Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

裁きの中の憐れみ

裁きの中の憐れみ 創世記3:20−24

 

おはようございます。
前回までは、創世記の本当に最初の物語が、私たちが生きている現実の根幹をなしているということを語るために、ずいぶん抽象的な話を続けてまいりました。
自然について、また、人間と自然との関係について、人間と人間との関係について、人間の使命について、などなどを、創世記についてメッセージする中で扱ってまいりました。
それも前回で終わりました。
今日からは、メッセージはもう少し一般的なものになって行くと思います。

さて、今日のタイトルは「裁きの中の憐れみ」です。
裁き、つまり罰のことですが、私たちは、罰を与える側になることもあれば、罰を受ける立場になることもあるでしょう。
罰を「与える」のも「受ける」のも、罰というものの性質を考えるとき、私たち人間はとても苦しむものです。
神様は、創世記の3章の後半において、人間への裁きのことばを語り、また実行しています。
しかしそのなかには、同時にまた、憐れみも含まれております。
一見するととてもわかりにくいですが、たしかに神様の憐れみがあります。
今日はそれを順番に確認していこうと思います。
神様は3つの仕方でアダムとエバに憐れみを与えました。
まず、「希望を与える」という仕方で、
つぎに、皮の衣を作ってアダムとエバを覆うという仕方で、
最後に、二人を追放するという仕方で、です。
これらを順番に確認しながら、私たちは、神様の恵みを理解していきたいと思います。

 

1.神は希望を与える

まず最初に、神様は希望を与えるという仕方で憐れんだという点についてです。
3:20を読みましょう。

「人は妻の名をエバと読んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。」(創世記3:20)

エバ」と日本語で表記されていますが、これはヘブライ語の発音では「ハウァ」です。
韓国人のクリスチャンがよくエバのことを「ハウァ」と呼んでいて、最初は何のことかわからなかったのですが、韓国語聖書がエバを「ハウァ」と訳しているのです。
とてもヘブライ語の音に近いかたちで翻訳しています。
この「ハウァ」という名前は、「生きる」を意味する動詞の「ハーヤー」に基づいています。
新共同訳は、ここを訳す際に、「エバ(命)」としています。
おおよそそのような意味です。

カルヴァンは、この20節が、創世記の話の中の「いつ」の出来事なのか、という問いを立てています。
ヘブライの動詞の時制は、完了形と未完了形という二つだけです。
そして完了形の場合には、過去の完了も、現在の完了も、未来の完了も、すべて表現することができます。
これがとても特徴的です。
文脈に応じて、その完了形が、過去のことなのか、今のことなのか、あるいは将来のことなのか、変わってくるのです。
そしてこの20節では完了形が使われているので、これだけでは、この20節が「いつ」の出来事なのか、実はわかりません。
なのでカルヴァンのような問いも出てきます。

それでは、この20節は「いつ」の出来事でしょうか?
もし20節の動詞が「過去完了」である場合には、この20節は、アダムとエバが蛇に誘惑されて罪を犯す事件よりも「前」のことだと考えることができます。
すると、20節は例えばこういうことを言おうとしている、と考えられます。

「アダムは妻を、ハウァと呼んでいた。全ての生きるものは彼女から生まれるからだった。
それなのに、彼女は蛇に誘惑されて、罪を犯し、アダムにも罪を犯すように仕向けた。
それによって、二人は死ぬべき存在になった。
彼女は生きるものの「母」だったのに、「死」を招き入れた張本人だった――。」

要するに、このように考えると、20節は、〈エバは「生きるものすべての母」だったのに、残念なことになってしまったなぁ〉と、失望、落胆を表現する箇所だということになります。

カルヴァンはもう一つの可能性として、現在完了形、つまりただの過去形の場合を上げています。
新改訳2017もそのように翻訳しています。
この場合、この20節の出来事は、19節までの話の「後」のこととなります。
すると、先程の解釈だと20節は、失望、落胆を意味していたのですが、今度は、喜び、感謝を意味するようになります。
どういうことでしょうか?
アダムとエバが犯した罪に対する裁きの言葉は14節から続いています。
そこから色々なことが分かりますが、2つのポイントが今は関係します。
一つは、「アダムとエバはすぐに死ぬわけではない」ということです。
罰を受けてすぐに死ぬわけではなく、エデンの園の外で労働する生き方をすることになります。
すぐには死なないのです。
もう一つは、「蛇がアダムとエバの子孫によって打ち砕かれる」という点です。
神様はこれを約束します。
この約束は、もっと言えば、アダムとエバの子孫の中から、ただ単にこの世の命を与えるだけではなく、永遠の命を与える存在が生まれるということ、そのお方が、罪を滅ぼし、死を滅ぼし、神の国を実現させるということ、これも意味しているのです。
これが希望です。
神様はこのような形で人間に希望を与えたのです。
そしてアダムは、神様の言葉からその希望のメッセージを受け取るのです。
「自分たちは罪を犯した。そして、死を生み出してしまった。しかし神様は、私たちの子孫から、死を滅ぼし、永遠の命を与える存在を誕生させてくださるのだ!」
というわけです。
私たちは、自分が犯した失敗が、予想外に大きな影響を及ぼすことになると知ったら、すごく焦りますね。
その後で、実は影響がそんな広範囲には及ばないとわかったら、どんなに安心するでしょうか。
アダムは、それに近い気持ちだったということです。
そこで喜びが湧き上がってきた。
そして、妻の名前をハウァ、「生きる」あるいは「命」とするのです。

このように理解すると、この箇所は、聖書で度々現れる「名付ける」出来事の一部だと考えることができます。
モーセ、ゲルショム、色々あるでしょう。
そして思い出してほしいのですが、そういう場合、しばしば日本語だと、カギ括弧を使って名前の由来を説明していたりしますね。
ここもそうすることができるでしょう。
その場合、「彼女が、生きるものすべての母だからであった」は、未来の出来事として解釈し、将来に対する預言の内容だと読むことができます。
つまり、「彼女は、生きるものすべての母になっているだろうから」というわけです。
そうすると、この箇所は次のような意味になります。

「アダムは妻の名前をハウァとした。
なぜなら、彼女は、神様が約束されたお方が生まれるとき、そして蛇を打ち砕くときには、まさに生きるものすべての「母」になっていることだろうからである。」

これはまさに、アダムの神様の言葉に対する信仰を表現する内容なのです。

神様は、3:14−19にわたって裁きの言葉を語ります。
その中には、アダムとエバの子孫から、蛇を打ち砕くお方、つまりメシアが誕生するという約束がありました。
それが希望です。
アダムはその希望を受け取り、喜びから、妻の名前を「ハウァ」としたのでした。

 

 

2.神は皮の衣をもって人間を覆う

次に、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてあげました。
3:21を読みます。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」

ここで「皮の衣」が作られるということは、神様は動物を殺しているのですね。
殺して、動物の血を流している、ということです。
ここに、後の「いけにえ制度」の出発点を見る人々は多くおります。
レビ記を読んでいくならば、個人の罪、共同体の罪、リーダーの罪、祭司の罪、それらを赦してもらうために、牛や羊や鳩が犠牲になっていたことを知るでしょう。
そのようないけにえ制度の出発点がこの箇所だというのです。

このいけにえ制度ですが、言葉で言うとすごく簡単なことですが、実際の様子を想像すると、すごく大変なことだと思います。
鳩はまだ小さいですが、羊でさえも、結構大きいです。
牛も、実際に見るとわかりますが、かなり大きいです。
レビ記では、その動物を祭司の前に連れて行って、そこでその動物を屠る、つまり殺す、と書かれています。
「果たして、簡単に殺せたのだろうか?」と思います。
「あの大きな牛を一発で殺すのは、無理なのではないか? だとすると、どこかに刃物を入れて、出血しながら弱っていくのを待ったり、あるいは、何度か刃物を入れないといけないのではないか?」
そう思いながら、ネットで調べてみると、現代のイスラームの犠牲祭の様子が出てきました。
その犠牲祭では、牛がいけにえになっていて、その様子を紹介しているページがいくつかあり、見てみました。
そうすると、だいたい次のように牛を屠っているのがわかりました。
牛の足をロープで縛って、また顔と柱をロープで繋いで、その上で、数人で牛を押さえる。
そして、首を切り裂く。
血が激しく飛び散り、そして牛は死んでいく。
すごい姿です。
古代イスラエルにおける屠り方と、現代イスラームの犠牲祭での屠り方が同じとは限りませんが、現代的器具を使わない点で、だいぶ近いのではないかと推測されます。
そうすると、古代イスラエルで「牛を屠る」ということは、大変なこと、壮絶なことだっただろうと想像できます。

「私の罪のゆえに、一つの動物の命が奪われる。」
これは本当にすごいことです。
すごいというか、尋常でないというか、大変というか、ともかく、凄まじいことです。
私たちは、自分の罪というのがどれほど由々しいものか、あまり実感できなかったりしますが、罪の重さ、あるいは、罪が神様にとってどれほど忌まわしいものであるか、それを実感する方法として、一つの動物の命が奪われるというのは、効果的だったのかもしれません。
動物は、もちろん家畜であり財産ではありましたが、やはり「命」です。
動物を飼っている人なら、動物それぞれに個性があり、表情も違うことも知っているでしょう。
そういう動物を縛り上げて、身動きできない状態にして、それでも暴れるのを必死で取り押さえながら、首を切り裂く。
「私の罪」とは、それほどまでに重大なものなのです。
このことは逆に言うと、私の命は、それほどまでに神様にとって尊いということでもあります。
罪ある者は神様とともにいることはできません。
しかし神様は、その罪人そのものは愛しております。
だから、その罪を解決する手段をお与えになりました。
それが旧約においては「いけにえ」という方法です。
この「いけにえ」によって神様は、それを捧げた人間の罪をないものとし、人間と和解することにしていたのです。
大切にしてきた家畜を自分の手で屠るのは、大変苦しく辛い経験でしょう。
それは一種の罰かもしれない。
そして、「こういう苦しい思いをするなら、もう、罪を犯すことはできない」と人が決意するように導くかもしれません。
また同時にそれは、神様が、動物の命よりも遥かに人間の命を大切にしている、ということをも表しているのです。

「私の罪のゆえに、一つの動物の命が奪われる。」
今読んでいる3:21は、この旧約における罪の贖いの方式を示しています。
さらには、新約のイエス様の十字架も示しているでしょう。
エス様もまた、私たちの罪の身代わりとなって十字架上で血を流され、死なれたからです。
そして、この箇所で忘れてはならない重要な点は、ここに、神様の特有の救いの方法が示されていることです。
どいうことかというと、「罪を代わりに引き受ける存在、それを神様ご自身が用意する、そして、赦しを一方的に与える」ということです。
ちょうどアブラハムがイサクを捧げようとするときに、神様が身代わりとなる羊を用意したようにです。
アダムもエバも、自ら動物を殺そうとしたわけではないでしょう。
神様が一方的に動物を殺し、その皮によって衣服を作ったのです。
ヘブライ語では、「赦す」という言葉と「覆う」という言葉は同じ単語を用います。
神様自身が、罪を赦すためのあらゆる準備をして、そして、罪を一方的に赦し、罪を「覆って」、罪を見えなくしたのです

娘が生まれて、その成長の速さに驚いています。
それと同時に、自分の子供の頃を思い出すことがよくあります。
親目線で子供の成長を見ると、一年、一年がとても早く過ぎ去っていきます。
でも子供の頃のことを考えると、一年はとても長く感じていたと思うのです。
だから、親から見ると「まだまだ子供だ!」と思っていても、子供の方では「もう自分は大人と同じようにできるんだ!」と思ったりする、そういうズレが出たりします。
そして、自分の子供の頃のこと、また思春期のことを思い出すと、ずいぶん色々悪いことをしていたものだ、と思うのです。
それは、もちろん大人になってから私のことを知っている人は、知らない。
私自身も、ほとんど忘れてしまっていたりする。
でも、たしかにそういう悪いことをしていた、それは確かなのです。
そいういう罪のほとんど全ては、「覆われて」います。
誰の目からも、自分の目からさえも「覆われて」います。
「覆われている」ので、何事もなく平和に過ごすことができます。
しかし、果たしてそれで満足していいのだろうか?

ヨハネス・クリュソストモスというギリシア教父がいます。
ちょうどアウグスティヌスと同時代の人です。
彼がこの箇所でしている説教の中で、この神様がアダムとエバに着せた皮の衣は、彼ら二人に自分たちの不従順を思い起こさせることになっただろうと語っています。
この指摘はすごく意味深いですね。

エス様を信じる前のことはひとまずおいておくとしても、イエス様を信じるようになった後、罪とは、基本的には「不従順」のことです。
何かをするかしないかの問題ではなく、私の「心」が、神様の御旨に従おうとしたか否かの問題です。
それは、誰の目にも「隠れて」います。
不従順は、私と神様だけが知っていることです。
他人に対しては、「主の御心ではありませんでした」とか、「主の導きがありませんでした」とか言っておけば、ごまかせる、というか「隠す」ことができます。
しかし不従順は、他人はごまかせても、私と神様をごまかすことはできないのです。

ところが神様は、恵みによって、私のそのような不従順を「覆って」くださいます。
問題はそこです。
そのとき、「どのような心の姿勢を取るのか?」が信仰的には大切なのです。
ここで、先程のクリュソストモスの言葉が意味を持ちます。
私たちは、罪を神様に覆っていただいて、そして「平和」な生活を送っています。
そのときに、その「平和」な生活を、ただ単に「ラッキー」なこととするのではなく、神様の恵みとして受け取る、つまり、ちょうど「皮の衣」と同じようなものとして受け取るのです。
すると、その平和な生活は、私の不従順が赦された「結果」与えられているものとなるでしょう。
そのときには、私はその平和な生活を、神様の「憐れみ」として受け取り、自分の不従順にもかかわらず神様が「覆い」をかけてくださっていることに、感謝を抱くようになるでしょう。
そのとき私たちはどうするのでしょう?
密室の祈り――つまり、誰にも気づかれない、心の奥深くでの祈りをするようになります。
危機のときに動き出すのは、誰でもすることです。
危機ではないとき、つまり平和なときに動き出すとき、人は本物なのです。
私たちは、イエス様を信じるものとして、本物であるようにしましょう。
平和なときに密室で祈り、そして私と神様だけが知っている罪を悔い改め、生き方を変える。
それこそが、イエス様に真実に従う姿勢なのです。
私たちは、一見穏やかで、何事もなく時間が過ぎている、その「平和なとき」を真剣に受け取るようにしましょう。

 

 

3.神は二人を追放した。

最後に、神様は、アダムとエバを楽園から追放しました。
憐れみをもって二人を追放しました。
最後にこの点を確認します。
3:22を読みます。

神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記3:22)

この箇所は昔から難解なところとして有名です。
というのも、普通に読み進めてみると、ここで神様が語っている内容からは、蛇が言っていたことが正しいように思われるからです。
創世記3:5の蛇の言葉は、「善悪の知識の木の実を食べると、神様と同じように善悪を知るようになる」ということだけを語っているわけではありません。
その言葉は暗に、神様はアダムとエバが、ご自分と対等な存在になることを望んではいない、アダムとエバがいつまでも「従属的」な存在であることを望んでいる、そのために「食べたら死ぬ」という脅しの言葉も語った、ということも語っているのです。
つまり、神様が「自分本位」で「嘘つきだ」、ということを示唆しているのです。
そしてこの3:22を見ると、確かに神様は、人間がご自分と等しい存在になることを望んでいないように見えるのです。
「永遠に生きることがないようにしよう」ということの理由が書かれていないだけに、余計そのように見えます。
ところで、こうした解釈は、たしかに創世記3章だけを見るならばそれなりに成立します。
しかし、聖書全体を見たときには、つまり、神様が人間を救うという聖書全体に一貫しているメッセージを踏まえたときには、逆に成立しません。
では、聖書全体と一致した形でこの箇所を解釈するにはどうすればいいのでしょうか?

この箇所に関する注釈を読むと、はじめに出てくるのが、「人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」という言葉を、皮肉と考える解釈です。
私の調べですと、カルヴァンや、先程語ったクリュソストモスにまで遡れる解釈です。
皮肉というのは、文字通り語っている言葉と逆の意味を伝える言い方ですね。
あまり美味しくない料理を食べて、「とても美味しくて、頭がくらくらするほどです!」みたいに言うことです。
このように考えると、たしかにある部分では問題がなくなります。
しかし私は、神様が「皮肉を語る」というのはどうも神様のご性質から考えておかしいのではないかと思います。
「皮肉」というのは、ちょっと嫌味な攻撃の仕方です。
それは神様の方法ではないように思います。
神様はほとんどの場合で、もっと直接的に語っています。
非難する言葉も、間接的にではなく、直接に語ります。
そのように飾りっけなくストレートに非難するところにこそ、神様の愛があります。
皮肉というのは、そういう神様の人間に対する接し方、他の聖書の箇所でたくさん見られる接し方とは相容れないです。

だから、この「人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」という言葉は、皮肉、つまり、本当は「嘘」だという言葉ではなく、まさにそのとおり、文字通りに受け取るべき言葉なのです。
そのように受け取るとき、どのように理解できるのでしょうか?
私はこの点では、アメリカのジョン・マッカーサー先生の解釈が妥当だと考えています。
その解釈のポイントは2つあります。
一つは、「善悪を知る」という言葉の内容に関してです。
アダムとエバは、たしかに善悪を知ったのです。
ただしそれは、彼らが「罪を犯す」ことを通じて、体験的に知ったものでした。
罪を犯すことで、悪の恐ろしさ、そして善の価値を体験的に、身震いするような恐ろしさとともに知ったのです。
自分たちがしたことの影響の大きさを知り、恐ろしさ、後悔、いろんなものを感じたでしょう。
神様は、最初から悪の恐ろしさはご存知です。
しかし人間は知らない。
だから誘惑されて、罪を犯し、善悪の本当の意味を知るようになった。
アダムとエバは、こうした意味で、たしかに「善悪を知るようになった」のです。

二つめのポイントは、神様がこの言葉を語るときの「感情」に関わっています。
マッカーサー先生は、神様は「憐れみ」の心から語っていると言っています。
先程の「皮肉」とする解釈ですと、神様の心は「非難」「攻撃」「軽蔑」だとされます。
しかしマッカーサー先生は、ここでの神様は、罪を犯し、善悪を体験的に知るようになった人間に対して「憐れみ」を抱いていると考えます。
私もこの解釈が妥当だと思います。
言い方で表現できるかどうかわかりませんが、やってみます。
「皮肉」とする解釈ですと、こうです。
「善悪を知るようになったんだとさ! へー、おめでたいことだ! 拍手!」
「憐れみ」とする解釈ですと、こうです。
「善悪を知るようになってしまったのか。かわいそうに......。」
うまくニュアンスの違いが伝わったかわかりませんが、ともかく神様は、罪を犯し、事の重大さを知って恐ろしくなったアダムとエバに対し、憐れみを抱いているのです。

そこで、22節後半の言葉も、その流れで理解できます。
神様がアダムとエバを命の木から食べられないように、楽園から追放するのも、神様の憐れみ、ご配慮からなのです。
もしアダムとエバが命の木の実を食べて、永遠に生きるものになってしまったらどうなるでしょうか?
彼らは依然として罪を犯しやすい状態であり、また、二人の関係も、前回述べたように、創造された当初の状態とは異なり、支配と隷属によって成り立つものに変わってしまいました。
それはつまり、不幸で、苦しみの多い生活を意味します。
そういう苦しみの多い状態で「永遠に生きる」ことになるのは、それこそ激しい罰と言えるでしょう。
やはり「永遠に生きる」場合には、「幸せな状態」で生きたいものでしょう。
神様は、苦しみが永遠に続くことのないように、憐れみを持って二人をエデンの園から追放したのでした。

「憐れみを持って追放した。」
何か奇妙な感じがしますね。
「追放」という言葉はネガティブなイメージがあるので、それと「憐れみ」というのは、どうも調和しないように感じます。
ところが、「追放」をもう少し一般化して、「自分がいたいと思う場所にいられなくなること」と捉えるとどうでしょう?
そうしたケースは聖書では数多くあることに気づくでしょう。
例えばダビデは、サウルに仕え、イスラエルに勝利をもたらしていましたが、あまりにも勝ちすぎることで、人々からの人気が高まり、それによってサウルから嫉妬を受けるようになります。
そしてサウルから殺されそうになり、イスラエルから逃亡することになります。
また、使徒言行録を見るならば、パウロがある地域で宣教を行っていたら、ユダヤ人たちによる迫害が強まり、もはやそこに滞在することができなくなってしまい、別の場所に移動する、というケースを何度も見ることができるでしょう。
出エジプト記モーセもそうかもしれません。
エジプトで成長し、奴隷とされたユダヤ人がエジプト人虐げられているの見て、そのエジプト人を殺してしまい、そのことでエジプトにいられなくなり、ミディアンの荒れ野に逃亡します。
このように、聖書には「自分がいたいと思う場所にいられなくなる」出来事がたくさん描かれています。
忘れてはいけません、一番大規模なのは、バビロン捕囚ですね。
南ユダがバビロンに滅ぼされて、大量のユダヤ人たちが捕虜としてバビロンに連れられていきます。
彼らもまた、「いたいと望む場所」、つまり故郷から追放された人々でした。

「自分がいたいと思う場所にいられなくなる」。
これは苦しく、つらい経験ですね。
例えば、「家」のことを考えてみましょう。
自分がずっと住んでいた家は、きれいでも汚くても、ともかく「居心地」がいいですね。
すべてのものが慣れ親しんでいて、どこに何があるかも知っていて、なんなら、目をつぶっても歩くことができる。
また、それぞれの部屋や、家具や、あるいは柱や壁には、みんな思い出がある。
私の娘が、本が好きで――というのは、読むのが好きなのではなく、本をぐちゃぐちゃにするのが好きで、家族で毎朝読んでいる『ハイデルベルク信仰問答』もぐちゃぐちゃにしてしまうのですが、昔だったら、そういう本を見たら、ただ単に「あぁ、残念なことになったなぁ」と思ったところです。
もしかしたら、「もう一冊同じ本を買おうかな」と思ったかもしれません。
ところが今では、ぐちゃぐちゃになった本もまた大切な思い出となっています。
家には、それこそいろんな傷があるものですね。
でもその色々な傷が、単なる「欠点」ではなく、家族が生きて、共に成長してきた証、大切な思い出となっているのです。
色んな思い出や記憶が「家」には詰まっている。
そればかりではありません。
家から見える風景、家の中で聞こえる外の様々な音。
家の外を出歩いたときに色々目にする風景、回りにいる人々。
そのような環境も、私たちの人生の一部となり、私たちの生活や「心」を気づかないところで支えているのです。
だから、そういう「家」にいられなくなってしまうということは、とてもつらい経験なのです。
それは、大きな喪失の経験となるのです。

ある家にいられなくなる。
ある町にいられなくなる。
ある地域にいられなくなる。

「憐れむなら、今の私を憐れんでくれー!」と言いたいかもしれません。
にもかかわらず、です。
にもかかわらず、にもかかわらず、今日の本文が示しているのは、神様が人間を「憐れむがゆえに」その人間を追放する、つまり、「いたいと思う場所にいられなくさせる」ことです。
また、先程言及した他の聖書箇所を踏まえるならば、全てが「神様の計画の一部」となっているのです。
たとえ今の私たちにはそれが見えないとしても、見えないが故に、ただ単に追放される苦しみだけが感じられるとしても、です。
私たちはそれを信じないといけません。
私たちには見えていなくとも、神様は見ていることを信じ、信頼しないといけません。
ヤーウェ・イルエ、主は見ており、備えてくださっているのです。
モーセは、ミディアンの荒れ野にいるときに謙遜さを学びました。
パウロの場合、ある地域にもはや滞在できないという仕方で、宣教が拡大していきました。
全ては神様の計画の中にあるのです。


エレミヤは、イスラエルの人々が、バビロンに抵抗するよりも、むしろ従い、バビロンに連れられていくことを語った預言者でした。
そのエレミヤの慰めに満ちた預言を最後に読みます。

諸国の民よ、主のことばを聞け。
遠くの島々に告げ知らせよ。
イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。
主はヤコブを贖い出し、
ヤコブより強い者の手から、
これを買い戻されたからだ。
彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、
主が与える良きものに、
穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。
彼らのたましいは潤った園のようになり、
もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、
若い男も年寄りも、ともに楽しむ。
「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
祭司のたましいを髄で潤す。
わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。
――主のことば。
(エレミヤ31:10−14)