Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

カインの何が悪かったのか? 創世記4:3-7

 

おはようございます。
読んでもらった聖書の箇所は3-7節ですが、今日の内容的には、1-15節までです。

まず簡単にこのカインの物語全体を振り返りましょう。
アダムとエバとの間に生まれた最初の子供がカインでした。
カインの名前の由来については、ヘブライ語のカーナー(獲得する)に由来していると考えるのが一番無難です。
他にも、4章の後半を見ていくと、カインの子孫として音楽をする人や製鉄に関わる人が出てきますが、楽器の名前や製鉄業の名前と、カインという名前が似ているケースが指摘されたりもします。
アベルの名前は、ヘブライ語ではへベルと言うのですが、これは「息」や「はかないもの」などを意味する言葉に由来していると考えられています。
そのカインとアベルが、ある日、神様に献げ物をしました。
そのときに、神様はアベルとその献げ物には目を留めましたが、カインとその献げ物には目を留めませんでした。
それでカインは怒ります。
その後カインはアベルを殺します。
そしてカインは神様から問い詰められ、裁きを受けます。
カインが、その罰はあまりにも重すぎると語ったので、神様はカインにあるしるしをつけて、カインが殺されないようにしました。
カインはもともと住んでいた地から追放され、ノデという場所に住むことになります。
これがカインの物語のアウトラインです。

今日は、「カインの何が悪かったのか?」というタイトルにしていますが、カインの過ちを3点確認していきます。
それぞれは私たちにも関係するものなので、カインの過ちを確認しながら、私たち自身の信仰の歩みを整える時間になればと思います。


1.カインの過ち:初物を献げなかった

カインとアベルの話を読みながら、おそらく誰もが疑問に思うのは、「なぜ神様はアベルとその献げ物には目を留めて、カインとその献げ物には目を留められなかったのだろうか?」という点だと思います。
確かに、明確に理由が書かれていないので、すごく不可解な感じがします。
これについては、色々な解釈が出されているのですが、伝統的な解釈でいいでしょう。
つまり、アベルは「初子」を献げたのに対し、カインは、農作物のただ「一部」だけを献げた、その違いが、神様の態度の違いになったという解釈です。
4:3は、日本語はちょっと言葉が足りないのですが、正確に訳すと、「大地の実りの一部」です。
カインはあくまで、収穫した農作物の、ただの「一部」を献げただけで、「初物」を献げたわけではありません。
ユダヤ人たちの伝説では、カインは、収穫した農作物を消費したうえで、「残り物を献げた」とも言われています。
ともかく、「初物」ではなく「ただの一部」をカインは献げました。
それに対しアベルは、「初子」を献げました。
この違いです。
旧約聖書を読み進めると、「初子」や「初物」というのが「神様のもの」という考えが至る所にあることに気づくと思います。
例えば出エジプト13章や23章を後で見てみてください。
こうした規定が明確に語られるのは出エジプト記以降になりますが、このように「初子」や「初物」を特別に神様のものとする考え方は、もっと前から存在していたと考えてもよいでしょう。
アベルは、このように神様の望まれる献げ物をしたのに対し、カインはそうではなかったのです。
これが、神様がアベルとその献げ物には目を留め、カインとその献げ物には目を留めなかった理由です。

これは私たちにも教えるところが多いと思います。
カインとアベルの話は、ユダヤ人の間では伝統的に、祭司の働きを教える文脈で読まれてきました。
この箇所が、聖書で初めて、人間が神様に「献げ物をする」話を記録しているからです。
ところで一つ注意しないといけないのは、カインとアベルの話の中で使われている「献げ物」という言葉は、「贈り物」(創世記3:21)や「貢物」(1列王記4:21)という言葉に近い言葉だという点です。
日本語で「献げ物」と訳される言葉にはいくつかありますが、最も広い意味での「献げ物」はコルバンです。 
レビ記で「全焼の献げ物」と訳されている単語はオーラ―です。
カインとアベルの物語で使われる「献げ物」はミンハーという単語で、これは献げ物の文脈では「穀物の献げ物」を指すことが多いです。
それ以外では、「贈り物」や「貢物」の意味で使われます。
これは、立場の下の人が上の人に何か贈り物をする場合のものについて言われる単語なのです。

このことはとても意義深いですね。
聖書で初めて書かれている「献げ物」に関する記述が、いわゆる「いけにえ」を書いているわけではなく、「贈り物」について書いている。
罪を消し去るための儀式が初めに書いてあるのではなく、「贈り物」が書いてある。
これは、私たちの神様との関係の基本的なところに、「贈り物」を与える、あるいは贈り物が「与えられる」という関係があることを示唆しているでしょう。
とても興味深いことです。

私たちは教会で礼拝や献金や奉仕をしたりします。
これはプロテスタントカトリックとの違いともいえますが、私たちが行う礼拝や献金や奉仕は、自分の罪を滅ぼしたり、罪を償ったりするための献げ物ではなく、意味合いとしては、「贈り物」、今日の本文で使われているミンハーというものですね。
罪を滅ぼす力は、私たちにはありません。
エス様が十字架上で流された血だけが、私たちの罪をあがなうことができます。
私たちはそのイエス様によって罪が赦されたことで、神様の子供となりました。
そして、神様に「贈り物」をすることができる、そういう関係になったのですね。
その「贈り物」として、礼拝や献金や奉仕というものがあります。

今は「贈り物」としての「献金」、あるいは「初物」としての「献金」とはどういうものなのか、考えてみます。
家畜を飼っていて「初めて生まれたもの」は分かりやすいですね。
農業をやっていて「初物」もわかりやすいです。
では、今ほとんどの人がそうであると思いますが、毎月給与を得る人間にとっての「初物」とはいったい何でしょうか?
一定額のお金にとっての「初物」、これを考えてみたいのですね。

ところで、「初物」を献げるということには、どういう意味があるのでしょうか?
「初物」が特別だという感覚は、旧約聖書の世界だけではなく、結構一般的に共有されているようにも思います。
ノンクリスチャンの日本人でも、よく、就職した最初に得た給与で、両親にいくらか贈り物をするケースがあります。
働いて得たものの「最初のもの」を、自分にもっとも「恩恵」を与えた人、つまり恵みを与えた人にお返しする、ということです。
「最初のもの」を「贈り物にする」という点に、その人の感謝の強さが現れているのでしょうし、だから、両親に、「自分を育ててくれてありがとう」という意味を込めて、「最初のもの」を贈り物にするのでしょう。
「初物」は、ここでは「感謝を表す」意味があると言えます。

旧約聖書を見ると、「初物で最上のもの」という表現も出てきます。
しかし、「初物」が必ずしも「最上のもの」、つまり品質において「最高のもの」だとは限りませんね。
今年もサンマはとれていますが、「初物」は結構小ぶりのものが多いと聞いています。
「最上のもの」は、もしかすると「初物」ではなく、もっと後にとれたものになるかもしれません。
それでも大切なのは、「最初のもの」を贈り物にすることなのです。
そこには、おそらく「神様への信頼」を表すという意味もあるかもしれません。
特に家畜の場合はそうですが、「初子」が生まれたからと言って、そのあとも子供が生まれるとは限らないでしょう。
「初子」が「最初で最後」かもしれません。
それでも「初子」を神様に捧げるということは、「そのあとも子供が生まれる、神様は子供を与えてくださる」と信頼する、ということを意味します。
従って、初子・初物を捧げるということには、どうやら神様への感謝と信頼が現れているのだろうと考えられます。

それでは、毎月の給与からの「初物」とはいったい何でしょうか?
これはみなさん考えてもらっていいと思うのですが、私は、こういう風に考えられるのではないかと思います。
つまり、「給与が入ったときに、そのお金を何に使いたいか、そこで最初に思い浮かんでくるものが私たちの関心を表している」
そして、「最初に浮かんでくるものが神様のためのものならば、私たちは初物を捧げる準備ができている」
そのように考えられると思います。

間違っている例を話しますと、クリスチャンでそういう人はいないと思いますが、給与が入って、さんざん自分の使いたいもののためにお金を使って、また貯金もして、そして「余ったお金」を献金する。
これはちょうど、ユダヤ人の伝説の中にあるカインのような振る舞いですね。
「余り物」を贈り物にする。
これは神様を愛してもないし、感謝もしていない態度です。
また、多くのクリスチャンがそうしていると思いますが、給与が入ったときに、あらかじめその月に捧げる献金を取り分けておく。
十分の一献金や感謝献金、それをあらかじめ計算して準備する。
これはすごく正しいのですが、どうも、それで本当にいいのかな?とも思うのです。

私の家庭では、給与は全部夫婦の共有の口座のほうに入り、私が自由に使えるお金は、お小遣いとして私に来ます。
それで、最近自分を振り返って情けなくなったのですが、「自分にお金が入ったらこれに使いたいな」と思ったその内容が、ヘッドフォンとかスピーカーとかミキサーとか、自分を豊かにするためのものばかりだったのですね。
どこかの宣教師を支えるとか、どこかの団体をサポートするとか、あるいは神学書を買うとか、そういうことは1ミリも頭に入ってこない。
これはひどいことだなぁと思いました。
神様が私たちの「心」を見るお方だとするならば、神様が見ているのは、私たちが形式的に一定の金額を「献金のため」として取り分けておく、ただそれだけではなく、「収入が入ったら神様のためにどんな風に使おうか?」という気持ちが、私たちの心の中でどれほど大きいか、ということでもあると思うのです。
誰かを愛しているという状態は、そういうものだと思います。
そして、愛している存在のために「どんなふうにお金を使うか」、それを考えて、想像して、ワクワクする。
これが主に対しても当てはまります。
どれほどワクワクしているか、「主のためにお金を使う」ことをどれほど待ち望んでいるか、「主のためにお金を使う」ことで生まれる変化をどれほど想像しているか――「愛している」とは、心がそういう状態であることであり、神様はそういう心を見ていると思うんですね。
そして「初物」を捧げるということは、心がまさにそういう状態になっていることで、「主のためにお金を使いたい」と、主が最優先になっている状態なのです。

カインは、神様に「初物」を捧げるという点で間違っていました。
私たちも同じように間違うことがあります。
余りものをささげたり、心が冷えて切っていたりします。
そうであってはいけません。
神様はあくまで私たちの「心」を見るお方なので、私たちは心において、「収入が入ったら神様のためにこんな風に使いたい」という気持ちがいつも豊かであるようにしましょう。

 

2.カインの過ち:アベルと比較した

カインが間違っていたことの一つは、彼が「初物」を神様に捧げなかったことです。
もう一つは、カインが神様を見るのではなく、アベルを見ていたことです。
つまり、カインは、自分の献げ物が神様との関係の中で、単純に神様に認められようとしたのではなく、「アベルとの比較の中で」認められようとした、ということです。
ここにカインの過ちがあります。

ちょっと思考実験してみましょう。
もしアベルがいなくて、カインと神様だけがいた場合にはどうなっているでしょうか?
たぶん神様は、前々から「献げ物をするのならば、こういうものでなければならない」ということは伝えていたでしょう。
神様はそういうお方ですから。
そしてカインが、間違った献げ物をしたなら、やはり神様はそれを受け取らないでしょう。
そのときには、カインは単純に、「自分が間違った献げ物をしたんだな」と悔い改めるか、あるいは、「献げ物を準備する際の自分の心持が悪かったのだな」と悔い改めたりするでしょう。
ところが、ここにアベルが加わると、こういう単純さがなくなってしまいます。
両方とも受け入れられたり、両方とも受け入れられなかったりした場合にはそれほど問題ではありません。
聖書で描かれているように、一方だけが神様に認められ、もう一人の方は認められない場合に問題が大きくなります。
これも思考実験ですが、もし、カインの献げ物とカインが認められ、アベルの献げ物とアベルが認められなかったら、カインはどういう気持ちになったでしょうか?
あくまで想像です。
「神様は、アベルよりも俺の方を愛しているんだな!」
アベルよりも俺の方が、いいものをささげたんだ。だから神様は俺の方を認めたんだ。」
カインはこういう気持ちになるのではないかと思います。
こういう感じ方の根底にあるのは、「ほかの人と比べて自分はすごい」という考えですね。
比較する人数が増えればますますそのことははっきりするでしょう。
自分の献げ物が認められたら、「この人、あの人、その人、その他みんなよりも、『自分はすごい』」という気持ちになるでしょう。
これは、神様という基準で自分は認められた、そういう「絶対評価」ではなく、他の人々との比較で自分は認められた、そういう「相対評価」をしているのです。
だから、自分が認められて「喜んだ」としても、その喜び方は「間違っている」のです。
喜ぶべきなのは、自分の献げ物が神様に認められたこと、また、その献げ物を準備する際にも、適切に準備する心が守られ続けたこと、そのように神様が守ってくださったこと、そのことを喜ぶべきなのです。
「ほかの人に比べて自分が優れている」ことは、喜ぶべきことではないのです。
もちろん、「ほかの人に比べて自分が劣っている」ことも、悲しむべきことではないのです。
神様の前では、私たちはみなそれぞれ、個別に、愛される存在なのですから。

ちょうど新約聖書で、イエス様が、たとえ話のなかで語ったパリサイ人の祈りが、他人との比較で喜んでいる姿を現していますね。
ルカ18:11-12はこう語っています。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」

このパリサイ人は、自分をほかの人々と比較して優れていると感じ、それに喜び、そのことで感謝の祈りをしています。
このパリサイ人の姿勢について、イエス様は「自分を高くしている」と評価します。
感謝をしていますが、この祈りは、その心の在り方の点で間違っているのです。

今日読んでいる箇所では、実際には、カインは、自分の献げ物が受け入れられなかったことで悲しみました。
神様という絶対的基準を前にして、自分の過ちがあるがゆえに悲しんだのではなく、「アベルは受け入れられたのに自分は…」という風に、他の人との比較の中で自分が劣っていると考えたので悲しんだのです。
そして、おそらくその悲しみは、屈辱だったのでしょう。
自分のプライドが傷つけられる出来事だったのでしょう。
そのプライドが傷つけられた怒りを、カインは外に発します。
神様に発したでしょうし、また、アベルにも発することになりました。

ユダヤ人の聖書解釈や伝説が入り混じった文献に、タルグムというものがあります。
そのタルグムの中では、カインがアベルを野に連れ出したのち、そこで口論を始めている内容が書かれています。
それはおよそこういう内容です。
カインが、「世界は神の憐みによって創造されたのでもないし、御言葉によって導かれているのでもない。また神の裁きにはえこひいきがある」と言うと、アベルは、「世界は神の憐みによって創造されたし、御言葉によって導かれている」と言って、カインの考えを否定します。
そしてカインが、自分の献げ物が神様に受け入れられなかったのは、神様がアベルをひいきにしているからだと言うと、アベルはそれを否定し、自分の献げ物がカインのものより良かったからだ、と反論します。
ついにカインは、「最後の審判なんて存在しないし、あの世なんて存在しない。善人への報酬も、悪人への罰も存在しない」と言うに至ります。
これもアベルは否定します。
そしてカインはアベルを殺す。
こういったことがタルグムに書いてあります。
新約聖書を見ると、アベルが最初の殉教者のように語られる箇所がありますが、それはこのような伝説を踏まえているのでしょう。

このタルグムの内容を見ると、カインが神様に怒っているのが分かるでしょう。
「神の裁きにはえこひいきがある」と言うのです。
ついには、最後の審判までも否定し、無神論者であることを宣言するに至ります。
そして、正論を言い続けたアダムを殺します。

このカインの姿は、結構身に覚えのある方も多いのではないでしょうか?
というよりは、こういうカインの心と同じような心を持ったことのない人の方が少ないだろうと思います。
誰もがカインと同じような心を持っています。
カインと同じような嫉妬や怒りが生まれるのは、とても簡単です。
「どこそこの人が、めっちゃ活躍している!」
もうそれだけで、自分の心の中のカインがムクムクと活動し始めます。
「くそっ、俺とあいつ、何が違うんだ! 俺の方がいい作品を作っているのに!」
「なんであんな作品が売れるんだ! 全然クォリティが低いじゃないか!」
あるいは、誰かが評価されただけでも、私たちのカインは活動し始めます。
「なんであの人があんなに評価されるの? 私だって同じだけ、いやそれ以上に頑張っているのに!」
そういう考えを突き詰めていくと、最終的にはタルグムの中にあったカインと同じようなセリフを言うようになります。
「神様は不公平だ!」

神様が公平なのか不公平なのか、それを判断する立場に、私たち人間はありません。
ただし、私たちは、カインのようになってしまってはいけない、ということはここで言えるのです。
カインのようになるとは、つまり、他の人々と比較して喜んだり悲しんだり、調子に乗ったり落胆したり、機嫌がよくなったり恨んだりする、そういうことです。
そして結局は、神様を基準にして自分を見るのではなく、他の人々を基準にして自分を見ることです。
これは間違っているのです。

私たちは、他の人々を基準にして喜んだり悲しんだりするのではなく、神様を基準にしないといけないのです。
他の人と比較してどうか、ではなく、神様が私に求める姿と比較して、今の私はどうなのか、それを考えないといけないのです。
第一コリント12:4-11を読みましょう。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ聖霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒しの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(第一コリント12:4-11)

私たち一人一人に、神様から与えられた賜物があります。
またそれは、神様から与えられた召命でもあります。
単純に言えば、神様から与えられた人生、一人一人が違っていて、オリジナルで、違う道を歩む、特有の人生です。
ある人は、今は坂道を歩いているかもしれない。
ある人は、坂道を下っているところかもしれない。
ある人は、森の中の、草で覆われた道を歩いているのかもしれない。
それぞれ違う道を歩んでいるのです。
今坂道を歩いている人が、坂道を下っている人を見たら、「いいなぁ。うらやましいなぁ。なんで俺は、くそっ!」となるかもしれません。
そしてそこで、坂道を歩むのをやめてしまったら、本当にそれで終わってしまいます。
私たちは、自分の道を歩むのをやめてしまってはいけないのです。
だから、他の人を見るのではなく、神様を見るのです。
エス様を見るのです。
そして、イエス様が望まれるとおりに歩んでいくのです。
これが、カインと同じ過ちを繰り返さないために私たちがすべきことなのです。


3.カインの過ち:神様の赦しを信じなかった

カインの過ちの三つめは、神様の赦しを信じなかった点です。
創世記4:6-7を読みます。

主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

この7節は、「創世記で最も判然としない節」と評されるほど、理解しづらい文章です。
7節の前半「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」が、難しいのです。
例えば、新共同訳はこう訳しています。
「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
ちょっと文章の解釈のプロセスは省いて、結論だけを述べますと、私は次のように翻訳するのがいいと思います。
「もしあなたが良いことをするのなら、罪の赦しはないだろうか?」
そのあとは新改訳2017と同じで大丈夫です。
こうした理解だと、この7節はどう意味になるのかというと、こうです。
「もしあなたが良いことをするのなら、罪の赦しはないだろうか?
――良いことをするなら、神であり主である私は、あなたを赦さないだろうか?
いや、もちろん赦すだろう。
しかし、もし良いことをしないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。
――つまり、良いことをしないのなら、罪への誘惑があなたの心の扉にやってきて、あなたを罪へと誘うことになるだろう。
あなたはその罪への誘惑と取り組むことになるだろう。」
こういう意味です。
そして8節以降は、カインが「良いことをしなかった」ことの結果が書いてあると考えることができます。

神様は、怒りを抱いていたカインをそのまま放置しておくことはしませんでした。
放置しないのは神様の愛なんですね。
そしてカインに、「良いことをするなら、罪の赦しはあるし、しないなら、罪への誘惑にさらされることになる」と語ります。
これは、例えばこんな感じですね。
親がご飯を用意したけど、子供がそのご飯を食べたくないと言い張る。
その子供に対して親が、「食べたいなら、いつでも用意はあるけど、食べたくないなら、おなかが減って苦しむことになるよ」と言っているような感じですね。
可能な事実を示して、「あなたはどちらを選ぶの?」と聞いているのです。
神様は、あくまでカインの自由を尊重するのです。

カインはどう思ったでしょうか?
先ほど軽く言及しましたが、神様に献げ物をする場合は「初物」を献げるということは、たぶんカインは知っていたのでしょう。
なので、カインは、自分が「間違ったことをしてしまった」ことにはうすうす気づいていたと思います。
しかし同時に、自分の献げ物が無視され、アベルの献げ物が受け入れられたことへの怒りも感じている。
だから、カインの心では、「自分を正しいとする」か、あるいは「自分の間違いを認める」か、その両者で葛藤があったのです。
献げ物の件で、怒りを感じる。
怒りを感じるということは、「自分は間違ったことをしていない」「自分は正しい」と思っているからです。
「自分は正しく献げ物をした。それなのに、神様はえこひいきをしてアベルの献げ物だけ受け取った。許せない!」
そういう思いが、一方で心を占めています。
他方では、「初物を献げるべきだったのに、自分はそれをしなかった」とも感づいており、その場合には、「自分は間違っていた」ことになります。
自分をあくまで「正しかった」とし続けるのか、あるいは、自分の「間違い」を認めるのか、それをカインは選ぶことができました。
そして、おそらくカインは、自分の間違いを認めた場合に与えられる「罰」を恐れていたのではないか、と思います。
だから神様は、「良いことをするなら、罪の赦しはある」とカインに語ったのだろうと思うのです。
ちなみに、その場合の「良いこと」というのは、「罪の告白」のことです。
自分の過ちを認めるのは、苦しいことですね。
プライドの高い人間ならなおさらそうです。
さらに、過ちを認めたら、「罰」も与えられるかもしれない。
そうであるなら、自分に過ちがあった可能性はもう見なかったことにして、「神様は不公平だ!」という考えを主張するほうが安全で快適ではないか?
――カインはそう考えたのではないでしょうか?
それに対して神様は、「いや、罪を認めるならば、当然赦しはある。逆に、認めないならば、楽な人生になるどころか、罪への誘惑でお前は苦しむことになるし、さらにひどい状態に陥っていくのだぞ」、そういう風に言っていると思うのです。
神様は、「お前の目には、自分の罪を認めない人生の方が幸せに見えるかもしれないが、それは真実ではないのだ。自分の罪を認めて、赦しを得たほうが、はるかに幸せな人生になるのだ。どうかそれを分かってくれ」と言っているかのようなのです。
カインとしては、「本当に赦してくれるんですか?」という思いがあるでしょう。
神様は、「赦しは当然ある」と断言します。
でも、恐れに取りつかれた人間は、「本当に? 本当に?」と疑い続けます。

こうした神様とカインとのやり取りというのは、私たちも心の中でしていることでしょう。
そして、カインと同じような葛藤を抱えるでしょう。
自分を正しいとするのか、それとも、自分の過ちを認めるのか。
どちらを選ぶかによって、私たちの人生は変わっていきます。
そして私たちは、やはり、カインと同じ歩みをしないようにしていきましょう。
ところで、私たちには、カインとは違う有利な点があります。
それは、イエス様の十字架の死と復活を歴史的出来事として知っていることです。
私たちのあらゆる罪に対する罰を、イエス様は十字架上で引き受けてくださったのです。
だから、私たちにはもはや最悪な罰というのは存在していないのです。
存在するのは、ヘブライ書にあるような、親が子供を成長させるための「お仕置き」程度です。
親は、子供を常に「赦しの目」をもって見るものです。
いつでも赦す準備ができている。
それでいて、子供がしっかり成長するために、必要なしつけはする。
同じような「赦しの眼差し」を、神様は常に私たちに降り注いでいるのです。
エス様を通じて神の子供とされた私たちは、その神様の「赦し」を常に信じていなければなりません。
神様は、私たちがイエス様を信じた時だけ赦したのではなく、洗礼を受けた時だけ赦したのでもなく、昨日も赦し、今日も赦し、明日も赦し、明後日も、しあさっても、将来までずっと赦すつもりでいるのです。
その神様を信頼するなら、罪の告白を恐れることが、少なくなるのではないでしょうか?
恐れは、確かにあるかもしれないし、消えることはないでしょう。
しかし、その恐れに対し、神様が赦しを与えてくださる確信が、少しずつ高まっていくならば、私たちの人生は変えられていくでしょう。
私たちは、神様の赦しを信じながら、この人生を歩んでいきましょう。