Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

隠してはいけない

「隠してはいけない」 創世記3:4-19

 

おはようございます。
今日の本文の箇所は、前回とかぶっているところもありますが、前回とは違う角度から読んでいこうと思います。
前回は、エバの罪、アダムの罪ということで、二人に特徴的な罪を語っていきました。
今日は、実際に罪を犯し、その後どうなったのかを見ていこうと思います。

1-1.誘惑の方法
前回は素通りしたのですが、やはり考えないといけない点があります。
それは、「蛇は嘘を言ったのだろうか?」というという点です。
3:5で、蛇はこのように言います。

「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創世記3:5)

「目が開かれ」「神のようになって善悪を知る者となる」――こう語るとき、蛇は嘘をついたのでしょうか?
どう思うでしょうか?
これは、嘘ではないのですね。
実際、神様は3:22でこう語ります。

「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世記3:22)

ということは、神様もまた、アダムとエバが「神のようになり、善悪を知るようになった」ことを認めているということです。
ということは、蛇がエバを誘惑するときに語った言葉は、嘘ではないということです。
ここで私たちは、蛇の誘惑について一つ特徴を語ることができます。
それは、「蛇は、本当のことは語っているが、肝心なことは語っていない」ということです。
蛇は、嘘をついてはいないのです。
蛇が語っているのは、本当のことばかりです。
しかし、蛇は、「肝心なこと」は語っていない。
そのようにして誘惑するのです。

これは私たちもよく経験することだろうと思います。
問題が多すぎて対策が講じられたケースとしては、スマートフォンの契約があげられるでしょう。
今はだいぶ少なくなってきましたが、スマートフォンの契約に関しては、よく「実質ゼロ円!」といううたい文句がされます。
で、そういう話にのって契約をしようとすると、実際には、いろんな条件を受け入れなければならないことがわかってきます。
人によっては、ずるずるといろんなオプションを契約させられることもあります。
そして、最初に思った「安くなる!」という思いとは反対に、高額な料金を毎月支払わないといけない状態になります。
消費者の方としては「最初からそう言ってくれよ!」という気持ちでしょう。
ところが、携帯電話を販売・契約する会社の方でも、嘘を言っていたのかというと、そうではないのです。
広告に出していることは、嘘ではありません。
しかし、「肝心なこと」を語っているかというと、それは語っていない。
あるいは、目に見えないくらい小さな文字で書いている――それが実情です。

蛇もまた、嘘は言っていないのです。
では、「肝心なこと」を語ったのかというと、そうではない。
「本当のことを言いながら、肝心なことは言わない」これが蛇の戦略なのです。
そしてこの世の詐欺師というのも、同じ存在です。

蛇は、善悪の知識の木から実を食べても「死なない」と言いました。
確かに、アダムもエバも、その実を食べて死ぬことはありませんでした。
しかしその後どうなったか?
彼らは神様からの裁きを受けて、エデンの園も追放されることになります。
蛇は、そういうことは語らなかったのです。
「肝心なこと」は語らなかった。
これが蛇の誘惑なのです。
そして私たちもまた、誘惑というのはそのようにしてくるものだとわきまえていないといけません。
誘惑する者は、嘘を本当らしく語る存在ではないのです。
誘惑するものは、本当のことは本当のこととして語りながら、しかし、肝心なことは語らず、隠しておく存在なのです。
だから、誘惑に対する私たちの姿勢というのは、「何が語られたか?」だけに注目するのではなく、「何が語られていないのか?」「その語られていないことは私にどのような影響を及ぼすのか?」までも注目するものでなければならないのです。
蛇は「本当のこと」、つまり、「神のように善悪を知る者になる」ことは語りましたが、「肝心なこと」、つまり、神様への反逆となってエデンの園から追放されることは語りませんでした。

1-2.「神のように善悪を知る」とは?

では、「神のように善悪を知る者になる」という蛇の言葉が本当のことであるとするならば、それはもっと具体的にどのような内容なのでしょうか?
次にこの点を考えてみましょう。
ある注釈者は、この箇所についてこういうことを語っています。
「アダムとエバはすでに「神のような」存在なのに、蛇の言葉の中の何にそんなに誘惑されたのだろうか?」と。
なるほど、と思います。
アダムが創造されたとき、「地を支配する」ことを神様から委託されました。
アダムとエバは、エデンの園において、動植物をよく管理していたのだと思います。
「何がよくて、何が悪いのか」わかりながら、管理していたでしょう。
アダムとエバは、エデンの園において、実際に「神様と同じように」管理し、世話をし、愛していたのでしょう。
そうであれば、アダムとエバには、蛇の言葉に誘惑される理由はないことになります。
「神のように善悪を知る者になる」と言われても、「もうなってるよ!」で終わりだからです。
とすると、アダムとエバは、「神のように善悪を知る者になる」という蛇の言葉の中に、別の意味を聞き取っていたということが考えられます。
つまり、神様の代理人としてエデンの園を管理する、それだけではない意味を聞き取っていたと考えられます。
その意味とは何でしょうか?

ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは「園の中央にいのちの木と善悪の知識の木」があることに注意を向けています。
園の中央にいのちの木と善悪の知識の木があることは、世界の中央に「神」が存在し、その「神」からいのちと知恵が来ることを象徴的に表している――そうボンヘッファーは語ります。
アダムとエバには、園を支配し、管理する権限が与えられていた。
二人は自由だった。
しかし、その園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がある。
それは、ただ神だけがいのちと知恵を与えることができることを示している。
そして、その二つの木から実を食べてはいけないということは、人間が、「中央」に立ってはいけないということを意味している。
言い換えると、「主」はあくまで神様であり、人間はあくまでその主に「従う」存在であることを意味している。
神様は、「園の中央にあるいのちの木と善悪の知識の木の実」を食べるのを禁じることによって、「創造主」と「被造物」との「限界」を定めたのだ。
ボンヘッファーはそのように考えます。

私はこれが、アダムとエバが蛇の誘惑の言葉に聞き取っていた内容だと思うのです。
どういうことでしょうか?
神様はあくまで、自ら存在するお方、「自存的な」存在です。
それに対して人間は、神に依存する存在です。
神様はいのちそのもの、知恵そのものですが、人間は、神様につながっている限りにおいて、いのちと知恵とを得られるに過ぎない存在です。
確かに、神様は自由なお方であり、人間も同じように自由な存在です。
しかし人間にとっての自由は、神様に依存し、神様に従うという条件でのみ価値あるものになります。
これが被造物である人間の限界なのです。
そして蛇の誘惑がまさにアダムとエバにとって「誘惑」となったのは、その蛇の言葉が、二人に、その人間の限界を超えるようにそそのかしたからだ、と思うのです。
神と同じように「何にも依存しないで」生きることができるかのように、「何にも依存せず」決定できるかのように、「何にも依存せず」自由になれるかのように、誘惑したのだ、と思うのです。
「神のようになって善悪を知る」という蛇の言葉を、アダムとエバはそのように聞き取ったのでしょう。
そして、誘惑に陥ったのでした。


2.隠して生きる

「神のように善悪を知る者になる」――それは、人間が、神様の代理人ではなく、神様そのものになろうとすることです。
神様から権限を与えられたものとして生きるのではなく、神様と同じように、世界の中心に立ち、あるいは、世界の上に立って、生きようとすることです。
それは、神様からするならば、人間がその地位に満足せず、神の地位を簒奪しようとする反逆を意味します。
しかし、「神のように善悪を知る者になる」には、もっと別の意味もあります。
それは、善悪に関して、神のように「はっきりと知る」という意味です。
どういうことでしょうか?
3:7-10を読みましょう。

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」(創世記3:7-10)

7節を見ますと、二人の「目は開かれ」とあります。
蛇が語ったように、確かに二人の目は開かれました。
この点でも、蛇は「本当のこと」を話したのでした。
ところが、二人の目が開かれることによって二人が見たものは、自分たちが裸であることでした。
そして二人は、腰に覆いを作ります。
さて、これはいったい何を表しているのでしょうか?
二人は木の実を食べる前から裸でしたが、食べた後に、裸であることを何か具合の悪いことのように思い始めます。

ここについていろいろな解釈がありますが、私としては単純に、カルヴァンが言っているように、木の実を食べるという行為によって、アダムとエバに「魂の死」が訪れたのだ、と理解したいと思います。
アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べることで、神様の命令を破ったばかりか、その動機の点では、神様と同じ地位に就こうと――つまり、神様に従う存在ではなく、自らが神様と同じように「主人」になろうとしました。
そうすることによって、彼らは罪を犯す。
罪を犯すことによって、神様との信頼関係は崩れてしまう。
そこに断絶が生まれる。
それが「魂の死」です。
彼らは肉体的には生きていますが、魂においては、神様とのつながりが切れてしまい、死んでしまったのです。
こうして、蛇が言ったことと神様が言ったことの両方が実現するのです。
蛇は、木の実を食べても死なない、と言いました。
確かに、アダムとエバは肉体的に直ちに死ぬことはなく、生きています。
しかし、神様が語ったように、彼らは死んだのです。
彼らは「いのちと知恵の源」である神様から切り離されたのです。
いや、自ら切り離したのです。
そして「魂の死」が訪れる。
二人は、その魂の死を隠そうとした。
神様を裏切ったこと、自分たちが邪悪で、口に出すのもはばかれる欲望を抱いたこと、その結果、自分自身が罪深く、罰を受けて当然で、醜い存在になってしまったこと、それを隠そうとした。
互いに、自分の裸が恥ずかしくなって、裸を隠そうとしたこと、それは、彼らの心の変化の結果です。
そして彼らの心に大きな変化を生み出したのは、神様との信頼関係が壊れてしまったことによる、「魂の死」だったのです。

「神のように善悪を知る」は、このように実現しました。
アダムとエバにとって、まったく予想しなかった形でしょう。
彼らは、自分たちが罪を犯したことで、「悪を知った」のでした。
つまり、悪を行うことによって、どのように悲惨な事態が生じるのか、彼らは確かに知ったのでした。
それと同時に、彼らがかつて持っていた「善」の価値をも知ったかもしれません。
素直に神様を信頼して生きていること、それがどれほど幸いであることか、それを知ったことでしょう。
しかし、もはやもとに戻ることはできません。
彼らは、自ら罪を犯すことによって、悪がどれほど恐ろしいもので、善がどれほど価値のあるものかを知ったのです。
そのような意味で、彼らは確かに「善悪を知った」。
しかし、なんと悲惨な仕方で知ったのでしょうか?

エス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架に架けられました。
エス様は十字架の上で、私たちの罪、人類の罪をすべて背負われました。
エス様が苦しむ姿を、私たちは単純に、十字架に手足が釘ではりつけにされる痛み、呼吸が困難になる苦しみ、そして死に近づいていくあらゆる苦しみ、と理解します。
確かにそれは大きな苦しみでしょうし、体験できるとしても、したいものではありません。
しかしイエス様にとってそれが本当に大きな苦しみだったのか、というと、違うのかもしれません。
エス様にとっては、罪を背負うことによって神様と断絶すること、そのことのほうがもしかすると、はるかに大きな苦しみだったかもしれないのです。
私たち人間にとっては、霊的な断絶というのは目に見えません。
しかしイエス様にとっては、霊的な断絶というのは、はるかにはっきりとしたものだったことでしょう。
エス様にとっては、悪を行い神様と断絶するということが、どれほど由々しきことであるのか、どれほど恐ろしいことであるのか、私たちよりはるかにご存知でしょう。
端的に言うならば、神様は、悪がどれほど恐ろしいものであり、善がどれほど価値のあるものかを私たちよりはるかに明瞭に知っていることでしょう。
そして、もし私たちが、神様と同じレベルで善と悪とを、リアリティをもって悟っていたとしたら、私たちはどうなるでしょうか?
おそらく、生きていけなくなる。
自分があまりに醜く、怪物のようで、汚らわしいので、もはや生きていく気力がなくなる、のではないか。

アダムとエバは、確かに「善悪を知った」のです。
「神様のように善悪を知った」とも言えるでしょう。
善の価値の大きさ、そして悪の恐ろしさ、それを実感を伴って知ったでしょう。
その結果どうなったか?
彼らは恐ろしくなった。
自分たちの「悪」が見つからないように、隠そうとした。
お互いから隠れ、また、神様からも隠れようとした――。


「隠すこと」――それは、救い主のいない条件で人間が行う基本的な戦略です。
隠すことなしに、人間は自らの悲惨さと付き合うことはできないのです。
神様と同じように、誰にも、何にも依存せず、自由に生きようとする人間は、しかし神様とは違って、自らの悲惨さ、弱さ、愚劣さを、常に伴っています。
ところがそれに向き合う瞬間、人はもはや自らの足で立つことはできなくなり、ふらふらとよろめき、倒れます。
あまりにも醜いからです。
それでも、なんとか自分の足で立とうとするときに、人はどうするのか?
人は、「隠す」のです。
自分の暗い部分、弱い部分、醜い部分、それらを隠すのです。
そうしながら、「自由で、自律的で、責任感のある人間」というものを演じ続けて生きていくのです。

「隠すこと」が何のメリットもないことは、よく知られていると思います。
政治の領域においても、隠すことは長期的にはデメリットしかありません。
それは、人間を自殺に追い込むこともあれば、国の国際的信頼性を失わせることにもなります。
また、そうした腐敗した組織には、それ相応の人物しか入ろうとしないので、長期的には、その組織は人格的に高潔でもなければ、能力もない人々の集団となり、組織としてのパフォーマンスは低下していくでしょう。
芸能界においても、隠していたことが表に出ることで、もはや仕事ができなくなるケースもあります。
いえ、ニュースを見ると、組織などでそれ相応に高い地位にいる人が、長年罪を犯しながら、それを隠し続けていたケースを見ることもあるでしょう。

私が最近ショックを受けていたのは、ラルシュという共同体における性的暴行に関するニュースです。
ラルシュは、重度の知的障がい者たちと共同生活をするコミュニティで、ジャン・ヴァニエというカトリックの人が創設しました。
ラルシュには、障がい者たちと、色々な面でケアをするアシスタントたちがともに生活をします。
私はその創設者のジャン・ヴァニエの本をよく読んでいました。
彼は昨年亡くなりましたが、そのジャン・ヴァニエと、そのラルシュを始めるにあたって協力した神父トマについて、性的被害を受けたという女性たちがいるのです。
彼女たちの証言がニュースになっていました。
私はにわかには信じられませんでした。
というよりは、信じたくありませんでした。
あのような活動をし、本も書いている人が、そういうことをしているのか、思ったからです。

しかし、よくあることだ、といえば、よくあることなのです。
カトリックの神父のスキャンダルも、牧師のスキャンダルも、よくあることだといえば、よくあることなのです。
とはいえ、「よくあることだ」で済ませてよいものでもありません。
しかしまた、「じゃあどうすればいいのか?」と考えても、途方に暮れるばかりです。
信仰におけるリーダー的存在が、自らの罪を隠しながら、それでもリーダーとして振る舞い続ける。
「いや、初めは、もっと真実で清い思いを抱いていたのだ!」と考えてみても、「時間がたてば、地位も上がり、自分の罪にも鈍感になるものなのだ」とすると、それはそれでやはり絶望的です。
ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンの世界においても、リーダーが、表面的な生活はきれいに整えながら、その裏では、まったく別の顔を持つ、そういう事態が生じるのです。
どうすればそういう事態を避けられるのか?

ジャン・ヴァニエとともに、私がよく読んでいたのが、ヘンリー・ナウエンの本でした。
ヘンリー・ナウエンについてはご存知の方も多いでしょう。
有名なカトリックの司祭です。
彼についても、死後の伝記で、同性愛者だったということが知られています。
ただ、彼については今のところ、事件のような話は出てきていません。

ヘンリー・ナウエンが書くものの一番の特徴は、その率直さだと言えます。
自分の抱いている弱さ、悪い思い、願望、すべてを率直に書きます。
そうしながら、神様の恵みを慕い求めたり、神様の力を頼ったりする姿勢が、包み隠さず書かれています。
だから、それを読む人は、何か「素晴らしいクリスチャンのお話」を読むように読むのではなく、自分と同じ悩み、ありふれた悩み、苦しみ、それを持った人間が、それを抱えつつ、主を信じ、頼り生きている姿、それを読むのです。
その本の中にいるのは、「聖人」ではない。
「ただの傷ついた人」だけがそこにいます。
しかし、その「ただの傷ついた人」の言葉が感動を与え、癒しを与える。
「信仰的に立派な姿」が人々に感動を与えるのではない。
「弱さを抱えながら、主に頼る姿」が、私たちの心をやさしく励ますのです。

ナウエンがある修道院で過ごしたときの日記に、およそこのような言葉があります。
「修道士とは、信仰的に強い人々ではなく、神様なしではどうしても生きていけないと思うような、弱い人々がなるものなのだ。」
私は、最近、牧師というのはそういう存在なのではないか、と思うことがよくあります。
牧師というのは、信仰的に立派な人がなる職業ではない。
いや、立派な人がいても確かに良いけれど、でも、信仰的に立派かどうかは、大切な基準ではない。
大切な基準は、「神様なしでは生きていけない」人間かどうかではないか、と思うのです。
自分の弱さ、愚かさ、力のなさ、あるいは、やってしまう罪、そうしたものを、それこそ「隠す」ことなく――隠すことができず、直面してしまい、そのことに苦しみながら、神様を頼るしかなす術がない。
そういう人物こそが牧会者なのではないか、と思うのです。
そして、そういう人物であるならば、スキャンダルは起きようがないのではないか、とも思うのです。

ノンクリスチャンと話していると、教会というのは、「立派な人々の集まり」のようなイメージを持っています。
それは、良いイメージでもあれば、悪いイメージでもあります。
悪いイメージだというのは、「日曜日に働かなくても大丈夫な、裕福な人々/余裕のある人々」というイメージです。
ともかく、そういうイメージを持っているが故に、教会に行くのが憚られると感じる人々がそこそこいます。

しかし、それはノンクリスチャンがそういうイメージを勝手に持っているから悪い、という話ではありません。
クリスチャン自身が、ノンクリスチャンの前に出ると「立派な人ぶる」ということがあります。
清く正しい生活をしているふり、家庭内には何の問題もないふり、依存症的な問題がないふり、子供の育児はうまくいっているふり。
色々と演じます。
そして、それこそが「神の栄光を表す」と思い込んでいます。
果たしてそうなのか?

パウロは第二コリント12:9-10で次のように語ります。

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント12:9-10)

「私には何の問題もありません! 私は素晴らしい人間で、素晴らしい生活を送っています!」という姿を人々に表し続けることと、「私は弱い人間で、問題も多くあります。だから神様を頼って生きています」という姿、どちらが神の栄光を表していることになるでしょうか?
私たちは、素晴らしい姿を現すことが「神の栄光を表す」と思って信仰生活を送りすぎてきたのではないか?
それは、本当は存在する弱さや過ちや問題を、「隠して」生きてきたことではないか?
「隠して」生きることは、決して問題を解決するものではないと知っているにもかかわらず、「隠して」生きることがクリスチャンらしい生き方だと信じてきたのではないか?
立派な生き方をしているように見せれば、ノンクリスチャンも心を打たれて、イエス様を信じるようになると信じてきたのではないか?
それらが完全に過ちだとは思いません。
しかし、そこに問題もあるのです。

私たちは、もっと弱い人間でいいのです。
もっと罪ある人間でいいのです。
もっと途方に暮れた人間であっていいのです。
そういう人間が、神様の恵みを慕い求める。
これが神の栄光になるのではないでしょうか?
教会は、正しい者たちの集まりでも、暇人の集まりでも、裕福な人々の集まりでもありません。
教会は、弱く、愚かで、罪を犯しやすく、神様しか頼ることのできない能無したちの集まりであり、そういう者たちが、それでも神様を愛し、信頼して歩むときに、神様の恵みによって支えられ、喜びを受け、幸いを受けるのだということ、それを証しする集団なのです。
私たちが奇跡を起こすのではない。
神様が奇跡を起こすのです。
私たちは、「こんな私にも、神様が来てくださった、そして、こういう幸いを与えてくださった」と証しする、ただその役割があるにすぎないのです。

アダムとエバの子孫である人間は、「隠して生きる」ことが標準となっています。
自分の弱い点や未熟な点、欠点、過ち、それらをうまく隠して生きることが「正しい大人」であり、この世界で成功する秘訣のように思われてもいます。
しかし私たちは、隠して生きることが、実は不自由な生き方であることを知っています。
それは、自由な生き方ではなく、常に不安や恐怖を抱えながら生きる生き方であることを知っています。
ところが、クリスチャンであるがゆえに、また、クリスチャンとして証しようと思うがゆえに、真面目であるがゆえに、「隠して生きる」、これが標準となってしまうのも、また私たちです。
それは、一周回って、ノンクリスチャンと同じ生き方です。
それは、神の恵みを証ししようとしながら、それを妨げてしまう生き方です。
そうではないのです。
私たちは、「神のようになる」ことが求められているのではありません。
私たちに求められているのは、「神に従う」ことです。
そして、過ちを犯さないことが求められているのではなく、過ちを犯しても、それを隠さないこと、その過ちを認めること、そして、神の恵みを頼ること、それが求められているのです。
私たちは「神」ではない。
「人間」です。
その限界を踏み越えてはいけないのです。


3.福音の原型

最後に、罪を犯したアダムとエバに対して、神様がどのように対処するのかを見ます。
9節を読みます。

「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」」(創世記3:9)

不思議な言葉です。
神様は、アダムがどこにいるのか知っているでしょう。
また、何をしたのかも知っているでしょうし、なぜ隠れているのかも知っているでしょう。
そのうえで神様は、「あなたはどこにいるのか?」と尋ねるのです。
罪人は、自ら神のもとへは行きません。
そして神様は、人間が自らの罪を悟って告白しに来るような存在ではないのを知っているので、自ら人間を呼ぶのです。
こうして、人間を救うために活動する神様の姿が聖書で現れます。
そしてここからは、福音の原型と言われる箇所になります。

まず、3章の9節から19節に至る文章の構造を見てみましょう。
ここは、文学の技法でchiasmeと呼ばれるものが使われています。
9-12節で、神様はアダムに問いかけています。
13節では、エバに問いかけています。
14節では蛇に問いかけています。
15節では蛇に対する裁きの言葉が語られます。
次に、16節では神様は再びエバに裁きの言葉が語られ、17-19節ではアダムに対して裁きの言葉が語られます。
何か規則性を感じないでしょうか?
アダムに質問して、そして最後にアダムに裁きの言葉がある。
エバに質問して、最後から二番目にエバへの裁きの言葉がある。
蛇に質問して、蛇に裁きの言葉がある。
このように、最初と最後で囲い込んでいく文章の書き方を、chiasmeと言います。
この技法は、真ん中に来る内容が重要であることを表現するために用いられます。
ここでは、蛇への裁きの箇所、つまり15節が最も重要な内容であることを伝えるために、こうした技法が使われています。

その15節を読みましょう。

「わたしは敵意を、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)

これが「原福音」と呼ばれているものです。
蛇はもちろんサタンのことであり、「女の子孫」というのはイエス様のことです。
「かかとを打つ」のと「頭を打つ」のとで、どちらが致命的でしょうか?
いうまでもなく、「頭を打つ」ほうが致命的です。
エス様の十字架の死によって、サタンの力が滅ぼされたのです。
このように、エバから生まれていく子孫が、蛇を完全に打ちのめすということを、神様は約束なさっているのです。
これが最初の福音、原福音と呼ばれる理由です。

罪を犯したアダムとエバに対しても、神様は、罪の解決の希望を与えます。
そしてその希望は、イエス様という形で実現しました。
私たちはそのことを知っています。
私たちは、いつでもアダムとエバの立場にいます。
そして、自分の過ち、弱い部分、暗い部分、愚かな部分、そういうものを隠して生きるのか、隠しながら「立派な人」のようなふりをして生きるのか、それとも、隠さずに、神様の恵みを、助け、力、奇跡を信じながら生きるのか、それを選ぶことができます。
どちらが主の栄光を表すことになるのでしょうか?
私たちは、自分の栄光ではなく、主の栄光を表す生き方を選び取っていきましょう。
それは、自分の罪、弱さ、愚かさを隠すのではなく、それに常に向き合う生き方であり、神様の恵みを信仰をもって希望し続ける生き方であります。