伝えるのは、魂が救われるためですが、同時に、その魂が救われることによって、この世界が創造された当初の調和を回復するためでもあるのです。

 

2.労働
続いて、17−19節を読みましょう。

「また、人に言われた。

「あなたが妻の声に聞き従い、

食べてはならないと

わたしが命じておいた木から食べたので、

大地は、あなたのゆえにのろわれる。

あなたは一生の間、

苦しんでそこから食を得ることになる。

大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、

あなたは野の草を食べる。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、

ついにはその大地に帰る。

あなたはそこから取られたのだから。

あなたは土のちりだから、

土のちりに帰るのだ。」」(創世記3:17-19、新改訳2017)


17節で「大地はあなたのゆえに呪われる」と書いてあります。
これはどういう意味でしょうか?
今日のメッセージの冒頭で、私は、このたびのコロナウイルスに関連しながら、この御言葉を度々思い出していた、と言いました。
それは、自然の調和を破壊に導いたのも、人間の神様に対する罪であったからだ、そしてこの御言葉はそのことを語っているのだ、と思っていたからでした。
2月以降、コロナウイルスが日本で大きなトピックになりましたし、また7月に入ってからは、日本では大雨による災害がありました。
このような「自然災害」が頻発するようになったのは、人間の責任であり、その大本にあるのは、人間の神様に対する罪なのだ。
そう思っていました。
ところが、この創世記の箇所をよく読んでみると、その理解はいくらか誤っていると気づきました。
大本にある根本原因が、人間の神様に対する罪にあること、これは間違っていません。
間違っているのは、その罪によって引き起こされたものです。
罪によって引き起こされたのは、「自然の堕落」「自然の腐敗」ではありません。
「自然がその本来のあり方から外れて壊れた」ことではありません。
「破壊」されたのは、自然そのものではなく、自然と人間との「関係」なのです。
18節を読むと、「大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ」とあります。
楽園にいたときには、アダムとエバは、木の実を取って食べればいいだけでした。
「食べたい!」と思ったときには、そのへんにある木から自由に実を取って食べることができたのでした。
人間の「食べよう」とする行為に対して、何の障害もありませんでした。
ところが、楽園の外では、もはやそんなに容易に「食べる」ことはできません。
「茨とあざみ」が、人間に対して生える。
その2つの植物は、ともに「トゲ」があります。
人間の自然への働きかけに対して、何か「敵対するもの」が生まれるのです。
19節では、「顔に汗を流して糧を得」と書かれています。
大地を耕す、雑草を取り除く、種を蒔く、定期的に水をやったり雑草を取り除く、収穫する、収穫したものを脱穀したりしながら加工する、あるものは保存可能な状態にするためにさらに加工する、また他のものは食べられるように調理する。
「食べる」までにしなければならない仕事は、数えればもっとあるでしょう。
「食べたい!」と思ったらすぐに木の実からとって食べられる状態とは、大違いです。
「食べる」ためには、まさに、「顔に汗を流す」必要があるのです。
このように、人間と自然との関係は変化しました。
この変化のことを、17節では、「大地は、あなたのゆえに呪われる」と語っているのです。
大地、つまり自然が、アダムの罪のゆえにおかしくなった、ということを語っているのではありません。
人間と自然との関係が変質してしまった、ということを語っているのです。
その意味で、17−19節で神様が人間に対して言いたいことの中心は、むしろ、17節の後半の文章であると言えます。
「あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」

一体、この御言葉が言わんとしていることは、何なのでしょうか?

私は考えました。
まず、楽園にいた3章までと、楽園から追放された4章以降で、何が変わり、何が変わっていないのか、考えました。
4章以降でも、神様は登場します。
当たり前ですね。
そして、神様とそれぞれの人物は、交わりを持っています。
これはちょっと不思議な気もします。神様が、罪に対する裁きとして人間を楽園から追放したのだとすれば、人間との交わりを断ってもいいはずなのに、そうはしない。
人間との交わりは続くのです。
これは、楽園にいるときも、追放された後も変わりません。
また、自然そのものも変わりません。
「変わりません」と言い切っていいのか、もしかすると微妙ですが、でも、「変わらない」といっていいでしょう。
創世記1章で神様が創造されたときの世界は、同じ秩序で存続しているのです。

これに関連して、最近、ちょっとおもしろいなと思ったことがあったので、話させてください。
私の妻が、最近、酵母を培養しています。
酵母を培養して何をするのかというと、それを小麦粉に混ぜて、パンを作るのです。
つまり、天然酵母を自分で作ってパンを作っている、ということです。
この酵母の培養が面白いのです。
最初にやり始めたのは、レーズンです。
ガラスの瓶のなかにレーズンと水を入れて、蓋を占めてしばらくおいておくと、レーズンに付着していた酵母がどんどん増えていくのです。
しゅわしゅわと泡がたくさん出てきます
酵母が十分増殖したら、それを小麦粉に混ぜて、発酵させて、焼くと、パンになります。
レーズンに酵母が付着しているというのも面白いですが、レーズン以外にも、いちごで酵母を培養したり、ライ麦酵母を培養したり、いちじくで酵母を培養したりしています。
酵母というのは、いろんなところにいるんですね。
それを、水と糖分で培養すると、いろんな食べ物になります。
ビールになったり、ワインになったり、お酢になったりします。
日本では、ぬか床も酵母ですし、味噌も酵母、お酒も酵母で出来上がっています。
人類の食べ物の色んな所で酵母が用いられているのです。
酵母の歴史をwikipediaで調べると、古代シュメール王国の頃から酵母が使われていたようです。

ところで、この酵母をやはりwikipediaで調べると、酵母の「発酵」と「腐敗」は、科学的には違いがないとされているのがわかります。
「発酵」と「腐敗」は、日常的な用語としては全く別物ですが、科学的変化に関すると、違いはない。
違いは何かといえば、「発酵」は人間にとって「有益」だが、「腐敗」は「有害」である、その点なのですね。
人間にとって有益かどうかだけの問題で、発酵と腐敗は、自然のプロセスとしては同じなのです。

これと同じことが、人間が楽園にいたときと、追放されたときとの自然の状態についても言えると思います。
「茨とあざみ」は、本人たちとしては、普通に生きているだけです。
アダムとエバが楽園にいたときも、もしかしたら楽園の中には茨はなく、外に生えていたのかもしれませんが、ともかく、茨は、自分の生き方を貫いていただけでしょうし、それはあざみについても言えます。
茨もあざみも、ただ自分に正直に生きているだけです。
しかし、人間の彼らに対する関係が変化したのです。
そして、人間が食料を得るために働くこととの関係では、彼らは「困った」存在になったのです。
とはいっても、彼らは、ただ以前と同じように、自分らしく生きていただけでしょう。
だから、自然の状態も、3章までと4章以降とでは、変わらないのです。
いえ、もっと自明のことを言うならば、地球上の様々な自然のメカニズムは、変わっていないでしょう。
そして、オゾン層や太陽と地球の距離など、自然のメカニズムを考察するならば、人間に敵対的どころか、人間が生きるのに適切な環境が与えられていることがわかるはずです。
自然の恵みは、あふれるほどに豊かなのです。

神様との交わりは続けて存在している。
自然の恵みもあふれるほど豊かにある。
では、何が変わったのか?
「人間が、労働して食べるようになった」。
これが変わった。
では、一体、それには何の意味があるのか?
言い換えれば、神様がアダムとエバを楽園から追放したのは、なぜなのか?

そもそも、神様が人間を楽園から追放したのは、彼らが楽園にふさわしくなかったからです。
ユダヤ人の伝説では、神様は義人のために楽園を、悪人のためにゲヘナを作っていたとされていますが、その楽園にとって、アダムとエバはふさわしくなかった。
ところで、それならば、神様はすぐに人間をゲヘナにやっても良さそうなものですが、そうはしませんでした。
人間を生かしつづけます。
そして、楽園からは出ることになったとしても、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という命令ーーというよりは、これは祝福なのですが、それを享受できるように、人間を地上にとどめます。
なぜなのか?
人間が楽園にふさわしくないので、人間を楽園から追放した。
しかも、すぐにゲヘナに送るというのでもなしに、自然の恵みを豊かに与えながら、人間を生かす。
ということは、少なくとも、神様は、楽園から追放された状態で生活することによって、人間が「ふさわしい者になる」ことを期待していた、と考えられるでしょう。
それでは、その「ふさわしい者」とは、どういう者なのでしょうか?
そして、楽園から追放されて、「苦しんで食を得る」生活は、そのこととどのように関係しているのでしょうか?

私は、「ふさわしい者」とは、「神様を知る者」だと考えます。
そして、「苦しんで食を得る」生活は、人を、神様を知るように導くのだと思います。

今回の、そして現在も続いているコロナウイルスの状況下で、私たちの誰もが「苦しんで食を得る」生活を実感していることだろうと思います。
食べること、生きること、そのためにどれほど苦しまなければならいのか?
実際に、失業した人々や倒産した人々も増えています。
特にこの10年で非正規で働く人が増えており、その人々にとって、困難さは一層増しています。
しかし、「苦しんで食を得る」というのは、なにも、そのように実際に「食べて生きること」に限定された内容ではありません。
もっと広く、「生きること」に関わっているのです。
このコロナウイルスは、私たちに生きる困難を感じさせているだけではありません。
それは、私たちに「問い」を投げかけ、その問いを考え、悩むことを要求してもいるのです。
会社にとっても、学校にとっても、そして教会にとっても、問いは投げかけられましたし、今も投げかけられています。
会社にとっては、「働くとは何か?」が投げかけられました。
「働くこと」と「会社に体を移動させること」とは、同じことなのだろうか?
会社に、自分の体を持っていかなくとも、「働く」ことはできるのではないか?
むしろ、「働く」ということを、そのような意味で受け取っていかないと、会社そのものも、事業そのものも存続できないのではないか?
そのような問いが会社には投げかけられ、今も投げかけられています。
学校にとっては、「学ぶとは何か?」と投げかけられました。
「学ぶこと」と「学校に行くこと」とは、果たして同じなのだろうか?
学校に行って、椅子に20,30人とともに座らなくとも、「学ぶ」ことはできるのではないか?
むしろ、「学ぶ」ことをそのように定義し直さないと、「学ぶこと」は継続できないのではないか?
同じように、教会にとっても問いは投げかけられました。
「礼拝すること」と、「教会という建物に物理的に移動すること」とは、果たして同じなのだろうか?
教会に行って、小一時間他の教会員とともに椅子に座っていなくとも、「礼拝する」ことはできるのではないか?
むしろ「礼拝する」ことをそのように定義し直さないと、教会は存続できないのではないか?
会社、学校、教会。
それぞれに問いが投げかけられています。
そして私たちは、そうした問いから逃げることはできず、その問いに答えて生きていかなければなりません。
それは「苦しい」ことではないでしょうか?
できれば、曖昧にしておきたいことではないでしょうか?
でも、そのように放置しておくことはできない。
私たちは、そのような問いに答え、考え、生きていかざるを得ないのです。
これが「苦しんで食を得る」ことの内容です。
未知の状況で、新しい事態に直面して、手探りしながら答えを出していき、進んでいかないといけない。
それこそが「苦しんで食を得る」ことなのです。

「苦しんで食を得る」とは、単に労働することだけを語っているわけではありません。
それは、何より「この世界で生きる」ということを語っています。
そして「この世界で生きる」とは、問われ続けながら生きることなのです。
私たちが生きていて、前に進もうとするときに、問いが与えられます。
それは「茨やあざみ」のような形で来るかもしれません。
私たちが進むのを妨げる痛み、苦しみ、困難、障害物です。
これは取り除くべき障害物なのだろうか? あるいは、これは私たちが何か方向を転換すべきであるとの「しるし」なのではないか?
ーーこう問います。
続いて私たちは何をするのでしょうか?
神様の御心を探るのです。
「イエス様、これは、私たちがもっと成長するために与えられた試練なのでしょうか?」
あるいは
「イエス様、これは私たちが、進んでいる方向が間違っていることを示すサインなのでしょうか? 私たちが根本的に何かを変えるべきであることを示すサインなのでしょうか?」
「イエス様、あなたはこれを何のために私たちに与えたのでしょうか?」
このように私たちは祈り、神様の御旨を問い尋ねるのです。
最初は「試練」だと思い、忍耐して過ごしていたら、ある時点で、「これは試練というよりは、私が変わるべきだという合図ないのではないか?」と思い、実際そうであることもあるでしょう。
また、両方の意味合いが混ざっていることもあるでしょう。
いずれにしても、私たちは、神様の御心を探るように、導かれるのです。
「苦しんで食を得る」とは、私たちがこの世界で、そこで生まれる問題によって絶えず自分自身が問われながら、そして今度は、私たちのほうが神様に問い尋ねながら生きる、その姿を語っているのです。
絶えず問われるので、当然苦しみはあります。
また、私たちが神様に問い尋ねても、神様がすぐに答えを与えるとも限らないので、やはり苦しみはあります。
こうした苦しみのある生活を、神様は望みました。
たしかに、アダムとエバを楽園から追放したときに、神様はそういう生活を望んだのです。
なぜか?
すでに語っていますが、「神様を知る」ためです。
ヨハネによる福音書17:3を読みましょう。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

聖書全体で、至るところで、「神を知る」ということがほとんど「信じる」と同じように使われています。
以前も話しましたが、「知る」というのは、単に知識的に知ることを意味するのではなく、「体験的に知る」こと、さらには「愛する」ことも含んでいます。
こうした意味で、「神を知る」こと、それを神様は望んだのです。
そしてそれを、今もなお望んでいるのです。

今言及した御言葉に基づくならば、私たちはこのようにも問われるのです。
「私は本当に神様を知っているのだろうか?」
「私の神様を知る、そのあり方は、はたして十分なのだろうか?」
「神様をもっと深く、豊かに知るために、私には何ができるのだろうか?」
このように問いかけ、祈り続けることーー私自身が問われ、そして今度は私が問い尋ねること、この一連のプロセス全体が「神様を知る」ために大切なのです。
このことは逆に言うと、もし私たちが「私はすでに答えを知っている。こういう場合にはこうすべきだ。これこれの問題には、このように対処すればいい」と考え、自分自身が問われていることに気づかなかったり、あるいは、問われることを拒絶するならば、私たちは、実は、神様を知るというプロセスから脱落している、あるいは、脱落しつつある、ということも意味するのです。

 

3.まとめ
今日は、神様によるエバに対する裁きの言葉、また、アダムに対する裁きの言葉を見てきました。
エバに対する神様の言葉から、私たちは、原罪によって、この世界にある人間と人間が作る共同体が、いずれも「壊れた」ものになってしまったことを知りました。
愛と尊敬によって成り立つ共同体ではなく、支配と服従によって成り立つ共同体が、その後の人類の共同体の通常の姿となってしまいます。
家庭においても、学校においても、会社においても、社会においても、国家においても、「支配と服従」の原則が浸透しています。
そして反差別の運動というのも、こうした背景で生まれてきます。
私たちは、人間の罪が社会の不平等を生み出す根本的原因であることを踏まえながら、神の国を実現する、つまり、神と人間と自然との調和的関係を回復するためには、福音を真実に受け取る必要があることをわきまえなければなりません。
福音を真実に受け取る人数が増えれば増えるほど、世界は、神様の望むものへと変えられていくのです。

次に、私たちはアダムに対する神様の言葉から、私たちがこの世界で苦しみをいだきつつ生きることになる理由を見てきました。
神様は人間を、楽園、つまり、食べたいときに自由に食べられる世界から、この世界、つまり「苦しんで食を得る」世界に追放しました。
人間は、食べるために、言い換えれば、神様が語った「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という命令を実現するために、大変な労苦をしなければならなくなりました。
そればかりではありません。
人間は何より、前進するときに絶えず障害にぶち当たり、そのたびに自分自身を問われるようになります。
手探りしながら、神様の御心を尋ね求め、祈り、忍耐し、御心だと思ったものを行い、失敗し、また祈り、忍耐し、実行する。
これを繰り返す人生になります。
問われ続ける、また、神様に問い続ける、そして進み続ける、それこそが「苦しんで食を得る」生活なのです。
そして神様が人間をそのような生活に導いたのは、私たちが「神様を知る」ためです。
私たちがより深く、より豊かに、知的にも、情緒的にも、神様を知るために、神様は、恵みによって私たちを苦しみのある世界で、苦しみを感じる人生に導いたのです。

私は最近、よくこんなことを考えます。
何十年後かに、今を振り返るときがあるかもしれない。
そのとき、こんなふうに言いたいと。
「毎日を必死に生きました。そしてそのたびに、イエス様が助けてくださいました。今の私があるのは、全て主のおかげです。」
苦しみは苦しみで終わるのではない。
苦しみには、神様が答えてくれるという、何にも代えがたい喜びが待っているのです。
私たちは、その喜びを常に期待しながら生きるのです。

隠してはいけない

「隠してはいけない」 創世記3:4-19

 

おはようございます。
今日の本文の箇所は、前回とかぶっているところもありますが、前回とは違う角度から読んでいこうと思います。
前回は、エバの罪、アダムの罪ということで、二人に特徴的な罪を語っていきました。
今日は、実際に罪を犯し、その後どうなったのかを見ていこうと思います。

1-1.誘惑の方法
前回は素通りしたのですが、やはり考えないといけない点があります。
それは、「蛇は嘘を言ったのだろうか?」というという点です。
3:5で、蛇はこのように言います。

「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創世記3:5)

「目が開かれ」「神のようになって善悪を知る者となる」――こう語るとき、蛇は嘘をついたのでしょうか?
どう思うでしょうか?
これは、嘘ではないのですね。
実際、神様は3:22でこう語ります。

「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世記3:22)

ということは、神様もまた、アダムとエバが「神のようになり、善悪を知るようになった」ことを認めているということです。
ということは、蛇がエバを誘惑するときに語った言葉は、嘘ではないということです。
ここで私たちは、蛇の誘惑について一つ特徴を語ることができます。
それは、「蛇は、本当のことは語っているが、肝心なことは語っていない」ということです。
蛇は、嘘をついてはいないのです。
蛇が語っているのは、本当のことばかりです。
しかし、蛇は、「肝心なこと」は語っていない。
そのようにして誘惑するのです。

これは私たちもよく経験することだろうと思います。
問題が多すぎて対策が講じられたケースとしては、スマートフォンの契約があげられるでしょう。
今はだいぶ少なくなってきましたが、スマートフォンの契約に関しては、よく「実質ゼロ円!」といううたい文句がされます。
で、そういう話にのって契約をしようとすると、実際には、いろんな条件を受け入れなければならないことがわかってきます。
人によっては、ずるずるといろんなオプションを契約させられることもあります。
そして、最初に思った「安くなる!」という思いとは反対に、高額な料金を毎月支払わないといけない状態になります。
消費者の方としては「最初からそう言ってくれよ!」という気持ちでしょう。
ところが、携帯電話を販売・契約する会社の方でも、嘘を言っていたのかというと、そうではないのです。
広告に出していることは、嘘ではありません。
しかし、「肝心なこと」を語っているかというと、それは語っていない。
あるいは、目に見えないくらい小さな文字で書いている――それが実情です。

蛇もまた、嘘は言っていないのです。
では、「肝心なこと」を語ったのかというと、そうではない。
「本当のことを言いながら、肝心なことは言わない」これが蛇の戦略なのです。
そしてこの世の詐欺師というのも、同じ存在です。

蛇は、善悪の知識の木から実を食べても「死なない」と言いました。
確かに、アダムもエバも、その実を食べて死ぬことはありませんでした。
しかしその後どうなったか?
彼らは神様からの裁きを受けて、エデンの園も追放されることになります。
蛇は、そういうことは語らなかったのです。
「肝心なこと」は語らなかった。
これが蛇の誘惑なのです。
そして私たちもまた、誘惑というのはそのようにしてくるものだとわきまえていないといけません。
誘惑する者は、嘘を本当らしく語る存在ではないのです。
誘惑するものは、本当のことは本当のこととして語りながら、しかし、肝心なことは語らず、隠しておく存在なのです。
だから、誘惑に対する私たちの姿勢というのは、「何が語られたか?」だけに注目するのではなく、「何が語られていないのか?」「その語られていないことは私にどのような影響を及ぼすのか?」までも注目するものでなければならないのです。
蛇は「本当のこと」、つまり、「神のように善悪を知る者になる」ことは語りましたが、「肝心なこと」、つまり、神様への反逆となってエデンの園から追放されることは語りませんでした。

1-2.「神のように善悪を知る」とは?

では、「神のように善悪を知る者になる」という蛇の言葉が本当のことであるとするならば、それはもっと具体的にどのような内容なのでしょうか?
次にこの点を考えてみましょう。
ある注釈者は、この箇所についてこういうことを語っています。
「アダムとエバはすでに「神のような」存在なのに、蛇の言葉の中の何にそんなに誘惑されたのだろうか?」と。
なるほど、と思います。
アダムが創造されたとき、「地を支配する」ことを神様から委託されました。
アダムとエバは、エデンの園において、動植物をよく管理していたのだと思います。
「何がよくて、何が悪いのか」わかりながら、管理していたでしょう。
アダムとエバは、エデンの園において、実際に「神様と同じように」管理し、世話をし、愛していたのでしょう。
そうであれば、アダムとエバには、蛇の言葉に誘惑される理由はないことになります。
「神のように善悪を知る者になる」と言われても、「もうなってるよ!」で終わりだからです。
とすると、アダムとエバは、「神のように善悪を知る者になる」という蛇の言葉の中に、別の意味を聞き取っていたということが考えられます。
つまり、神様の代理人としてエデンの園を管理する、それだけではない意味を聞き取っていたと考えられます。
その意味とは何でしょうか?

ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは「園の中央にいのちの木と善悪の知識の木」があることに注意を向けています。
園の中央にいのちの木と善悪の知識の木があることは、世界の中央に「神」が存在し、その「神」からいのちと知恵が来ることを象徴的に表している――そうボンヘッファーは語ります。
アダムとエバには、園を支配し、管理する権限が与えられていた。
二人は自由だった。
しかし、その園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がある。
それは、ただ神だけがいのちと知恵を与えることができることを示している。
そして、その二つの木から実を食べてはいけないということは、人間が、「中央」に立ってはいけないということを意味している。
言い換えると、「主」はあくまで神様であり、人間はあくまでその主に「従う」存在であることを意味している。
神様は、「園の中央にあるいのちの木と善悪の知識の木の実」を食べるのを禁じることによって、「創造主」と「被造物」との「限界」を定めたのだ。
ボンヘッファーはそのように考えます。

私はこれが、アダムとエバが蛇の誘惑の言葉に聞き取っていた内容だと思うのです。
どういうことでしょうか?
神様はあくまで、自ら存在するお方、「自存的な」存在です。
それに対して人間は、神に依存する存在です。
神様はいのちそのもの、知恵そのものですが、人間は、神様につながっている限りにおいて、いのちと知恵とを得られるに過ぎない存在です。
確かに、神様は自由なお方であり、人間も同じように自由な存在です。
しかし人間にとっての自由は、神様に依存し、神様に従うという条件でのみ価値あるものになります。
これが被造物である人間の限界なのです。
そして蛇の誘惑がまさにアダムとエバにとって「誘惑」となったのは、その蛇の言葉が、二人に、その人間の限界を超えるようにそそのかしたからだ、と思うのです。
神と同じように「何にも依存しないで」生きることができるかのように、「何にも依存せず」決定できるかのように、「何にも依存せず」自由になれるかのように、誘惑したのだ、と思うのです。
「神のようになって善悪を知る」という蛇の言葉を、アダムとエバはそのように聞き取ったのでしょう。
そして、誘惑に陥ったのでした。


2.隠して生きる

「神のように善悪を知る者になる」――それは、人間が、神様の代理人ではなく、神様そのものになろうとすることです。
神様から権限を与えられたものとして生きるのではなく、神様と同じように、世界の中心に立ち、あるいは、世界の上に立って、生きようとすることです。
それは、神様からするならば、人間がその地位に満足せず、神の地位を簒奪しようとする反逆を意味します。
しかし、「神のように善悪を知る者になる」には、もっと別の意味もあります。
それは、善悪に関して、神のように「はっきりと知る」という意味です。
どういうことでしょうか?
3:7-10を読みましょう。

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」(創世記3:7-10)

7節を見ますと、二人の「目は開かれ」とあります。
蛇が語ったように、確かに二人の目は開かれました。
この点でも、蛇は「本当のこと」を話したのでした。
ところが、二人の目が開かれることによって二人が見たものは、自分たちが裸であることでした。
そして二人は、腰に覆いを作ります。
さて、これはいったい何を表しているのでしょうか?
二人は木の実を食べる前から裸でしたが、食べた後に、裸であることを何か具合の悪いことのように思い始めます。

ここについていろいろな解釈がありますが、私としては単純に、カルヴァンが言っているように、木の実を食べるという行為によって、アダムとエバに「魂の死」が訪れたのだ、と理解したいと思います。
アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べることで、神様の命令を破ったばかりか、その動機の点では、神様と同じ地位に就こうと――つまり、神様に従う存在ではなく、自らが神様と同じように「主人」になろうとしました。
そうすることによって、彼らは罪を犯す。
罪を犯すことによって、神様との信頼関係は崩れてしまう。
そこに断絶が生まれる。
それが「魂の死」です。
彼らは肉体的には生きていますが、魂においては、神様とのつながりが切れてしまい、死んでしまったのです。
こうして、蛇が言ったことと神様が言ったことの両方が実現するのです。
蛇は、木の実を食べても死なない、と言いました。
確かに、アダムとエバは肉体的に直ちに死ぬことはなく、生きています。
しかし、神様が語ったように、彼らは死んだのです。
彼らは「いのちと知恵の源」である神様から切り離されたのです。
いや、自ら切り離したのです。
そして「魂の死」が訪れる。
二人は、その魂の死を隠そうとした。
神様を裏切ったこと、自分たちが邪悪で、口に出すのもはばかれる欲望を抱いたこと、その結果、自分自身が罪深く、罰を受けて当然で、醜い存在になってしまったこと、それを隠そうとした。
互いに、自分の裸が恥ずかしくなって、裸を隠そうとしたこと、それは、彼らの心の変化の結果です。
そして彼らの心に大きな変化を生み出したのは、神様との信頼関係が壊れてしまったことによる、「魂の死」だったのです。

「神のように善悪を知る」は、このように実現しました。
アダムとエバにとって、まったく予想しなかった形でしょう。
彼らは、自分たちが罪を犯したことで、「悪を知った」のでした。
つまり、悪を行うことによって、どのように悲惨な事態が生じるのか、彼らは確かに知ったのでした。
それと同時に、彼らがかつて持っていた「善」の価値をも知ったかもしれません。
素直に神様を信頼して生きていること、それがどれほど幸いであることか、それを知ったことでしょう。
しかし、もはやもとに戻ることはできません。
彼らは、自ら罪を犯すことによって、悪がどれほど恐ろしいもので、善がどれほど価値のあるものかを知ったのです。
そのような意味で、彼らは確かに「善悪を知った」。
しかし、なんと悲惨な仕方で知ったのでしょうか?

エス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架に架けられました。
エス様は十字架の上で、私たちの罪、人類の罪をすべて背負われました。
エス様が苦しむ姿を、私たちは単純に、十字架に手足が釘ではりつけにされる痛み、呼吸が困難になる苦しみ、そして死に近づいていくあらゆる苦しみ、と理解します。
確かにそれは大きな苦しみでしょうし、体験できるとしても、したいものではありません。
しかしイエス様にとってそれが本当に大きな苦しみだったのか、というと、違うのかもしれません。
エス様にとっては、罪を背負うことによって神様と断絶すること、そのことのほうがもしかすると、はるかに大きな苦しみだったかもしれないのです。
私たち人間にとっては、霊的な断絶というのは目に見えません。
しかしイエス様にとっては、霊的な断絶というのは、はるかにはっきりとしたものだったことでしょう。
エス様にとっては、悪を行い神様と断絶するということが、どれほど由々しきことであるのか、どれほど恐ろしいことであるのか、私たちよりはるかにご存知でしょう。
端的に言うならば、神様は、悪がどれほど恐ろしいものであり、善がどれほど価値のあるものかを私たちよりはるかに明瞭に知っていることでしょう。
そして、もし私たちが、神様と同じレベルで善と悪とを、リアリティをもって悟っていたとしたら、私たちはどうなるでしょうか?
おそらく、生きていけなくなる。
自分があまりに醜く、怪物のようで、汚らわしいので、もはや生きていく気力がなくなる、のではないか。

アダムとエバは、確かに「善悪を知った」のです。
「神様のように善悪を知った」とも言えるでしょう。
善の価値の大きさ、そして悪の恐ろしさ、それを実感を伴って知ったでしょう。
その結果どうなったか?
彼らは恐ろしくなった。
自分たちの「悪」が見つからないように、隠そうとした。
お互いから隠れ、また、神様からも隠れようとした――。


「隠すこと」――それは、救い主のいない条件で人間が行う基本的な戦略です。
隠すことなしに、人間は自らの悲惨さと付き合うことはできないのです。
神様と同じように、誰にも、何にも依存せず、自由に生きようとする人間は、しかし神様とは違って、自らの悲惨さ、弱さ、愚劣さを、常に伴っています。
ところがそれに向き合う瞬間、人はもはや自らの足で立つことはできなくなり、ふらふらとよろめき、倒れます。
あまりにも醜いからです。
それでも、なんとか自分の足で立とうとするときに、人はどうするのか?
人は、「隠す」のです。
自分の暗い部分、弱い部分、醜い部分、それらを隠すのです。
そうしながら、「自由で、自律的で、責任感のある人間」というものを演じ続けて生きていくのです。

「隠すこと」が何のメリットもないことは、よく知られていると思います。
政治の領域においても、隠すことは長期的にはデメリットしかありません。
それは、人間を自殺に追い込むこともあれば、国の国際的信頼性を失わせることにもなります。
また、そうした腐敗した組織には、それ相応の人物しか入ろうとしないので、長期的には、その組織は人格的に高潔でもなければ、能力もない人々の集団となり、組織としてのパフォーマンスは低下していくでしょう。
芸能界においても、隠していたことが表に出ることで、もはや仕事ができなくなるケースもあります。
いえ、ニュースを見ると、組織などでそれ相応に高い地位にいる人が、長年罪を犯しながら、それを隠し続けていたケースを見ることもあるでしょう。

私が最近ショックを受けていたのは、ラルシュという共同体における性的暴行に関するニュースです。
ラルシュは、重度の知的障がい者たちと共同生活をするコミュニティで、ジャン・ヴァニエというカトリックの人が創設しました。
ラルシュには、障がい者たちと、色々な面でケアをするアシスタントたちがともに生活をします。
私はその創設者のジャン・ヴァニエの本をよく読んでいました。
彼は昨年亡くなりましたが、そのジャン・ヴァニエと、そのラルシュを始めるにあたって協力した神父トマについて、性的被害を受けたという女性たちがいるのです。
彼女たちの証言がニュースになっていました。
私はにわかには信じられませんでした。
というよりは、信じたくありませんでした。
あのような活動をし、本も書いている人が、そういうことをしているのか、思ったからです。

しかし、よくあることだ、といえば、よくあることなのです。
カトリックの神父のスキャンダルも、牧師のスキャンダルも、よくあることだといえば、よくあることなのです。
とはいえ、「よくあることだ」で済ませてよいものでもありません。
しかしまた、「じゃあどうすればいいのか?」と考えても、途方に暮れるばかりです。
信仰におけるリーダー的存在が、自らの罪を隠しながら、それでもリーダーとして振る舞い続ける。
「いや、初めは、もっと真実で清い思いを抱いていたのだ!」と考えてみても、「時間がたてば、地位も上がり、自分の罪にも鈍感になるものなのだ」とすると、それはそれでやはり絶望的です。
ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンの世界においても、リーダーが、表面的な生活はきれいに整えながら、その裏では、まったく別の顔を持つ、そういう事態が生じるのです。
どうすればそういう事態を避けられるのか?

ジャン・ヴァニエとともに、私がよく読んでいたのが、ヘンリー・ナウエンの本でした。
ヘンリー・ナウエンについてはご存知の方も多いでしょう。
有名なカトリックの司祭です。
彼についても、死後の伝記で、同性愛者だったということが知られています。
ただ、彼については今のところ、事件のような話は出てきていません。

ヘンリー・ナウエンが書くものの一番の特徴は、その率直さだと言えます。
自分の抱いている弱さ、悪い思い、願望、すべてを率直に書きます。
そうしながら、神様の恵みを慕い求めたり、神様の力を頼ったりする姿勢が、包み隠さず書かれています。
だから、それを読む人は、何か「素晴らしいクリスチャンのお話」を読むように読むのではなく、自分と同じ悩み、ありふれた悩み、苦しみ、それを持った人間が、それを抱えつつ、主を信じ、頼り生きている姿、それを読むのです。
その本の中にいるのは、「聖人」ではない。
「ただの傷ついた人」だけがそこにいます。
しかし、その「ただの傷ついた人」の言葉が感動を与え、癒しを与える。
「信仰的に立派な姿」が人々に感動を与えるのではない。
「弱さを抱えながら、主に頼る姿」が、私たちの心をやさしく励ますのです。

ナウエンがある修道院で過ごしたときの日記に、およそこのような言葉があります。
「修道士とは、信仰的に強い人々ではなく、神様なしではどうしても生きていけないと思うような、弱い人々がなるものなのだ。」
私は、最近、牧師というのはそういう存在なのではないか、と思うことがよくあります。
牧師というのは、信仰的に立派な人がなる職業ではない。
いや、立派な人がいても確かに良いけれど、でも、信仰的に立派かどうかは、大切な基準ではない。
大切な基準は、「神様なしでは生きていけない」人間かどうかではないか、と思うのです。
自分の弱さ、愚かさ、力のなさ、あるいは、やってしまう罪、そうしたものを、それこそ「隠す」ことなく――隠すことができず、直面してしまい、そのことに苦しみながら、神様を頼るしかなす術がない。
そういう人物こそが牧会者なのではないか、と思うのです。
そして、そういう人物であるならば、スキャンダルは起きようがないのではないか、とも思うのです。

ノンクリスチャンと話していると、教会というのは、「立派な人々の集まり」のようなイメージを持っています。
それは、良いイメージでもあれば、悪いイメージでもあります。
悪いイメージだというのは、「日曜日に働かなくても大丈夫な、裕福な人々/余裕のある人々」というイメージです。
ともかく、そういうイメージを持っているが故に、教会に行くのが憚られると感じる人々がそこそこいます。

しかし、それはノンクリスチャンがそういうイメージを勝手に持っているから悪い、という話ではありません。
クリスチャン自身が、ノンクリスチャンの前に出ると「立派な人ぶる」ということがあります。
清く正しい生活をしているふり、家庭内には何の問題もないふり、依存症的な問題がないふり、子供の育児はうまくいっているふり。
色々と演じます。
そして、それこそが「神の栄光を表す」と思い込んでいます。
果たしてそうなのか?

パウロは第二コリント12:9-10で次のように語ります。

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント12:9-10)

「私には何の問題もありません! 私は素晴らしい人間で、素晴らしい生活を送っています!」という姿を人々に表し続けることと、「私は弱い人間で、問題も多くあります。だから神様を頼って生きています」という姿、どちらが神の栄光を表していることになるでしょうか?
私たちは、素晴らしい姿を現すことが「神の栄光を表す」と思って信仰生活を送りすぎてきたのではないか?
それは、本当は存在する弱さや過ちや問題を、「隠して」生きてきたことではないか?
「隠して」生きることは、決して問題を解決するものではないと知っているにもかかわらず、「隠して」生きることがクリスチャンらしい生き方だと信じてきたのではないか?
立派な生き方をしているように見せれば、ノンクリスチャンも心を打たれて、イエス様を信じるようになると信じてきたのではないか?
それらが完全に過ちだとは思いません。
しかし、そこに問題もあるのです。

私たちは、もっと弱い人間でいいのです。
もっと罪ある人間でいいのです。
もっと途方に暮れた人間であっていいのです。
そういう人間が、神様の恵みを慕い求める。
これが神の栄光になるのではないでしょうか?
教会は、正しい者たちの集まりでも、暇人の集まりでも、裕福な人々の集まりでもありません。
教会は、弱く、愚かで、罪を犯しやすく、神様しか頼ることのできない能無したちの集まりであり、そういう者たちが、それでも神様を愛し、信頼して歩むときに、神様の恵みによって支えられ、喜びを受け、幸いを受けるのだということ、それを証しする集団なのです。
私たちが奇跡を起こすのではない。
神様が奇跡を起こすのです。
私たちは、「こんな私にも、神様が来てくださった、そして、こういう幸いを与えてくださった」と証しする、ただその役割があるにすぎないのです。

アダムとエバの子孫である人間は、「隠して生きる」ことが標準となっています。
自分の弱い点や未熟な点、欠点、過ち、それらをうまく隠して生きることが「正しい大人」であり、この世界で成功する秘訣のように思われてもいます。
しかし私たちは、隠して生きることが、実は不自由な生き方であることを知っています。
それは、自由な生き方ではなく、常に不安や恐怖を抱えながら生きる生き方であることを知っています。
ところが、クリスチャンであるがゆえに、また、クリスチャンとして証しようと思うがゆえに、真面目であるがゆえに、「隠して生きる」、これが標準となってしまうのも、また私たちです。
それは、一周回って、ノンクリスチャンと同じ生き方です。
それは、神の恵みを証ししようとしながら、それを妨げてしまう生き方です。
そうではないのです。
私たちは、「神のようになる」ことが求められているのではありません。
私たちに求められているのは、「神に従う」ことです。
そして、過ちを犯さないことが求められているのではなく、過ちを犯しても、それを隠さないこと、その過ちを認めること、そして、神の恵みを頼ること、それが求められているのです。
私たちは「神」ではない。
「人間」です。
その限界を踏み越えてはいけないのです。


3.福音の原型

最後に、罪を犯したアダムとエバに対して、神様がどのように対処するのかを見ます。
9節を読みます。

「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」」(創世記3:9)

不思議な言葉です。
神様は、アダムがどこにいるのか知っているでしょう。
また、何をしたのかも知っているでしょうし、なぜ隠れているのかも知っているでしょう。
そのうえで神様は、「あなたはどこにいるのか?」と尋ねるのです。
罪人は、自ら神のもとへは行きません。
そして神様は、人間が自らの罪を悟って告白しに来るような存在ではないのを知っているので、自ら人間を呼ぶのです。
こうして、人間を救うために活動する神様の姿が聖書で現れます。
そしてここからは、福音の原型と言われる箇所になります。

まず、3章の9節から19節に至る文章の構造を見てみましょう。
ここは、文学の技法でchiasmeと呼ばれるものが使われています。
9-12節で、神様はアダムに問いかけています。
13節では、エバに問いかけています。
14節では蛇に問いかけています。
15節では蛇に対する裁きの言葉が語られます。
次に、16節では神様は再びエバに裁きの言葉が語られ、17-19節ではアダムに対して裁きの言葉が語られます。
何か規則性を感じないでしょうか?
アダムに質問して、そして最後にアダムに裁きの言葉がある。
エバに質問して、最後から二番目にエバへの裁きの言葉がある。
蛇に質問して、蛇に裁きの言葉がある。
このように、最初と最後で囲い込んでいく文章の書き方を、chiasmeと言います。
この技法は、真ん中に来る内容が重要であることを表現するために用いられます。
ここでは、蛇への裁きの箇所、つまり15節が最も重要な内容であることを伝えるために、こうした技法が使われています。

その15節を読みましょう。

「わたしは敵意を、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)

これが「原福音」と呼ばれているものです。
蛇はもちろんサタンのことであり、「女の子孫」というのはイエス様のことです。
「かかとを打つ」のと「頭を打つ」のとで、どちらが致命的でしょうか?
いうまでもなく、「頭を打つ」ほうが致命的です。
エス様の十字架の死によって、サタンの力が滅ぼされたのです。
このように、エバから生まれていく子孫が、蛇を完全に打ちのめすということを、神様は約束なさっているのです。
これが最初の福音、原福音と呼ばれる理由です。

罪を犯したアダムとエバに対しても、神様は、罪の解決の希望を与えます。
そしてその希望は、イエス様という形で実現しました。
私たちはそのことを知っています。
私たちは、いつでもアダムとエバの立場にいます。
そして、自分の過ち、弱い部分、暗い部分、愚かな部分、そういうものを隠して生きるのか、隠しながら「立派な人」のようなふりをして生きるのか、それとも、隠さずに、神様の恵みを、助け、力、奇跡を信じながら生きるのか、それを選ぶことができます。
どちらが主の栄光を表すことになるのでしょうか?
私たちは、自分の栄光ではなく、主の栄光を表す生き方を選び取っていきましょう。
それは、自分の罪、弱さ、愚かさを隠すのではなく、それに常に向き合う生き方であり、神様の恵みを信仰をもって希望し続ける生き方であります。

エバの罪、アダムの罪

 

創世記3:1-13


おはようございます。
今日の箇所はとても有名な箇所ですが、この箇所の神学的な理解については、今一つ私にはしっくり来ていないところがあります。
今日の箇所は、いわゆる「原罪」というものを語っている場面です。
「原罪」というのは、人類の最初の罪であり、根源的な罪です。
その原罪によって、すべての人間が罪びとになり、すべての人間が罰を受けて死ぬべき存在となりました。
人間が罪を犯すのも、また、人間が死ぬべき存在であるのも、この「原罪」によります。
これが「原罪」に関する神学的な理解です。
ところが、このような説明を聞いても、また今まさにこのように話していても、どうもリアリティを感じないのですね。
私はクリスチャンになって10年ほどたちますが、聖書を知るようになる前でも、何となく「人間はすべて罪人である」という印象を持っていました。
どこを探しても完ぺきな人間はいないですからね。
自分自身も、本当に醜い存在だと思っていました。
だから、「すべての人間は罪人である」という教会でよく言われることについても、「まぁ、そりゃそうだろう」と思っていました。
世界を普通に眺めるならば、誰でもそのような結論には至ると思います。
ところが、「その罪は、すべてアダムに行きつくのだ」という話になると、何か途端に別世界の話のように感じていました。
何となく、こんな風に言っているように感じたからです。

「俺は酒飲みで、いつも飲みすぎて知らない間に色々壊してしまう。
でもそれは俺のせいじゃない。
俺のおやじも酒飲みで、同じように酔っぱらって色々乱暴していた。
でも、おやじだけでもないんだ。
おやじのお父さん、じいさんからして酒飲みだったんだ。
俺が酒飲みなのは、代々受け継がれた遺伝ってものだな。
こりゃ仕方がないんだ。
俺のせいじゃない。
まぁ、敢えて言えば、遺伝のせいか、生まれた家が悪かったか、そういうことだ。」

例えばこんな風に言っているように感じていたからです。
「アダムが罪の始まりだ!」と主張することで、逆に「私は悪くない」となってしまう。
なんかおかしいなぁと感じていました。
それから神学も学びましたが、やっぱりすっきりはしませんでした。
今は、「原罪」という用語で言わんとしているのは、こういうことなのだと理解しています。
つまり、人間はみな罪を犯す存在であるけれども、もとをたどると、最初の人類であるアダムでさえも、罪を犯していた。
人間が悪い理由として、育て方の影響、社会の影響、遺伝の影響などが指摘されたりもするが、そういうものが一切ないときでさえも、人間は罪を犯した。
罪を犯す性質というのは、それほどまでに人間に深く根差しているのだ。
だからそれは、人間の根本的な条件であり、逃れられない運命なのだ。
「原罪」という用語は、こういうことを表現していると今は理解しています。
さらに今は、アダムとエバが罪を犯したこの場面は、人間が罪を犯す基本的なパターンを表現していると考えています。
その意味では、「オリジナル」な罪の在り方を示しています。
人間が生きる時代、場所、活動している領域や出会う人間関係は様々ですが、罪を犯す際の基本的なパターンがあります。
そのパターンの基本的な姿が、この創世記の3章にはあると思います。
今日は、それを語っていこうと思います。
初めにエバの罪、次にアダムの罪です。


1.エバの罪

エバの罪とはいっても、エバだけの罪ではないし、また女性に特有の罪というわけでもありません。
人間ならだれにでも現れる罪が、今は、エバにおいて現れている、ということです。
それは何かというと、神様の恵みを信じないという罪です。
どういうことでしょうか?
本文を一節ずつ読んでいきましょう。
3:1を読みます。

「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当にいわれたのですか。」」

いきなり蛇が出てきます。
その蛇は、「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」と言われています。
今回準備しながらわかりましたが、ここの「賢い」というのは、むしろ「ずる賢い」と言うべき言葉です。
聖書で肯定的に「賢い」と言われるときは、ハーカームという単語が使われます。
それが多く使われるのは箴言です。
ところがここで使われているのは別の単語であり、それは、「ずる賢い」とか「策を練るのがうまい」とか、そういう意味です。
蛇は、賢いというよりは、ずる賢さで一番だったようです。
ところで、「なぜ、そんな蛇のような奴がエデンの園にいるのか?」という問いには、答えません。
確かに、そのような問いが神学的には立てられます。
「神は、なぜサタンが存在するような世界を作ったのか?」
「神はなぜ、もっと意志の強いアダムとエバを作らなかったのか?」
「神はなぜ、世界を創造するときに悪の存在を許したのか?」
このように、同じような問いを立てることができます。
しかしこうした問いは、聖書の範囲を超えている事柄なので、答えることはできません。
私が語ることも、あくまで聖書を前提とした内容であります。

さて、その蛇がエバに問いかけます。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか?」


「この世界のものを楽しんではならないと、神様は本当に言ったんですか?」


「クリスチャンになると、大変なことが多いんだね?」


蛇がエバに問いかける質問は、形を変えて今の私たちにも問いかけられているものです。
この世界の人々は、宗教というものは人間の自由を縛り、自然な欲求を制限するものだと考えます。
すがすがしい青空、新鮮な空気、命を豊かにはぐくみ、四季折々で多様な表情を見せる森、海、食べ物、そういう豊かな自然の賜物を楽しむのを禁じるものだと考えます。
私もよく、「食べてダメなものとかあるの?」と聞かれます。
「宗教というのは、食べてよい物と、食べていけない物を定めるものだ」と思っているからでしょう。
それには確かに理由があります。
イスラム教は豚を食べてはいけませんし、ヒンズー教は牛を食べてはいけないし、仏教には精進料理というジャンルもあります。
もちろんユダヤ教にも、食事に関する制限があります。
クリスチャンの間でも、お酒やたばこは、しないのが標準になっていますね。
この世に存在する宗教は、ことごとく食べ物に関して制限しているのです。
そうした制限は、食べ物だけではありません。
行動、礼儀、儀式、服装、男女関係、いろいろなものについて、宗教は制限を課します。
色々なことに関して「これは良い、これはダメ!」と定め、善悪に関するリストを作成します。
人が何らかの宗教を信じるということは、その宗教が定めた善悪のリストを守って生活することだ――そのようにこの世界の人々は考えます。
それは、その人々にとっては「不自由」な生活、あるいは「もったいない」生き方、または「かわいそうな」生き方です。
だって、子供から大人になることで、お酒が飲めたり、タバコができたり、好きな服を着れて、行きたい場所に行くことができ、遊びたい遊びをすることができるようになるのに、「宗教を信じるが故に」それらができなくなるのですから。
人々がそのように思うのはもっともです。

蛇の問いかけは、こうした世の人々の一般的な考え方を代表しています。
「あら、宗教を信じてるんですね。
かわいそうに。よほど大変なことがあって、そのすきに、まんまと宗教にはまってしまったんですね。
あれをしてはダメ、これをしてはダメ。
沢山してはいけないことがあるでしょう。
かわいそうに。
こんなに楽しいことが世界にはあるのに、それもできないんですね。
もったいない人生になってしまって・・・。」

これに対してエバはどのように答えるでしょうか?
2-3節を読みます。

「女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と神は仰せられました。」」(創世記3:2-3)

このエバの返答の中には、私たちクリスチャンが「なんでお酒飲まないの? なんで日曜日教会に行かないといけないの?」と聞かれたときに、何かあいまいな言葉を使って答えている姿が現れています。
「なんでお酒飲まないの? 禁じられているの? でもヨーロッパ人はワインを飲んでるじゃん。」
「いや、禁じられているわけではないけど、お酒を飲むのは良くないと教会で言われるし、他に飲んでる人もいないので…」
「それって、やっぱり禁じられてるんじゃないの?」
「……」

エバについては、しばしば主の言葉を正確に理解していないと指摘されます。
主はどのように語ったのでしょうか?
2:16-17は次のように語っています。

「神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」」(創世記2:16-17)

違いを見つけづらいかもしれませんが、主は、善悪の知識の木について、その実を「食べてはいけない」と言っているだけなのに対し、エバは、「触れてもいけない」とさらに禁止項目を付け加えています。
ここに違いがあります。
この違いから、何がうかがわれるでしょうか?
蛇の誘惑が成功しつつあると語る人もいます。
蛇は、神様に対する疑いをエバのうちに生じさせようとしているのですが、その蛇の試みが成功して、神様に対する信頼が、エバの中で揺らぎつつある――それを表現していると解釈する人がいます。
また、エバが主の御言葉を大切にしない様子が現れていると解釈する人もいます。
エバは主の御言葉を大切にしなかった、だから蛇に誘惑されることになったのだ、というわけです。
どれもその通りだと思いますし、特に対立する解釈ではないでしょう。
私としては、エバのように主の御言葉にさらに別なものを付け加えることは、まぁよくあることなのではないかと思います。
例えば、ある話題について、誰もその話題に触れないので、「その話題について言及してはいけないのだ」と考える、近年よく使われる言い方では、「忖度」するようなことです。
勝手に自分自身で禁止項目を追加するということを、私たちもよくしているでしょう。
だから、私としては、主の御言葉を正確に理解していないということよりも、そのように自分自身で禁止項目を追加したり、あるいは「義務」の項目を追加したりするときに、そこにはどのような心理的な背景があるのか、それを問題としたいのです。
つまり、主が言った言葉以上のことを付け加えるとき、エバはどのような心理状態だったのか、それを問題としたいのです。
エバはどのような心だったのでしょうか?
私は、それは恐怖心だと思います。
それは、自分に対して権威と権力を持つお方に対する正当な恐れの感情ではなく、自分の身が危険にさらされることへの恐れの感情です。
自分の命、自分の立場――つまり自分自身が、危ない状態に陥ることへの恐れの感情です。
こうした感情は誰もが持つものであり、それ自体は特に問題ではありません。
問題は、そうした恐れの感情を持つときに、特にクリスチャンにとっては二つの選択肢があるのですが、エバがその選択を誤ったという点です。
二つの選択肢とは、その恐れの感情に身を委ねるか、あるいは、主の恵みを信頼するか、その選択肢です。
エバは「主の恵みを信頼する」道を選ばなかった、それが彼女の過ちなのです。
先ほどの例で言えば、誰もその話題に触れないという状況があった時に、私たちには、その話題に触れるという選択肢が当然あります。
しかし、その話題に触れることには恐怖が伴います。
触れることで、自分が非難され、村八分にされるかもしれません。
その恐怖心にそのまま自分を委ねると、「その話題は触れてはいけないのだ!」と自分勝手に禁止項目を作ります。
しかし、そうではない道も当然あるでしょう。

では、エバの過ちとは具体的にどのようなものだったのか?

日本語ではいまいちわかりませんが、2章16節で主が語っている文章と、エバが3章2節で語っている文章には、ニュアンス上の違いがあります。
2章16節で主が「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と語るとき、その「食べてよい」には強調表現が使われています。
「食べなさい!」と強調されているのです。
ところが3章2節では、その強調がなくなっています。
その代わりに、「禁止」の内容が多くなります。
エバにとっては「禁止」が強く印象に残っていたともいえるでしょう。
ところで、主が語ったような強調表現をエバは用いませんでしたが、実は、蛇が用います。
しかし、主とは反対の内容を強調します。
蛇は3章4節で「決して死にません」と語りますが、これは強調表現を使用しているのです。
主は、2:16-17で、「食べてよい」と「必ず死ぬ」と二度の強調表現を用いています。
それに対して蛇は、3:4で、善悪の木の実を食べても「決して死なない」と強調表現を用います。
主の「必ず死ぬ」に対して、蛇は「決して死なない」と強調します。
エバは、その蛇の強調表現に従ったのでした。

なぜそういうことになるのか?
主は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と強調しました。
しかしエバは、それをその通りに受け取りませんでした。
もしかしたらアダム本人が受け取っていなかったのかもしれませんが、ともかく、エバは、神様の強調点を、その通りに受け取っていませんでした。
これが彼女の問題だったのです。

神様は、「自由に食べなさい!」と語っているのです。
「自由に食べなさい!」と語り、「ただし」善悪の知識の木からは食べてはいけないと語ります。
「自由に食べなさい!」が最大の強調点なのです。
しかしエバはそれをその通りには受け取らない。

これは私たちの問題でもあります。
エス様は「真理はあなた方を自由にする」と言いました。
エス様の救いを受け取った人間は、自由になったのです。
いいですか?
これは重要なので、もう一度言います
エス様の救いを受け取った人間は、自由になったのです。
神様が私たちを、イエス様のゆえに「義」と認めてくださったのです。
だから、この世の何物も、もはや私たちを支配することはできないのです。
パウロはローマ8:38-39で次のように言っています。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

エス様を信じた人間は、完全に自由になったのです。
それは、神様が私たちにこう言っているのと同じです。
「あなたは、自由に生きなさい!」
「私、神である主、天地の創造主なる私が『自由に生きなさい!』と言うのだ。私はあなたを愛し、あなたに与えた義を取り除きはしない。だから、自由に生きなさい!」
神様は、私たちが自由であることを願っているのです。

ところが私たちは、エバと同じように、「自由に生きなさい!」という神様の強調点は少なく考えて、「禁止」の命令ばかりを逆に強調するようになります。
創世記2:16を新約聖書風に言い換えれば、次のようになるでしょう。
「自由に生きなさい! ただし、イエス様が望まないことをしてはいけません!」
私たちは「自由に生きなさい!」という神様の望みはほとんど無視して、「イエス様が望まないことをしてはいけない!」ことばかりを大切にするようになります。
そして禁止や義務ばかりが多くなり、融通が利かず、不機嫌で、喜びのない人生を送るようになります。
クリスチャンとして生きることが「苦痛」であり「重荷」になってしまいます。
周りからは、「真面目で、敬虔で、でも人生を楽しんでいないかわいそうな」クリスチャンとみなされてしまいます。
そういうクリスチャンに対して、エバに対して蛇が語りかけたような言葉が来るとどうなるでしょう?
「この世界のものを楽しんではならないと、神様は本当に言ったんですか?」
「クリスチャンとして生きるのは大変なんですねぇ。」
創世記3:4の「決して死ぬことはない!」を今風に言い換えると、こうなるでしょう。
「信じないで生きた方が、はるかに自由じゃん!」
私たちがクリスチャンとして生きることを「重荷」と感じているとしたら、このような言葉に誘惑されるのは容易でしょう。
恐怖心を感じて、自分で禁止項目を作る状態は、私たちが、何かよくわからないものを恐れて、我慢している状態です。
その我慢して、欲求不満な状態にあるとき、私たちは誘惑に陥りやすいのです。

重要な点は同じです。
私たちが、神様が強調している点を、その通り受け取るかどうかです。
「自由に食べなさい!」あるいは「自由に生きなさい!」
これを本当にしっかりと受け止めているかどうか。
しっかりと受け止めているならば、蛇の誘惑に対抗することは容易です。
しかし、それを中途半端に受け取っているならば、蛇の誘惑に陥るのも時間の問題でしょう。
神様は、私たちが想像するよりもはるかに度量が大きく、つまりけち臭くはなく、恵み豊かです。
それを心から信じないといけないのです。
そして実際に自由に生きる必要があるのです。


2.アダムの罪

続いて、アダムの罪に関してです。
アダムの罪とは何でしょうか?
一部は、エバと共通しています。
しかし、アダムの割合が大きいものがあるとするならば、それは、責任回避という罪です。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた後、神様はアダムを呼び、そしてアダムを問い詰めます。
その時アダムはこう言います。
3:12を読みましょう。

「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」(創世記3:12)

これは明らかに責任転嫁です。
アダムは、自分の過ちを妻のエバの責任にしているばかりか、そのエバを与えたのは神様だということで、神様にも責任転嫁しています。
しかし、今日私が問題としたいのは、ここではありません。
もっと前の箇所です。
それは、エバと蛇が対話をしている箇所です。
うっかりすると読み過ごしてしまうのですが、蛇は、エバに向かって話しているのですが、その時蛇は、「あなたがた」と二人称男性複数形で話しているのです。
ヘブライ語は、今の英語とかと同じで、男性と女性が混ざっていたら「男性形」になります。
蛇の言い方からわかるのは、蛇は、エバだけではなく、アダムに向かっても話している、ということです。
エバのそばにアダムはいるのです。
二人いる中で、蛇はエバに向かって語り掛けている、という構図です。
その姿を想像しながら私がちょっと思ったのは、夫婦でショッピングセンターに行ったときに、売り場の店員さんが、妻に向かって一所懸命勧誘している様子です。
二人いるんだけれど、妻を説得しようとして語り掛ける、そのような姿です。
こういう状態であることを踏まえると、蛇とエバとのやり取りも、もっと違って見えてくると思います。

蛇の質問に対して、エバが答えるシーンがあります。
最初に話したように、主の言葉についてのエバの理解には誤りがありました。
ところで、そのそばにはアダムがいました。
主が「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と話した時、それを聞いたのはアダムだけでした。
エバはそのあとに誕生するからです。
だとすると、蛇に対するエバの発言内容に誤りがあった時に、それを訂正することができたのは、アダムなはずです。
ところがアダムは何もせず、傍観しているだけです。
エバが善悪の知識の木から実をとって食べようとするときにも、アダムはそこにいました。
それを止めようとすれば、止めることができたはずです。
しかしアダムはそれをせず、傍観しているだけでした。

なぜでしょうか?
いくつか可能性が考えられます。
例えば、アダムはエバと同じ意見だったので、特に口をはさむ必要を感じなかった、と考えることができます。
あるいはまた、アダムはエバと意見が違っていたが、蛇とエバとの会話の中に割って入らねばならないとは感じなかった、とも考えられます。
私は、二番目の方があり得ると思うのです。
というのも、アダムはやはり神様から直接「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と聞いているはずなので、蛇に対するエバの答えがちょっとおかしいときに、「おかしい」と気付くだろうと思われるからです。
とすると、アダムはエバとは意見が異なっていたにも拘らず、敢えてエバと蛇との会話の間に割って入りはしなかった、と考えられます。
では、それはいったいなぜなのか?

これは純粋に想像ですが、たぶん、面倒くさかったのだと思います。
また、二人の間に入って、例えば自分が蛇に言い負かされたら、格好悪い、恥ずかし――そういうリスクを回避しようとしたのだと思います。
しかしながら、どのような理由があったにせよ、アダムは、なすべき責任を果たしていなかったのです。
主の御言葉を最初に聞いた者として、エバが御言葉のなかにとどまるように、積極的に働きかけるべきだったのです。
アダムはそれをしませんでした。
かえって、悪化していく状況にそのまま従っていきました。
そして最後には、自分自身の責任を無視したまま、自分が過ちを犯したのは、神様のせいであり、また、エバのせいである、と責任転嫁をします。

これもまた私たちになじみ深い罪を犯すパターンでしょう。
ルース・ベネディクトが、「罪の文化と恥の文化」という枠組みで日本人を論じていたことがありますが、日本人は相対的に、自己の責任を自覚して認める点で弱い側面があります。
大手企業が何か問題を起こして、謝罪の記者会見が開かれる場合の決まり文句を、皆さんご存知でしょう。
「お騒がせしてすみません。」
日本人の謝罪に関しては、何が悪かったのか、それは何が原因で起きたのか、また再発させないためにはどうしなければならないか、そういうことが語られることはほとんどありません。
たいていは、「お騒がせしてすみません」と、何を謝っているのかわからない言葉ばかりとなります。
私などは、「本当は、何も悪いと思っていないんではないか? 運が悪かった程度にしか思ってはないのではないか?」と勘ぐってしまいます。
そのように、日本人は責任を認める点で弱いです。
その割には、社会的には「自己責任」という言葉が流布しています。
これは、それが語られる文脈を考えると、身分制を前提とした道徳を語っているものだと言えます。
日本にある身分制の中で、上に立つものは基本的には何をしても許されるのですが、下にいる人々には、それ相応の「分」というものがあり、その「分」をわきまえることが求められます。
その「分」をわきまえず、何か問題があった場合に、「自己責任」という言葉が用いられます。
ところがそれは、「責任」という言葉を用いてはいますが、本来「責任」という言葉が持つ内容とは全く異なるものです。

聖書では、私たちの命に責任を持つのは、神様です。
聖書には、日本人が使うような「自己責任」という概念はありません。
「罪を犯した? はぁ?何してんの! 滅びたとしても、それはお前の責任。私はあなたとは何の関係もありません。」
神様は、決してそのようには言いません。
怒りはしますが、救い出そうとする。
そしてそのために、独り子イエス様さえも十字架につけるほどなのです。
エス様ご自身もそうですね。
福音書には弟子たちの失敗がたくさんありますが、イエス様は、その失敗を叱責はします。
ものすごく叱責します。
しかし、それで終わらずに、弟子たちを助けます。
そのようなシーンを、私たちはすぐに思い出すことができるでしょう。
聖書的な意味での「責任」とはそういうものなのです。
「責任を持つ」とは、自分の最も大切なものを投げ出してまで、責任ある相手を守ろうとすることなのです。

アダムはエバに対して責任ある存在でした。
ところが彼は、そのエバが蛇に誘惑され、主の戒めから逸脱しようとしているときに、何もしませんでした。
さらに、エバとともに、主の戒めを破りました。
それは、アダムが、エバとともに、主の語った「必ず死ぬ」という言葉よりも、蛇の語った「決して死なない」という言葉の方を信じた、ということを意味するのです。
さらにまたアダムは、神様によって自らの罪を詰問されたとき、神様やエバに責任転嫁しました。
アダムはこのように、自らの責任を回避しようとし続けたのです。


3.まとめ

今日は、エバの罪、アダムの罪をそれぞれ見てきました。
それらは、私たちが罪を犯す基本的なパターンとなっています。

エバの罪とは、「自由に食べなさい!」という神様の恵みの言葉を真実に受け取らなかったことです。
これは今の私たちの場合には、イエス様に救われ「自由に生きなさい!」と主から言われているにもかかわらず、それを文字通り受け取っていないことと等しいです。
そして恐怖心にとらわれて、イエス様が語った以上に禁止項目を自分勝手に作り、それを守ろう守ろうと汲々とし、守らないことを、そして守らないことによって生まれる事態を恐れるのです。
そしてそのような状態は、蛇の誘惑に陥りやすい状態でもあるのです。
なぜなら、自由ではなく、欲求不満がたまっているからです。

アダムの罪とは、神様の御言葉を受け取り、それをエバとともに守る責任があったにもかかわらず、その責任を回避し続けたことです。
その責任を回避したことで、事態は悪化し、二人とも神様の戒めを破ることになりました。
これは今の私たちにとってどのような状況と比較できるでしょうか?
先ほどはそれを述べませんでしたが、最後に、少しその点を話します。

私たちは、アダムと同じように、この世界で御言葉の管理者として、また、この世界と隣人と神様との調和的関係を回復させるものとして、責任がある立場です。
その責任を実際に遂行しようとすると、この世界においては、恐怖心を抱くような状況に陥ります。
何かひと悶着起きたり、自分の立場が危うくなったり、ともかく、不都合な状況、避けたい状況が起きます。
それは伝道の場面で起きることばかりではありません。
教会内で、何かを決定しようとするときにも、起こりうることです。
例年やっていたことをやめるとき、あるいは、今までやっていなかったことを始めるとき。
そういうとき「こんなことを考えているのは自分だけなのではないか? これを話すことで自分が孤立してしまったらどうしよう?」と心配になり、恐れることもあります。
サルトルは、人間は自由という刑に処せられていると言いましたが、確かに、人間が自由であるということは苦しいことです。
しかしながら、対立したり孤独になることを恐れて自分の責任を回避していたら、それは、アダムと同じ生き方になってしまいます。
状況は悪化していき、そしてついには、「自分は悪くない、環境が悪いのだ、いや、その環境を設定し、その環境の中に自分を置いた神様が悪いのだ!」と考えるに至ってしまいます。
そうであってはいけません。
そのためにどうする必要があるのか?
エバの場合に述べたことと同じです。
「自由に生きなさい!」という主の御言葉を固く信じること、「神が私たちを義と認めてくださる」という御言葉を、「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」という御言葉を、固く信じることです。
それを、神様が強調している、その通りに、私たちも受け取ることです。
そして、恐怖に打ち勝ち、実際に自由に生きることです。
そのとき私たちは、単に世の誘惑に打ち勝つだけではなく、世を神様の望まれる国へと作り替えていくものになるでしょう。
神様は、自由に生きることに伴う不安を取り除いてくださり、私たちに勇気を与えるでしょう。
主の国を求めて、主に従うという清い思いを抱くならば、神様は必ず力と助けを与えてくださいます。
そして、私たちが不安に思っていたその対象が、実は、豊かな恵みへと至る通路であったことを発見するようになるでしょう。
私たちは、きっと同様の体験をこれまでしてきたと思います。
それはこれからもまだあります。
私たちはそのことを信じ、主の恵み・支えを信じ、大胆に歩んでいきましょう。
そして、神様の豊かな恵みを生き方そのもので表現していきましょう。

結婚の意味

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

創世記2:24

 

おはようございます。
今日の箇所はとても有名な箇所です。
しかし、この箇所について今日ほどメッセージするのが難しい時代も、かつてなかったかもしれません。
この箇所を取り扱うにあたって、どうしても、現在のLGBTの問題に触れなければならないからです。
ところがまた厄介なことに、このLGBTについて、キリスト教界において一定の合意が出来上がっているのかと言うと、決してそうではないという現状もあります。
カトリックの場合には、カトリック全体の教義というものがあります。
ところがプロテスタントでは、各教派ごとですこしずつ教義が異なるのが一般的であり、とくに細部に至っては、各教会ごとに異なることもあります。
特にこのLGBTについては、最近登場した問題でもあり、多くの牧師は、それをどのように取り扱っていいのか戸惑っている、というところが本音ではないでしょうか。

今日ははじめに、このLGBTについての私の経験と見解を語ることから始めたいと思います。

1.LGBTというか、同性愛

LGBTという言葉を、私も去年くらいに知りました。
もちろん、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーというものは知っていましたが、そういうのをまとめてLGBTと語るというのは、本当に最近知ったことです。
ところで、私自身は昔から、LGBTというのではなく、「同性愛」については関心を持ってきました。
というのも、クリスチャンになって伝道していると、結構多くの人が「同性愛はキリスト教ではどのように理解されているのか?」と質問するからです。
私がかつていた教会は韓国系の教会でしたが、韓国の年配の牧師の場合はすごく単純でした。
「同性愛は罪、してはいけません!」これで終わりです。
同性愛は聖書では禁じられているし、常識的にもおかしいし、論じること自体がおかしい――そのような調子です。
ところで、イエス様を信じようか、信じまいか、どうしようかと迷っている人が礼拝でこういう発言を聞くと、当然疑問を持つのですね。
世界的には、特にキリスト教的価値観が普及しているといわれているヨーロッパやアメリカにおいて、同性愛の権利が認められてきています。
キリスト教は、イスラム教などとは違って、個人の権利を尊重する宗教なのではないか?と漠然と思われています。
しかも、キリスト教は、困っている人、苦しんでいる人を、積極的に救いに行く宗教だとも考えられています。
実際、イエス様は、社会の抑圧されている人々、社会で隅に追いやられている人々、社会で罪人だと言われている人々、そういう人々のもとに積極的に出向いていきました。
こういうことを何となく知っていると、今の社会制度の下で苦しんでいる人がいるならば、その人に積極的に接近していき、その人たちを救おうとするのがクリスチャンなのではないか?――こう感じるからです。
そういう疑問を抱く人が、牧師には直接聞けないので、私に質問してくる、ということがよくありました。
私自身も、実は、その牧師――というよりかは、ある一定の年齢以上の韓国人クリスチャンたちの同性愛に対する見方に、少々疑問を抱いていました。
その疑問というのは、「同性愛は聖書的に罪である」という公式的な発言の裏側に、「同性愛は気持ち悪い」という感情があるのではないか、ということです。
実際、同性愛者風の人を指して「気持ち悪い」と言ったり、そういう表情をしているのを見たことがあります。
むしろ、その「気持ち悪い」という感情のほうが主な理由なのではないか、とも感じていました。
そういうこともあって、同性愛とキリスト教との関係については、多少関心を持ってきました。

今それを全部話すととても長くなるので、結論だけを簡略に述べたいと思います。

1−1.同性愛は罪である
まず、同性愛は聖書的には罪であります。
ただ、何でもそうですが、理由や根拠が大切です。
よく同性愛を否定する聖書的な理由としてソドム・ゴモラの人々のことが挙げられることがありますが、その人々は、今日のLGBTの問題とは全く関係がありません。
彼らは大変野蛮で暴力的な人々です。
その野蛮で暴力的な人々が「ソドム」の人たちなので、そこからソドミズムという言葉が生まれました。
ところが、LGBTの人々は、別に野蛮で暴力的な人々ではありません。
というよりは、野蛮で暴力的であることと、性的指向性は全く関係がありません。
なので、その聖書箇所は同性愛を否定する聖書的理由にはならないのです。
私は、やはり神様が人間を男と女とに作った、という点が大切だと思います。
男と女とに作った、そして今日読んだ聖書箇所のとおり、二人は一体となります。
そこから子供が誕生します。
ところが、男性同士、女性同士が結婚したらどうなるでしょうか?
神様が創造された最初の状態では、つまり自然のままでは、子供は生まれません。
私は昔哲学を研究していて、特にカント哲学を研究していましたが、カントは、ある規則が普遍性を持つかどうかを調べるには、その規則をすべての人が実行した場合に、矛盾がないことだ、と言っていて、そういう思考実験が習慣的になっています。
同性同士による結婚をすべての人が実行したらどうなるでしょうか?
子供が生まれません。
となると、人工的な方法で子供を作ることになるでしょう。
すると、ここに私は矛盾が生まれると思います。
神様が人間を創造して、生殖器官をも創造したのですが、それが全く無駄になってしまうのです。
それは言いかえると、神様の創造行為の否定です。
またさらに、人工的な方法で子供を作る、しかも大量に作る、その点に、人間の思い上がりがあると思うのです。
同性同士による結婚を普遍的な規則とすると、人間の独善・高慢が中心になり、矛盾が生まれます。
その場合には、神様の創造の秩序を否定することになります。
だから、同性同士による結婚は正しくはない、あるいは、神様が世界を創造したときに制定した規則に反しています。
つまり、聖書的には罪だということです。
これは初めに確認しておかなければなりません。

1−2.罪に重軽はない
次に、同性愛は罪ですが、罪の中に「重い罪」と「軽い罪」という区別があるわけではない、このことも確認します。
教会の伝統、また神学の伝統の中には、罪を分類したり、重い罪と軽い罪とを区別したりするものがあります。
しかし私は、罪の中に「重い」ものと「軽い」ものを設定することは、新約聖書の時代のファリサイ派や律法学者と同じ過ちに陥ることになると思います。
彼らがそうであったように、自分は「罪を犯していない」という思い上がりと、「罪人」に対する冷淡な態度を生むことになります、それは究極的には、自分自身が人格的に神様と向き合うことを回避する姿勢に至ります。
エス様が山上の垂訓で言おうとしていたのは、律法というものを、その厳粛さ、重み、価値を真剣に受け止めるならば、誰もが罪人になるということでした。
「俺は人を殺していない、だから罪人ではない!」とは言えないのです。
人に対して怒りを抱いた者は、殺人をしたのと同じことだからです。
あるいは、「俺は姦淫を犯していないから罪人ではない!」とも言えないのです。
心で淫らな思いを抱いた者は、姦淫したのと同じだからです。
常識的に考えれば、心で思っただけのことと、実際に行動したこととは、全く異なります。
もしこの世界の法律が「心の思い」までも罰の対象としたら、犯罪者だらけとなるでしょう。
しかしイエス様が問題としているのは、法律ではなく、律法です。
律法を厳粛に受け止めるならば、常識的に考えて、この世の基準で考えて、法律的に考えて、どんなに小さいものでも、あるいは無罪と思われるものでも、「罪」なのです。
このイエス様の姿勢を踏まえるならば、「罪」の間に「重い罪」と「軽い罪」を設けることは、この世的な考え方でしかないと言えます。
エス様を前にしては、つまり神様を前にしては、罪は等しく「罪」であり、重い・軽いなどという区別はないのです。
あえて言えば、すべてが「重い」罪なのです。
従って、同性愛は「罪」ですが、その罪の重さは、私たちが「軽い罪」と考えているようなものと全く同じです。
ちょっとした悪口、ちょっとしたウソ、ちょっとした約束違反、そういうものと同性愛は、同じように「罪」です。
前者は「赦される」罪で、後者は「赦されない」罪、なんてことはありません。
前者は「軽い」罪で、後者は「恐ろしい」罪、なんてこともありません。
どちらも等しく「恐ろしい」罪であり、同じ「醜悪さ」を持っているのです。

1−3.罪は憎み、罪人は愛する。
この二番目の認識から、こういう帰結が生まれます。
つまり、教会は、一般的な実践として、罪は罪として指摘しながらも、どのような罪人であっても兄弟姉妹として受け入れ愛していますが、教会はそれと同じように同性愛を扱うべきだということ、つまり、同性愛は罪であると指摘しながらも、同性愛者たち自身は同じ兄弟姉妹として受け入れるべきである、ということです。
これは、どのような罪も等しい罪悪性を持つということから生まれる当然の帰結です。

1−4.罪を教会は祝福しない、故に、同性愛の結婚を教会はしない
ところが、同性愛は罪なので、教会は、同性同士の結婚を祝福しないし、そのために結婚式をすることもできません。
それは、教会が殺人を祝福しないことと、あるいは偽証することを祝福しないことと同じです。
教会は罪を祝福することはできません。

1−5.同性愛者同士の結婚を認める国家制度は認める
同性愛者同士の結婚を教会は祝福しませんが、同性愛者同士がこの世の制度として結婚することは、認められるべきです。
それはその人々の基本的な権利が尊重されるためです。
他人に自己中心的な怒りを持った人でも、幸福を追求する権利はあり、嘘をついたことのある人でも、同じく幸福を追求する権利はあります。
父母を愛したことのない人でも、結婚する権利はあります。
言い換えると、聖書に照らし合わせて「罪」を犯したことのある人でも、この世においては等しく権利を持っているのです。
であるならば、同性愛者もまた同様であるべきです。
ところで、そもそもなぜ「権利」は存在するのでしょうか?
その理由について聖書から言えるのは、神様が人類を愛していて、人間が一人残らず立ち返るのを忍耐して待っているからである、ということです。
そして「立ち返る」とはまさに「主を信じる」ことですが、それは、心の自由で自発的な行為です。
私は、各人が自由に、自発的にイエス様を信じるようになるまで、すべての人は等しく幸せを享受できるべきだと考えます。
意図的に苦しめたり、強制をしたりすることによっては、「信仰」は生まれません。
「信じる」という心の行為は、物理的・政治的・経済的恐怖が存在しない条件でなされるべきです。
その条件は当然同性愛者にも認められるべきであります。
同性愛者は、うそをつく人間や、約束を破る人間や、怒りを抱く人間などと同じように、同じように「罪人」であり、同じように「人間」であり、同じように「信じる」のを期待されながら忍耐されている存在だからです。

以上は同性愛について語ってきましたが、基本的なことはLGBT全般に当てはまります。
罪は罪としてはっきりと語る。
しかし、罪人は愛する。
罪には重い・軽いという区別は存在しない。
全ての罪人に等しい権利があるように、性的マイノリティの人々にも、性的マジョリティの人々と等しい権利が保証されるべきだ。
これはあくまで私の個人的な考えであります。
しかし、今日の本文のような箇所を語るにあたって、問題となる部分ではあったので、予め話しておくことにしました。


2.二人は一体となる

さて、今日の箇所でのメッセージは、多分みなさんはさんざん聞いてきたのではないかと思います。
それに、結婚に関しては、私よりも皆さんのほうが先輩なので、この聖書の御言葉の深い意味については、私よりも皆さんのほうがご存知でしょう。
なので、今はこの御言葉で最近改めて実感したことを分かち合いたいと思います。

ここで「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ」「二人は一体となる」とあります。
「父と母を離れ、その妻と結ばれ」は、男性の独立した人格と、妻の優先性を表現しています。
もちろんこれは、男性だけではなく、女性にも当てはまります。
妻もまた、父と母から独立した人格を持ち、そして夫を優先するのです。
こうして「二人は一体と」なります。
つまり、一つの共同体となります。

ここで一つ大切なのは、夫と妻それぞれの独立性です。
少し話を大きくしますが、日本のいわゆる「伝統的な」家族というのは、軍隊や会社組織と同じ側面があります。
父親がいて、長男がいて、妻、子供がいる。
軍隊でも、ピラミッド型のヒエラルキーがあり、それは会社でも同じです。
どこの組織に置いても、「上」にいる人間は何でもできて、自由で、決定します。
「下」にいる人間は、奴隷のように従属して、何も決定できません。
こうした組織のあり方は、徐々に崩れてきていますね。
一方では、リベラルな考えが普及してきたことがありますが、他方では、特にここ30年に渡って、いわゆる「日本型経営システム」というものが機能不全に陥ってことが挙げられます。
「上の人間が一方的に指示を出すだけ、下の人間が一方的に従うだけ」という組織運営の仕方が、グローバルな資本主義の中でもはや通用しなくなったのです。
そこで今、心ある人間は、組織をフラットな形へと変えようとしています。
各社員が対等で、独立性を持ち、等しく経営に関与する。
そのような組織に変えようとしたり、最初からそういう組織にする人もいます。
家族も同様です。
「父親が頂点にいて、それにみんなが従う」というあり方はすでに少なくなっています。
夫も妻も等しい人格を持つという考えが徐々に当然のことになってきています。
そして、聖書が語っている夫婦観というのは、そういうものなのです。
夫も妻も、神様が作られた独自の存在です。
神様が愛した独自の人格です。
であるならば、お互いに相手を、尊敬を持って対応するのが当然なのです。

ところが、生活しながら目に見える部分ばかりにとらわれてしまうと、なかなかそれが難しくなったりします。
男性でよくありがちなのは、「自分が働いている」という意識でしょうね。
日中、家を離れて働いていると、男性は「自分が働いている」と思います。
そして給料が入ると、「自分が稼いだ」と思います。
この意識が強まっていくと、「自分は尊敬されて当然だ、妻は別に重要なことをしていない」という考えになってしまいます。
これは錯覚なのです。
最近ラグビーのワールドカップがありました。
見ていた人も多いかもしれません。
昔からそうですが、スポーツニュースなのでラグビーが扱われると、最後のトライの部分だけ放送されます。
まぁ、サッカーでも、同じですね、シュートが入ったところだけが放送される。
そのニュースだけを見て、最後のトライをした人だけが「偉い」と思ったとしたら、それは錯覚でしょう。
難度もスクラムをくんで、チャレンジしては失敗して、そういうのを繰り返しながら、ある瞬間、色々うまくいってトライができる。
メンバーそれぞれのチャレンジと協力、その結果としてトライが生まれるのです。
トライは、「全員」で勝ち取ったものなのです。

妻の方も同じです。
「給料」という目に見える部分だけにフォーカスすると、錯覚に陥ります。
そして、「自分は何もしていない」と考え、自分の価値を低く考えてしまいます。
それもまた誤りです。

夫婦は、互いに独立した人格であり、愛し、尊敬すべき対象です。
それができなくなるのは、私たちが神様を忘れ、後で話しますが、「チーム」として働いていることを忘れ、自分の仕事・働きだけにフォーカスするときです。
そのとき私たちは、自分の価値を必要以上に高く考えたり、低く考えたりしてしまいます。
そうしてはいけないのです。


次に大切なのは、「一体となる」という点です。
今も少し触れましたが、夫婦は「チーム」です。
「チーム」で生活し、働いているのだという事実を忘れると、私たちは本当に自己中心的な考えに陥ってしまいます。
ところが、「チーム」であることを忘れてしまいがちであることも、事実です。
最近は本当にそのことを感じていました。
毎日、私も妻も、忙しく生活しています。
家では赤ちゃん中心の生活です。
二人とも疲れ果ててしまって、赤ちゃんを寝かしつけると同時に、自分たちも寝てしまいます。
互いに、日中どのように過ごしていたかとか、ほとんど分かち合うことなく過ごすこともあります。
これはよくないのです。
互いに相手がどのように過ごしていたのかを知らないと、自分の働きだけにフォーカスがゆきます。
そうすると、「自分はこんなに大変な思いをしているのに!」という不満が生まれてしまいます。
すると、相手への軽蔑も生まれます。
そうであってはいけません。
だから、この「一体となる」という御言葉を、絶えず実践するように心がけないといけないのです。

「一体となる」というのは、「結婚してそれで達成!」ということではありません。
私も、ちょっとそのように考える節はありましたが、そうではありません。
一回実現して、それで終わり、ではありません。
これは、人生の各ステージで、その都度直面するチャレンジなのでしょう。
それぞれの人生の段階で、直面する困難は異なります。
その都度、私たちは初心者となります。
そしてそのように初心者となるときに、その都度、私たちは「一体となる」という真理を大切にするようにチャレンジを受けるのです。
子供が生まれたとき、子供が家を出ていったとき、自分たちがリタイアしたとき。
それぞれ状況は異なります。
しかしその都度、新しい状況の中で、私たちには「一体となる」というチャレンジがあるのです。


3.神の栄光となる

今日の本文を通じて、夫婦は独立しながらも一体である、ということを語ってきました。
では、そのような夫婦とは、一体何なのか?
そのように愛して、尊敬して、一致を保って――そうした努力をしながら、一体夫婦とは何を目指す共同体なのでしょうか?
聖書からも色々言えるでしょうが、聖書の中で最も大切なのは、次のパウロの言葉です。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エフェソ5:31−32)

今日の本文について、パウロは「キリストと教会を指して言っている」と述べているのです。
これは驚くべきことです。
このエフェソ書の5章では、ずっと夫婦関係のことを語ってきていると思われていました。
その後には、子どもたちに、更には奴隷たちに向かって語られています。
当然のように、「夫婦」について語っていると思った、そのときに、パウロは「いや、実はこれは、キリストと教会との関係のことなんだよ!」と言うのです。
驚くべきことです。

これは一体どういうことでしょうか?
前回のメッセージは、「教会の原型」というタイトルでした。
まさに夫婦というのは、「教会の原型」なのです。
そして夫婦というのは、「キリストと教会」を、つまり、イエス様とその民との関係を表現するのです。
エス様がこの世に来る前から、夫婦というのは、そういう存在でした。
エス様とその民との関係を、愛と尊敬を持って仕え合う関係を表現する存在でした。
そのようなものとして、神様は結婚という制度を世界の創造の初めに、制定されたのです
神様が結婚という制度に込められた意味・意図は、知られないままでありました。
それが明らかにされるのは、まさにイエス様がこの世に来られたときだったのです。
エス様が来られる前も後も、夫婦の役割は同じです。
「イエス様とその民との関係を表現する」、これです。
具体的に言えば、例えば次のような感じです。
「イエス様が愛する姿はこういうものだ、イエス様に仕える姿とはこういうものだ、イエス様が愛し、イエス様に仕える人生とは、こんなにも豊かで、幸せで、自由で、朗らかで、暖かくて、恵み豊かなものなんだ!」
そういうものを映し出すということです。

今は、結婚という制度は、イエス様とその民との関係を表現するものとして制定されたと語りましたが、おそらく、もう少し別の側面があるでしょう。
それは何かというと、イエス様とその民との関係を「体験する」「味見する」という側面です。
夫婦という関係において、互いに愛し、愛されること、赦し、赦されること、慰めを与え、慰めを受けること、信頼し、信頼されること、約束を守り、約束を守られること、あるいは、過ちを指摘し、指摘されること。
夫婦関係におけるそのような交わりは、イエス様との関係で私たちが経験するものの「味見」なのです。
「味見」なので、本番のように体験することではありません。
本番はイエス様の再臨の後です。
この世において夫婦の関係で体験することは、イエス様との関係で私たちが完全に体験するはずのものの「味見」あるいは「前兆」なのです。
味見をした人間は、本番に対する期待をますます高めていきますね。
それと同じように、結婚の関係の中で、愛し愛され、赦し赦され、信頼し信頼され、などを経験した人間は、イエス様が来られるときには、それが完全な形で経験できることを期待するようになるのです。
それは要するに、「神の国」です。
神様は私たち人間に、神の国に対する期待を増し加えるために、その神の国の「味見」をするために結婚という制度を制定したのです。

従って、夫婦というものは、イエス様とその民との関係を表現する器であり、また、イエス様の恵みを味見するための場所でもあるのです。
エス様の恵みを体験する、そしてイエス様との関係を表現する。
これはほとんど同じことです。
けれど、あえて順序があるとすれば、イエス様の恵みを体験するのが先でしょう。
それを体験するならば、おのずからそれは表現するようになります。
そして、イエス様とその民との関係を表現するとどうなるのかといえば、イエス様を慕い求める民が、その夫婦の姿を通じて、イエス様に出会うようになるのです。

クリスチャンの結婚の大きな意味がここにあります。
エス様の恵みを体験すること、イエス様の恵みを表現すること、そして、イエス様を慕い求める民がイエス様のもとにやってくること。
夫婦の関係は、これらの中心にあるのです。
そしてすぐにわかりますが、これはまさに教会の機能でもあります。
教会の機能は、夫婦の関係の中にその本質的な起源を有しているのです。
神様は、人間がご自身の恵みを体験し、それを表現することができるように、まさに恵みによって結婚という制度を人間に与えたのでした。

ときに結婚生活は大変なものです。
過去を振り返るならば、よく私たちは生きて来れたものだと思う瞬間や、日々があるでしょう。
そしてその瞬間は気づいていなかったですが、常に神様の御手が私たちを守り、導いていたのです。
それを知る私たちが、今その過去の日々を振り返ると、その苦しかった日々が、不思議と恵みあふれた、豊かな時間に思われてくるのです。
そして、苦しさと同時に、喜びと感謝があふれてくるのです。
過ぎ去った一つ一つの時間が、神様からのプレゼントだと思われてくるのです。
同じことが今も、そしてこれからの私たちの時間においても当てはまります。
今、苦しいでしょうか?
今、もう駄目だ、と思っているでしょうか?
あなたの傍らに、慈しみ深い神様の右の御手があり、あなたを支えているのです。
あなたの今の時間が、きっと黄金に輝いて見える時が来ます。
神様がまさに守り、導いていたと実感し、「あの時の、あの時間は、何物にも代えがたい贈り物だ」と感じる時が来ます。
なぜなら、私たちは神の子だからです。
私たちは神の国において、イエス様と顔と顔を合わせて出会い、私たちが流す涙を、拭ってもらうからです。
その日が来るのです。
私たちが経験してきた恵み、喜び、それをはるかに上回る喜びの時が来るのです。
その日を期待しながら、また、その日のことを思い浮かべながら、今という時間を忍耐し、喜んで、歩んでいきましょう。
そのような歩み自体が、まさに神の栄光なのです。

教会の原型

創世記2:8-23


以前、人間の創造の目的についてメッセージをしました。
そのとき、人間の目的は、神を礼拝すること、そして神様の御心をもって人々や世界のものをケアすることだ、と話しました。
そのときは、その目的について話すだけで、「では、どうやったらそれを実現できるのか?」については話しませんでした。
今日は、そのとき話せなかった、その「どうやって?」の部分について話します。
「この世界において神様を礼拝する、神様と同じ心を抱きながらケアをする、人間と世界と事物との調和的な関係を回復する」
――このような課題を「どうやって」実現していくのでしょうか?
その答えは、「教会によって」です。
今日の本文では、その「教会」の原型が語られています。
そしてその教会に関する本質的な点が語られています。
今日は、そこから2点、話していこうと思います。
一つは、教会は神様が与えるものだということ、そしてもう一つは、教会における兄弟姉妹は「助け手」であるということ、この2点です。


1.本文全体の文脈の確認

まず、今日の本文全体の流れを確認しましょう。
8-9,15-17節を読みます。

ここでは神様が人間をエデンの園に置いたこと、そこには食べるのによい木がたくさんあったこと、また、善悪の知識の木があったことが述べられています。
そして10-14節で、そのエデンの園から水が湧き出ていて、四つの川となって流れ出ていたことが語られています。
ティグリス川、ユーフラテス川は知られていますが、ほかの二つの川はよくわかってはおりません。
また、エデンの園の場所についても、こうした個所から特定することはできません。
ただ、私たちがわかるのは、このエデンの園という場所は、とても豊かな場所だったということですね。
食べ物が豊富にあった。
そして水も湧き出ていた。
今の中東の地域というのは、全体的に乾燥していて、日本から比べると水がとても貴重な地域です。
そうした場所で「水が湧き出ている」というのは、私たちが思うよりも、もっと感動的なことだろうと思われます。
命の豊かさが満ち満ちていた場所がエデンの園だったと思われます。
そのエデンの園に神様は人間を置きました。
15節では、「耕させ、守らせた」とあります。
これについて、以前、「耕す」という言葉は「働く、仕える、奉仕する」の意味であり、ここは「神に礼拝する」と考えるほうがいいのではないか、と語りました。
そして「守る」は「ケアする」の意味です。
「礼拝する、ケアする」、この二つが神様が人間をエデンの園に置いた目的でした。
そのエデンの園において、16節で神様は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われます。
この点は少し重要です。
多くのノンクリスチャンは、またクリスチャンであっても、神様を信じることは、窮屈な人生を生きることだ、と考える傾向があります。
「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」――そのような禁止項目を多くすることが信仰生活だと考えるのです。
しかし、神様がアダムに対して最初に行ったことは、「禁止」の命令ではありませんでした。
「どの木からでも思いのままに食べなさい! 自由に食べていいよ!」そういう言葉でした。
これについて私は個人的に思い当たることがあります。
少し脱線しますが話しますね。

私がクリスチャンになったのは大学の修士課程の時なのですが、その時の私は、自分には何かを楽しむ権利というのはないのではないか、と感じていました。
その理由は主に2つありました。
一つは、大学に入ってから2年間くらい引きこもりの生活をして、ずいぶん両親に迷惑をかけたな、と感じていたことです。
ちょっと後ろめたい気持ちがありました。
もう一つは、修士課程に入るときに、ちょっと恥ずかしいですが、「自分は知識人として人類のために働くのだ」と考えていたことです。
どうしてそういうことを考えていたかというと、カール・マルクスがしばしば語っていた言葉に、travailler pour l’humaniteというものがあり、それは本当に大切だと思っていたからです。
そのtravailler pour l'humaniteとは、「人類のために働く」という意味です。
それを紙に書いて部屋に張ったりしていました。
自分の使命は、人類のために働くことであり、人類が幸せになるために貢献することなのだ、と考えていました。
そうは思っていましたが、やはりそのように信じて生きるのは、とても苦しいものでした。
そういうときにクリスチャンと出会って、教会にも行き、聖書も学ぶようになりました。
聖書を学んでから、自分が考えていたキリスト教とずいぶん違うことがわかって、驚きました。
「人類のために働く」がマルクスの言葉であるなら、聖書は「神のために働く」ことを語っていると考えていました。
「神を愛し、隣人を愛する」がキリスト教の中心的メッセージだと思っていました。
でも、聖書を学びながら、聖書の中心的メッセージはそこではないことを知りました。
聖書が語ろうとしていたのは、「あなたの罪は赦された、あなたは自由だ!」ということです。
もちろん、「イエス・キリストを信じる」という条件はありまが、中心は「あなたは自由だ」という内容です。
その当時私は、神様が聖書の学びを通じて、「あなたは幸せを求めていいんだよ! 幸福になる権利は、あたなにもまたあるんだよ」と語ってると思いました。
神様が、私たち一人一人の幸せを願い、自由になることを願っているのだと知りました。
「義務を生きる」以前に、幸せになることを願っているのだとわかりました。
このことにすごく自分は「ハット」して、また心が軽くなりました。

神様がアダムに対して「どの木からでも思いのままに食べてよい!」と語るとき、神様はアダムに対する愛を表現しているのです。
神様はアダムが自由であり、幸せであることを願っています。
親が子供に対して、自由に、伸び伸びと、幸せに生きてほしいと願うように、神様はアダムに対して語っているのです。
この点についてもう少し深く語るべきですが、今日は本題からずれるので、やめておきます。

次に17節で、神様は、「善悪の知識の木からは食べてはならない」と言って、一つだけ制限を提示します。
自由に食べていいけれど、一つだけ禁止の項目を設けます。
この点についても、ほかの機会に話そうと思います。

さて、18節で神様は次のように語ります。

「また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を作ろう。」(新改訳2017、創世記2:18)

次の19-20節を読むと、アダムがそれぞれの動物に名前を付けていたと書かれています。
その際、神様が動物や鳥を造ってアダムのもとに運んできました。
ある注釈者は、ここで連れてこられた動物たちは、「つがい」だったのではないかと語っています。
つまり、犬なら犬で、オスとメス、ラクダならラクダで、やはりオスとメス。
確かにそうかもしれないですね。
そしてその注釈者はこうも語っています。
自分のもとに連れられてくるそれぞれの動物を見て、名付けながら、アダムは、自分と同類のものを見つけることができなかった、と。
アダムの気持ちになってみると、寂しそうです。
自分が名前を付けているその動物たちは、オスとメスで、互いにセットになっている。
でも自分には、そういう存在がいない。
犬も、ラクダも、シマウマも、鶏も、みんな二人で一つなのに、自分だけ一人だけ!
おぉ、なんてことだ!というわけです。
神様が「人がひとりでいるのは良くない」と語ったのは、これを背景としていると考えられるのです。
そして神様は、アダムの肋骨をとってそこからイヴを作り、彼女をアダムのもとに連れていきます。
アダムは23節でこのように言います。

「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」(2:23)

ここにはアダムの驚きや感動があるのです。
今まで、色んな動物を見てきたけれど、そこには自分と同じ存在を見出すことができなかった。
ところが、ようやく自分と同じ存在を見出すのです。
「これこそ、ついに!」なんですね。
今日の本文はこのような流れになっています。


2.神様が教会を与える

さて、では初めのポイント、つまり、「神様が教会を与える」という最初のポイントを話していきます。
ところで、今日の本文のどこに「教会」があるのでしょうか?
もちろん、イヴという存在です。
イヴという存在が神様によって造られ、アダムに与えられます。
そこに、最初の共同体が成立します。
この共同体のことを「教会」と呼んでいるのです。
まぁ、名称はどうでもいいのですが、ともかく、神様によって最初の共同体がつくられます。

アリストテレスというギリシアの哲学者が「人間は政治的動物である」と語りました。
翻訳の仕方によっては、「社会的動物」とも、「共同体的動物」であるともいうことができます。
意味としては、単独で存在するのではなく、互いに係り合いながら共同体を作りその中で生きる存在である、という意味です。
実際、私たちも生まれた時から一定の共同体または組織の中で生きます。
例えば、赤ちゃんは、多くの場合、家族という共同体または組織の中で生まれ、育てられます。
日本の場合は、小学校、中学校、高校、大学という組織のなかで成長していきますし、そのなかでも、部活や地域のクラブ活動、サークル、あるいは宗教団体のようなもの、いろんな組織にかかわりながら生きます。
労働の面においても、何らかの組織の中で働くことが一般的ですし、人によっては労働組合にも参加するでしょう。
また、地方自治にも加わるでしょうし、国家の政治にもかかわるでしょう。
様々な共同体または組織と係り合いながら生きるのが私たちの現実です。

ところが、そうした共同体の中でたくさん傷ついた経験をするのも人間です。
いえ、単に傷を受けただけではなく、自分自身が傷を誰かに与えてもいるはずです。
私たちがこの世で経験するどんな組織や共同体も、理想的なものからは程遠いものです。
そして、不完全な組織・共同体の中で受けた経験によって、私たちのものの考え方も影響を受けます。

「あらゆる共同体が不完全である。」
その原因は何かと考えると、聖書的に言える答えは、やはり人間の罪です。
人間が罪を犯し、罪の性質が私たちの人間性の一部となったことで、「人間がいるところ、人間が集まるところ、どこにでも罪が存在する」ようになったのです。

ところで、そうした罪の性質が人間に及ぶ以前の共同体というのは存在するのか?というと、聖書は、それが存在したことを語っているんですね。
それが今日の箇所です。
つまり、アダムとイヴの共同体です。
この二人の関係は、普通に言えば「夫婦」と言えるでしょう。
しかしそれだけではなく、人類初の「共同体」でもあります。
一緒に働いて、一緒に食べたりするので、「農家」と同じように経済的な共同体でもあります。
また、神様との交わりも持っていたので、今日の「教会」と同じように宗教的な共同体でもあります。
現在では色々な組織で役割分担されているものが、すべて一つになって、しかもその中心に「神を礼拝する」ことがあるような共同体、それがアダムとイヴの共同体だったのです。
聖書全体は、そのような共同体が原罪によって失われたのち、旧約ではイスラエルにおいて、新約では教会という形で回復しようとする、神様のプロジェクトと考えらるのではないでしょうか?
新約聖書使徒の働き2:44-47を読んでみましょう。

「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒の働き2:44-47)

ここからうかがわれるように、生活のあらゆる面を共有した共同体が、初代教会でした。
「礼拝」するだけではない。
生活のすべての面をケアするような共同体が「教会」だったのです。
そしてその教会の「原型」はどこにあるのかというと、創世記の2章にあるのです。
そのアダムとイヴとの関係にあるのです。
夫婦なので、もちろん愛情で結ばれた共同体です。
しかしそれだけではなく、経済的であり、宗教的であり、また、統一した意思によって行動することが「政治的」といいうるならば、政治的な共同体でもあります。
こうした共同体を再び回復するのが神様の計画であり、神様によって呼び集められた者たちの集まりが「教会」であるとするならば、この最初の共同体を「教会の原型」と呼ぶことは許されるでしょう。

さて、その人類最初の共同体でありまた教会が、どのようにして出来上がったのか?
神様がアダムの肋骨からイヴを作ることによってです。
端的に言うならば、神様が、教会となるべきメンバーをアダムに与えることによってです。
神様が与えたのです。
これをしっかりと覚えましょう。

神様が教会となるべきメンバーを与えるという真理は、先ほど読んだ使徒の働きでも言及されておりますね。
そしてこれは、今の私たちにとっても真理です。
教会における兄弟姉妹というのは、神様が与えてくださった存在なのです。
その人たちと共に「教会」という共同体をつくるように、神様がわたしに与えてくださった一人一人なのです。

ところで、その兄弟姉妹は、どのような存在でしょうか?
今日の本文が語っているのは、その兄弟姉妹は、私にとって「助け手」であるということです。
神様は、私の「助け手」として兄弟姉妹を私に与えてくださったのです。
では、「助け手」とはどういう意味なのでしょうか?
最後に、その点を話していきたいと思います。


3.兄弟姉妹は、私の「助け手」である。

もう一度18節を読んでみましょう。
この「ふさわしい助け手」という表現は、だいぶ苦労して解釈した訳語です。
まず「助け手」というのは、元の語は「エゼル」という単語で、ただ単に「助け」「援助」「補助」を意味する言葉です。
よく知られる言葉では、「エベン・エゼル」(助けの石)という言葉に出てくる「エゼル」です。
また、「ふさわしい」という言葉も、もとは「向かい合った」や「対立した」を意味する言葉です。
この18節で使われる用例はほぼ存在しません。
なので、聖書学者たちが苦労して解釈したのだと思います。
その解釈はそのまま受け取りたいと思います。

では、この「助け手」という言葉は、どのような意味を持っているでしょうか?
それを黙想すると、次の四つのレベルで兄弟姉妹は「助け手」であると考えられます。
はじめに、神様を礼拝することに関する「助け手」であり、
次に、神の国を実現することに関する「助け手」であり、
三つ目として、様々な私の不足を補ってくれる点での「助け手」であり、
最後に、神様の恵みを豊かに悟るための「助け手」であります。

兄弟姉妹が神様を礼拝するうえでの「助け手」であるというのは、例えばこういうことです。
御言葉を理解するために丁寧に解き明かしてくれるとき、その人は「助け手」であるでしょう。
また、賛美をするときに、伴奏などをしてくれる兄弟姉妹は、やはり「助け手」でしょう。
一緒に通読してくれる場合にも、その人は「助け手」でしょう。
このように、私が神様と交わりを持ち続けるために必要なサポートをしてくれる時、その兄弟姉妹は「助け手」となりますね。

次に、神の国を実現するうえでの「助け手」とは、まさにアダムに対してイヴが与えられたような場合です。
アダムは、神様の代理として、神様と同じ心を持ってエデンの園をケアする任務を与えられていました。
ところが、それは一人でするにはとても大変な働きだったのでしょう。
神様はイヴという「助け手」を与えて、一緒にその働きをするようにしました。
アダムにとってイヴは、神様にゆだねられた働きを一緒にする「助け手」だったのです。
私たちもまた、神様と同じ心を持って、人と世界と神様との調和的な関係を回復する使命を持っています。
ところが、その使命を生きることはとても大変なことです。
協力してくれる人がやはり必要になります。
その場合の協力者が「助け手」でしょう。
協力する方法は沢山あります。
実際に働きを一緒にするのは「協力」ですが、それだけではありません。
悩みを聞く、相談に乗る、そういうことも「協力」の一つです。
祈るというのも、もちろん「協力」の一つです。
神の国を実現していくのは、大変なことです。
神様はそのための「助け手」を兄弟姉妹というあり方で私たちに与えてくださっているのです。

三つ目として、様々な私の不足を補ってくれるという意味での「助け手」とは、とても単純なことです。
私たちにはそれぞれ欠点や弱点があります。
それを補い、サポートするとき、そのひとは「助け手」となります。

四つ目の、神様の恵みを豊かに悟るための「助け手」という点は、気づかれることがあまりないかもしれませんが、大切な点です。
もっとも、この意味での「助け手」というのは、自覚的にするものではないかもしれません。
むしろ、兄弟姉妹が、兄弟または姉妹として、「共にいる」ということからおのずから生まれるものだとも言えるでしょう。

みなさん、「聖化」とは何でしょうか?
「聖化」というと、イエス様を信じたときに実現される「義認」のあとに来るものだということはご存知でしょう。
「イエス様を信じて救われる、それが義認であり、そのあとだんだん霊的に成長していって、イエス様に似たものへと変えられていくプロセス、それが聖化である。」
一般的にはそのように理解されているだろうと思います。
ところで、「聖化」は、確かにイエス様の姿に似るプロセスではあるのですが、その根底にあるのは、もっと別のものです。
それは何かというと、神様の恵みを悟ることです。
「聖化」というのは、神様の恵みをより深く悟るプロセスなのです。
神様の恵みをより深く悟れば悟るほど、私たちはイエス様の姿にも似るのです。

赤ちゃんは、たくさん愛されておりますね。
では、赤ちゃんはそのことを悟っているでしょうか?
一方的に言っては申し訳ないのですが、たぶん、赤ちゃんは、悟ってはいないと思うのです。
それはもう少し年を経た子供たちのことを考えてもいいでしょう。
彼ら、彼女たちも、愛されてはいるでしょうが、そのことを悟ってはいないでしょう。
それを悟るのはいつなのかと言うと、人によってバラバラですが、例えば、一人暮らしをしてからだとか、自分が結婚して子供を持ってからだとか、そういう場合だと思います。
「愛されている」ことと、それを「悟ること」とは、別のものであり、時間的にずれがあるのが一般的です。

これが「聖化」についても当てはまります。
「聖化」とは、神様の恵みをより深く悟ることです。
過去も、現在も、愛されていることは愛されているのですが、その「愛されている」ことを悟るのは、もっと後のことなのです。
だから、私たちの悔い改めというのは、しばしばこういう形になります。
「あー、こんなに愛されていたのに、自分は何をしていたんだー!」
愛されていたことに気づいていなかった。
愛されている、それに気づいたときに、自分の罪の大きさを悟るのです。
そのように、神様の恵みの大きさを悟り、それと同時に自分の罪の大きさも悟るようになる、そのプロセスが「聖化」なのです。

その「聖化」のために神様が私たちに与えてくださったのが兄弟姉妹です。
アダムにとってはイヴでした。
その人類最初の夫婦は、夫婦として歩みながら、神様の恵みを悟っていったでしょう。
妊娠して子供を産み、育てる、そのプロセスを通じて神様の苦労を悟るでしょうし、子供
同士で殺人がなされ、子供が自分の下から去っていくことを通じても、神様を裏切ることで神様がどれほど心を痛めるか、悟ることでしょう。
それは、自分たちがかつて神様を裏切ったことで神様がどれほどの痛みを覚えたか、より実感させたことでしょう。
アダムとイヴのように、私たちは共にいる兄弟姉妹を通じて、神様の恵みを悟るようになるのです。
一人だけでは悟ることのできなかったことを、兄弟姉妹の存在を通じて悟るようになるのです。
こうした意味で、兄弟姉妹は、私たちが神様の恵みを悟るための「助け手」と言えるのです。

「助け手」には、少なくとも以上のような四つの水準があります。
神様を礼拝するうえでの助け手、神の国を実現するうえでの助け手、不足を補ってくれる意味での助け手、そして神様の恵みをより豊かに悟るための助け手です。

最後に私は、次のように問いかけて終わりたいと思います。
「私は、兄弟姉妹にとって、助け手となっているのだろうか?」
四つの水準のそれぞれにおいて、自分は助け手になっているだろうか?
こうした問いを自分自身に問いかけてみてください。
それに問いかけ、答える生き方をするときに、私たちはイエス様の弟子として生きることになるでしょう。