Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

「私をここに遣わしたのは神なのです」 創世記45:4−8

おはようございます。
御言葉の奉仕がゆだねられていることに、感謝します。

私たちは人生において色々選択をしながら生きているでしょう。
何を勉強するか、どの会社で働くか、どこに住むか、誰と結婚するか。
色々選択してきましたし、またこれからもするでしょう。
私たちの人生は、そのような一連の選択によって形成されているといってもよいかもしれません。
ところがまた、私たちはまた、自分が選択したものではないものによっても作られています。
例えば、生まれた場所、生まれた家庭環境や家族、あるいは人種や性別。
そういうものは私たちが選択したものではありませんね。
「誰も生んでくれと頼んだ覚えはない!」なんて反抗期の子供は言うかもしれませんが、自分の子供にそういうこと言われたら、ショックかもしれません。
私たちの人生は、自ら選択したものではないものによっても成り立っているのです。
いや、もしかすると、そういうもののほうが割合的には多いかもしれません。
そして、自分で選択したものの場合は仕方ないですが、そうではないものについては、時に不満が生じます。
自分が選択したら、まぁ、あきらめがつきます。
でもそうではないものについては、怒りや不満など、どこにぶつけたらいいのかわからない感情が生まれます。
そういうときに、今日のタイトルにもしたような言葉、「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができたとしたら、どんなにすばらしいでしょうか?
そういう風に言い切ることができたとしたら、私たちは、なんというか、「人生の勝利者」でしょうね。
そうじゃなかったら、いくらか意気消沈した人生を歩むことになるでしょう。
ヨセフは、まさに「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができました。
今日は、彼の歩みを見ながら、どうしたらそんな風に言えるのか、その秘訣を考えてみようと思います。

 

1.神様の恵みを体験する

初めに、45:4-5を読みます。

「ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(新改訳2017)

これは本当に素晴らしいシーンですね。
まずは、このシーンがどのような文脈で言われているのか確認するために、ヨセフの物語を簡単に振り返ってみましょう。
創世記は、途中から物語の中心がアブラハムの家系になります。
アブラハムについての話が続き、その後、子供のイサク、さらにその子供のヤコブへと話が続きます。
ヨセフは、そのヤコブの子供のひとりですが、ヤコブがだいぶ年を取ったときに生まれた子供でした。
そのため、ヤコブはヨセフを、ほかの兄弟たちよりもだいぶひいきにしてかわいがりました。
それによって、ヨセフのお兄さんたちからひどく嫉妬を受けるようになります。
また、ヨセフが兄たちの怒りを買うような夢を見て、それをみんなに言いふらしたりします。
その夢は、ヨセフの兄たちや両親が、ヨセフにひれ伏すようになる、という内容です。
そんな夢を調子こいて言われたら、兄の方としてはむかつきますね。
そこである日、兄たちは、ヨセフを殺そうとします。
でも殺すことはせずに、ヨセフを奴隷商人に、奴隷として売り飛ばします。
そしてヨセフは、エジプトの政府高官ポティファルという人物に買われます。
ヨセフはその家で働き、その働きぶりがよくて、奴隷たちの中で最も高い地位になります。
ところが、そのポティファルの妻に言いがかりをつけられて、牢屋に入れられます。
その牢屋で数年過ごしたのち、ヨセフは、エジプト王ファラオの夢を解読したことで、エジプトの首相となります。
そのファラオの夢とは、7年間の豊作の季節の後、7年間の飢饉がやってくるという内容でした。
そして、夢の通りに、エジプト、というかその中東全域で、7年間の豊作があり、7年間の飢饉がやってきます。
その飢饉のときに、ヨセフの兄たちは、まだ現在のイスラエルのあたりに住んでいましたが、食糧がなくなり困り果てます。
そして彼らは、エジプトの方には食糧が蓄えられていると聞き、エジプトに食糧を買いに行きます。
こうして、エジプトに行った兄たちは、エジプトで首相となったヨセフと出会うことになります。
初めは、ヨセフは自分の身分を隠していました。
その後いろいろありましたが、結局ヨセフは、自分の正体を兄たちに明かすことにします。
今日読んでいる箇所は、まさにその場面となります。

まさにそのときに、ヨセフは兄弟たちに向かって言うのです。
「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(45:5)
これは本当に素晴らしい内容ですね。
このヨセフの言葉には色々な側面がありますが、今は、そのうちの一つだけを取り上げます。
それは、「人間の視点」と「神様の視点」という側面です。
ヨセフは、兄たちによって奴隷として売られました。
これは「人間の視点」です。
人間による現実理解の仕方としては、兄たちがヨセフを、奴隷として商人に売りました。
しかしそれは、「神様の視点」では、ヨセフがエジプトに派遣されるという出来事だったのです。
同じ出来事が、人間の視点と神様の視点、二通りに理解することができるのです。
ここでヨセフが兄たちに言っているのは、ヨセフ自身を奴隷として売った出来事を、人間的な視点で見ないでください、ということです。
「心を痛める」とは、嘆き悲しむという意味であり、「自分を責める」は、文字通りには「怒りを抱く」という意味です。
兄たち自身は、ムカつく弟であるヨセフを売り飛ばして、そのときは心がすっきりしたのかもしれません。
しかし、父親のヤコブは、彼は兄たちから、ヨセフが死んだと報告されたこともあり、ヨセフを失ってからものすごく落ち込みます。
その父親の様子を毎日見ながら、兄たちはだんだん後悔する気持ちが出てきたのではないと思います。
また、兄の一人ルベンは、ヨセフに危害を加えることに反対していましたが、そのことで、ほかの兄弟たちに怒っている箇所もあります。
ヨセフを売った出来事を人間的に理解する限り、兄たちは後悔や怒りを抱くだけになります。
その兄たちに対してヨセフは、「自分を売った出来事を、そんな風に理解しないでください、自分の目で見るままに、人間的に理解しないでください」と語るのです。
「自分の目で見たままに理解したら、嘆き悲しんだり、いかったり、落ち込んだり、責め合ったりするばかりです。そうしないでください」と語るのです。
そして、神様の視点から見るように促すのです。


なーんでそんなことができるんかな?
だって、ヨセフは「超被害者」でしょう?
急に兄たちに捕らえられ、着てるものを脱がされ、奴隷にされてしまう。
エジプトに行って、そこでも濡れ衣を着せられて牢屋に入れられてしまう。
今は幸運にも、エジプトの首相の地位にいる。
そこに、かつて自分を攻撃した兄たちが来たら、ふつうは復讐しますね。
当時の中東で最も大きな国のエジプト、そのほぼトップに近い権力を持っているのですから、復讐し放題です。
「ようやくきやがったな。このときを待っていたぜ!」
でもそういうことはせず、むしろ逆に、兄たちのメンタルの心配をする。
なーんでそんなことができるんかな?

これは今日のテーマとも関わりますが、少しの間、ヨセフの生き方に関する聖書の記述を見てみて、そして考えてみましょう。
とはいっても、ヨセフの生き方について聖書が書いている記述はそれほど多くはありません。
すごく単純に、「主が共にいる」という記述だけです。
ヨセフがポティファルの家で働いていたとき、主がヨセフと共にいました(創世記39:2)。
また、監獄にいたときも、主がヨセフと共にいました(創世記39:21)。
これ以上の記述を聖書はしていないので、ヨセフが心のなかで何を考えていたのかは、実のところわかりません。
ただ、ほんの僅かだけ、ヨセフが結婚して子供が生まれたときに、ヨセフの内面に関する記述が現れます。
創世記41:51−52です。

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。」

ここからは、どうやらヨセフがどんなときも幸せだったわけではなさそうだ、ということが伺われるでしょう。
たしかに、神様はヨセフとともにいました。
そして、きっとヨセフも、神様と共にいようと心がけていたでしょう。
主の喜びとなりたい、そのような思いで、毎日、毎瞬間、生きていたでしょう。
けれども、「あぁ、神様が本当に私に目をかけて、報いてくださった!」と思うようになるのには、時間がかかったのではないか。
牢屋から出る。
宰相の地位になる。
結婚する。
子供が生まれる。
これらは、本当にヨセフの努力や頑張りではどうにもならない状況の変化です。
こうしたものを通じて、「あぁ、神様が本当に私を豊かにしてくださった!」と実感したのでしょう。
そしてこのことは逆に言うと、それまでずっとヨセフは、奴隷としてエジプトに連れられてきたことを根に持ちながら生きてきた、ということでもあります。
その過去の出来事が、常に心のなかに引っかかりながら生きてきたのです。

こうしたヨセフの歩みを見ながら、私はこういうことが言えると思うのです。
それは、神様の恵みを体験することは大切だ、ということです。
そして、ヨセフが兄たちに復讐することなく、むしろ赦すことができた理由の一つも、ヨセフが神様の恵みを体験していたからだ、そう言えると思うのです。

「恵みを体験する」とはどういうことでしょうか?
詩編34:8は次のように語っています。

「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」(新改訳2017)

「いつくしみ深い」という箇所は、英語では単にgoodと訳しています。
原文でもそうなのですね。
「主が本当に良いお方であること、それを味わい、見なさい!」
この詩編はそう語っています。

「味わう」という言葉は、いい言葉ですよね。
難しく言うと「享受する」とでも言えるのですが、単に「味わう」で十分です。
私たちが食べ物を「味わう」とは、いったいどういう状態でしょうか?
「これは、お酒としょうゆとみりんの割合が、1:1:1か。お、この食材は少しゆですぎだな。」そんな風に分析しながら食べることではないですね。
あるいは、「これを作ってくれた人は私の上司の妻なので、気分を悪くさせないために、どんな味でも美味しそうな顔をしないといけない。主よ、どうか私の顔の表情を守ってください!」そういう風に、人々を気にしながら食べることでもないですね。
あるいは、「うん、これはすしだ。うん、これは牛丼だ。うん、これはイタリア風サラダだ。」そんな風に、カテゴリー化して食べることでもないですね。
私たちが食べ物を「味わう」というとき、それは、食べ物を分析したり、作ってくれた人を色々配慮したり、あるいは、ただ料理名だけを確認したり、そういうことを意味しているのではないでしょう。
「味わう」というのは、本当に、その料理を、純粋に楽しむことを意味しています。
おいしいなぁ、ちょっとまずいなぁ、酸っぱいなぁ。
色んな余計なものを置いといて、その食べ物を味わい、楽しむ、それに集中することですね。

詩編が語っているのは、私たちは、神様が本当に良いお方であることを、ただ素直に味わいなさい、ということです。
でもこれが、信仰生活を送っていると、だんだん難しくなって行ったりしますね。
最初は、他の人の祈りを聞いていても、ただ「あぁ、素晴らしいなぁ」と思うだけだったのに、いつのまにか「あの祈りは、神学的にどうなのか? ちょっとおかしいのではないか?」などと考えるようになります。
そして、祈る人と一緒に心を合わせて祈るよりも、その祈りを批評的に聞いている自分に気づくようになります。
あるいは、最初はイエス様のすばらしさに心が躍って生きていたのに、「他人に証をしないと、愛のある私でないと!」などと思いながら、自分を固くしていってしまいます。
そして、イエス様を心から感動する心を失ったまま、人の見える姿では「恵まれた表情」をするようにしてしまいます。
そのように信仰生活を送りながら、私たちは、しばしば、神様が本当に良いお方であることを、味わうことなく過ごしてしまいます。

子供から大人に成長するとき、だんだん物事を複雑に考えるようになります。
「複雑に」というのは、実は、「多角的に」ということですね。
子供は、自分の視点から見たものをすべてと思いがちですが、成長するにしたがって、他の視点から見た場合を考えるようになります。
これが成長です。
でも、そのように多角的に見るだけだと、単に混乱するだけなのですね。
情報が多くなるだけだと、ただ単に判断に迷うだけになります。
大人になった人間が、さらに成長しようとするためには、子供と同じように、単純になる必要があります。
でもそれは、ただ単に子供に戻る、ということではありません。
様々な角度からの理解を踏まえたうえで、「本当に大切なもの」に目を向ける、ということです。
「これも、あれも、それも、どれも大切なんだけど、これが本当に大切なことだ!」そういう一つのことに目を向けることです。
これが、大人にとっての「単純になる」ということです。

クリスチャンの信仰の歩みにとっても、これは当てはまるでしょう。
クリスチャンになって、聖書も良く読むようになって、神学的なことも多少はわかるようになって、また、教会での振る舞い方というのも分かるようになって、いろんなことがわかるようになって、では、「本当に大切なことは何か?」、それが実はおろそかになる。
大切なことは何でしょうか?
主が良いお方であることを、味わう心です。
主が本当に良いお方、素晴らしいお方、憐れみ深く、慈しみ深いお方である、そのことを深く味わい、楽しみ、喜ぶ、単純な心なのです。
これが、どんなときも、どんな状況でも、ベースになければなりません。
私たちは、主の恵みを味わう心を、忘れないようにしましょう。

ヨセフは、主の恵みを本当に味わったのだと思います。
十分に味わったのでしょう。
そうしながら、過去に負った自分の心の傷が、徐々に癒されていったのではないでしょうか?
突然お兄さんたちに襲われ、そして、一人で言葉も分からない外国で、奴隷となるのです。
そこでもさらに苦難が続いた。
そういう歩みで受けた傷が、牢屋から出て、結婚して、子供が生まれて、という生活の中で、またそこにはもちろん、普通の家庭生活の一瞬一瞬の出来事もあるでしょうが、そういう全てを通じて、癒されていったのでしょう。
その毎日の歩みのなかで、神様の恵みを少しずつ味わっていったのでしょう。
それがヨセフだったのです。


2.神様の計画を悟る

神様の恵みを体験していたこと、これが、ヨセフが今日の本文にあるように「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができるようになった、一つの理由です。
もう一つの理由は、ヨセフが、神様の救いの計画を悟り、その計画の中における自分の使命を悟っていたことであります。
45:7-8を読みましょう。

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」(新改訳2017)

ここでは特に45:7の「大いなる救いによって」の「よって」の部分を考えます。
これは前置詞の翻訳なのですが、この前置詞を「よって」と手段のように解釈するのは、あまり例がありません。
通常は「…のために」「…に向かって」、つまり英語のfor、あるいは、「…として」つまり英語のasと同じように使われます。
あるいはまた、英語のbelonging to 「…に属する」の意味で使われることも多いです。
私は、この7節は、意味的にはこのasやbelonging toが適当なのではないかと考えます。
つまり、「残りの者をこの地に残す」ことと「あなたがたを生き延びさせる」こと、それ自体が「大いなる救い」、あるいはそれに属する事柄なのです。
「大いなる救い」として、お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトにやってきて生きることがあります。
いや、もっと言うならば、ヨセフがエジプトの宰相になったこともまた、「大いなる救い」の一部でしょう。
さらには、ヨセフがエジプトに売り渡されるときから、既に「大いなる救い」は始まっていたともいえます。
要するに、ヨセフが生まれ、お兄さんたちの嫉妬を受けてエジプトに売り渡され、そのエジプトで奴隷として働き、囚人となり、そして宰相となる――これらすべてがまさに「大いなる救いとして」存在していた、あるいは、「大いなる救いに属していた」ということです。
ヨセフは、そのことを悟っていたのです。
自分の人生が、神様が導いている「大いなる救い」のまさに一部であることを悟っていたのです。
お父さんの家にいたときは分からなかった。
エジプトに売られたときも分からなかった。
囚人の時も分からなかったかもしれません。
しかし、突然エジプトの宰相となり、エジプトの国を、そしてその周辺諸国を導くような立場になりながら、彼は悟っていったのではないでしょうか?
自分の人生は、自分が導いているのではなく、神様が導いているのだ、ということを。
そして、自分の人生が、神様の「大いなる救い」の一部としてまさに存在しているのだ、ということを、悟っていたのではないでしょうか?
そして、ヨセフはそのことを十分に悟っていたからこそ、「私をここに遣わしたのは神なのです」と語ることができたのだと思うのです。

このことは、今の私たちにとっても、とても意味のあることです。
エフェソ書の有名な1:4−5を読みます。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(新改訳2017)

私たちは、イエス様を信じることによって救われました。
しかし、そのことも天地創造の前から神様の計画にあったことなのです。
そして、救われた私たちは、まさにその神様の計画の中を生きているのです。
これはとても驚くべきことだといえるでしょう。
どのような瞬間も、私たちは神様の救いの計画の中を生きている、ということなのです。
だから、こうも言えるのです。
ヨセフが、エジプトに売られ、奴隷として生活し牢屋に入れられた、そのことが「神様の計画」ではないところで起きた偶然な出来事や不幸ではなく、そうした出来事もまた「神様の救いの計画の一部」である、
それとまったく同じように、
私たちが、今現在どのような状態にあろうとも――思いがけない形で、自分が今までと異なる境遇に陥っても、病気になっても、失業しても、苦しみにあったとしても、それらは、神様の計画とは別のものではなく、それらもまた、神様の救いの計画の一部なのだ、と。
そのように言うことができるのです。
この事実は、大変恵み豊かなことです。


私がこの創世記45章の御言葉を頻繁に考えるようになったのは、今からちょうど二年前ぐらいですね。
その時、ふとこの御言葉を読みながら、「自分は、まだヨセフと同じように語ることはできない」と思ったのでした。
それにはこういう事情があります。
私は二年前の8月まで、つまり2018年の8月まで京都の教会で伝道師として働いていたのですが、その頃、妻が精神的に疲れてしまい、しばらく京都から離れたほうがいいということで、休みをいただきました。
そして、仙台に私の実家で所有しているアパートの一室があり、長期滞在が許されたので、そこでしばらく静養することにしました。
ところが、そのように生活しながら、私自身は、内面的にはイライラしてばかりいました。
休みを頂いた頃、京都の教会では、いろいろ教会改革しようとしていた頃で、変化がありました。
そして私自身も、「教会をこのようにしていけばいいだろう」と色々考えていました。
まさにそのときに、そこの教会から離れることになったのです。
頭では、自分が京都から離れて仙台にいることを理解していました。
「創世記にあるように、夫と妻は一体なのだから、妻が弱っていたら夫はそれを支えるように生きないといけない。そしていまはそのために休暇を頂いて、京都から離れているのだ。」
そのように理解していました。
しかし、心の方では、納得していないのでした。
20代後半にクリスチャンになって以降、イエス様と教会は私の人生の中心であり、人生の多くの時間を伝道や教会の働きや活動にささげてきました。
教会というのが人生の殆どであり、生きる意味であり、また生きがいの対象でもありました。
ところが、今やそこから離れているのです。
そして、SNSなどを通じて教会の様子が情報として色々入ってきます。
それを見ると、すごくしっかり教会の運営がされているようにみえるのですね。
イキイキしているようにみえるんですよ。
そこで、私はイライラするようになりました。
「本当は、自分もそこにいるはずなのに」という悔しさがありました。
またそれだけでなく、同世代の献身者たちがそれぞれ教会を牧会しているのを見聞きしても、嫉妬もあり、自分がそれをできない、できていないことで、イライラしました。
フェイスブックを見るのも嫌になりました。

だから、頭と心、理性と感情で、バラバラだったのです。
京都を離れて仙台に行くことは、まさに自分が決めたことです。
それは、頭ではわかっていました。
しかし心の方では、私は京都から追い出されて、仙台に送られた、そのように感じていたのです。
つまり、心の方では、私は被害者意識をもっていたのです。
だからイライラしていたのでした。

そのような心の状態のときに、創世記45章を読みました。
そしてこう思ったんですね――ヨセフは、「神が私をエジプトに遣わした」と言っているけれど、自分には、まだそのように思うことはできないな、と。
「私はまだ、京都から追い出されていると感じている」と思ったのでした。
しかしながら、ヨセフが告白したように自分も告白すること、それが正しいことだし、そのように告白することができるようになることが、自分にとっての目標だな、ということも同時に覚えたのでした。
「京都から追い出されて、仙台に来た」のではなく、「神様が私を仙台に、あるいは宮城県に遣わしたのだ」そのように心から思い、納得するようになることが、自分にとって、そして夫婦にとっての目標だ、と思いました。

仙台に来てから、もう二年以上が過ぎました。
この期間を通じて私は、だんだん「神様が私をここに遣わした」ことを、納得するようになってきました。
そのような心境の変化は、やはり神様の計画を悟ることにあると思います。
仙台に来てしばらくして、京都にいたときには気づいていなかった、あるいは、特に表面化していなかった自分の課題や弱点があることに気づきました。
そして、神様が私を仙台に送ったのは、私自身が、その課題や弱点を克服し、成長させるためであると納得するようになりました。
神様が、「あなたはその教会、その組織にいては、自分の弱さを成長させることができない」と考え、そしてそこから出るように導いたのだとわかりました。
そしてまた、私も妻も、神様の恵みを味わうことを大切にしながら、この二年間を過ごしてきました。
働く場所が与えられ、ちょうどヨセフと同じかもしれませんが、娘も生まれました。
毎日を、一日一日夫婦で共に歩むという、この当たり前のことを二年間し続けながら、私も妻も、静かに、本当に静かに、癒されていきました。
もし私たちが、神様の計画、神様の意思、それを本当に悟り、心から納得するならば、この人生を「被害者」として生きるのではなく、神様の素晴らしい計画の「主人公」として生きることができるようになるでしょう。
私自身は、まだ神様の計画を十分に悟ってはいませんが、悟ることができる日が来ると信じています。


さて、最後に言い残したことがあります。
ヨセフが神様の計画を十分に悟り、その計画の中で自分に与えられた使命を悟ったとき、ヨセフの人生において一つの偉大な出来事が実現されます。
それは何か?
赦しと和解です。
ヨセフが神様の計画を悟ることで、ヨセフは、お兄さんたちを赦すことができるようになったのです。
もう説明するまでもないでしょう。
私たちの人生における本当に偉大な出来事は、赦しと和解です。
ヨセフの人生においても、奴隷にされたり、えん罪で牢屋に入れられたりもしたヨセフの人生においても、赦しと和解が実現したのです。

私たちには、赦せない人物や事件、出来事はあるでしょうか?
もし、それらもまた、神様の救いの計画の一部であるとしたら、どうでしょうか?
もしそうであるなら、これは素晴らしいことでしょう。
イライラがある、怒りがある、憎しみがある、そういう人生は、そのような感情を抱く本人にとって不幸です。
赦すことのできる人生とは、どれほど心が軽く、幸せなことでしょうか?
しかし私たちは、「クリスチャンだから赦さないといけない!」とは考えないようにしましょう。
そうした義務感によって赦しの心は与えられません。
むしろ、神様の計画を悟り、赦しの心が自然に与えられるときを待ち望みましょう。
そのような時を私たちは期待してよいのであり、期待すべきなのです。

主は良いお方です。
その主の豊かな恵みを十分に体験しましょう。
そして、人間の目、肉の目で出来事を見るのではなく、神様の目で出来事を見るようにしましょう。
そのように日々歩みながら神様の救いの計画を悟り、そして、その計画の中での自分の役割を悟るようになるならば、私たちは、被害者として人生を生きるのではなく、主人公として生きることができるようになり、そしてなにより、赦しの心を持つことができるようになります。
そのような時が来ることを、祈りつつ、期待しながら歩んでいきましょう。