Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

人間、二重の存在


創世記2:4-7


おはようございます。
前回は、2:3まででしたが、2:3までと今日の2:4以降とでは、ずいぶん雰囲気が変わります。
1章から2:3までは、神様による世界の創造が語られてきました。
2:4以降も、世界の創造について書かれてはいるのですが、その経緯を物語る視点が全く変わっています。
2:3までは、「超越的」な視点で物語られています。
つまり、世界や人間の創造というものを、少し距離を置いて、客観的に、淡々と物語っています。
それに対して2:4以降は、「内在的」な視点で物語られています。
「人間の側」からの視点、と言ってもいいかもしれません。
地上に存在するものの立場から、創造が語られています。
それに伴って、神様を語る名称にも変化が出てきます。
2:4で初めて「主」という言葉が出てくるのですね。
それ以降、最初の人間たちと神様との関係を語る3章まで、ひたすら「神である主」という言い方が用いられます。
この「神である主」が人間を創る。
それが書かれているのが今日の箇所です。
今日は、まずは、「神である主」について話し、次に、人間について話します。


1. 神である主
それでは、2:4をもう一度読みましょう。

これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主が、地と天を造られたときのこと。(創世記2:4)

ここで「経緯」と言われている言葉は少し面白いです。
これはトルドットという言葉で、もともとは、「系図」や「子孫たち」を指し示す単語です。
創世記では数多く使われています。
例えば、5:1を見てみましょう。

これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り(創世記5:1)

ここで「歴史」と訳されている言葉が、先ほどの「経緯」という言葉と同じです。
さらに進んで、6:9を見ましょう。

これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(6:9)

この「歴史」も同じ単語です。
この二つのケースを見ただけでも、みなさん、こうした言い方が創世記ではたくさん出てくることが、お分かりになると思います。
この言葉は、新共同訳ではほとんどの場合「系図」と翻訳しています。
確かに、創世記の多くの箇所では、この「誰々のトルドット」という言い方がなされると、そのあとで家系図の話がずらずらと続くことがあります。
そしてそのあとに、もっと具体的な物語となっていきます。
創世記は、この「トルドット」という言葉で大まかにセクションがわかれています。
この2:4の使用法が面白いのは、ほかのところだと「家系図」のようなものを表現する際にこのトルドットという単語が用いられるのに、この場面では、「天と地の創造」に関してその単語が用いられていることです。
ここでこの単語が用いられることについて研究者の中でも見解は分かれるようですが、少なくとも文脈的に、「世界の創造についてもう少し詳細に物語っていこう!」ということを含んでいることは合意されていそうです。
この単語がほかの場面で使われるときに、数あるファミリーのうちで、「特にこのファミリーについて物語るよ!」というしるしとなっているように、この場面でも、「特別な対象について物語るよ!」ということを指し示す、そのしるしとなっているのだ、ということです。

さて、モーセが世界の創造を物語り、これから人間の創造と堕落を具体的に語ろうとするときに、ここで初めて用いられるのが「主」という言葉です。
「神である主」という言葉が用いられます。
「神である主」という言葉を聞いて、私は「あれ?」と思いました。
私が洗礼を受けてからずっと属していた教会では新共同訳を使っていたのですが、同じ個所を調べてみると、「主なる神」と翻訳されているのです。
「神である主」と「主なる神」。
微妙ですね?(笑い)
英語の聖書を見ると、the Lord Godとされています。
ヘブライ語をそのまま英語に置き換えただけの、当たり障りのない翻訳です。
日本語ではそういうことはできないので、翻訳者がもう少し意味を考えなければなりません。
ちなみに、明治の文語訳だとこのようになっています。

これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られたとき(文語訳)

文語訳は「主なる神」としています。
それでは、「神である主」と「主なる神」――端的に何が違うかというと、強調されている部分が違うでしょう。
「主なる神」ですと、やはり「神」が強調されています。
それに対して「神である主」ですと、強調されているのは「主」の方です。
では、どちらが強調されているほうが、この場面の翻訳としてふさわしいでしょうか?
そのように問いを立てると、私はやはり、「主」が強調されている方がこの場面にとってふさわしいと思います。
理由は大きくいって二つです。
一つは、「主」という情報の方が、新しいからです。
1章から2:3まで、「神」が中心でした。
「神」が世界を創造した経緯が客観的に語られていました。
ところが2:4からは、人間とのかかわりの中で神様が語られます。
そしてその時に用いられる単語が「主」なのです。
新しい情報の方を強調するという一般的な文章の書き方を踏まえると、2:4以降強調されているのは、「神」というよりは、「主」である、と考えることができるでしょう。
二つ目の理由は、創世記から申命記にいたるモーセ五書の流れがあります。
出エジプト記を思い起こしてください。
出エジプト記で問題となっているのは、神というよりは、「主」なのです。
典型的な個所として、出エジプト記5:2を読んでみましょう。

ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」(出エジプト記5:2)

モーセがファラオに対して、イスラエルの民を去らせるよう訴えるときの、ファラオの反応です。
モーセは、「主がこう言うんですよ!」と言うのですが、もちろんファラオは、「主」など知らない。
「主とはいったい何者なんだ!」となるわけです。
もう一か所読みましょう。
「主」がどのようなお方かを語っているところです。
出エジプト記34:6です。

主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、」(出エジプト記34:6)

このように出エジプト記では、神様はご自分のことを「主である」と言います。
出エジプト記でずっと問題とされているのは、「主」なのです。
その「主」こそが「まことの神」である。
これがずっと言われるのです。
実のところ、「主」というのは、神様の個人的な名前なのです。
神聖四文字のことですが、これが、十戒においてみだりに唱えてはならないと命じられたことから、ユダヤ人たちは、ずっとその神聖四文字が出てくると、ヘブライ語で「主人」を表す「アドナイ」という言葉で発音するようにしていました。
旧約聖書ギリシア語に翻訳されるときに、主人を表すアドナイも、アドナイと発音されていた神聖四文字も、両方とも「キュリオス」と翻訳されました。
そこで現在も、その神聖四文字もアドナイも「主」と翻訳しています。
しかし元々は、神聖四文字は、ある特定の神を表す固有名であり、アドナイのほうは普通名詞です。
神聖四文字が、「吉村」や「鈴木」などのような特定の名前であることは、モーセとファラオとのやり取りなどからも理解できるでしょう。
神聖四文字はヤハウェと発音が再構成されています。
モーセには、ヤハウェという神が現れ、そのヤハウェという神の命令によって、モーセはファラオの下に行きます。
ところがファラオは、もちろん、ヤハウェという神は知りません。
エジプトにはたくさんの神々がいたでしょう。
有名なところでは、太陽神ラーや、イシスという神が知られています。
でもファラオにとっては、「ヤハウェ? 知らんなぁ。なんで俺がそんなどこの馬の骨とも知らない神の命令を聞かないといけないんだ!」という感じなのです。
しかしそのヤハウェは、イスラエルの民を救い出す神でありました。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」(20:2)と神様は言いましたが、最後の部分は、「あなたの神、ヤハウェである」とするほうが良いかもしれません。
ところで、ヤハウェという神を知らなかったのは、ファラオやエジプト人だけだったのでしょうか?
いや、違うでしょう。
何よりも、400年間奴隷となっていたイスラエル人が、ヤハウェという神をよく知らなかった。
それは十分ありうることです。
そうすると、モーセにとっての課題は、ヤハウェという神が、実はイスラエル人を、ものすごく昔から養い、導いてきたのだ、ということをはっきり教えることだったと考えられます。
ヤハウェという神が、イスラエル人と常に関係を持ちながら、導いてきたのだ。
エジプトで人口が増え、しかし奴隷になって、そのあと救い出されてカナンの土地に行くのだ。
それがずっと約束されていたのだ。
こうしたことをモーセは教えようとしたのではないか。
そうすると、創世記全体もまた、強調されるのは「神」という点ではなく、むしろ「ヤハウェ」、つまり「主」のほうである、と考えられるのです。
神は、たくさんいました。
そのなかで、「ヤハウェ」という神こそが「本当の神」である。
ここがポイントなのです。

こうした流れを踏まえるときに、「神である主」と「主なる神」のどちらが翻訳として適切であるか、おのずから答えが出て来るでしょう。
もちろん、「神である主」です。
「神である主」のほうが、「主」という単語が特殊な名詞なのだということが伝わると思いますし、やはり、強調されているのは「主」、つまりヤハウェだからです。

聖書はこの後、「神」という一般的な名詞ではなく、「主」つまり「ヤハウェ」という人格的な名前をもったお方が、人間を創造することを語ります。
そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルを導いていくのは、この具体的かつ人格的なお方なのです。
神様は旧約聖書の時から、抽象的なお方ではありませんでした。
そして新約聖書においても、「イエス・キリスト」という具体的な名前を持っています。
約2000年前のイスラエルで、ある特定の夫婦の間に生まれ、成長し、そして十字架につけられ、死んで復活されました。
それはいずれも、歴史的に具体的な出来事です。

キリスト教の信仰というのは、常に歴史の中に現れた、具体的な人格的なお方に対する信仰でした。
そして、そのお方に対する固着というか、執着というか、そのお方に密着して、離れず、こだわり続ける信仰でした。

なので、ファラオが言ったような「主とは何者か?」という問いかけは、今を生きる私たちが、証しする人生を歩もうとするときに直面する問いでもあるのです。
私たちが、「イエス様がこれこれ、こんな風に言ってるんですよ!」というならば、私たちの周りの人々は、やはり「イエスとは何者か?」と問いかけるでしょう。
これに対して私たちができるのは、やはり「証言」なんですね。
証言をする、それはつまり、自分が目撃したものを第三者に向かって正直に語ることです。
証言する人を、証人、あるいは目撃者といいますね。
証人にとって必要なのは、誠実さです。
見たものをしっかりと語ること、しかしまた、見ていないものについては、見ていないと語ることです。
どちらも難しいことです。
しかしそれが証言するということです。
証言するという言葉が、のちに、殉教するという言葉になりました。
証言することによって殉教するケースが多かったのでしょう。
殉教する恐れがあったとしても、証言することを優先する、それがクリスチャンの生き方だったのです。
殉教することよりも、証言すること、つまり、真理に忠実であること、真理、つまりイエス・キリストに忠実であること、それを優先したのです。
私たちも同じように歩まねばなりません。
いわゆる「殉教」というのはないとしても、「プチ殉教」のようなものは様々なレベルであるはずです。
私たちは、そうしたプチ殉教を恐れず、イエス様にくっついて歩まねばならないのです。


2. 人間

さて、続いては、人間についてです。
2:5-7を読みましょう。
この記述は、1章の記述と矛盾していると考える必要はありません。
同じ出来事を、異なる角度から語りなおしていると考えて問題ありません。
この7節で、人間が大地のちりからつくられ、神様によって息を吹き込まれて生きるようになった、という話がなされます。

今日のタイトルは、「人間、二重の存在」としていました。
そのタイトルと聖書箇所をお伝えした段階では、「なんとなくこういう話をしよう」と思っていた程度で、まだ具体的な内容までは考えていませんでした。
人間の二重性ということで、考えていたのは、「人間が大地のちり」からつくられたこと、そして神様の息によって魂が吹き込まれたこと、つまり、肉体的な存在であると同時に霊的な存在であること、それを人間の二重性として考えていました。
それは確かに間違ってはいません。
ほとんどの注釈はそのように書いています。
息が吹き込まれることによって人間に与えられたのがどのようなものなか――動物と同じように生きる魂のことか、理性や知性も含むのか、あるいはさらに、聖霊と言ってもいいのものなのか――そういう点では違いがありますが、しかし、ちりで作られたことと神様の霊を受けたこと、そこに人間の二重性を認める点では共通しています。
私は、二重性をこのように捉えたうえで、「さて、そこから何かメッセージが生まれるだろうか?」と黙想していたのですが、どうも、何もないのですね。
で、黙想しながら、常に気になっていたもう一つの側面の方が、実は「二重性」としてふさわしいのではないか、と思うようになりました。
そしてそちらの方がより豊かな意味を含んでいるのではないか、と感じてきました。
そのもう一つの側面とは何かというと、「神が人間を作る」と、「人間が自分自身を作る」という、この二重性です。

これはいろいろ言い換えられます。
「神が私を作る」と「私が自分自身を作る」という二重性、
「神が私の人生を作る」と「私が私の人生を作る」という二重性、
「神が私の道を切り開く」と「私が私の道を切り開く」という二重性、
「すべてのよきものは神からくる」と「自分自身でよきものを見出さねばならない」という二重性
神の恵みと人間の努力という二重性。
この二重性がより意味深いのでは?と思うようになりました。

どうしてここで「二重性」という言葉を使うかというと、この二つの側面のうち、「どちらか一方が本物で、もう一方は嘘だ」あるいは「一方が本物で、もう一方は無視してよいのだ」ということを避けるためです。
例えば、「神が私の人生を作る」のであって、「私が私の人生を作る」なんてのは完全な不信仰だ!という主張を避けるためです。
また逆に、「神なんて存在しない、私が私の人生を作るのだ!」という主張を避けるためです。
その両方を避けるためです。
その両方共が、私たちクリスチャンにとっては真実なのです。
ノンクリスチャンにとっては違います。
神様の存在を前提としない人々にとっては、自分の人生は、究極的には、自分しか責任をとることができません。
「私が私の人生を作る」が真理なのです。
自分で勉強をする、就職活動をする、働く、我慢する、健康の維持に気を付ける、仲間外れにならないように努める、あらゆるリスクを警戒する、――様々な努力をしながら、自分の人生を作っていくのがノンクリスチャンにとっての人生です。
もちろん、学問的には、社会の文化や習慣、教育制度などが人々の人生を作っているのは確かなのですが、それでも、道徳的な考え方の大枠では、「私の人生は、私がつくる」というのがこの世界で生きている人々の通常の考え方です。
しかしクリスチャンにとっては違います。
クリスチャンは、神様が存在し、世界を治め、私たちの誰もが、神様によって生きることを許された存在であることを知っています。
「主は私の羊飼い。私には何も欠けるものがない。」(詩編23)
こういう御言葉を知っている人々だけが、初めて、「神が私の人生を作る」と「私が私の人生を作る」という二重性に直面することができるのです。

私は、今の日本社会を非常に警戒しています。
本当に危機的であると考えています。
その根幹にあるのは、結局は不信仰なのですが、それは具体的には、神様を信じることができず、したがって、神様はいないので、「私が私の人生を作るしかない」という思い込み、あるいは価値観です。
よく言われる「自己責任論」ですね。
それが日本社会で非常に大きな支配的価値となっています。
「今あなたがいる境遇は、すべてあなたの責任です。勉強しましたか? しなかったですね。
運動しましたか? そんなにしなかったですね。人間関係に投資をしましたか? しなかったですね。しばらく努力して諦めましたか? 諦めましたね。はい、それらすべてあなたの責任です。あなたが現在苦しむのは、当然です。」
こういう調子です。
「私の人生は私がつくる」「あなたの人生はあなたがつくる」。
それぞれの人生は個人の責任です。
こうして、苦しむ人は、自分が悪いのだと考えながら苦しみ続けます。
逆に、助けを求めて声を上げると、バッシングがされます。
みんなが苦しんでいて、しかも助けも求められないので、ますます苦しむ。
そのなかで欲求不満がたまります。
その欲求不満が、ますます弱者に向かったり、外国人に向かったりしています。
ところが実際のところ、「私の人生は私がつくる」という形で、すべての責任を自分が負うのは、当然苦しいわけです。
では人々はどうするでしょうか?
自分の行動の全てを無罪放免してくれる存在を探し求めるのです。
それは本質的には宗教的な動機です。
では、その宗教的な動機が、日本ではどのように具体化されるかというと、それは、「国家」において具体化されるのです。
「国家」の名において行うことは、すべて無罪放免になるのです。
そうして、どうしようもない無責任が跋扈するようになるのです。

創世記の3章最後で、アダムとイブがエデンの園を追放されます。
その直前に、神様はこのように言いました。

「神である主はこう言われた。「見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記3:22)

人間が「善悪を知るようになった」と神様が認めています。
これは、蛇が言っていたことが正しかったということでしょうか?
私が適切であると考える解釈では、この「善悪を知る」というのは、神様と同じように自主的に判断する存在になった、ということを意味しています。
しかし、神様と決定的に違うところがあります。
それは、神様は善と悪を知っていて判断するのに対し、何が本当の善で、何が本当の悪か、知らないままに判断するのが人間だという点です。
人間は、自分で判断して生きる存在となったのですが、その判断のもとになる知性は、堕落してしまったのです。
その堕落した知性を持ちながら、人間が宗教的なものを求めるとどうなるでしょうか?

フランスの数学者であり哲学者であり神学者でもあるブレーズ・パスカルは、神によって人間に刻まれた無限の深淵は、神だけが埋めることができる、と語っています。
神様によってでしか埋めることのできない、人間の本源的な欲求、飢え渇きというのが存在するのです。
それはどんな人間にとってもあります。
だから人間は、「神」のような存在を求めます。
私たちを導く存在、支配する存在、絶対的に依存できる存在、すべての責任を取ってくれる存在。
そういうものを人間は求めます。

ところで、人間の知性は堕落しています。
その堕落した知性によって「神のような存在」を求めるとどうなるでしょうか?
偶像崇拝となるのです。

そして日本では、その偶像崇拝の対象となりやすいのは「国家」です。
そして今、まさにそうなりつつある、あるいは、すでになっているのです。
私はこのことを非常に危惧しています。

根本にあるのは、不信仰なのです。
「神が私を作る」のではなく、「私が自分自身を作る」のだという考え方です。
それは事実として間違っていますし、また倫理的な考え方としても、無理があるのです。
人間は、自分の人生をすべて自分で責任をとるほど強い存在ではありません。
私の同僚の一人が、仏教は自分には無理だと語りました。
理由は、毎日お勤めをすることができないからだ、というのです。
「努力」によって救われるという考えでは、誰も救われません。
それはすでに聖書が語っていることなのです。
エペソ人への手紙2:8-9を読みます。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)

人間は自分を誇りたがります。
自分の努力や能力によって自分の人生を築き上げたと思い込みたい生き物です。
「自分自身を作ったのは、私なのだ」と言いたい存在なのです。
その基準によって、成功したものは称賛し、失敗したものは軽蔑する。
助けを求める人間は非難する。
ところが、その基準に従うばかりだと、人々の間には苦しみと憎しみと怒りが蓄積されます。
成功するために絶えず努力しなければならず、失敗した時には、自分が他の人を軽蔑したように、自分が軽蔑されるからです。
そこで、そのフラストレーションを解消する対象を求めます。
またさらに、人間にそもそも内在する超越的なもの、絶対的に依存できるものを求める欲求もあります。
これらの願望を何が満たすのか?
偶像崇拝が満たすのです。
そしてとくに、近代の日本では、国家が偶像となりやすいのです。
歴史上もっとも残酷な行為は、宗教の名において行われたものだった――という言葉をどこかで聞いたことがあります。
どこで聞いたのかは忘れましたが、私としては、「宗教の名」というよりは、「偶像の名」としたいです。
偶像崇拝するときに、人間は恐ろしく残酷になれます。
エス様が語ったように、「あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う」(ヨハネ福音書16:2)状態となるのです。
キリスト教も、それが偶像崇拝に変質してしまったときには、残酷なことをしました。
国家が偶像崇拝の対象となると、国民は恐ろしいほどに残酷になることができます。
そして、人々は、自分が残酷であることを全く悟ることがありません。
自分たちは「正義」をやっていると思い込むことができるのです。
こうして、「国家の名」によって恐ろしいほどの無責任と暴力とが可能になるのです。

 

このような状況に対して、クリスチャンはどうすればいいのでしょうか?
まず一つは、「私が、私自身の人生を作り上げる」という考え方に対して、「神様が私の人生を作り上げる」という考えをしっかり示すことです。
普通の人々は、今の自分を説明する際に、自分が頑張ったからとか、誰かに出会ったからということを言うでしょう。
しかしクリスチャンは何より、今の自分があるのは神様のおかげであると告白できる存在です。
もちろんここでも、最初に話したような誠実さの原則は重要です。
私たちはあくまで証人なのです。
自分が見てもいないこと、つまり、自分が実感していないことまでも告白する必要はありませんし、むしろ、してはいけません。
私たちは、「これこれをしてくださったのは、本当に神様だ」と思うのなら、その通り話せばいいのです。
そう思っていないことにまで、「神様のおかげ!」というのは、偽りです。
偽ってはいけないのです。
そのうえでなお、「神様が私の人生を作り上げる」ということを示せるように、求めていく必要はあります。
そしてさらに、「神様が私の人生を作り上げる」という事実――これは事実なんですよ?――に基づいて、その事実に基づいて生きるほうが、はるかに自由で、のびのびして、幸せであることを伝えられたら、なおよいでしょう。
詩編37:5-6には次のような御言葉があります。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主はあなたの義を光のように
あなたの正しさを真昼のように輝かされる。
詩編37:5-6)

私たちには、主を信頼する、主に自分の道をゆだねるという特権があります。
これはすごく肩の荷を下ろして、楽に生きる方法です。
反対に、自分の人生を全部自分で管理して、その結果もすべて自分が引き受けなければならないとなると、重圧と恐ろしさとで、私たちは逆に身動きが取れなくなってしまいます。
そうなると、本当に一部のどんな恐ろしさも「楽しみ」にしか感じられない例外的な人だけが伸び伸びと生きられるだけになってしまいます。
その他大勢の人は、びくびくした人生になります。
そうではないのです。
私たちを作った神様が、これからも私たちの人生を作ってくださる。
この事実を受け入れるときに、私たちは本当に解放され、自由に、平安に生きられるのです。
私たちはノンクリスチャンのこの社会で、そういう生き方をはっきり表明すべきなのです。

 

次に、この現状の社会の中でクリスチャンがとるべき姿勢は、今述べたことと一見すると逆のことを言うようですが、「私の人生は私がつくる」という極めて常識的な見解を常識的なレベルで保持することです。
言い換えますと、「私がやっていることは、まさに私がやっていることだ」と認めることです。
「私が言っていることは、まさに私が言っているのだ」
誰かに言わされたのでもない、誰かにそそのかされたのでもない、誰かに騙されたのでもない。
「私がいま語っているのは、まさに私の責任で、私が語っているのだ」と認めることです。
エレミヤ書23:21には次のような御言葉があります。

「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。」(エレミヤ23:21)

エレミヤが生きていた時代、偽預言者がたくさんいました。
彼らが偽預言者と言われる理由は何でしょうか?
それは、彼らが、主の言葉を聞いていないのに、「主はこう語っている!」と主張していたことでした。
彼らは、自分は主の御声を聞いていると錯覚していたのでしょうか?
それとも、本当はそれを聞いていないことに気づいていながら、偽っていたのでしょうか?
実際はわかりませんし、おそらく両方のケースがあったのでしょう。
これは私たちクリスチャンも陥りやすい危険性です。
特に「聖書はこう語っている」「神様はこう語っている」と話す、説教者に当てはまりやすい危険性です。
聖書は、ご存知の通り、本当に多様な内容です。
それを、過去の偉大な神学者たちが、何とか体系的に、つまり矛盾なく理解することができないかと聖書を読み、思考してきた結果が、神学です。
そうした神学がなければ、私たちは聖書を理解することはできないのです。
私自身もそうですが、誰もが、一定の神学の伝統の中で聖書を学ぶのです。
私たちの聖書の理解というものには、必ず、何らかの神学の伝統が含まれているのです。
その神学の伝統に加えて、自分の個人的な趣味、世界観、性格、知識、経験、教養などが全部混じりながら、私たちの聖書の理解というものはできあがります。
そのような理解は、「聖書そのもの」でしょうか?
そのような理解は、「神様の御心そのもの」でしょうか?
違います。
そうであってほしい、とは願うものの、私たちが素直に自分の理解を顧みるならば、よほど厚顔無恥でもなければ、自分の理解が聖書の内容そのものだと言い張ることはできないでしょう。
イザヤ書55:9に次のような御言葉があります。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神様の御心は、私たちの思いよりもはるかに高いのです。
私たちは、神様の御心を悟ることがあるでしょう。
はい、確かにあります。
でも、だからといって、「私の思いは、神様の思いといつも一致しているのだ!」と言うことはできません。
もしそのように言う人がいるとしたら、その人は、錯覚しているか、偽りものであるか、どちらかでしょう。
一致することを求めながら、一致しないことを恐れる。
そして、語るにしても、行うにしても、それが主の御旨に適っていることを常に希望する。
「主の御心と一致しておりますように」と、そのように切実に祈る思いを持ちながら、語ったり行動したりする。
これがクリスチャンの良心なのです。
私の行いは、あくまで「私の」行いです。
他の誰のものでもありません。
私の語る言葉、それはあくまで、「私」が思考し、言葉を選び、生み出している言葉です。
他の誰のものでもありません。
「神様が私の人生を作っている」のではなく、「私が私の人生を作っている」のであり、「神様が私の口を通じて語っている」のではなく、「私が私の口を通じて語っている」のです。
私たちは、自分の行い、自分の語る言葉、それに責任があるのです。
それは、私たちが負うべき責任なのです。
そのうえで、私たちは、自分のする行いや言葉が、神様の御旨に適っていることを希望してよいのです。
いえ、希望しなければなりません。
ただし、この希望は、自分の歩みが神様の歩みとずれているのではないかと真摯に反省し、ずれてしまうことを恐れる心から生まれるものです。
そうした恐れは、正しい畏れであります。
そうした恐れをなくしたときに、私たちはエレミヤ書に出てくる偽預言者のようなものになってしまうのです。
あるいは、偶像崇拝するものと同じようになってしまうのです。
わたしたちはそうであってはいけないのです。
「私」自身の責任を放棄し、「自分がやっていることは、全部神の御心に適っているんだ!」と開き直ってはいけないのです。
あるいは、「どんなことをしても、神様は赦してくださるんだ!」と開き直ってはいけないのです。


以上で述べた二つの態度、それが私たちの生き方です。
「自分の人生は、自分で作らないといけない」とこの世の人々は考えています。
それに対しては、「私の人生は神様がつくってきたものだし、これからも作ってくださるのだ」という生き方を示す必要があります。
そのように、神様の支配と導きを認める生き方が、はるかに幸せであることを示さねばなりません。
また、国家や宗教などの偶像を崇拝している人々に対しては、つまり、自分の考えや行動などは、全て国家の意思や神の意思と同じであると開き直っているような人々に対しては、自分の言葉や行動はあくまで「私個人の」ものであり、その責任の所在は「私」にあるのであり、真実な信仰の姿とは、自分の言葉や行動が神の御旨と一致していることを、おそれを抱きながら希望する態度なのだ、ということを示さねばなりません。
恐れつつ、希望しつつ、祈りつつ、そして行動するのがクリスチャンの信仰なのです。
「神が私を創る」という真理と、「私が私を創る」という真理、この両方をしっかり持たねばなりません。
どちらか一方が真理なのではなく、両方が真理なのです。
それが、この世界に生きる限りにおける私たちクリスチャンにとって妥当する事柄なのです。

こうした生き方によって、結局は、私たちは「神の民」としてこの世で生きるのです。
ヤハウェを信じる「神の民」として、ヤハウェを、イエス・キリストを告白しながら生きるのです。
それによって摩擦も生じるでしょう。
しかし恐れてはいけません。
エス様は言っています。
ヨハネによる福音書16:33です。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

 

 

 

安息を生きる

 

 

こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(創世記2:1−3、新改訳2017)

 

 

今年のゴールデンウィーク頃に、ある記事を読みました。

それは、ざっくりいうと、日本人は、毎日が楽しい人と、毎日が憂鬱な人に分かれているのではないか、ということを語るものでした。

サザエさん症候群」というのはご存知でしょうか?

私自身その記事を見て知ったものですが、こういうことです。

土日と仕事が休みだとして、サザエさんは日曜日の午後6:30から放送しています。

そのサザエさんの時間帯になり始めると、翌日からの仕事のことで憂鬱になる、という症状のようです。

私はサザエさんを見ていないのでよくわからないのですが、言われていることはわかります。

そして記事はこのことから、週7日間楽しい人と、週7日間憂鬱な人に分かれているのではないか、と語ります。

サザエさん症候群になる人は、自分の仕事や職場が楽しくない人です。

理由はいろいろあるでしょうが、ともかく楽しくない。

そして休みになりますが、その休みの間も、ダラダラと暇つぶしをしながら過ごしてしまう。

気がつくと、日曜の夕方になっており、翌日以降のことを考え、憂鬱になる。

このような人は、週7日間憂鬱です。

これに対して、週7日楽しい人は、職場は楽しいし、仕事も好きでやっている。

休みになると、仕事をしている間にできなかったこともして、充実した時間を過ごし、しっかりとリフレッシュする。

日曜の夜になっても、憂鬱にはならず、むしろ期待する気持ちが高い。

こういう人は、週7日楽しい人です。

記事の著者は、自分の結論として、仕事を楽しむことを諦めないことと語っています。

 

いかがでしょうか?

みなさんは、自分はどちらの側にいると思われるでしょうか?

どちらかというと、自分は週7日楽しいと感じる側の人間だとお思いになる方もいるでしょうし、どちらかというとサザエさん症候群に「わかる!」と思う人もいるでしょう。

私は、ここで言われていることは、まさにクリスチャンの課題であると思います。

今日はこの点を考えていきたいと思います。

 

 

 

まずは本文を読みます。

「こうして天と地とその万象が完成した。」(2:1)

神様は6日間で全てのものを創造しました。

この2:1で「その万象」と言われているものは、少し解釈の分かれる単語でもあります。

ここで使われている単語は、通常は「軍隊」を意味する語です。

天使たちの軍勢を指すときにも使われています。

そのような単語です。

なので、この箇所を、「天と地と天使たち」と考える解釈もあります。

これは一番極端な解釈で、それ以外の解釈は、大体のところざっくりと「宇宙全体の色んな無数のもの」と考えています。

つまり、天と地と、それらを満たすありとあらゆるもの、という解釈です。

ここは穏当にそのように理解していればいいと思います。

 

続いて、2:2−3を読みます。

 

「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」

 

この箇所は、後に十戒安息日の規定が語られるときに、安息日の根拠として言及される箇所です。

神様が休まれたように、人間も休まなければならない、ということです。

 

ところで、ここを読むと、一見「あれ?」と思うかもしれません。

「第七日に、なさっていたわざを完成し」とあるので、7日目も働いていたのかな?と考えられます。

実際、70人訳聖書や古代の聖書のヴァージョンでは、ここを「六日目」としているものもあります。

ここは、「第七日までに」と読むのがよいでしょう。

 

すると、ここは「第七日までに、神様はそのわざを完成」された、ということです。

これはどういう状態でしょうか?

1章は、六日目までの創造の御業を語っています。

その最後を見ると、神様は、ご自分が創造されたものを眺めて「非常に良かった」と語っています。

何の欠点もなかった、ミスもなかった、失敗した点がなかった、完璧だったということです。

あえて言えば、罪もしみも咎もなかった、ということです。

世界は美しく、調和が取れて、豊かで、完全だったのです。

非常に良かったのです。

ところが、ですね。

私たちの誰もが知るように、アダムとイヴが罪を犯し、その後の人類も罪を犯し、その完璧だった世界にしみが生まれます。

罪が次から次へと増殖していきます。

まるでカビのように広がっていきます。

またカビのように、目に見えないところにまで汚染していきます。

最初に存在していた調和は崩壊します。

この点に関してはまた後ほど言及します。

 

続いての箇所を見ると、「第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた」と語られています。

ここは新共同訳でも読んでみましょう。

 

「第七日の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七日の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」

 

この2つの翻訳を両方見ると、この本文の言語的な意味は大体カバーできます。

新共同訳は「安息なさった」と書いていますが、ここで使われている動詞は、まさに「シャバット」です。

この動詞と、「安息日」を表す「シャッバート」はもちろん関連しています。

この動詞の「シャバット」は、とめる、やめる、休む、という意味があります。

新改訳2017は、そのうちの「やめる」を強調する形で翻訳しています。

新共同訳は、この箇所が後に「安息日」の規定の根拠となることを踏まえながら、「安息日」との関連性がわかるように翻訳しています。

どちらも正しいのですが、私はここでは、新共同訳の理解の仕方のほうが適切だと思います。

この文章で重視されているのは、単に「創造の御業を<やめた>」ということではなく、その創造の御業が完成し、神様は満足し、そして<休んだ>ということです。

神様が「休む」。

これは一体どういうことでしょうか?

 

ある解釈によると、「神が休む」というテーマは、古代世界では神殿建築と関連していたそうです。

その歴史的関連性についてはそれほどしっかり確認したわけではないのですが、聖書だけで考えてみても、それはありうることだと思います。

すぐに思い浮かぶのは、ダビデによる「主の神殿」の建築のシーンです。

ダビデイスラエルの王になった後、神殿を建築しようと思いました。

ところが、その試みは神様によって反対されます。

その神様の声は、ダビデ専属の預言者とも言ってよいかもしれません、ナタンに告げられました。

サムエル記下7:5−7を読みましょう。

 

「「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。 わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。 わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』 」

 

神様は、今までずっと「家」に住まず、「天幕」で過ごして歩んできた、と言っています。

「家」というのは、私たちの場合もそうですが、やはり「落ち着く」場所ですね。

「休息する」場所とも言えるでしょう。

もし私たちが、家が「休息」できる場所でなくなったら、それはもはや「家」ではないかもしれません。

「家」は、ただ単に「寝泊まりする場所」ということでもないですね。

旅行でホテルに泊まったとしても、またそこがどんなに素晴らしいベッドであったとしても、やはり「家」で寝るのとは違っています。

「家」というのは、ただ単に肉体的に休息を得る場所ではなく、精神的な点でも休息を得る場所なのです。

神様がここで言っているのは面白いですね。

イスラエルよ、私は今まであなたがたと旅をしてきた。

天幕で過ごしてきたが、そのことで文句を言ったことなんてあっただろうか?」

もう少し意味を込めると、こうでしょう。

「私は寝る間も惜しんであなた方とともに歩んできたが、そのことで不平不満を言ったことがあるか?」

このあとのナタンの預言にある神様の言葉を読みますと、神様は、イスラエルを敵に怯えることのない状態に導く、また、ダビデを豊かにし、ダビデの子が王国を継承し、そして神様の神殿を建てる、と語ります。

ここに込められている神様の心は、親がその子どもたちの幸せを願うような心ですね。

神様は、自分のための「家」が建てられることよりも、その子どもたち、つまりイスラエルが恐怖にさらされることなく生きていくことを望むのです。

人間の親が、子供に向かって「なぜ私の寝床をしっかり整えないのか?」とは言わず、逆に、子供がしっかり寝られるように、親が子供の寝床を整える。それと同じように、神様は、その子どもたちがしっかり休めるようになることを望むのです。

 

いくらか話が広がりましたが、今述べたところからも、「神殿建築」と「神が休息する」というテーマが関連してそうだと思われるでしょう。

ちなみに、日本語では「神殿」と翻訳されていますが、これはヘブライ語で直訳しますと、「主の家」です。

ソロモンが神殿と自分の宮殿を立てますが、ヘブライ語の直訳では、「主の家」と「王の家」です。

「神殿を建築する」とは、「主の家を建築する」ということなのです。

 

創世記2:2に戻ります。

ここで神様は、あらゆるご自身の業から休息します。

では、神様が休息することになる「家」とは、つまり「神殿」とは何でしょうか?

これは、この世界全体であると考えられるでしょう。

世界全体が神様の家で、となると、人間は神様の子供で、それらを完璧に造り、全てが調和して何の欠陥もないので、神様は、そこで休息するのです。

 

はい、では、想像を膨らましてみましょう。

先程のダビデに対する預言のなかで見た神様の言葉のとおり、神様は「親」のような存在です。

というか、真の親ですね。

では、「親」が休息できないときとは、一体どのようなときでしょうか?

私もなかなか休息できず、いや、むしろ妻のほうが休息はできていませんが、それとはちょっと違いますね。

「親」が休息できないのは、やはり、子供が間違った方向を歩んでいるときだと思います。

その時から、親はもういても立ってもいられなくなるでしょう。

仕事をしていても心は落ち着かず、また、家に帰ってきても落ち着かず、寝ていても不安でしょう。

神様も同じです。

そして、聖書において、子供が間違った方向を歩み始めた時はいつかというと、それはもう私たちの誰もが知っているとおり、人間が罪を犯したときです。

人間が神の戒めを守らず、神に反逆し、自分自身でなんでも解決できると思い始めたときです。

神の基準ではなく、自分自身の基準で歩み始めたときです。

そのときから神様には休息がなくなりました。

神様は人間を探し求めます。

また、預言者たちを通じて、人間に語りかけます。

それは、人間一人ひとりとの関係を回復し、まことの安息をそこで実現しようとするためです。

そのために、神様自身は、休息を、つまり安息を持つことがなくなります。

そこで、イエス様が語るような状態になるのです。

 

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」」(ヨハネ5:17)

 

アダムとイブが罪を犯して以来、神様は真の安息を求めて働き始めたのです。

そして新約聖書においては、イエス様がその働きを継続しておられます。

エス様は度々ファリサイ派や律法学者から、安息日を破っていると言って非難されましたが、イエス様は、父なる神がずっと求めていた人間との真の安息を実現しようとして、働いていたのでした。

 

 

さて、私たちは一体何者でしょうか?

私たちは神様と和解させていただいた、かつての放蕩息子、あるいは放蕩娘でありました。

エス様と出会う前までは、私たちは、本当に「休息する」ということはできませんでした。

過去に犯した過ちによる不安、また、現在行っている勉強や仕事がうまくいくかという不安、あるいは、将来の自分の生活に対する不安。

いろいろな不安があって、私たちは本当に「休息する」ということはできませんでした。

しかし、イエス様に出会って、罪を告白し、イエス様の十字架の死を受け入れることで、完全に罪を赦された者となりました。

私たちは完全に赦され、どんなことがあっても神の子供であることは揺るぎなく、したがって、今と同様、死後もまた、神と共にありつづけます。

このことで私たちは本当に平安を得るのです。

 

 

こういう風に平安を得ると、人は変わるんですね。

いままでしかめっ面だった人が、笑うようになります。

人生をネガティブに考えていた人は、希望を持って生きるようになります。

新しいことにチャレンジできなかった人は、チャレンジできるようになります。

謝罪することのできなかった人は、謙遜になって謝罪できるようになります。

ケチ臭くて、誰にも何もあげることのできなかった人が、人にものをあげることができるようになります。

このような本当にいろいろな変化が、イエス様に出会った人には生じます。

そういうときは、教会に行きたくて行きたくてしょうがないんですね。

教会が本当に楽しく、幸せな場所で、いつまででもいたくなる。

礼拝でメッセージを聞くと、どんなメッセージでも神様の恵みを感じることができて、幸せな気分になる。

なんていうか、「無敵」になるんですね。

 

でも、そういう時期も終わります。

そう言ってしまっては悪いかもしれないのですが、終わります。

ある人々は、そういう最初の高揚感のある状態をクリスチャンとしての「本当の」状態であって、それがなくなった状態を「だめな」状態と考えます。

そして、最初の頃の愛、初恋のような状態を回復しようと努めます。

私は、あまりにも多くの人が、イエス様に出会った頃にものすごく心がハッピーになり、その後に「冷え切る」というプロセスを経るのを見てきて、最初の「高揚感」のある状態が、霊的に「本物」だと思うことにはちょっと懐疑的です。

むしろ、「初恋」と同じように、いかがわしいものだと考えています。

本当の愛は、感情だけの問題ではなく、意志と決断と実行の問題でもあるからです。

しかしながら、イエス様に出会ったときに、心が喜びで満ち溢れ、幸せな気持ちになり、心が平安になったこと、それは紛れもない事実です。

みなさんもそういうことを経験してこられたと思います。

ところがまた、そういう時期も終わるのです。

では、どうしましょうか?

 

これに対する選択肢は、そんなにないと思います。

一つは、「まあ、そんなもんかな」と思って諦めることです。

もう一つは、「いや、それは間違っている」と思って諦めないことです。

 

「諦める」というのはわかりやすいですね。

神様を愛する心が冷めても、「まぁ、そんなもんさ」と思って、やり過ごす。

解決しなければならない問題があっても、適当に言い訳をして、やり過ごしてしまう。

「自分さえ我慢すればいいのなら、我慢しよう」みたいに解決する。

これは、少しクリスチャンの中で誤解があるのですが、「忍耐」と「我慢」というのは別物です。

「忍耐」というのは、神様の御心に従って苦しむことですが、「我慢」というのは、神様の御心ではないところで、自分勝手に苦しむことです。

よくクリスチャンの中には、「我慢できるようになる」ことが「霊的成長」であると考える人々がいます。

言われたことにただ従順に従うこと、間違ったことがあっても、見てみぬふりをして我慢すること。

不当な権利の侵害があっても、我慢すること。

こういうことに怒りを感じたり、心がイライラしたりするうちは、まだ霊的に「未熟」で、そういうものを平安な心でやり過ごすことができるようになるのが霊的に「成長」することなのだ。

そのように考える人々がいます。

それはまったく誤っています。

そのようなケースは、大抵の場合、神様の御心に従っているのではなく、自分の自己中心的な願望に従っているのです。

例えば、間違ったことがあって、それを声に出した場合、どうなるでしょうか?

当然、反論に会うでしょう。

そして、私自身は論争することになるでしょう。

「自己主張」しなければならなくなるでしょう。

自己主張すること、それは苦しいことではないでしょうか?

「自分の意見」を言うことは、悪いことのように感じられないでしょうか?

「自分の意見」を言うくらいなら、「みんなはこう考えている」と言ったほうがいいと思わないでしょうか?

そして、「みんな」がどう思っているかわからない状況で「自分の意見」を言うのは、とても難しく、勇気が必要で、苦しむことではないでしょうか?

そうです。

苦しいのです。

だから、「自分の意見」を語る「苦しさ」から逃げて、「黙って我慢する」苦しみを選ぶのです。

そのうえ、その我慢を「神が与えた試練であり、忍耐すべきことだ」と思って、宗教的に正当化しようとするのです。

ものすごく誤ったことです。

大切なのは、神様の御心に適った苦しみであり、それが忍耐です。

そうではない苦しみは、ただの苦しみであり、人間的には同情を受けますが、神様の僕としての生き方ではありません。

 

 

もう一つの生き方、つまり、諦めない生き方、それが私たちクリスチャンが採るべき生き方です。

それはどのような生き方でしょうか?

2つの角度から話してみようと思います。

まずは、先程と逆です、つまり、「我慢」ではなく「忍耐」する生き方です。

一つ御言葉を引用しましょう。

ペトロの手紙第一、2:19−20です。

 

「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。」

 

ここで言われている「不当な苦しみ」や「善を行って苦しみを受ける」という御言葉は、どのような状況を指していると思うでしょうか?

私たちが、恐怖心や色んなリスクを考慮することから、ビクビクしておじけづいて、「とりあえず周りに合わせよう!」という姿でしょうか?

本当に言いたいことをぐっと我慢しながら、心に溜め込んで生きる、その「苦しみ」でしょうか?

そうではないでしょう。

ペトロは、今引用した箇所の直前で、「自由なもの」として主人に従いなさい、と奴隷たちに命じています。

パウロは、従順を命じるときに、「主にあって」あるいは「キリストに従うように」と語ります。

これらは大雑把には同じことを指しているでしょう。

エス様に従う、神様に従う、それが大前提である、ということです。

この天地を創られた、そして私たちの贖い主でおられる神様、ただそのお方だけを恐れ、愛するならば、当然私たちは、「自由」になれます。

そしてその「自由」を用いて、従うのです。

「完全な愛は、恐れを締め出す」という御言葉があります。

「恐れ」によって自分の行動を支配させないでください。

「恐れ」を私たちの行動の動機にしないでください。

「恐れ」ではなく「愛」を、私たちの心の中心においてください。

その「愛」によって行動し、そして苦しみに会うときに、私たちは正しく苦しんでいるのであり、それこそが「忍耐」なのです。

恐怖心から生まれる我慢ではなく、愛から生まれる忍耐、それを行ってください。

 

 

次に、クリスチャンが採るべき生き方は、安息を諦めない生き方です。

今日の本文は、出エジプト記十戒において、安息日の規定の根拠となっています。

出エジプト記20:8−11。

 

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

 

もちろんクリスチャンには、新約聖書で言及されているような形での安息日というものは、当てはまりません。

なぜなら、イエス様が来られて、イエス様に出会うことによって、私たちは本当の「安息」を得たからです。

本当の「安息」、本当のシャッバート、それは何か?

それは、神様が世界を創造し、人間を創造したときに経験したであろう安息です。

それは、前回話した言い方を踏まえれば、神と世界と人間とが調和した関係にあった時に経験したであろう安息です。

人間は、神様から離れてしまったことによって、この安息が失われ、不安を抱えながら生きることになりました。

人間がこの安息を得るのは、唯一、イエス様に出会い、イエス様を受け入れることによって、神様と和解することを通じてのみです。

そして私たちはその安息を、完全にではありませんが、わずかながら得ました。

そのような安息を、私たちは諦めてはいけないのです。

誤解してはいけません。

「日曜日をしっかり休むことを諦めてはいけない」と言っているのではありません。

「日曜日に休むことを諦めてはいけない」と言ったら、これは現代版のファリサイ派や律法学者です。

エス様はそのような形式的なことを重視しませんでした。

はっきり言ってしまえば、日曜日に休んで教会で礼拝したからと言って、その人が「安息」を得ているとは限りません。

「安息」というのは、もっと本質的なことだからです。

 

神様が「肉」となってこの世界に来られたことは、とても意義深いことでした。

私たちが持っているこの「肉体」、また、現実に存在する「この人」「あの人」、それはみな、価値あるものだからです。

人間は、肉体を持たない抽象的な存在ではないのです。

ところがクリスチャンは、「肉体的」な問題を無視して「平安」を求めたりする。

この人・あの人との具体的な問題を解決しようとすることなく「平安」を求めたりする。

それは偽りなのです。

それが偽りである証拠に、私たちは、現実に存在する問題を解決しないでいると、結局は常に「不安」を抱えたままになってしまうのです。

 

「安息を諦めない」、それはつまり「幸せになることを諦めない」ということです。

幾つかの調査によりますと、日本人は、世界的に、自分が属している会社を憎んでいる割合が高いことが知られています。

会社に対して満足している割合も低いです。

このような調査から浮かび上がるのは、日本人は、自分が属している組織を、幸せな場所にすることを諦めてしまっている様子です。

「幸せな場所」にしようとすると、実は、いろいろと厄介なこと、面倒なことが生じます。

そうしないで、「まぁ、これが人生だ」と諦めてしまうと、幸せな感情は得られませんが、楽になります。

職場はひたすら我慢する場所で、休みになったら、憂さ晴らしをする。

その休みが終わると、今度は再び、辛抱・我慢の毎日が続きます。

こうして、自分の職場・会社に対して不満を持つ日本人となります。

ノンクリスチャンに対しては、組織に対する不満足の高さと、生産性の‘低さは相関しているのだ、と話をするところですが、クリスチャンに対しては、もっと単純に、それはクリスチャンの生き方ではない、と言うことができます。

不満足で、欲求不満で、憎い思いがあって、我慢して、それで平日を過ごし、週末にちょっとの間息抜きをして、そして再び、不満足で、憎しみと怒りを持つ平日を過ごす。

それはクリスチャンの生き方ではないのです。

メッセージの最初に語ったように、それは、毎日が憂鬱な人の生き方です。

そうであってはいけないのです。

そして、そうであってはならないために何が必要かと言うと、「幸せになることを諦めない」ことなのです。

自分が今属している場所を、幸せな場所にすることを諦めない。

これが大切なのです。

 

アウグスティヌスは、ヨハネの手紙の説教の中で、愛は生まれたならば、養わなければならない。養われたならば、強められなければならない。強められたならば、完成されなければならない――とおよそこのようなことを言っています。

これは安息についても言えると思います。

安息もまた、生まれなければならず、養われなければならず、強められなければならず、そして完成されなければならないのです。

完成するのはイエス様の再臨の時なので、私たちは、安息を強めるところまでが責任の範囲です。

エス様に出会って生まれた安息を、私たちは、養い、強めなければならないのです。

エス様の再臨において安息が完成するのを待ち望みつつ、私たちは、日々生活しているその場所で安息を得られるように、努めなければならないのです。

 

そのときどうなるのか?

そのとき、私たちは神の国を経験するのです。

どこにいても、どのような状況にあったとしても、私たちは神の国を味わうのです。

新聖歌268の一番だけ、一緒に歌いましょう。

 

いつも、「ハレルヤ!」と言って歩むことができるように、私たちは日々、安息を諦めない生き方をしていきましょう。

 

人間の目的

 

 創世記1:27-28

 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

 

グーグル日本法人の元代表、辻野晃一郎という方が、あるインタビューで、これからのビジネスで必要なものを語っていました。

そこで彼は次のように話しています。

少し長いですが、そのまま引用します。

 

「あなたは何のために生まれてきましたか?」とか、「あなたが生まれてきた使命は何ですか?」という根源的な問いに確信を持ってこたえられる人はほぼいないでしょう。よほどの天分に恵まれた人以外は、あるいはそういう人でも、自分がなぜこの世に生まれて来たのか、本当のところは誰もわかりません。人生とは、もだえ苦しみながらその答えを探し続ける旅なのかもしれません。

(中略)

人工知能の急速な発達や、ゲノム編集などの医療技術の革新によって、人類はついに神の領域に踏み込み始めたと言ます。GAFAの今後や日本の行く末を考えるときに、テクノロジーの急激な進歩が人類にもたらすものについて、生命や宇宙の起源とか、人口爆発や環境破壊など地球が抱える諸問題などと関連付けた大きなスケールで深く洞察する力が求められています。実学だけが暴走するのを防ぐためは宗教や哲学などの役割も見直されねばなりません。

元グーグル日本代表 辻野晃一郎氏に聞く、「グーグルが消える日」 |ビジネス+IT

 

ここで私たちには良い知らせがあります。

グーグル日本法人の元代表が今後の世界でビジネスをしていく上で必要だと語っているものを、私たちは持っているということです。

つまり、私たちはクリスチャンであるということで、何が本質的に大切であるか、おそらく知っているのです。

そして本質的に何が大切であるかを知っているということは、このますます複雑化していく社会の中でものすごく大切なことであり、また、圧倒的な強みや利点でもあるのですね。

このことをクリスチャンはもう少し悟るほうが良いと思います。

 

他方で、幾分残念なお知らせもあります。

それは、「あなたは何のために生まれてきましたか?」「あなたが生まれてきた使命はなんですか?」という問いに対して、残念ながら私たちクリスチャンも、うまく答えられていないという事実です。

もちろん私たちは、ウェストミンスター小教理問答の有名な第一の問答を知っているでしょう。

それはこういうものです。

 

問 人間の主な目的は何ですか?

答 人間の主な目的は、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶことです。

 

このウェストミンスター小教理問答は、イギリスのピューリタンたちによって作られた信仰問答であり、信仰の宣言でもあります。

この教理問答によると、「人間の目的」は「神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶ」ことである。

私たちは、このような正解は知っています。

あるいは、マタイによる福音書28:19−20を持ち出すこともできるでしょう。

 

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたといます。」(新改訳2017)

 

この大宣教命令を用いながら、「クリスチャンの目的は、隣人に福音を伝えることである」と語ることもできるでしょう。

このような正解を私たちは知っています。

ところが、「あなたは何のために生まれてきましたか?」という問いには、確信を持って答えられない。

もし試験のテストで、「あなたは何のために生まれてきましたか?」という問題があった場合に、私たちが「人間の目的は、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶことである」などと書いたら、その答案は「バツ」です。

聞いているのは「あなたの」目的であって、「人間一般の」目的ではないからです。

「クリスチャンの目的は、福音を伝えることである」と書いても、「バッテン」です。

同じことで、「あなたの」目的が聞きたいのであり、「クリスチャン一般」の目的ではないからです。

 

「あなたの」目的、つまり「私の」目的、それは一体何か?

これはもちろん、一人一人でしか答えられない問いであります。

しかし、その答えを探し求めていくための基本的な道筋はあるのではないか?

そして、数学の問題を解く場合と同じように、重要なのは、答えそのものではなくて、その答えに到達するための道筋なのではないか?

そして答えそのものではなく、その答えを導くための基本的な道筋は、少なくとも語ることができるのではないか?

そう思うのですね。

そこで今日は、私たちが、神様が与えた「私の」目的を悟るために必要な道筋を話していこうと思います。

話の順序としてはこうなります。

まず、聖書自身が人間の目的について、そしてクリスチャンの目的についてどのように語っているのか、それを確認します。

次に、その聖書の語るクリスチャンの目的が、実際の私たちにどのように適用されるのか、語ってみようと思います。

今日はこの順序で話します。

 

 

1.聖書は人間の目的をどのように語っているか?

 

では、まずは聖書が人間の目的をどのように語っているのかを確認しましょう。

今日の本文を見てみましょう。

この箇所に関しては、古くから、「神のかたち」あるいは「似姿」についての議論が多くありました。

ヘブライ語だと、ツェレムとデムットという単語です。

ラテン語ではimago deiと呼ばれ、これが何を指しているのか多くの議論がありました。

また、このimago deiという点に人間の卓越性があるとする議論もありました。

しかし、今日はその点には触れません。

というのも、その従来の議論には、ちょっと無理やりこじつけているような傾向があるからです。

「目的」という観点から読み直してみるとどうなるでしょうか?

私たちは前回、シュメール神話と聖書を比較していましたが、そのシュメール神話を思い出してみましょう。

シュメール神話においても人間は創造されます。

はじめに神々がいて、その神々の間には上下関係がありました。

下の神々は土木工事などに従事し、その労働がきついので、不満をいだきます。

その神々から辛い労働を開放するために、エンキという知恵の神が、人間を創造します。

その人間は、地位の低い神々が行っていた労働を代わりにする存在でありました。

これが人間の創造に関するシュメール神話の内容です。

このシュメール神話と聖書を比較すると、共通点と相違点が分かるでしょう。

まず共通点は何かというと、神々の「代わりに」という点です。

シュメール神話では、土木工事などの仕事を、人間が神々の「代わりに」行います。

聖書では、明確に「代わりに」という表現は出てこないのですが、先程語ったツェレムという単語が、「代わりの存在」という意味を持っています。

本物の神の「代わりの存在」という意味で用いられると、これは「偶像」という意味になります。

また、本物の王様の「代わりの存在」という意味ですと、これは「彫像」などの像ですね。

この「代わりに」という点が共通しています。

逆に、違う点はわかりやすいでしょう。

シュメール神話では、人間は身分の低い神々の「身代わり」となって、彼らが行っていた土木工事などに従事することになります。

しかし聖書ではどうかというと、人間は神の「身代わり」となって、世界を「支配」するのです。

目的という言葉を使って言い換えてみましょう。

シュメール神話では、人間の目的は、土木工事することです。

聖書では、人間の目的は世界を支配することです。

 

「お前、将来の夢、何や?」

「俺はな、ここいらの連中とは違うんや。この世界を支配することや! それが俺の夢や!」

 

そういうことを言う人がいたらちょっとやばいですが、聖書は、そういうことを語るんですね。

私たちが、神様の身代わりとなって、世界を支配すること。

これが、神様が人間を創造した目的です。

 

ここで「支配する」とはどういう意味なのでしょうか?

しばしば、自然の環境破壊に関連して、それの原因が、人間の自然支配を認めたユダヤキリスト教一神教にあるという言い方がされることがあるので、余計にこの「支配する」の意味をよく理解する必要があります。

支配する、特に神様が人間に求めた理想的な「支配する」というあり方は、どこに認めることができるでしょうか?

おそらく、人間が罪を犯す前を見るのが良いでしょう。

そして、罪を犯す前に人間が「支配する」を実践していた様子を見て取れるのが、創世記の2章です。

その箇所を読みましょう。

2章15節です。

 

神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。(新改訳2017)

 

神様は人間をエデンの園に連れてきて、「耕させ、守らせ」ました。

ここは「耕せ、守らせる」ために連れて来た、とも訳せます。

ここの「耕させ」という単語は、アーバドという言葉で、最も普通の意味は「働く」です。

あるいは、「仕える・奉仕する」です。

人に対して使う場合には「仕える、奉仕する」であり、主に対して使う場合には、「礼拝する」の意味にもなります。

英語のserviceと同じですね。

この単語は動詞ですが、名詞になると、奴隷という意味になります。

なので、この個所のシンプルな訳は、「アダムを働かせた」です。

実際、そのように翻訳しているものもあります。

また次の「守らせた」という言葉も、もっと豊かな意味を持っています。

これはシャーマルという言葉で、「守る、見守る、保護する、管理する、世話をする」などの意味を持ちます。

だから、ここでイメージされているのは、アダムがエデンの園で良き管理者として、園にある植物や動物などをよく世話をし、管理していた、ということだと思うのです。

 

そこで、神様が世界を支配するものとして人間を創造したとき意図していた姿は、この二つの動詞にまとめられると思います。

つまり、アーバド「仕えること、働くこと」、そしてシャーマル「世話をすること、管理すること、見守ること」この二つです。

アーバドが単に「働く」だと、次の単語と意味がかぶるので、私としては、「神に仕える」の方面で理解するのはどうかと思います。

そのように理解すると、次のように言えます。

 

神様が人間を創造したときに人間に期待していたことは、第一に、神に仕えること、そして、神様が望まれるようにこの世界を見守り、世話をし、管理することであった。

だから、「世界を支配する」という言葉の意味は、「神様に仕えながら、神様の思いを抱きながらこの世界を世話をし、見守り、管理すること」なのだ。

 

このように言えます。

私たちはまずこのことを覚えておきましょう。

 

ところが、神様のこの期待は、すぐに終わりを迎えます。

アダムとイヴは蛇の誘惑に引っかかり、神様が「食べてはいけない」と語っていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。

こうして、「神に仕える」という最初の点でアダムは過ちを犯しました。

その後のアダム以降の人類は、このアダムと同じ過ちを犯すようになります。

世界も堕落してしまいました。

そうした中で神様は、人間を創造したときの最初の計画、つまり、神様の代わりに、神様と同じ心をもってこの世界を管理するという、その目的にふさわしい人物を探し求めます。

そしてその人物を通じて世界を回復しようとします。

例えば、ノアがいるでしょう。

創世記6:6をみると、ノアは「主の心にかなっていた」(新改訳2017)と言われています。

世界の人々がみな神様を無視しているときに、ノアは、主を愛し、主に仕えていたのでした。

ノアによって罪が多くなった世界は滅ぼされ、ノアの親族と動物たちだけが生き残りました。

そのいわば「純粋な」存在によって、神様は、世界を当初のエデンの園のように、罪も汚れもない世界をもう一度作り出そうとします。

しかしノアも完ぺきではありませんでした。

ノアという人格の内側に罪があり、ノアも過ち犯します。

罪はとても根深いものなのです。

その後、神様はアブラハムを見出します。

このアブラハムを通じて、世界を回復しようと考えます。

創世記12:1-3を読みます。

 

主はアブラムに言われた。

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へいきなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 

この祝福の言葉の中に、創世記1:28の内容を聞き取るのは難しいことではないでしょう。

「大いなる国民とする」というのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」を踏まえています。

「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」は、「支配する」ことに対応しています。

アブラハムという人物が、主導権を持っているからです。

 

アブラハムに向けられた祝福の言葉は、その後、イサク、ヤコブへと繰り返されていきます。

神様は、アブラハムの子孫、つまり、イスラエルを通じて世界を回復しようとしたのでした。

モーセによってエジプトから脱出し、その後、ヨシュアの時代にカナンの地へと侵攻していきます。

聖書で明確に描かれているわけではないですが、神様が意図していたのは、カナンの土地でイスラエルエデンの園の状態を回復することだったと思います。

エデンの園の状態とは何かというと、

1.人間が、まずは神様に仕える、礼拝する。

2.そして、神様に仕えながら、神様が創造した世界の世話をし、管理する、つまりケアをする。

このような状態です。

それは、神と人と世界との関係が調和し、平和な状態であると言えます。

そもそも、この世界は神様が創造されたので、神様の意図と神様の法則通りに行っていけば、必ず豊かになります。

人口も増え、それを補うほどの生産物も増える。

そして人々は幸せになる。

こうした世界を作ることを神様はイスラエルに期待したのだと思います。

ところが、それは失敗する。

一番大切な点、つまり、主を愛し、主に仕えるという点で、失敗するのです。

イスラエルは、カナンの地域にあった偶像を礼拝し始めたのです。

こうして、士師記に現れる暗い世界となります。

 

その後イスラエルは王様を求めるようになり、サウル、ダビデ、ソロモンという王が立てられます。

ソロモンの時代に、おそらくイスラエルの歴史の中では最も繁栄したときで、エデンの園のような状態が実現されます。

列王記第一4:20、24-25を読みます。

 

ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。(20)

これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。(24)

ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分のブドウの木の下や、いちじくの木の下で安心して暮らした。(25)

 

「海辺の砂」という言葉ありますね。

アブラハムに約束した言葉が実現されていることを示しているのです。

続いての24-25節を読んでも、本当に「平和」な雰囲気で満ちていますね。

このようにエデンの園のような状態が実現します。

しかし、これは一時的なものでした。

ソロモンは主を愛し、主に仕えることをせず、イスラエルの国は分裂します。

最終的には、アッシリアとバビロンによってイスラエルは滅ばされます。

 

しかし、神様は、エデンの園のような神と人と世界との関係を作ることをあきらめませんでした。

神様は預言者たちを通じて、繰り返しメシアが来られること、そのメシアが、最初の神と人と世界との関係を回復することを語り、イスラエルの民を慰めました。

本当に数が多すぎるのでここでは読みませんが、例えば、イザヤ書11章を後で読んでみてください。

 

ここからは、私たちがよく知っていることだと思います。

旧約で預言されていたメシアとしてイエス様が来られました。

エス様は、十字架における死と復活によって、イエス様を信じる人々の罪をすべてあがなってくださいました。

こうして、イエス様を信じる者は、永遠の命を持つことになります。

 

ところで、今までの話を聞いてきた皆さんは、いくつか疑問を持つかもしれません。

例えば、「エデンの園のような神と人と世界との関係を回復させるというテーマはどうなったのだろうか?」という疑問も出るでしょう。

また、「こうした旧約聖書からの救いの歴史の中で、クリスチャンとはどのような存在なのだろうか?」という疑問も当然生まれるでしょう。

 

両方とも相互に関連しています。

端的に答えるならば、神と人と世界との関係を回復させるというテーマは、新約聖書に至っても消えてはいません。

そして、クリスチャンという存在は、イエス様によって救われた存在だというだけではなく、神と人と世界との関係を回復させるという課題を担っている存在でもあるのです。

したがって、クリスチャンの使命というのは、福音を伝えることだけなのではありません。

いえ、「福音を伝える」という概念を拡大して考えるべきなのかもしれませんが、「神と人と世界との関係を回復させる」ということも、クリスチャンの使命なのです。

 

以上の話をまとめます。

神様が人間を創造した時、神様は、人間がご自身の代わりにこの世界を支配することを期待していました。

アダムとイヴは、最初は主に仕え、そして主の思いを持ってエデンの園をケアをしていましたが、主に対する罪を犯します。

その後、人類は等しく堕落します。

けれど神様は、最初のエデンの園におけるような神と人と世界との関係を回復するために、ノア、アブラハムイスラエルを選びましたが、そのどれも完全ではありませんでした。

そしてついに神様はイエス様を世界に派遣します。

エス様によって救われ、贖われた人々、つまりクリスチャンは、イエス様とともに、エデンの園のような神と人と世界との関係を回復させるプロジェクトに参加することになりました。

これが今までの話の要約です。

 

このような聖書の流れ、いえ、世界史における流れを理解していなくてはなりません。

私たちクリスチャンは、このような世界史のなかにおいて、神様によって尊い使命を与えられているのです。

冒頭でウェストミンスター小教理問答の第一問とその答えを紹介しました。

「人間の主な目的は何か?」

それは、「神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶこと」であります。

これも、今まで話した聖書的、つまり世界史的なクリスチャンの位置づけを踏まえると、より理解しやすいでしょう。

エデンの園において、人間は神に仕え、そして神様の御心通りに園を管理していました。

「神に仕える」ということの中身は、奴隷が主人に仕えるというようなものではなく、むしろ、聖書が至るところで用いている比喩を用いれば、夫婦が互いに相手のことを思って仕え合うようなものであったでしょう。

ところが、聖書の歴史では、人間はそこから脱落してしまった。

そしてイエス様によって、再びそのような神様との関係を結ぶ特権が与えられた。

それがクリスチャンである。

夫婦が配偶者を喜ぶように、クリスチャンも神様を、ただその存在のゆえに喜ぶのです。

何かができるから、何かを与えてくれるから、何かをしてくれるから喜ぶのではなく、ただ、その存在のみを、存在するがゆえに喜ぶのです。

クリスチャンは、そうすることのできる特権を与えられたのです。

このことは、ウェストミンスター小教理問答が定義するところの人間の目的が、一旦は失われていたのですが、実はイエス様を通じて回復されたのだ、ということを意味しています。

 

 

2.聖書の語るクリスチャンの目的を現代生活で考えるとどうなるか?

 

さて、私たちが自分の使命や目的を考える時、これまで述べた流れを踏まえておく必要があります。

これが最低限必要なことです。

実際に、個々人が自らの使命を見出すためには、もちろん、それぞれの個性や特徴・能力、また個人的な歴史などが重要になってきます。

しかし、どのような人にも共通な条件は、今まで述べてきたような内容です。

 

では、これからの時間で、今まで述べてきたことを、より具体的に、つまり現代の生活の中で考えてみたいと思います。

そこで、便宜的に、使命や目的を、短期的なものと長期的なものとに区別したいと思います。

これはあくまで便宜的なものです。

 

2-1

まずは短期です。

短期的な使命や目的というのは、簡単です。

それは、私たちが今置かれているところ、私たちが今属しているところ、その場所で、主を愛し、仕え、そして主の思いを持ってその共同体、その人々、あるいはその環境をケアし、エデンの園におけるような、神と人と世界との調和的な関係を築いて行こうと務めることです。

「今置かれているところ、今属しているところ」という点が大切です。

ここには例外がありません。

この点について、しばしば犯してしまう過ちを2点指摘します。

 

2-1-1

まず一つは、私たちが今置かれている共同体、社会、組織に対して、「自分の責任の範囲ではない」と思って諦めてしまうことです。

例えば会社でいうと、社長、部長、課長、係長、普通の社員、契約社員、バイト、などがいると思います。

管理職の地位にある人々がその組織に責任がある、それは当たり前のことです。

でも、クリスチャンであるならば、その人がたとえ契約社員やバイトの身分であったとしても、その組織に責任があるのです。

その責任とは、そこで働いている人々を、神様の思いを持ってケアをする責任であり、また、その組織全体が、神と人と世界との調和的な関係を構築できるようにする責任であります。

苦しみや悩みを抱えている人がいれば、助けましょう。

人間関係の中に風通しの悪さがあれば、風通しが良くなるためにどうすればいいのか、考えて、実践していきましょう。

組織の中に不正が存在していたらどうでしょうか?

不正を告発する、それも一つの可能な方法ですが、そうするまでにできることもあります。

例えば、不正をしなくても良い働き方やシステムを提案することもできるでしょう。

色々できることがあるのです。

「私は、もしかすると、その組織の中ではただの社員でしかないかもしれない」

しかし、神様から見れば、私はその組織に派遣されている管理者なのです。

創世記のヨセフ物語の最後の方で、ファラオがヤコブのもとに来たときの姿が、私には印象的です。

この世の地位に基づくなら、ファラオのほうが圧倒的に「偉い」です。

間違いありません。

しかし、創世記の叙述を見ると、ヤコブがファラオを祝福しているのです。

ただの片田舎の遊牧民の一人でしかない人間が、そのときの超大国エジプトの王を祝福しているのです。

これはどういうことか?

霊的に言えば、つまり神様の視点で見るならば、ヤコブのほうが「偉い」ということなのです。

これが私たちにも当てはまります。

私たちがそれぞれの組織の中でどのような立場にあろうとも、私たちがクリスチャンであり、イエス様を愛し、主の僕であるというただそれだけの理由で、私たちはその組織の中で「管理者」であり、祝福を「伝える」側なのであり、祝福が川の流れのように伝わるのであれば、私たちは「下流」ではなく「上流」にいるのです。

だからこそすべきことがあるのです。

ところが私たちは、この世の秩序を目にしながら、「ここは責任がある、ここは責任がない」と早々と決めてしまいがちです。

そして、神様が、今時分が置かれた場所で私たちに期待していることを無視してしまいます。

そうであってはいけません。

私たちは常に神様によって選び出され、この世へと派遣されている存在なのです。

私たちは、その場所で主を愛し、主に仕え、そして主が望まれる秩序を実現すべく務めなければならないのです。

そのことを忘れてはいけません。

 

2-1-2

もう一つの犯しがちな過ちに話を移します。

それは、「クリスチャンの責任は福音を伝えることだけである」と考える過ちです。

クリスチャンは、まるで釣りバカ日誌のハマちゃんみたいな存在だ、と思ってしまうこと。

仕事はまぁできなくてもいいし、本質的ではない。

福音を伝えて、信じる人が一人でも生まれれば、それでいい。

そのように考えてしまうことです。

これは誤りです。

今までの聖書的な、つまり世界史的なクリスチャンの位置づけを知っているならば、そのような思考にはなるはずがありません。

考えてみてください。

神様が世界を創造し、人間を創造し、ご自身の代わりに、世界を管理させました。

アダムとイブは、主を愛し仕え、そしてエデンの園をよく管理していました。

しかし彼らは神様を裏切ってしまいます。

その後神様は、当初アダムとイヴが担ったような人々を選び出していきます。

アブラハム、イサク、ヤコブイスラエル

そして最後にイエス様を派遣し、イエス様を通じてクリスチャンを選び出します。

そのクリスチャンは、では一体、何をすることが期待されているのでしょうか?

主を愛し、仕えること、そして、与えられている環境、共同体、組織、人々を、主の思いを心にいだきながらケアすること、これなのです。

「福音を伝えること」は、もちろん、クリスチャンの責任です。

しかし、「福音を伝える」という働きも、今述べたような背景や土台・文脈に基づいているものであって、それだけが分離しているものではないのです。

分離できるものでもありません。

福音を伝えるという行為が、今述べたような背景から分離してしまうと、ひどいことになってしまうのです。

それは例えば、隣人を愛することのないままに「福音”だけ”を伝える」ということだったりします。

その先にあるのは、「何人に福音を伝えた!」という成果主義であったり、またそこから生まれて、「だから俺はすごい!」という高慢な思いや、「だから俺はだめな、役立たずな人間だ!」という劣等感であったりします。

あるいは、「何人に福音を伝えた!」ということで自分の栄光を求める心だったりします。

まったく間違っているのです。

「福音を伝える」という行為は、「主を愛し、主に仕える」という根本から生まれるものなのです。

そうした基本的な心の姿勢無しで「福音を伝える」ということだけを大切にしてしまうのは、間違っています。

そもそもなのですが、神様が私たちを救い出したのは、私たちを愛しているからであり、私たちが神様を愛するようになってほしいからです。

「愛し、愛される」という夫婦のような関係を、私たちと取り結ぶためです。

「福音”だけ”伝えればいいでしょ、これでいいでしょ! え?なんか文句あんの?」

そんな投げやりな生き方のためではありません。

ここからも、「福音だけ伝えればクリスチャンの責任は果たされる」と考えることの過ちが理解できると思います。

 

今はこの2つの典型的な過ちだけを指摘するにとどめます。

短期的には、私たちは、自分の置かれた組織、共同体、社会を自らの使命として考えなければなりません。

そこにおいて、私たちは神様から委ねられた管理者として生きる責任があるのです。

 

2-2

では最後に、長期的な話に移ります。

長期における私の使命、私の目的、それはどういうものでしょうか?

これは、短期の場合とは違って、予め語ることはできないものです。

それこそ、私たちが神様を前にして、それぞれ答えを出していかなければならないことです。

10年後、20年後、30年後、私は何をしているのか?

あるいは、そのように長い時間をかけながら、実現したいことは何か?

それが長期における私の使命です。

もう少し厳密に言うならば、「10年、20年、30年かけながら、神と人と世界との本来あった関係を実現する上で、私が果たしていく役割とは何か?」

それが私の長期における使命というものです。

ある人は伝道者かもしれない。

ある人は今している仕事かもしれない。

ある人は、今しているものとは違う仕事かもしれない。

それはわかりません。

しかし、クリスチャンは皆同じ課題を共有しているのです。

その課題を果たすために、10年、20年、30年かけて、何をすることを神様は私に求めているのか?

ぜひその答えを見出していきましょう。

既に見出している方は、そのまま継続していきましょう。

まだの方は、祈っていきましょう。

もし私たちが、聖書に基づいた圧倒的なスケール感で自分の使命を見出し、その使命を生きていくならば、それ自体によって、この混沌とした世界の中にあって、私たちが「光」となることができます。

クリスチャンの素晴らしい特権です。

ぜひ私たちは、短期的には主の使命を生きて、また長期的にも、使命を見出し、生きていきましょう。

 

 

 

創造と祝福

「創造と祝福」 創世記1:2−31

2019年5月26日のメッセージ


創世記のはじめの部分でメッセージをするために、日本の古事記日本書紀の最初のところを読みました。
恥ずかしながら、古事記日本書紀を読むのは初めてでした。
といっても、原文で読んだのではなく、現代語への翻訳で読みました。
また、メソピタミア地域で、聖書が書かれた当時に存在していた神話、これをシュメール神話と言いますが、その神話についても調べました。
そのように、日本の神話とメソピタミアのシュメール神話と聖書を比較しながら、改めて聖書の独自性が見えてきました。
今日と次回の二回のメッセージで、聖書のその独自な点を分かち合っていきたいと思います。
その独自性は3つあります。
それは、創造、祝福、目的、です。
今日はこの内の最初の2つ、「創造と祝福」について話し、次回に「目的」について話をしようと思います。

 

1.創造

では、はじめに「創造」についてです。
「創造」が聖書で特有だとはいっても、古事記やシュメール神話に創造の話がないというわけではありません。
ただ、「創造」に対するアクセントの強さが、他の神話とは異なっているということです。
まず、創世記が世界の創造についてどのように語っているのか、簡単に振り返ってみましょう。
時系列順に語りますと、
一日目は、光が作られます。
そして光と闇が区別され、光は昼、闇は夜と名付けられます。
二日目は大空が作られます。
三日目は、乾いた土地が作られ、陸と海が区別されます。
そして大地には植物が生えるようになります。
四日目は太陽と月とが作られます。
五日目は海の中の生物と空を飛ぶ鳥が作られます。
六日目には、陸地で生活する生物が作られ、そして人間が創造されます。
このような創造の順番を見ても、神様の人間に対する配慮が見えるように思います。
例えば、陸地がまだできていない段階で人間を創造されても、たぶん困りますね。
色々作って、食べ物もある状態にしながら、そして最後に人間を作っているのです。
ここには神様の人間に対する愛情を見ることができるでしょう。
人間でも、子供が生まれるときには、色々準備をするものですね。
同じように神様は、人間が新しく創造されるために、準備をしていたのです。

ところで、今回準備しながら分かったことの一つに、新改訳2017の用語法があります。
新改訳2017は、「創造」と「造る」を区別しています。
例えば、1章1節の「創造された」は、バーラーという動詞を使っていて、1:7の「大空を造り」は、アーサーという動詞を使っています。
これは一章全体で一貫しています。
このバーラーとアーサーとがどの程度違うのか、まだ実はよくわかりませんが、そういう違いがあることはおさておきましょう。

聖書は「創造」をこのように語ります。
これに対して他の神話はどのように語っているでしょうか?
例えば、古事記を見てみると、最初にアメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が出てきます。
その後で、またどこからともなくイザナギノミコトとイザナミノミコトが登場して、その二人が海を矛でかき混ぜたところ、島ができます。
その後、二人が結婚して、次々に島々を生んでいきます。
また、沢山の神々を生んでいきます。
この古事記の内容を最初に読んだときに、すぐ思ったのは、「あ、日本の神話でも、世界の誕生について語っているんだ」ということでした。
クリスチャンは、よく「創造論か、進化論か」みたいな議論をしますが、「日本の神話を信じている人たちも、本当はそういう議論をしないといけないのではないか?」ということを考えました。
実際、古事記日本書紀の記録に基づきながら、天皇アマテラスオオミカミの子孫であると信じている人々がいるのですね。
「どうして彼らはそういう議論をしないのだろう?」と思いました。
と同時に、「クリスチャンは、本気で聖書を信じているんだ」とそんなことも考えました。
まぁ、これは余談ですが。

古事記を読んでいくと、このように島がどんどん生まれていったり、神々が生まれていったりします。
秩序や計画のようなものは感じられません。
また、「どこで人間が生まれるのだろう?」と思って読んでいたのですが、全然そんな記述はなく、気がつくと神武天皇が九州から関西に進軍するシーンになります。
「人間がどのように生まれたのか? 作られたのか?」そういうことを全く書いていないのですね。
これは驚きでした。

これと比較すると、聖書は、世界の創造から始まって人間の創造に至るまで、実に整然と、論理的に進んでいると言えます。
何よりも、他の神話が、ひたすら神々のことを語っているのに対して、聖書は、人間が創造されたあとは、ひたすら「神と人間との関係」を問い続けるのですね。
ここにも大きな違いがあります。
聖書は、人間が「創造された」ことを語ります。
古事記のように、イザナギイザナミの交わりによって島々や神々が生まれるようにではなく、神様の明確な意図を持って、人間は「創造」されました」。9
特に、人間の「創造」を語るときに、聖書は、三度「バーラー」という単語を使います。
これはそれほど強調しているのだ、と言えるでしょう。
このように、聖書は神様の意図によって、世界と人間が「創造された」ことを主張します。

 

2.祝福

次の聖書の特徴は、「祝福」です。
これは一章では二度語られています。
22節と28節です。
この祝福というのは、ヨーロッパ系の言語でいうと、「よく言う」という意味から生まれています。
よく言う、評価するように語る、「素晴らしい!」ように語る、それが「祝福」の言葉の成り立ちです。
それに対して「呪う」は何かというと、「悪く言う」に基づいています。
ひどく語る、悪く語る、低い価値であるように語る、最近の言葉でいうと、ディスるでしょうか。それが「呪う」の言葉の成り立ちです。
聖書では、神様が生物を造り、また人間を創造したときに、その生物と人間とを「祝福」するのです。
つまり、「素晴らしい!」と語るのです。
もう少し深読みすれば、「生き物も人間も、豊かになって、幸せになることを望む」ということを表現しているのでしょう。

「人間を祝福する」−−これが聖書の特徴です。
では、シュメール神話ではどうなっているでしょうか?
そもそもなぜシュメール神話なのかというと、聖書の舞台が、広くはメソピタミア文明、またシュメール文化の範囲内にあるからです。
聖書の立場からすると、そのシュメール文化にある神話は、「偶像礼拝」です。
それに対して聖書は、「真の神」を記録しているのであり、また「真の神」ご自身が語っている内容でもあります。
シュメール文化の中にあった神話と聖書を比較することは、聖書が、その当時存在していた神を語る他の物語に対して、その何を否定しようとしていたのか、また、それに対して何を強調しようとしていたのか、それを知る上で有益だと思います。
では、そのシュメール神話は、人間の創造をどのように語っているのでしょうか?

シュメール神話では、まず、神々がみな労働しています。
どうやら、神々の間で序列があって、地位の低い神々が労働しなければならなかったようです。
そうするうちに、その神々から過剰労働に関して不満が出るようになります。
そしてエンキという知恵の神であり創造神でもある神が、神々が辛い労働から解放されるために、身代わりを造ることにします。
そうして作られたのが人間です。
この人間が他の神々の代わりに労働するようになり、神々は喜びます。
これが、イスラエルと近い文化にあったシュメール文化の神話です。

聖書とはずいぶん違っているのが解ると思います。
聖書では、神様は人間を創造するにあたって、予めいろいろ準備をして、そしてすべてが整ってから人間を創造します。
そしてその人間を祝福し、「非常に良かった」とみなすのです。
それに対してシュメール神話では、神々が労働していて、その労働を交代してやらせるために、人間が作られています。
まるで、奴隷を雇うような印象でもあります。
このように比較してみると、聖書は、本当に神様が人間を大切にしていることを語っているのだということが分かるでしょう。
日本の神話では、そもそも人間がどのように生まれたのかは語られていません。
シュメール神話では、労働を肩代わりするために人間は作られました。
聖書ではそうではないのです。
聖書では、神様は人間を祝福するのです。
人間が繁栄し、豊かになり、幸せになることを望んでいるのです。
このように言いますね。
1:28です。
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」(新改訳2017)
このように違うのです。

ここで述べられる祝福は、聖書ではその後、アブラハム、イサク、ヤコブへとつながっていき、最終的にはイエス様によって実現されます。
それに関しては、次回、創造の「目的」についてメッセージするときに詳しく扱いたいと思います。
今日はそのような順序は踏まずに、いきなり話を私たちに向けたいと思います。
つまり、「神様が人間を祝福している」ということが、今の私達にどのような意味を持っているのか、そのことについてこれから考えてみたいと思います。


さて、最近のニュースやそれに対する人々の反応を見ると、私はこんなふうに感じます。

日本人の多くは、「自分は呪われている」と思っているのではないか?

細かな出来事は省略するのですが、人々の意見が、攻撃的なほどに不寛容になっていると感じるのです。
そこには、おそらくこういう心理的背景があると思うのですね。
「自分は恵まれていない」「呪われている」「運が悪い世代だ」と思っている。
努力していても、仕事はきつく、賃金は低い。
貯金はできず、賃金が上昇する見込みもない。
しかし、社会保障費はどんどん増大する。
その一方で、ニュースを見ると、なんにもしていないのに「利益」を得ている人々がいる。
お酒を飲んでいる、パチンコをしている、コンビニ弁当を食べているーー「なんて贅沢な!」
「自分たちは頑張っても報われないのに、あいつらは、ズルをしながら、なんにもしなくても報われて、楽な生活をしている。ずるい!」
そしてSNSなどを通じてバッシングをする。
その人々の根底にあるのは、「自分は呪われている、恵まれていない、不幸だ」そいういう思いです。

こうした現象について社会学的に、あるいは経済学的に分析することは可能だと思います。
しかし根本的には、私は信仰の問題だと思います。
どういうことでしょうか?

あるネットの記事で、アメリカに住んでいる日本人女性が書いたものを読みました。
その女性は、自分が妊娠していたときに、周りのアメリカ人が、you look beautifulと声をかけてきたと言っています。
もちろん、見ず知らずの人々ばかりです。
その経験を振り返りながら彼女は、アメリカでは、妊婦が社会的に尊重され、妊娠が祝福されていると感じた、と話しています。
これに対して日本では、職場で妊娠を語ると、おめでとうという言葉と同時に、「困ったなぁ」という表情に直面する。
道でも電車でもどこでも、妊婦や子連れは、ちょっと「困ったもの」扱いされて、肩身の狭い思いをする。
日本は「標準的な人」を中心に社会が設計され、そこから逸脱した人は生活しづらいようになっている。
そのようなことを話していました。

この女性はこれ以上のことは語ってはいませんが、私は、日本とアメリカのその違いを生んでいるのは、やはりキリスト教なのではないか、と思います。
どこの社会においても、「最大多数」を基準にして社会が設計されるのは、妥当なことでしょう。
しかし問題はそこからです。
社会には当然マイノリティがいます。
また、子供のように、大切な存在であることは分かるけれど、ちょっと迷惑だな、と思う存在もいます。
そのような人々に対してどのように接するか? あるいは、どのように接するのが正しいとされているのか?ーーそれに関して、聖書の教えがあるかないかは、大きな違いを生むと思うのです。
皆さんご存知のように、イエス様は、弟子たちが邪魔者扱いした子どもたちを、むしろ自分のもとに呼びました。
そして祝福します。
マルコによる福音書10:13−16

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子供たちを連れてきた。ところが弟子たちは叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、私のところにこさせなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことにあなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:13−16)

弟子たちは、ある意味私達と同じなのです。
「子供邪魔だなぁ」あるいは、「イエス様のような偉い人がいるんだから、子供は後回し!」と考える人たちです。
それに対してイエス様は、子どもたちを招き入れ、祝福するのです。
この姿勢です。
社会においてマイノリティだったり、脇に追いやられていたり、小さく扱われている人々を、自ら受け入れ、祝福する、この姿勢です。
どんなに現代のアメリカが、キリスト教の教えが希薄になってきたとはいえ、歴史的に培われてきたキリスト教的な考えは、消えずに残っていると思います。
つまり、無意識的な考え方の中で、聖書的教えが残っていると思います。
だから、妊婦、つまり新しい命も、その命を保護している人物も、「尊いものだ、祝福されているのだ!」と考えるのでしょう。
そして、現状の社会が、妊婦を尊重していない状態であるなら、それを変えないといけないと判断するのでしょう。
どのような命も、神様によって創造された、尊く、祝福された存在なのだという信念が、過去から現在に至るまで継続することで、社会を少しずつであったとしても変えていったのでしょう。
そして、妊婦が「祝福されている」と思うことができる状態にしていったのでしょう。

このような推論が正しいとするならば、私達は次のように考えることができるのです。
「妊婦が祝福されていると感じられる社会」が生まれるためには、人々が一定の信念を持ち、その信念に基づいて実践することが必要である。
その信念とは、全ての人は神様が創造された尊い存在であり、祝福されるべき存在だ、という信念である。
ところで、現状において「妊婦が祝福されていないと感じる社会」があるときに、もし今述べたような信念に基づいて人々が生きていくならばーー
つまり、その信念に基づいて社会を変えていく努力をし続けるならばーー
身近なところから言うならば、自分の家庭を、職場を、友人関係を、学校を、変えていこうとし続けるならばーー
また、短期的には失敗や挫折が多いとしても、なおも粘り強くその信念を持ち続けて歩み続けていくならばーー
そのとき実際に社会は、「妊婦が祝福されていると感じられる社会」になるだろうし、そればかりでなく、どのような人であったとしても「自分は尊重され、祝福されているのだ」と感じられる社会になるだろう。
妊婦だけではなく、子供だけではなく、どんな外国人も、どんな障害者も、どんな貧乏人も、さらには、どんな犯罪者でさえも、どんなひねくれものも、どんなわからずやも、「自分は尊重され、祝福されているのだ」と実感できる社会になるだろう。
このように考えることができるのです。

だから「信仰」なのです。
日本では、自分は恵まれていない、呪われている、運が悪い、と思っている人が多いのではないか、と言いました。
そのような人々にとって、信仰は何の意味があるのでしょうか?
もし現状が全く「祝福」とは程遠い状態であるにもかかわらず、「それも祝福なんだよ!」などとクリスチャンが言うならば、それはまったく間違ったことです。
「信仰」というのは、民衆のアヘンではありません。
「信仰」というのは、人々をうまい言葉でだまくらかすことではないし、また自分自身をだまくらかすための方法でもありません。

では信仰は何ができるのか?
信仰は力を与えるのです。
はじめは、人は「自分は恵まれていない」と思っているかもしれない。
しかし信仰は、そのような人に「もしかしたら、自分は神様によって愛されているのかも」と思うようにさせるのです。
また人は、「自分が尊重されていないのに、どうして他人を尊重し、愛することなんてできるのか?」と思っているかもしれません。
しかし信仰はその人に、「あなたは、イエス様が命を捨てたほどにまで尊い人なんだ。だからあなたも、他の人をちょっとだけ尊重し、愛してみたらどうだい?」と語りかけるのです。
さらに人は、「他人を愛することなんてできない、今までそれで成功したことなんかない! 裏切られて、傷つくばかりだった。もう傷つきたくない!」と思いこんでいるかもしれません。
しかし信仰はその人に、「いや、できるし、すべきだし、きっと成功するよ」と励ましを与えるのです。
信仰はこのようなことを可能にするのです。
つまり信仰は、人々の内側に、いえ、私たちの内側に、奇跡を起こすのです。
そして、信仰によって私たち一人ひとりが変わるとき、私たちの周囲が変わり始めます。そして私たちの周囲が変わり始めるとき、私たちの社会が変わっていくのです。


みなさんは、自分が神様によって創造された、尊い、祝福された存在だということを、信じているでしょうか?
エス様が十字架につけられ、身代わりとなって死なれたほどに、尊く、祝福された存在であることを、信じているでしょうか?
これはぜひ信じていなければなりません。
これが全ての出発点なのです。

よくクリスチャンの中には、何か物質的なものが与えられたり、この世で成功することを「祝福」だと考える人がいます。
そして、「神様からの祝福を受けるために御言葉に従順しないといけない」ということが言われたり、自分で考えたりします。
これはとてもおかしいことです。
それは、偶像崇拝する人々が、利益を得るためにお賽銭を投げたり、御札を買ったり、神社に寄付をしたりすることと同じです。
手段が変わっているだけで、やっていることは同じです。
もちろん、御言葉に従順するならば、いわゆる「成功」という言葉で考えられていることが実現するかもしれません。
しないかもしれません。
聖書を見ると、主の御言葉に従順する結果、むしろ苦しい生活をするようになった人々を沢山見ることができるでしょう。
御言葉への従順と、私たちが「祝福」と考えているものとは、何の関係もないのです。
エス様は、このように語っています。
ルカによる福音書10:20です。

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(新改訳2017)

弟子たちは、イエス様の名前によって悪霊を追い出すことができたことを喜んでいました。
しかしイエス様は、本当に喜ぶべきことはそれではない、というのです。
あなたがたの名が天に書き記されていること、つまり、救われた者として神様によって受け入れられていること、それを喜びなさい、と語るのです。
これが私たちにとっての本当の祝福です。
エス様によって救われていることそれ自体が究極的な祝福なのです。

「そんなこと、知っているよ!」と考えるかもしれません。
でも本当にそうでしょうか?
これは聖書のあらゆる真理について当てはまるのですが、「知っているということ」は「実感している」ということでもあります。
つまり、「頭」だけで知っていることは、聖書的には「知っている」ことにはならず、「心」によって知っていなければならないのです。
「心で知る」ということは、その知っていることを「実感している」ということです。
そして「心で知っている」ことであるならば、私たちは自然と実践することができます。
私たちは、神様による祝福という真理を、ただ頭で知るだけではなく、心で知る、しかも、心で実感すること、そこまで求める必要があるのです。
そして、私たちが心の内側で、誰にも気づかれないほど僅かな程度であったとしても、神様の祝福を悟り、実感するならば、そこに実は、神様の奇跡が生じているのです。
みなさん、信じてください。
そこに、神の国の芽生えがあるのです。
エス様が、からし種の例えで語ってように、神の国は、最初は本当に小さいものです。
しかしそれは、確実に成長していきます。
マルコによる福音書4:30−32を読んでみましょう。

またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(新改訳2017)

先程、私たち一人ひとりが信仰を持つことによって、自分が変わり、周囲が変わり、社会が変わる、という話をしました。
私たちの目は、どうしても大きな変化にばかり向かってしまいます。
大きな事件、出来事、業績、作品、そういうものを見てしまいます。
でも、それらは、あくまで「結果」なのです。
それらを生み出すに至る、最初の出発点に目を向ける必要があります。
その出発点にあるのは、私たちの心の内側における小さな変化です。
その変化を大切にしてください。
特に、頭だけで、知識的に知っていることを、心でも知り、悟り、実感するようになること、それを大切にしてください。
頭で知っているか、心で実感しているか、それは傍から見ると何の違いもないことです。
あまりにも小さな違いです。
しかし、その僅かな神の国の存在が、大きく成長していくのです。
「私は、神様によって創造された、尊い、祝福された存在だ」という知識を、ほんのわずかであったとしても私たちが実感するときに、私たちは、他の人々を祝福する存在へと変わっていくのです。
パウロは、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」とローマ人への手紙12:14で言っています。
「そんなことは無理だ!」と言ってしまわないでください。
「他人を祝福できるようになる」というのも、あくまで「結果」であり、大きな変化なのです。
そこに至るまでの、私たちの心における小さな変化を大切にしてください。
「私はイエス様が愛し、大切にした存在なのだ」という思い。
「祝福するのがイエス様の御旨なんだな」という小さな悟り。
「あの人もイエス様が愛された人なんだな」という理解。
「私も多くの過ちがあったけれど、赦された存在だよな」という小さな気づき。
そのような小さな心の変化を大切にしてください。
それらは全て、神の国が宿っているからし種であり、奇跡そのものなのです。
それらを大切にしていきましょう。
そうするならば、からし種が大きく成長するように、神の国が大きく成長していきます。
私自身が変化し、私の周囲が変化し、そして社会が変化していくでしょう。
祝福を受けた私たちが、今度は、祝福を拡大していく中心になるでしょう。
そのような大きなヴィジョンを思い描きながら、私たちは、心の奥深くで生じる僅かな変化、神様が与えてくださった小さな変化、悟り、気づき、それらを大切にしていきましょう。

 

 

 

 

 

はじめに神が

「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)

2019年4月28日のメッセージ

 

再びメッセージすることが許されて感謝です。

これからは創世記を読み進めながら、神様の声を聞き取ってメッセージしていきたいと思います。

 

今日のメッセージは前半と後半に分かれています。

前半は、「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉を語るときに私たちが直面する問題について考えます。

後半は、この御言葉の中の、とりわけ「はじめに神が」という点にこだわりたいと思います。

この「はじめに神が」という言葉が、今の私たちにとって持っている意味を考えていきたいと思います。

 

 

1.「神が人間を作った」のか、それとも「人間が神を作った」のか?

 

さて、「はじめに神が天と地を創造された」この言葉を読んで、どのように思うでしょうか? 

私はこれを読むと、「いやはや、聖書とは、本当に聖書だなぁ」と感じます。

どういうことかというと、本当にストレートに、神様の存在を語るからです。

今の時代、この聖書の御言葉を語ることは、すごく挑戦的で、戦闘的なものでしょう。

例えば、「世界を、神様が作ったんだよ!」ということを誰かに言ったとしたら、「嘘、そんなの神話や空想だよ」と言われたり、あるいは、「ビッグバンで宇宙は誕生し、人間は猿から進化したんだよ」と言われたりするでしょう。

あるいは、「神なんていないよ。神も仏も、全部人間が勝手に作り上げた空想・幻想でしかないよ」と言う人もいるかもしれません。

もしかすると、「お前、どうしたの? 頭でも打った? 病院でMRIでもとらないといけないかもしれないねぇ」と言われるかもしれません。

ともかく、「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉は、この世界で生きている人々、その価値観と、ストレートにぶつかるのです。

これほど激しい言葉、あるいは、私たちにとってノンクリスチャンに言いづらい言葉はないでしょう。

「神様が世界と人間を創造したんだよ!」と言うと、たちどころに様々な批判・反論がやってくると思います。

 

この時間は、こうした一般的な反論に対してそれぞれ答えることはしませんし、できません。

ただ、その反論のうち一つだけ考えてみます。

それは、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を、あるいは神々を作ったのだ」という反論です。

なぜこの反論を取り上げるのかというと、最近、会社で仕事をしながらそういう意見を受けていたからなんです。

クリスチャンはもちろん、「神様が世界を作った、人間を作った、そして聖書を通じて人間に語りかけようとしている」そのように信じています。

ところが、普通の人々はそうは考えてないですね。

会社で雑談をしながら、聖書のことや信仰のことも話すのですが、そのなかで、「神様って、人間が作ったんじゃないの?」と聞かれました。

たぶん、ちょっとものを考えるような人は、今日、だいたい同じようなことを言うのではないかと思います。

「神が人間を作った」ではなく「人間が神を作った」。

そのほうがわかりやすいですね。

例えば、次のように考える人は多いでしょう。

 

「昔は、自然のメカニズムが解明されていなかったので、なんでも神や超自然的な存在のせいにしてたけれど、今日、科学が進歩して、昔神の働きだと思われていたものが、単に自然の科学的メカニズムによるものだとわかるようになった。

だから、昔の人が「神」だと考えていたものは、ただの人間の想像の産物なのだ。

しかしだからといって、それは無駄なものではない。

昔の人は、人間に教訓を教えたり、社会秩序を守ったりするために、神を考え、神話を作って共有していたのだ。

だから、「神」というのは、社会秩序を維持したりするために人間が作り出した想像上のものなのだ。」

 

このように考える人はそこそこ多いでしょう。

これに対して聖書はどう語るかというと、「神が人間を作った」と語る。

正反対なのです。

聖書の内容は、この世界で普通に生きている人たちと正面からぶつかるのです。

さて、どうしましょう?

私自身、会社でそういうふうに質問を受けて、あまりうまく答えられなかったのですね。

そのこともあって、「人間が神を作ったんじゃない?」という反論について、考えてみようと思ったのでした。

 

さて、そこで私は、まずカルヴァンはどのように考えているのか、と気になりました。

プロテスタントの神学の大本を作ったのがカルヴァンなので、いつもカルヴァンのことが気になるのですね。

で、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読み始めました。

そのなかで、特に二つの主張が印象に残りました。

一つは、神の存在は自然のままの状態でも人々に知られている、という主張です。

またもう一つは、聖書は真の神を人々に伝えるために神がモーセを通じて啓示したものだ、という主張です。

 

一つ目はパウロもローマ書で言っていることですが、カルヴァンはそれを踏まえて語ります。

そして彼は、神の存在が自然のままでも人々に知られているという証拠として、人々が神について色々想像することを指摘しています。

世界中に、それこそ多種多様な神が存在しますが、世界のあらゆる民族が自分たちなりの仕方で神を想像、つまり空想します。

日本にも、フィリピンにも、インドにも、世界の至る所に独特な神がいますね。

そのように、人間は沢山の神を作ります。

ここまでは、この世の人々とカルヴァンは共通しています。

でもその後が異なります。

この世の人々は、神と言われるものがことごとく人間の想像物であるということをもって、「だから神は存在しないのでは?」と考えます。

これに対してカルヴァンは、「だから神は存在するのだ」と考えます。

ただし、神について、自然に生活するだけでは、極めて曖昧に、そして混乱した形でしか把握できないのだ、と付け加えます。

ここが違うのですね。

神を、いろんな民族が勝手に想像している――ここまではカルヴァンもこの世の人々も共通です。

でもカルヴァンはそれを、神が存在する証拠とするのです。

では「なぜそんなに人々は多様に空想するのか?」というと、それは、「真の神が啓示されていないからだ」――そのようにカルヴァンは考えるのです。

 

このような理解から、二つ目の主張が導かれます。

つまり、人々は多種多様に神を想像するけれど、神様は、ご自分が正確に認識され、そして礼拝されることを望む。

そこで、神を知る真の道を人々に啓示した。

それが聖書である。

神様は、ご自分が正しく理解されるために、聖書を与えたのだ。

カルヴァンはそのように考えます。

 

 

カルヴァンの文章を読みながら、私は、「あぁ、状況は聖書が最初に書かれたモーセの時代も今も、変わらないんだな」と思いました。

考えてみると、モーセモーセ五書を書いたときも、周りは偶像崇拝だらけでしたね。

そもそも、イスラエルの人々は、エジプトという偶像崇拝の豊かな世界で長年生活していました。

モーセが山にこもっているときに、金の子牛を作って拝んだりしましたね。

その様子を見ると、偶像崇拝の影響を彼らもたくさん受けていたのだと推測されます。

カナンの土地に行くまでにも、イスラエルの人々は偶像崇拝の民族の中を通っていきます。

そのようななかでカルヴァンモーセ五書を書きました。

それは、イスラエルの人々に、真の神を啓示するためのものであり、またカナンの土地に入った後にしっかりと神の民として生活し、礼拝するためのものでした。

今の私達も同じような状況ですね。

生まれたときから偶像崇拝の社会の中で生活し、気づかないところでその影響を受けながら成長していきます。

町の行事や学校の行事にも、宗教的なものはたくさんあります。

そうした状況の中で、真の神を啓示する役割を、やはり聖書は持っているのではないか?

このように、モーセの時代と今の時代を、比較することが出来ます。

 

 

話を戻しますが、カルヴァンが語っていることから、私たちは次のことを理解できます。

それは、様々な民族が自分たちなりに神を造り上げるという同じ現象に関して、二つの理解が可能だ、ということです。

一つは、「だから、神は存在しない」という結論であり、もう一つは、「だから神は存在するのだ」という結論です。

同じ現象について、二つの正反対の結論、あるいは、二つの正反対の説明の仕方が可能なのです。

では、私たちはどうしていくのがいいのでしょうか?

おそらく、単純に「聖書はこのように語っている」と語るのがいいのではないかと思います。

色々考えて「論理的に言い負かしてやろう!」とするよりも、単純に「聖書はこのように語っています」ということを伝えることが大切なのでは、と思います。

そしてそのために何が必要なのかと言うと、私たち自身が、聖書を土台としながら物事を考えることです。

つまり、私たちが目で見て知っている世界によって聖書を解釈するのではなく、その逆に、聖書によって私たちの目で見える世界を解釈する、その積み重ねが必要だと思うのです。

そうしているうちに、人々のなかで聖霊様が働いてくださり、「神は存在する」という前提で世界を見ることにリアリティを感じるようになったときに、その人たちは自然に、「あ、神がこの世界を、そして人間を創ったんだな」と信じるようになるのだと思います。

大切なのは、相手を議論で打ち負かしたりすることではなく、私たち自身が、聖書に基づいてこの世界を解釈し、理解する、それをし続けることなのです。

 

それでは、今日の御言葉を踏まえながら私たちの世界を解釈しようとすると、どうなるでしょうか?

今は、創世記1:1に関連する二つの御言葉を取り上げます。

一つは、先ほども少し言及しましたが、ローマ書1:20です。

そこでパウロはこう語っています。

 

「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(新改訳2017)

 

神様の「性質、永遠の力、神性」は、世界の創造の初めから被造物を通してはっきり認められるのだ、それは、誰も弁解できないほど明白なのだ――そうパウロは語ります。

つまり、自然の世界には、神様のしるしが至る所にある、ということです。

例えばどういうものかと言うと、数学などは典型的だと思うのです。

自然界には、数学的構造がたくさんあります。

例えば、分かりやすいものとして、フィボナッチ数列というものがあります。

1,1,2,3,5,8,13,21,33,54,…と続いていく数列です。

このフィボナッチ数列の構造が、自然界の至る所にあります。

また、このフィボナッチ数列から黄金比が導かれるのですが、この黄金比が、私たちの美的感覚を規定しているという話も、よく知られていると思います。

自然界の中にフィボナッチ数列がある。

そしてそれは、1,1,2,3,5,8,13,…というすごく単純な規則によって成り立っている。

これはほんとに驚くべきことです。

では、そのような規則性が何故存在するのかと言うと、聖書に基づいて考えるならば、「神様が創造したから」と言えるでしょう。

神様が、この世を創造する際に、自然界の法則また秩序も同時に創造したのだと言えます。

だから、人類が自然を研究すればするほど、神様がつくられた自然のメカニズムが発見されるようになるのです。

最近、『博士の愛した数式』という映画を最近ちょっとだけ見ました。

そのなかで、語り手の高校の数学の先生が生徒たちに、「数は、人間が勝手に作ったものなのか、それとも、永遠の昔から存在するものなのか、どっちだと思う?」と聞いているシーンがありました。

数というのは本当に普遍的なものなので、誰もがそこに神秘的なものを感じるのです。

聖書に従って答えるならば、数は人間がつくったものではなく、神様がつくったものだ、と言えるでしょうね。

永遠不変の真理が、自然界の至る所に存在しているのです。

 

 

次にもう一つの御言葉は、伝道者の書3:11です。

ここは、新共同訳を参照したいと思います。

 

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(新共同訳)

 

これもすごく大切な御言葉だといえます。

「なぜ人間は宗教を作るのか?」に対する聖書的な答えであるとも言えます。

地上の生き物の内で、人間だけが、この世を超える存在を考え、それを礼拝し、そのために自分を犠牲にしたり、あるいは戦争したりします。

他の生物も、集団で他の生物を襲ったりしますが、それは単に生存のためです。

人間は、生存のためではなく、宗教的な理由で、他の生物を襲うことができるのです。

人間だけが、いま生きているこの人生を超えた「何か」を考えるのです。

それが宗教の始まりです。

それに対する聖書の説明が、この御言葉です。

神様が人間に、「永遠を思う心」を与えたのです。

 

今日は二つの御言葉の箇所だけを取り上げましたが、このように、聖書を通じて世界を理解していくことができます。

「神は存在しない」と言う人に対してどのように反論するか――そういうことを聖書は語りません。

「神は存在する」は聖書の当然の前提だからです。

だから私たちにできるのは、「神は存在する」ということを前提にしながら、つまり聖書を前提としながら、物事考え、生きることなのです。

「神は存在する」ことを前提にして生きてきたわけではない私たちにとって、そういう姿勢は大切なのです。

 

 

 

2.「はじめに神が」が今の私たちに持っている意味

 

では、後半に移ります。

ここからは、創世記1:1の「はじめに神が」という一部について、こだわっていきたいと思います。

そして、この「はじめに神が」を私たちの人生の土台にする生き方を話していきます。

 

さて、この「はじめに神が」は、聖書の冒頭の言葉でありますが、しかしこれは、実のところ、聖書全体を貫いている考えでもあります。

まず創世記1:1をみると、それは世界と人間の創造に関わっています。

「はじめに人間が」ではありません。

「はじめに神が」世界を作り、人間をつくるのです。

預言者が選ばれる場面を考えてみてください。

いずれの場合でも、預言者が自ら預言者になったのではなく、「はじめに神が」ある人を預言者として呼び出していることに気づくでしょう。

そしてこのことは、新約聖書に行くとなおさら強まります。

福音書を読むと、「はじめにイエス様が」弟子たちを呼びかけているのを見ることになるでしょう。

ペテロやアンデレ、ヨハネヤコブ、彼らを呼び出したのは、イエス様でした。

彼らが自主的についていったのではありません。

「はじめにイエス様が」呼びかけたのです。

復活後に弟子たちに呼びかけたのも、やはりイエス様でした。

もっと根本的なことを言えば、「はじめにイエス様が」私たちの罪の身代わりとなって十字架にかけられる決断をしたのでした。

私たちは、そうするように頼んだりお願いしたりしてはいませんでした。

「はじめに神が」私たちを救おうと決断されたのです。

エペソ人への手紙1:4はこう語っています。

 

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4、新改訳2017)

 

このエペソの箇所を読むと、創世記1:1よりももっと「前」がありそうですね。

「はじめに神が」私たちを選んでいるのです。

天地創造よりも前に、「はじめに神が」選んでいるのです。

これはすごく不思議な気がしますね。

どういうことなのでしょうか?

もしかするとこの比較は適切ではないのかもしれませんが、例えば私たち夫婦も、今、子供が生まれようとしています。

まだその子は生まれてはいないのですが、私たち夫婦は、生まれる前に、すでに「愛し、育てる」という決断をしているのですね。

健康に育つように、怪我をしないように、病気にならないように、仮に怪我や病気になっても、早く治るようにしてあげよう。

神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する、そのような人間になるように育てよう。

そのように「すでに」決断しています。

「世界の基が据えられる前」に神様が私たちを選んでいるということも、そういうことなのかもしれません。

つまり、私たちが気づく前から、すでに神様が、「はじめに」神様が、愛しているのだ、ということです。

それほど神様の愛は大きい。

つまり、私たちが考える前、気づく前に、私たちの想像を超えて、「はじめに神が」私たちを愛している、それほど神様の愛は大きく広いのだ、ということです。

 

話はそれましたが、このように、世界の創造から私たちの救いに至るまで、どこにおいても「はじめに神が」で満ちているのです。

創造、摂理、予定、――神学的には色々言われますが、どのテーマでも一貫しているのは「はじめに神が」です。

そこで問題は、この「はじめに神が」を私たちがどれほど知り、どれほどその恵みを味わっているのか、です。

 

一つ質問しますが、誰かに自分の行動が全部予測されていたら、どう思うでしょうか?

何かの商品を買ったり、どこかに旅行に行ったり、なにかトラブルがあったときにどのように行動するか――そういうことが、全部予想されていたら、みなさんはどう思うでしょうか?

私は、20歳前後のときに、自分の行動が予想されていることに、恐れを感じていました。

そして、詩篇139篇を昔読んだとき、その20歳前後のときのことをよく思い出したものでした。

詩篇の139篇の冒頭の1−6節はこのようになっています。

 

「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道の全てを知り抜いておられます。ことばが私の舌に上る前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(新改訳2017)

 

お分かりになるように、神様が、私、つまりダビデのことを全てご存知だ、という内容を語っています。

この御言葉を読むと、私はその時の心境を思い出すのです。

自分の行動が予想されていると、自分の自由がないように感じられ、そして恐れを感じていたのでした。

両親から「お前はそうすると思っていたよ」みたいに言われると、恐ろしさを感じたのですね。

まぁ、これは少し病的な感じ方ですが、程度の差はあれ、誰かに自分のすべてを知られていたりしたら、嫌だと思います。

会社の上司に自分の私生活のすべてが知られていたら、やはり嫌なものでしょう。

もしかすると、「そんなに余裕があるんなら、もっと何かしたら?」と言われるかもしれません。

必ずしも実害がないとしても、自分の情報が全て知られているということには、なにか抵抗感を感じるものだと思います。

ところが聖書は、神様がすべてを知っておられることを語りますね。

さらに139篇8節は次のように言っています。

 

「たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(新改訳2017)

 

まさに「はじめに神が」いるのです。

どこに行ってもそこには神様が先回りしておられるのです。

どこに行っても「はじめに神が」いるのです。

 

聖書について学び始めた頃、神様が私のすべてを知っておられるというのは、ちょっと嫌なことだ、困ることだと感じたことがありました。

やはり、隠したいことがたくさんあるのが私たちだと思います。

自分のことが全部知られていると困るのが私たちでしょう。

でも、もう少し聖書を学んでいるうちに、「そうではないのだ」、つまり、「神様にすべてを知られているということは、恐ろしいことではないのだ」と理解するようになってきました。

どこに行ってもある特定の人がいる――もしこれが人間だったら、恐ろしいことです。

ストーカーですね。

どこにいってもすでに神様がいる――それは私たちにとって、本当は安心感を与えるものだと思うのです。

 

この不完全な世界の中で成長するときに、私たちは、万事が理想通りに行くわけではなく、むしろ、それとは異なる現実によって、傷つきます。

親が自分の行動を知っていることで苦しい思いをする――その経験を積み重ねた人は、やはり神様に対しても、同じ思いを抱くでしょう。

自分より上にいる人は、自分のことをよく知ったら、自分を操作するようになる。

だから、そのような人に対して、自分のことを隠さなければならない。

自分を守るために、自分を隠さなければならない。

そのように人生を歩んできた人は、神様に対してもしばしば同じように考え、接します。

そのような人にとっては、全てが知られているということは、安心感ではなく、恐怖心を呼び起こすものになります。

 

しかし、聖書を通じて私たちは、神様はそのように自分の都合で人々を振り回したり利用したりするお方ではなく、私たちのために働くお方であることを知ります。

そして私たちは、信仰によってそのことを深く心のなかに根を下ろしていかなければなりません。

現実の父親、母親、上司、お兄さん、お姉さん、先生――そういう人々は、私について多くのことを知ったとき、私のことを利用したり、悪く用いたりしたかもしれない。

しかし神様は、そのようなお方ではない。

神様は、私の真の父親である。

独り子を私たちのために十字架につけられた、それほどまでに私たちを愛しておられるお方である。そのようなお方が、私たちの全てをご存知なのである。

――この事実は、安心感を与えるものではないでしょうか?

あるいは、勇気を、大胆さを、力を与えるものではないでしょうか?

 

摂理という言葉がありますね。

それはもともとは「先を見る」や「予め見る」という意味です。

この「摂理」という言葉の成り立ちについて説明する際に、カルヴァンは、創世記22:8を上げています。

 

アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼の献げ物羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んでいった。」(新改訳2017、創世記22:8)

 

アブラハムが、神様に言われたとおり、息子のイサクをいけにえとして献げようとして、山を歩いているシーンです。

イサクが、いけにえのためには羊が必要なのに、羊がないですよ、と聞きます。

それに対するアブラハムの返事でした。

新改訳2017は、「羊を備えてくださる」と訳していますし、現代語のどの翻訳もそのように訳していますが、これがラテン語では「予め見ている」あるいは「先を見ている」と訳されています。

むしろ、このラテン語のほうが直訳に近いのです。

神様が、まだ現れていない将来の羊を「予め見ている」のです。

私たちの目では見えていないけれども、神様の目では「見えている」のです。

この「予め見る」がprovidence、つまり「摂理」となるのです。

予め見ている、前もって見ている、つまりそれは、配慮している、気にかけている、見守っている、ということなのです。

言い換えると、「はじめに神が」すべてを見ているのです。

「はじめに神が」私たちを見守っていてくださるのです。

私たちが幼い子の世話をするとき、「前もって色々なものを見る」のと同じように、神様は、私たちが見るものをはるかに超えて、私たちを大切にするために、「前もって見ている」のです。

摂理という言葉の大切な意味はここにあるのです。

 

 

皆さん、「はじめに神が」私たちのすべてを見ております。

私たちを愛し、配慮し、気にかけ、見守っていてくださっています。

独り子を十字架の死に至らせるほどまでに私たちを愛しているその御方が、私たちのすべてを見ているのです。

過去に私たちが何をしたか、考えたか、そして現在何を考え、行っているか、そして将来の私たちがどのようになるのか、すべてを見ています。

すべてを、愛を持って見て、見守っているのです。

 

喜びがわかないでしょうか?

安心感が生まれないでしょうか?

勇気と力が湧いてこないでしょうか?

 

私たちの人生には、困難があり、不可解なことがあります。

アブラハムが受けた試練と同じような不可解な状況に陥るかもしれません。

しかし、勇気を出して、神様の御心に従っていきましょう。

私たちの目には見えていませんが、神様の目には、すでに将来が見えております。

それは祝福の未来なのです。

私たちは、それを信頼してよいのです。

いえ、信頼する特権が、恵みによって与えられているのです。

私たちが歩んでいく先には、すでに神様がおられます。

神様が、先回りして、私たちを待っています。

それは、「来たら捕らえてやろう! ほら、引っかかったー」という態度ではありません。

来たら、「よく来たねぁ、これまで大変だったねぇ、よくがんばったねぁ」と心から迎え入れてくれるような仕方で、待っていてくださるのです。

私たちの天の父はそのようなお方です。

だからみなさん、私たちは、勇気を持つことができるのです。

私たちはそのことを深く信じて、神様の御心を追い求めていきましょう。

 

 

 

愛する天のお父様、主の御名を賛美します。

あなたは天地を創られました。そして私をも創られました。天地創造の前から私を愛し、選んでくださったあなたが、最後まで私を導いてくださること、それを十分に悟らず、信じない不信仰があります。どうかおゆるしください。私たちの不信仰を、あなたの聖霊で作り変えてください。そして、私たちの目ではまだ見えていませんが、あなたの目でははっきりと見えておられる未来を信じ、大胆に歩んでいく力をお与えください。私たちが、あなたの御旨に適う者へと作り変えてください。

イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

私をここに遣わしたのは神なのです

「私をここに遣わしたのは神なのです」 創世記45:4−8

 

おはようございます。

この朝、ここで御言葉の奉仕を委ねられていることに感謝いたします。

 

今日の箇所は、皆さんとても良くご存知だろうと思います。

ヨセフとお兄さんたちが、ヨセフがエジプトに売られた後で、出会って和解するシーンです。

とても感動的なシーンです。

この箇所でヨセフが話す内容は、私には本当に奇跡に思えるのです。

簡単にいえば、ヨセフはお兄さんたちに対して、「あなたたちが私をエジプトに売ったのではなく、神様が私をエジプトに遣わしたのです」と語っているのです。

どうしてこういうことを言えるのでしょうか?

これが問題です。

私たちも、たぶん、こういうことを言いたいと思います。

あるいは、言えたらいいな、と思っていると思います。

「自分が今、この場所にいるのは、あのときこっちを選んだから、あっちの試験に落ちて、こっちに受かったから、これこれの人に出会ったから、・・・」ではなく、「神様が私をここに遣わしたのです!」といえたら、いいなぁ、と思わないでしょうか?

そういう風に言うことができたら、しかも、単に口先だけで言うのではなく、心からそれを信じることができたら、とても素晴らしい人生を生きられるだろうな、そう思うことでしょう。

今日はこの時間、ヨセフとお兄さんたちの姿を通じて、この点を共に考えていきたいと思います。

 

まず、45:5を読みます。

 

「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」(新改訳2017)

 

ここで、少し退屈かもしれませんが、ちょっと細かい文法の話をしようと思います。

新改訳2017は「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。」と翻訳しています。

この「心を痛める」というのは、嘆く・悲しむ、という意味の単語です。

次の「自分を責める」は、通常は「怒る」と翻訳される単語です。

人が人に対して「怒る」、あるいは、神様が罪を犯した人や民に対して「怒る」、そのときに使われる単語です。

また、通常、そのように「怒る」と表現するときに、ヘブライ語では「鼻が燃え上がる」と表現します。

「誰々の鼻が燃える」というセンテンスを、通常は「誰々が怒る」と翻訳しています。

ところが、この45:5では、その「鼻」に相当する単語がありません。

これはすごく珍しいことです。

さらに珍しいのは、怒りの「対象」に関してです。

通常は、前置詞「ベ」の後に、その怒りの「対象」が書かれることが多いです。

モーセに対して、ご自分の民に対して、誰々に対して、という具合です。

ところがこの45:5では、文字通り翻訳しようとすると、「あなたたちの目に対して」となるのです。

「あなたたちの目に対して怒らないでください」

このように翻訳することができます。

でもこれはかなり意味不明な表現です。

私はむしろ、ここは次のように解釈するのが適切だと思うのです。

つまり、前置詞の「ベ」を、普通に「手段」の意味で翻訳するのです。

そうすると、次のようになります。

「兄さんたち、自分の目で見るところで嘆き悲しんだり、怒ったりしないでください。」

もう少し意味を込めて翻訳すると、こうなります。

「兄さんたち! 私たち人間の肉の目による判断で嘆き悲しんだり、怒ったりしないでくさい!」

 

いかがでしょうか?

今日の本文で問われていることの一つは、「肉の目による判断」と「神様の目による判断」だと言えます。

肉の目でみると、ヨセフを売り飛ばしたのはお兄さんたちです。

神様の目で見ると、神様がヨセフをエジプトに派遣したのです。

この違いです。

そしてヨセフがお兄さんたちに言おうとしているのは、「お願いだから、自分の目、肉の目で見るままで判断しないでください。肉の目で見ると、嘆き悲しんだり、怒ったりすることになります。だから、肉の目では判断しないでください。」こういうことだと思うのです。

 

お兄さんたちは、当然ながら、「肉の目」で判断していたことでしょう。

肉の目、つまり、私たちの人間的な理解で考えるならば、ヨセフを売り飛ばしたのは、自分たち自身なのです。

売り飛ばしたときは、お兄さんたちは、まぁ「スッキリした」のかもしれません。

しかし、お父さんのヤコブは、その後ずっと悲しみ続けました。

そういう姿を見ながら、お兄さんたちは、罪の意識を感じ始めたことでしょう。

「俺たちが過ちを犯した」と思ったことでしょう。

実際にお兄さんたちは、まだ身分を明かしていないヨセフから、ベニヤミンを連れてきなさいと言われたときに、それを自分たちに対する罰であると感じました。

「肉の目」で見るときに、お兄さんたちは罪人であります。

だから、当然悲しむはずです。

また、「肉の目」で見るときに、怒りも感じるでしょう。

「俺は、やめろって言ったじゃないか!」みたいな感じです。

 

私たちもまた、「肉の目」で見るときに、嘆き悲しんだり、逆に怒ったりしますね。

自分の犯した過ち、失敗、迷惑をかけたこと、取り返しのつかないことをしてしまったこと。

それを嘆き、後悔します。

あるいは、「自分は悪くないのに、なんでこんな目に遭うんだ!」と怒ったりもします。

自分は頑張っていたのに、一生懸命働いたのに、忠実に仕えていたのに、なんでなんだー!

そういうこともあります。

「肉の目」で自分自身の過去や現在を見ると、悲しんだり怒ったりすることはよくあるでしょう。

 

ヨセフは、お兄さんたちに、そうしてほしくない、と言っているのです。

すごいことですね。

そもそも、聖書を読む私たちからすると、ヨセフこそが、自分の状況に関して「嘆き悲しんだり、怒ったりする」権利がある人間なのではないか、と思います。

お兄さんたちに売り飛ばされて、エジプトで奴隷となる。

奴隷として働きながら、ポティファルの家で相当高い地位になるが、妻の怒りを受けて、牢獄に入れられることになる。

散々な生活をしています。

ヨセフこそ、自分の人生に対し、自分の状況に対して「嘆いたり、怒ったり」するのにふさわしい人物のように思われます。

私たちも、「ヨセフのような立場なら、嘆いたり、怒ったりしても、まぁ仕方ないか」と思うでしょう。

 

でも、聖書を見ても、私たちは、ヨセフが人生を嘆いたり、神様に怒りを向けたり、そんな姿を見ることはないんですね。

ヨセフの生き方について聖書が書いている記述はそれほど多くはありません。

すごく単純に、「主が共にいる」という記述だけです。

ヨセフがポティファルの家で働いていたとき、主がヨセフと共にいました。

また、監獄にいたときも、主がヨセフと共にいました。

これ以上の記述を聖書はしていません。

心のなかで何を考えていたのかは、わかりません。

ただ、ほんの僅かだけ、ヨセフが結婚して子供が生まれたときに、ヨセフの内面に関する記述が現れます。

41:51−52です。

 

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。」

 

 

ここからは、想像ですが、ヨセフがどんなときも幸せだったわけでは、どうやらなさそうだ、ということが伺われるでしょう。

たしかに、神様はヨセフとともにいました。

そして、きっとヨセフも、神様と共にいようと心がけていたでしょう。

主の喜びとなりたい、そのような思い出、毎日、毎瞬間生きてきたのでしょう。

けれども、「あぁ、神様が本当に私に目をかけて、報いてくださった!」と思うようになるのには、時間がかかったのではないか。

監獄から出ます。

宰相の地位になります。

結婚します。

子供が生まれます。

これらは、本当にヨセフの努力や頑張りではどうにもならない状況の変化です。

こうしたものを通じて、「あぁ、神様が本当に私を豊かにしてくださった!」と実感したのでしょう。

そしてこのことは、逆に言うと、それまでずっとヨセフは、ヤコブの家から突然エジプトにやってきたを、根に持ちながら生きてきた、ということでもあります。

その過去の出来事が、常に心のなかに引っかかりながら生きてきたのです。

 

このヨセフの姿を見ながら、私たちに対して言えることは、2つあるでしょう。

一つは、私たちが実り豊かになるためには、多少時間がかかる、ということです。

もう一つは、私たちは、しっかりと神様の恵みを体験する必要がある、ということです。

 

今は、「恵みを体験する」という点に絞りたいと思います。

詩編34:8は次のように語っています。

 

「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」(新改訳2017)

 

「いつくしみ深い」という箇所は、英語では単にgoodと訳しています。

原文でもそうなのですね。

「主が本当に良いお方であること、それを味わい、見なさい!」

この詩編はそう語っています。

 

「味わう」という言葉は、いい言葉ですよね。

難しく言うと「享受する」とでも言えるのですが、単に「味わう」で十分です。

私たちが食べ物を「味わう」とは、いったいどういう状態でしょうか?

「これは、砂糖としょうゆとみりんの割合が、1:1:1か。お、この食材は少しゆですぎだな。」そんな風に分析しながら食べることではないですね。

あるいは、「これを作ってくれた人は私の上司の妻なので、気分を悪くさせないために、どんな味でも美味しそうな顔をしないといけない。主よ、どうか私の顔の表情を守ってください!」そういう風に、人々を気にしながら食べることでもないですね。

あるいは、「うん、これはすしだ。うん、これは牛丼だ。うん、これはイタリア風サラダだ。」そんな風に、カテゴリー化して食べることでもないですね。

私たちが食べ物を「味わう」というとき、それは、食べ物を分析したり、作ってくれた人を色々配慮したり、あるいは、ただ料理名だけを確認したり、そういうことを意味しているのではないでしょう。

「味わう」というのは、本当に、その料理を、純粋に楽しむことを意味しています。

おいしいなぁ、ちょっとまずいなぁ、酸っぱいなぁ。

色んな余計なものを置いといて、その食べ物を味わい、楽しむ、それに集中することですね。

 

詩編が語っているのは、私たちは、神様が本当に良いお方であることを、ただ素直に味わいなさい、ということです。

でもこれが、信仰生活を送っていると、だんだん難しくなって行ったりするんですね。

最初は、他の人の祈りを聞いていても、ただ「あぁ、素晴らしいなぁ」と思うだけだったのに、いつのまにか「あの祈りは、神学的にどうなのか? ちょっとおかしいのではないか?」などと考えるようになります。

そして、祈る人と一緒に心を合わせて祈るよりも、その祈りを批評的に聞いている自分に気づくようになります。

あるいは、最初はイエス様のすばらしさに心が躍って生きていたのに、「他人に証をしないと、愛のある私でないと!」などと思いながら、自分を固くしていってしまいます。

そして、イエス様を心から感動する心を失ったまま、人の見える姿では「恵まれた表情」をするようにしてしまいます。

そのように信仰生活を送りながら、私たちは、しばしば、神様が本当に良いお方であることを、味わうことなく過ごしてしまいます。

 

子供から大人に成長するとき、だんだん物事を複雑に考えるようになります。

「複雑に」というのは、実は、「多角的に」ということですね。

子供は、自分の視点から見たものをすべてと思いがちですが、成長するにしたがって、他の視点から見た場合を考えるようになります。

これが成長です。

でも、そのように多角的に見るだけだと、単に混乱するだけなのですね。

情報が多くなるだけだど、判断に迷うだけになります。

大人になった人間が、さらに成長しようとするためには、子供と同じように、単純になる必要があります。

でもそれは、ただ単に子供に戻る、ということではありません。

様々な角度からの理解を踏まえたうえで、「本当に大切なもの」に目を向ける、ということです。

いろいろ大切なことがあるんだけれど、「これが本当に大切なことだ!」そういう一つのことに目を向けることです。

これが、大人にとっての「単純になる」ということです。

 

クリスチャンの信仰の歩みにとっても、これは当てはまるでしょう。

クリスチャンになって、聖書も良く読むようになって、神学的なことも多少はわかるようになって、また、教会での振る舞い方というのも分かるようになって、いろんなことがわかるようになって、では、「本当に大切なことは何か?」、それが実はおろそかになる。

大切なことは何でしょうか?

主が良いお方であることを、味わう心なんです。

主が本当に良いお方、素晴らしいお方、憐れみ深く、慈しみ深いお方である、そのことを深く味わい、楽しみ、喜ぶ、単純な心なのです。

私たちは、主の恵みを味わう心を、忘れないようにしましょう。

 

ヨセフは、主の恵みを本当に味わったのだと思います。

十分に味わったのでしょう。

そうしながら、過去に負った自分の心の傷が、徐々に癒されていったのではないでしょうか?

突然お兄さんたちに襲われ、そして、一人で言葉も分からない外国で、奴隷となるのです。

そこでもまだ苦難が続いた。

そういう歩みで受けた傷が、監獄から出て、結婚して、子供が生まれて、という生活の中で、またそこにはもちろん、普通の家庭生活の一瞬一瞬の出来事もあるでしょうが、そういう全てを通じて、癒されていったのでしょう。

その毎日の歩みのなかで、神様の恵みを少しずつ味わっていったのでしょう。

それがヨセフだったのです。

 

 

 

神様の恵みを体験していたこと、これが、ヨセフが今日の本文にあるように「私をここに遣わしたのは神なのです」と言うことができるようになった、一つの理由です。

もう一つの理由は、ヨセフが、神様の救いの計画を悟り、その計画の中における自分の使命を悟っていたことであります。

45:7-8を読みましょう。

 

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」(新改訳2017)

 

 

ここでは特に45:7に注目したいのですね。

やはり少し文法的な話をしようと思います。

この箇所では、まず神が私を派遣した、という中心的話があります。

そして、それに対する目的がそのあとで書かれています。

その目的が二つあります。

それは、「あなたがたのために残りの者をこの地に残し」と「あなたがたを生き延びさせるため」という二つです。

この「残りの者」というのはすごく大切な用語です。

特に預言書などで使われるようになる言葉なのですが、バビロン捕囚のような神様のイスラエルに対する罰を通じて「生き残った人々」のことを指します。

それはしばしば、不忠実な民が多くいた中で、神様に対して忠実であった人々、というニュアンスも含まれています。

こうした用語がここで使われていることにも、聖書は一貫しているのだなぁと思います。

この7節には、「大いなる救いによって」という言葉がありますね。

この「大いなる救い」とは一体何を指しているのでしょうか?

お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトに移り住むことを指しているのでしょうか?

しかしそれは、「大いなる救い」と言うには、私にはいささか大げさなように感じられます。

出エジプト記では、10の災いがあって、そのあとに紅海の奇跡があって、「大いなる救い」とはっきりわかるようなものがあります。

創世記のヨセフの物語の中に、そんなにはっきりと「大いなる救い」というような明確な神様の行為があるとは思えないのですね。

では、これは一体どういうことでしょうか?

ここで注意したいのは、「大いなる救いによって」の「よって」の箇所です。

これは「レ」という前置詞を翻訳しているのですが、この前置詞は、通常は「…のために」「…に向かって」などを表す前置詞です。

そしてしばしば英語のasと同じように「として」の意味でも使われます。

私は、この7節は、意味的にはこの「として」が適当なのではないかと考えます。

つまり、「残りの者をこの地に残す」ことと「あなたがたを生き延びさせる」こと、それ自体が「大いなる救い」なのです。

「大いなる救い」として、お兄さんたちやヤコブやその家族が、エジプトに生きることがあります。

いや、もっと言うならば、ヨセフがエジプトの宰相になったこともまた、「大いなる救い」の一部でしょう。

さらには、ヨセフがエジプトに売り渡されるときから、既に「大いなる救い」は始まっていたともいえるかもしれません。

そうだとすると、この箇所はこのように翻訳することができます。

 

「神は「大いなる救い」として、あなた方より先に私をお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」

 

このことが意味しているのは、ヨセフが生まれ、お兄さんたちの嫉妬を受けてエジプトに売り渡され、そのエジプトで奴隷として働き、囚人となり、そして宰相となる――これらすべてがまさに「大いなる救いとして」存在していたということです。

ヨセフは、そのことを悟っていたのでしょう。

つまり、自分の人生が、神様が導いている「大いなる救い」のまさに一部であることを悟っていたのでしょう。

お父さんの家にいたときは分からなかった。

エジプトに売られたときも分からなかった。

囚人の時も分からなかったかもしれません。

しかし、突然エジプトの宰相となり、エジプトの国を、そしてその周辺諸国を導くような立場になりながら、彼は悟っていったのではないでしょうか?

自分の人生は、自分が導いているのではなく、神様が導いているのだ、ということを。

そして、自分の人生が、神様の「大いなる救い」の一部としてまさに存在しているのだ、ということを、悟っていたのではないでしょうか?

そして、ヨセフはそのことを十分に悟っていたからこそ、「私をここに遣わしたのは神なのです」と語ることができたのだと思うのです。

 

このことは、今の私たちにとっても、とても意味のあることです。

エフェソ書の有名な1:4−5を読みます。

 

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(新改訳2017)

 

 

私たちは、イエス様を信じることによって救われました。

しかし、そのことも天地創造の前から神様の計画にあったことなのです。

そして、救われた私たちは、まさにその神様の計画の中を生きているのです。

これはとても驚くべきことだといえるでしょう。

どのような瞬間も、私たちは神様の救いの計画の中を生きている、ということなのです。

だから、こうも言えるのです。

ヨセフが、エジプトに売られ、奴隷として生活し牢屋に入れられた、そのことが「神の計画」ではないところで起きた偶然な出来事や不幸ではなく、そうした出来事もまた「神様の救いの計画の一部」である、それと同じように、私たちが、今現在どのような状態にあろうとも――思いがけない形で、自分が今までと異なる境遇に陥っても、病気になっても、失業しても、苦しみにあっても、それらは、神様の計画とは別のものではなく、それらもまた、神様の救いの計画の一部なのだ、と。

そのように言うことができるのです。

この事実は、大変恵み豊かなことです。

 

 

私がこの創世記45章の御言葉を頻繁に考えるようになったのは、昨年の9月か10月頃だったと思います。

その時、ふとこの御言葉を読みながら、「自分は、まだヨセフと同じように語ることはできない」と思ったのでした。

それにはこういう事情があります。

私は昨年の8月まで京都の教会で伝道師として働いていたのですが、その頃、妻が精神的に疲れてしまい、しばらく京都から離れたほうがいいということで、休みをいただきました。

そして、仙台に私の実家で所有しているアパートの一室があり、長期滞在が許されたので、そこでしばらく静養することにしました。

ところが、そのように生活しながら、私自身は、内面的にはイライラすることがありました。

休みを頂いた頃、京都の教会では、いろいろ教会改革しようとしていた頃で、変化がありました。

そして私自身も、「教会をこのようにしていけばいいだろう」と色々考えていました。

そうしたときに、そこの教会から離れることになったのです。

頭では、自分が京都から離れて仙台にいることを理解していました。

「夫と妻は一体なのだから、妻が弱っていたら夫はそれを支えるように生きないといけない。そしていまはそのために休暇を頂いて、京都から離れているのだ。」

そのように理解していました。

しかし、心の方では、納得していないのでした。

20代後半にクリスチャンになって以降、イエス様と教会は私の人生の中心であり、人生の多くの時間を伝道や教会の働きや活動にささげてきました。

教会というのが人生の殆どであり、生きる意味、生きがいの対象でもありました。

ところが、今やそこから離れているのです。

そして、SNSなどを通じて教会の様子が情報として色々入ってきます。

それを見ると、すごくしっかり教会の運営がされているようにみえるのですね。

イキイキしているようにみえるのです。

そこで、私はイライラするようになりました。

「本当は、自分もそこにいるはずなのに」という悔しさがありました。

また、同世代の献身者たちがそれぞれ教会を牧会しているのを見聞きしても、嫉妬もあり、自分がそれをできないこともあり、イライラしました。

フェイスブックを見るのも嫌になりました。

 

だから、頭と心、理性と感情で、バラバラだったのです。

京都を離れて仙台に行くことは、まさに自分が決めたことです。

それは、頭ではわかっていました。

しかし心の方では、私は京都から追い出されて、仙台に送られた、そのように感じていたのです。

つまり、心の方では、私は被害者意識をもっていたのです。

だからイライラしていたのでした。

 

そのような心の状態のときに、創世記45章を読みました。

そして、ヨセフは、「神が私をエジプトに遣わした」と言っているけれど、自分には、まだそのように思うことはできない、と感じたのです。

「私はまだ、京都から追い出されていると感じている」と思ったのでした。

しかしながら、ヨセフが告白したように自分も告白すること、それが正しいことだし、そのように告白することができるようになることが、自分にとっての目標だな、ということも同時に覚えたのでした。

「京都から追い出されて、仙台に来た」のではなく、「神様が仙台に、あるいは宮城県に、あるいは気仙沼に送ったのだ」そのように心から思い、納得するようになることが自分にとって、そして夫婦にとっての目標だ、と思いました。

 

そして8月下旬に仙台に来てから、もう半年が過ぎました。

その時間を通じて、私は、だんだん「神様が私をここに遣わした」ことを、納得するようになってきました。

そのような心境の変化は、やはり神様の計画を悟ることにあると思います。

この半年間を通じて、京都にいたときには気づいていなかった、あるいは、特に表面化していなかった自分の課題や弱点があることに気づきました。

そして、神様が私を仙台に送ったのは、私自身が、その課題や弱点を克服し、成長させるためであると納得するようになってきました。

「納得」が大切なんですね。

単に頭で「こうでないといけない!」と言い聞かせるのではなく、心で自然と「そうだよね」と納得する、それが大切です。

神様が、「あなたはその教会、その組織にいては、自分の弱さを成長させることができない」と考え、そしてそこから出るように導いたのです。

今は、そのように考え、納得しているのです。

 

神様の計画、神様の意思、それを本当に悟り、心から納得するときに、私たちは、この人生を「被害者」として生きるのではなく、神様の素晴らしい計画の「主人公」として生きることができるようになるのです。

 

さて、ヨセフが神様の計画を十分に悟り、その計画の中で自分に与えられた使命を悟ったとき、ヨセフの人生において一つの偉大な出来事が実現されます。

それは、赦しと和解です。

ヨセフが神様の計画を悟ることで、ヨセフは、お兄さんたちを赦すことができるようになったのです。

 

私たちには、赦せない人物や事件、出来事はあるでしょうか?

もし、それらもまた、神様の救いの計画の一部であるとしたら、どうでしょうか?

もしそうであるなら、これは素晴らしいことでしょう。

イライラがある、怒りがある、憎しみがある、そういう人生は、そのような感情を抱く本人にとって不幸です。

赦すことのできる人生とは、どれほど心が軽く、幸せなことでしょうか?

しかし私たちは、「クリスチャンだから赦さないといけない!」とは考えないようにしましょう。

そうした義務感によって赦しの心は与えられません。

むしろ、神様の計画を悟り、赦しの心が自然に与えられるときを待ち望みましょう。

そのような時を私たちは期待してよいのであり、期待すべきなのです。

 

主は良いお方です。

その主の豊かな恵みを十分に体験しましょう。

そして、人間の目、肉の目で出来事を見るのではなく、神様の目で出来事を見るようにしましょう。

そのように日々歩みながら神様の救いの計画を悟り、そして、その計画の中での自分の役割を悟るようになるならば、私たちは、被害者として人生を生きるのではなく、主人公として生きることができるようになり、そしてなにより、赦しの心を持つことができるようになるでしょう。

そのような時が来ることを、祈りつつ、期待しながら歩んでいきましょう。

 

 

祈ります。

愛する天のお父様、御名を賛美します。

私たちは、人間的な目で見ながら、憤りを抱いたり、苦しんだりします。

しかし、あなたはどのようなときでも、救いの良い計画をお持ちであります。

エス様が十字架につけられたとき、それは、もう「終わり」かと思われた瞬間ですが、しかしそれさえもあなたの救いの計画の一部であり、人間が想像する以上に偉大な出来事でありました。

あなたの計画を悟るとき、私たちは、心からの平安を持ち、勇気が与えられ、自分に危害を与えた人や出来事、あるいは過去を赦すことができます。

主よ、どうかあなたの豊かな恵みを私たちが日々体験し、そして、私たちの頑なな心が溶かされますように。

また、あなたの計画を悟ることができるように、聖霊様で満たしてください。

あなたの計画を悟り、あなたの求める姿へと、私たちを作り変えてください。

全てを期待します。

愛する主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。

「道」を歩む

昨日の土曜日は、とても雪が降っていました。
雪が降っているところを車で走っていて、少し怖いなと思ったところがありましたが、それは、道路のラインが見えなかったことでした。
片道二車線のところで、自分が今、ちゃんと車線の中を走っているのかわかりづらいからです。
そこから考えてみると、雪が降っていなくて、道路のラインがしっかり見えているということは、とても良いことだと分かります。
それはとても安心なことです。

さて、聖書はしばしば「道」という言葉を使います。
有名なのは、次の聖書の箇所でしょう。

エスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:5)

エス様自身が、「私は道である」と語っています。
これは救いに至る「唯一の道」という意味です。
救い、つまり、永遠の命、それに至る道が「唯一」である。
聖書は、永遠の命に至る道は「たくさんある」とは言わないのですね。
それは「唯一」であり、その唯一の道は「イエス・キリスト」である、と聖書は言います。

そのほかに、イエス様を信じた人間が生きる人生のことを、聖書は「道」と表現します。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(使徒20:24)

これはパウロがエフェソの長老たちに別れの挨拶をしているときの言葉です。
パウロはエフェソを離れてエルサレムに行こうとしています。
そのエルサレムでは、迫害が予想されています。
パウロは自分の死をも予期しているでしょう。
その死を、パウロだけではなく、他の人々も予感しています。
そうしたなかでパウロはエフェソの長老たちに語るのです。

パウロが語っていることは、パウロだけではなく、全てのクリスチャンに当てはまることでもあります。
私たち一人一人に神様が与えた「道」があります。
聖書を見ても、例えば12弟子たち一人一人でも、彼らに与えられた「道」は異なっていました。
ペトロにはペトロの道、またヨハネにはヨハネの道がありました。
それが私たちにも当てはまるのです。
10人いるならば、10人のそれぞれオリジナルな道があります。
それは、誰かほかの人が歩むことはできません。
私たち一人一人が、自分の責任で、自分だけで歩まなければならない道です。
パウロの姿勢というのは、また同時に、神様が私たちに望んでいることでもあります。
神様は、私たち一人一人を、全く異なる、そして唯一の、オリジナルな存在として創造されました。
顔が異なり、性格が異なり、能力が異なり、趣味が異なり、人生経験が異なります。
もっと多くの、いろんなものが異なります。
神様は、他の誰にも代えることのできないあなただけに与えられた命を、精一杯生きてほしいと期待しているんですね。
神様のことを考えてみてください。
私たちを神様は創造されて、本当に良い存在として創られました。
その神様は、ご自分の作品が、どうあってほしいと望むでしょうか?
自分にある善いものを無駄にしてしまうことではないでしょう。
他の人と比較しながら、自分の善い点を見失うことでもないでしょう。
無駄なところで頑張りすぎて、つぶれてしまうことでもないでしょう。
私たちを作られた神様としては、私は、神様は私たちが、自分に与えられた善いものを最大限発揮しながら、幸せになって生きること、それを神様は望んでいるのではないかと思います。

はい、そこで問題があるんですね。
「神様が私に与えた道とは何か?」
私たちが、自分だけに与えられた道を歩まなければならない、そして、それが神様が望んでいることだ。
それはわかる。
では、その「道」とは、どれなのか?
これが問題です。

ところが、私は皆さんに残念なお知らせをしなければなりません。
どれがあなたの「道」であるのか、それを100パーセント確実に知ることはできません。
私も皆さんに、「これがあなたの道ですよ」と断定することはできませんし、私に相談に来て「先生、これが私の道なんでしょうか?」と質問されても、私は「はい」とも「いいえ」ともいうことはできません。
残念ですね。

でも、神様が与えた道とは別の道を歩み続けないための、ヒントだけは言うことができます。
本当は沢山あるのかもしれませんが、最近――というか、ここ5年くらいずっと大切にしてきたことを分かち合いたいと思います。
それは何かというと、自分の人格的成熟を妨げているものと対決する、あるいは、自分の人格において未熟な点を認め、成長しようとする、これです。

例として私のことを少し話しますね。
私はある時期、教会を離れようかなと思ったことがあります。
その時、教会は変な方向に行っていると思ったからなんです。
それで、一生懸命就職活動しました。
なんとなくゆっくりはしていたのですが、「あ、これはやばい。就職するという名目で、教会から離れないと」と、そのように思ったのでした。
そして無事就職が決まったのですね。
そのうえ、会社の人がほとんど夜逃げのような形で引っ越しも手伝ってくれる、というのです。
あぁ、これは「神の恵みだ」と思いました。
でも、私は結構馬鹿正直なところがあって、就職して教会から離れることを他の人に言ったんですね。
そしたら、年齢の近い神学生の兄弟から、「どういう歩みをするかは別として、自分の成長になるように歩むべきだ」というようなことを言われたのです。
それを聞いてから、ちょっとむかっとするところはあったのですが、でも、やはり考えました。
そして、スコット・ペックの『愛すること、生きること』という本も読みながら、自分の人生を振り返ってみた場合に、ある一定のパターンを繰り返していることに気づきました。
それは、ある組織に属していた時に、その組織にちょっとした欠点があっただけで、その組織から離れる、というパターンでした。
「組織が良いなら属す、悪いなら離れる」その思考に基づいて、行動していたことに気づきました。
私自身が「組織を変えていく」というそのような姿勢になったことがないことに気づきました。
そして私は、ここで教会を離れたら、今までのパターンを繰り返すだけだと思い、それで思いとどまりました。
就職の決まっていた会社には断りの電話を入れました。

ものすごく一般論で言えば、教会に属するかどうかということを考えた場合に、教会がおかしいな、と思ったら、出てもいいと思います。
むりやり教会にとどまって、欲求不満な状態で時間を過ごすより、他の教会でのびのび信仰生活を送る方がよい場合もあるでしょう。
一般論では、どういう選択をしてもいいです。
でも、「私」に関してはどうかと言うと、それは別問題です。
「私」には「私の」問題があるのです。
それは他の人にとっては全く問題ではないことかもしれません。
しかし、少なくとも、「私」には「私」の問題があるのです。
そして大切なのは、神様は、私がその自分の問題を克服することを願っているということです。
なぜかと言うと、私がその問題を克服すると、私は少しだけ成熟した人間となり、成熟するならば、私たちは幸せになるからです。

人によって、人格的な弱点は異なります。
ある人は、他人を配慮しなさすぎですし、別な人は、配慮しすぎて自分を押し殺してしまいます。
ある人は、慎重すぎて決断できず、別な人は、軽はずみにいろいろ決断してしまいます。
ある人は、周りの意見に左右されすぎており、別な人は、自分の意見に固執しすぎています。
これ以外にも、たくさんあります。
しかしいずれにしても言えるのは、誰もが、人格的な弱点を抱えているということです。
そして、その弱点というのが、私たちが他の人と関係を持つときに、あるいは組織や共同体に属するときに、争いのもとになり、不幸の要因になるということです。
だから、そういう弱点を克服する必要があるのです。

「弱点を克服する」ということを言い換えると、「自分の課題に向き合う」ということだと思います。
そして、私たちがある選択をする際に、それが「自分の課題に向き合う」ことにつながっているとするならば、私たちは、「自分の道を歩んでいる」と言えるのです。
だから、例えば、同じように職場で仕事をしていたとしても、ある人は「道」を歩んでいるし、他の人は歩んでいないことだってあるでしょう。
ある人は、その仕事を辞めることが「自分の道を歩む」ことになるかもしれません。
それは一概には言えません。
しかし、もしその人が、自分の人格的弱点を把握し、人生における自分の課題に向かっているならば、「自分の道を歩んでいる」と言えるのです。

それでもなお、今自分が歩んでいる道、あるいは、歩もうとしている道、それが神様の与えた道なのかどうか、不安になることでしょう。
でも、その不安は、いかんともしがたいものです。

雪が降った道を歩こうとして気づきましたが、完全に雪で覆われていると、その下の様子はわからないものです。
どこにラインがあるのか、へこんだところがあるのか。
でも、いったん歩みだして、少し足で雪を払いのけたりすると、地面の様子がわかるようになります。

私たちの「道」も同じものなのではないか、と思うのですね。
前もってわかるものではなくて、いったん足を踏み出してみて、それで初めてわかるものなのではないでしょうか。
歩いてみないと分からないのです。
一旦歩いてみる、すると、そこが「道」なのか「道ではない」のかがわかる。
そういうものなのでしょう。

信仰生活における「道」も、予めわかるものではない。
歩みだしてみるときに、「道」であるなら当然備えられるであろうものが与えられる――そういう時に、「あ、自分は、ちゃんとした道を歩んでいたんだな」と確信が与えられる。
そういうものなのだと思います。
歩みださなければ、その道が本物かどうかも確かめることができません。
だから、最低限、歩みだす必要はあります。
そして歩みだしたときに、しっかりと「道」があれば、神様に賛美して、しっかりその道を歩めばいいでしょう。
けれど、どうもそこは「道」ではないようだ。
そうであるならば、また別な「道」を探せばいいでしょう。
私たちの信仰の歩みは、そういうものだと思います。

だから、永遠の命を得ている皆さん、ぜひ私たちは、たえず実験し続ける者でありましょう。
私たちのいのちは、天においてイエス様の内にあります。
恐れる者はありません。
恥ずかしがるものもありません。
自分の課題に向き合わなかった、それだけが本当に恥ずかしいことです。
ぜひ私たちは、大胆に一歩踏み出し、「道」を見出すものとなりましょう。
そうして一歩踏み出し、私たちが自分の課題を克服するときに、私たちの人生において、次の御言葉が真実のものとなるのです。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

神様の目では、私たちは新しいものにされています。
しかし、その新しいものを、この世において現実のものとする責任は私たちにあり、その新しい者が実現されるときに、喜び、幸せになる責任も私たちにあります。
その責任をしっかりとわきまえ、神の子供である恵みと喜びを抱きながら、大胆に実験していく私たちでありましょう。