Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

主の名を呼ぶ

創世記4:25-26

 

おはようございます。

今日は、「主の名を呼ぶ」という言葉が、今の私たちにとってどのような意味を持つのか、共に考えていきたいと思います。

だいぶみなさんご存知のことが多いとは思いますが、改めて「主の名を呼ぶ」ということのいくつかの次元を考えていきます。

その前に、まずは今日の本文が置かれている文脈を確認しましょう。

 

 

1.本文の位置づけ

 

前回は、アベルとカインの話を扱い、カインが神様の裁きとして追放されるところまで読みました。

カインが追放された後、聖書は、カインの子孫の系譜を物語っていきます。

4:17以下ですね。

その系譜の話が続いていって、23と24節で、少し不思議なエピソードが挿入されます。

レメクが、自分を傷つけた人物を殺した、そのことをアダとツィラという二人の妻に誇っている言葉が挿入されます。

新改訳2017は、「私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す」と、現在形で翻訳していますが、これは普通に読んだら、「殺した」と訳すべきものです。

外国語の翻訳ではそうなっています。

なぜわざわざ現在形で訳しているのかは分かりません。

また、ここでの「一人の男」と「一人の子ども」は、二人の人物のことではなく、同じ人物のことを言い換えていると考えられています。

「子供」という単語も、実際には40歳くらいまでの人物を指したりする場合にも使われている単語なので、文字通り「子供」と考える必要はありません。

ここに出てくるレメクは、自分が受けた傷に対して、77倍の復讐をしたのだ!と誇っています。

このエピソードがここにある理由ははっきりとは分かりませんが、ただ、アダムとエバから始まった人間の罪が、深刻になっている様子は見て取れるでしょう。

 

少し創世記のセクション分けの話をします。

ご存知とは思いますが、聖書の「章」や「節」というのは、後から付け加えられたもので、もともとはありませんでした。

では、どのようにしてそれぞれのセクションを分けていたのかというと、何か特定の言い回しを繰り返したりすることで分けていました。

創世記の場合は、トルドットという単語が、セクションを分ける働きをしています。

それがどこで使われているかというと、まず、2:4です。

「これは、天と地が創造されたときの経緯である」の「経緯」という言葉です。

次に、5:1の「これはアダムの歴史の記録である」の「歴史」という言葉です。

また、6:9の「これはノアの歴史である」の「歴史」という言葉です。

もうお分かりだと思いますが、創世記にはこのように「・・・の歴史である」という言い回しが多いですね。

これは全部トルドットという単語なのです。

ちなみに、このヘブライ語が、70人訳でギリシア語の「ゲネシス」と翻訳され、創世記(ジェネシス)の本の名前となりました。

 

創世記が「トルドット」という言葉で区切られているとすると、先ほどのレメクのエピソードというのは、2:4から始まるセクションの終わりに位置しているのが分かります。

そのセクションの中では、まず神様は人間を創造しますが、その人間は、神様に反逆して罪を犯します。

さらに、その人間の息子たちにおいては、兄弟同士で殺人がなされます。

そして、カインの子孫において、自分が受けた被害に対し、まったく釣り合わない復讐を自慢げに語る人間が出てきます。

セクションの終わりに際し、聖書は、まるで「罪がだんだん深刻になっている」とまとめているかのようなのです。

ところが、その直後に、また別なことを語る。

それが今日の本文です。

そこでは、アダムとエバの間に、セツという子供が与えられます。

そのセツからエノシュが生まれ、5章以下で分かるように、その子孫からノアが生まれます。

ノアは、神様が行う裁きの中にあって、救いを実現する人物です。

聖書は、2:4から始まるセクションの終わりにあたって、罪が蔓延し深刻化する中で、希望の芽生えを語っているのです。

罪が人々をむしばみ続けるそのさなかにあって、そこからの救いがあることを語る。

今日の本文はまさにそういう流れの中にあります。

そしてそこで、ノアに続く人物の誕生とともに語られているのが、「主の名を呼ぶこと」の始まりです。

では、この「主の名を呼ぶ」とはいったい何のことでしょうか?

 

 

2.礼拝する

 

「主の名を呼ぶ」という表現は創世記において何度か登場します。

例えば創世記12:8の後半です。

「彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。」

これが典型的ですが、「主の御名を呼ぶ」というのは、祭壇を築き、礼拝をすることです。

賛美や祈りが含まれていると考えてもよいでしょう。

セツの子、エノシュの時代に、神様を礼拝するという行為が人々の間で実践され始めたのです。

 

「主の名を呼ぶ」、それは、「礼拝する」ことです。

その「礼拝する」ことも、この一年間でずいぶん変化し、また考えさせられるようになりました。

私たち家族が仙台にいるときに通っている教会は、新型コロナウィルスの蔓延を機に、オンライン中心の礼拝に変わりました。

説教者と、一部の奉仕者だけが教会に行き、司会者と説教者でなされる礼拝が映像で配信されます。

インターネット環境のある人々は基本的にはオンラインで礼拝に参加し、そういう環境がなかったり、あるいはインターネット技術を使えない人が実際に教会に行って礼拝に参加するという状態です。

おそらく、そういう風にし始めた教会は、全国、いや全世界的に多いだろうと思います。

そしてこの一年間、オンラインでの礼拝が広がり、ある程度時間がたったことで、そのメリットとともにデメリットもだんだんわかってきたのではないかと思います。

少し参考になる調査結果を見てみましょう。

といっても、残念ながら教会やクリスチャン限定の調査については知らないので、類似したケースとして、テレワークを導入した会社やその社員に関する調査を見てみようと思います。

テレワークも、コロナウィルスのパンデミックを機に、全世界的に拡大しました。

そしてしばらく実行されることで、当初は分からなかった課題がだんだん報告されるようになってきました。

例えば、こういう問題が報告されています。

 

・働きすぎの問題――会社にいたら、適度に他の人とおしゃべりなどして過ごしていたけれど、テレワークだと、そういう時間がなく、働きすぎてしまう、そして疲労が大きくなる、という問題です。

・孤独の問題――これも同じですが、会社にいると自然と他の人との関わりができますが、テレワークだとそういうものがなくなってしまいます。

・切り替えができない問題――会社に行く場合には、出社や帰宅にかかる時間で、頭の切り替えができていましたが、テレワークだとそういう切り替えができず、結果、ストレスのかかる時間が増えてしまうという問題です。

また、これはストレスとも関係しますが、家庭内での女性と子供への暴力、そしてネットなどへの中毒の増加も報告されています。

 

こうした問題の報告は、オンライン礼拝をする教会にとっても示唆的なものだと思います。

共通する問題もあるでしょう。

例えば、孤独の問題というのは大きいですね。

教会に来て礼拝に参加する目的って何でしょうか?

もちろん神様を礼拝するためですが、同時に、他のクリスチャンとおしゃべりするためでもないでしょうか?

今でこそ私は孤独ではないのですが、まだ洗礼を受ける前のことですが、とても孤独な時期がありました。

一週間に、ほとんど人と話をしないです。

話をするとしても、業務連絡的なことだけ、そういう状態です。

そういう時期に、教会に行くと、人間がいるんですね。

これは驚きです。

人間と話ができる――これは、そういう孤独な時期の私にとって、本当に貴重なことでした。

業務連絡でも、事務的な話でも、仕事の話でもなく、個人的なことを互いにやり取りできる。

これは、孤独を感じている人間にとっては、かけがえのない大切な時間です。

当時の私にとっては、本当に単純に「話し相手がいない」ということでしたが、クリスチャンにとっては、「ほかのクリスチャンとおしゃべりする」ことが欠けると、やはり孤独を感じるでしょう。

信仰という自分の最も大切なものを誰とも分かち合えないというのは寂しいものです。

日々生活する中で、クリスチャンだから感じる葛藤や痛み、あるいはクリスチャンだから感じる喜びというのもあります。

そういうのは、同じ信仰を持つ人とでないとシェアできないんですね。

教会に来て共同の礼拝をすることは、そういうクリスチャン同士のシェアリングの機会を提供します。

オンライン礼拝中心だと、その機会を作るのが難しかったり、うまくいかなかったりして、孤独の問題は生まれるでしょう。

 

私個人としては、「切り替えができない」という問題が結構大きいかな、とも感じています。

家庭でオンライン礼拝をしていると、スマートフォンやパソコンを使って、ちょこちょこっと操作するだけで、その礼拝に参加できます。

テレビ番組を変えるように変えられるんですね。

礼拝の映像配信が終わったら、またすぐに映像を変えられる。

こういう言い方で伝わるか分かりませんが、自分の体が「礼拝モード」にならないのです。

教会に行って礼拝する場合は、例えば、朝起きて、ご飯を食べて、ちょっと早めに洗濯をして、などなど、教会に行くための準備を、礼拝の始まる数時間前からしています。

そして車に乗って、駐車場に車を止めて、歩いて、教会に行って、椅子に座って、祈って、と時間を過ごします。

こうした一連の流れのすべてが、頭、心、体、すべてが「礼拝モード」になるための準備なのだろうと思います。

こういう風に時間をかけることで、私たちの心が、ふつうの「日常生活モード」から切り替わって、「礼拝モード」になると思うのです。

そして、その「礼拝モード」になると、ちゃんとメッセージを聞く準備が――心の準備が、集中力も含めて、できるのです。

ところが、自宅でのオンライン礼拝だと、自分自身の「モード」が切り替わらないのです。

いわば、ずっと「日常生活モード」なんですね。

頭だけ、目だけ、あるいは耳だけ、礼拝の様子を見たり、話を聞いたりする。

でも、心も体も「日常生活モード」にいて、ちっとも集中していないのです。

これは問題です。

ある教育学のデータでは、オンライン授業と対面の授業とで、学習効果に違いはないようです。

もしかすると、ただ単に知識を学ぶという点では、違いはないのかもしれません。

ところが、礼拝というのは、私たちの魂に関わり、生き方に関わるのです。

全人格的な変化、つまり、主の御言葉を通じて、聖霊によって新しく作り変えられる、それを備えるのが礼拝です。

そうした礼拝が、オンラインの場合と、実際に教会に来て会衆とともにする場合とで同じなのか、というと、そうではないと思います。

実際に教会に足を運ぶ、その移動の時間、費やしたエネルギー、教会の中でわずかに自由が拘束されること、それらすべてが私たちの心を備えていきます。

また、メッセージを聞くときにも、私たちは、ただ単に「声」を聴いているのではなく、説教者の表情や、振る舞いや、態度や、声の大きさ、イントネーションも受け取るのです。

時には若干の圧迫感なども感じながら説教を聞きます。

もちろん、礼拝中の雰囲気というのもあります。

これらすべてを通じて礼拝がなされます。

言い換えると、言葉だけではなく、声だけでもなく、それらすべてを通じて、「主の心」が私たちにもたらされ、私たちもそれに応答せざるを得なくなります。

こうして礼拝が実現されるのです。

これは、オンライン礼拝では実現できないことです。

 

テレワークの満足度に関する面白い調査がありました。

それによると、満足しているのは中堅社員であり、不満が多いのは20代の若手社員だということです。

会社がどういう風に動いているのか、また、そのなかでの自分の役割は何か、それをしっかり理解している中堅社員は、テレワークに満足している。

ところが、まだ会社全体の動きが分からなかったり、自分の役割が不明だったり、自分の将来のキャリアが分からない20代の社員にとっては、テレワークは不安を大きくするものだというのです。

そして全体としては、完全テレワークでも、完全オフィス勤務でもなく、両者が混ざり合っている状態が望ましいと考える人が多いそうです。

この調査もまた、教会の在り方を考える上で参考になります。

オンライン礼拝には、あきらかなメリットがあります。

諸事情によって、その日、その時間、教会にいくことのできない人が、等しく礼拝に参加できるからです。

ところが、私たちが礼拝を通じて主の民として形成される点においては、デメリットというか、懸念される側面もあります。

その両者を考えながら、今の時代の礼拝の在り方を模索するのが、私たちの課題ではないかと思います。

 

 

3.社会とのはざまで

 

これまでは、礼拝行為としての「主の名を呼ぶ」ことを考えてきました。

次に、「主の名を呼ぶ」ことの証としての側面を考えてみたいと思います。

 

皆さんは、イエス様という名前を出すときに、どのような感情を抱くでしょうか?

例えば、祈るときなどに、最終的には「イエス様のお名前でお祈りします」と締めくくったりしますが、そのときに、「イエス様」という名前を口に出します。

そういうときにどのような感情を抱くでしょうか?

喜びや、感動や、あるいは興奮を感じる人もいるでしょうし、いつもそうだとは限らないまでも、そういう場合もあるでしょう。

「イエス様」という名前を口に出すだけで、イエス様が行った御業が思い出され、十字架上での苦しみや、復活されたこと、そして私自身に出会ってくださって罪を赦してくださったこと――そうした事柄が一気に思い出されて、涙が出てくる、という場合があるでしょう。

私たちがそういう状態にあるなら、それは大変素晴らしいことです。

逆に、プレッシャーを感じる人もいるでしょう。

人前で「私はクリスチャンです」と語るときに感じるようなプレッシャーですね。

クリスチャンであり、イエス様を信じる人間であるなら、当然期待される生き方というものがあります。

誠実で、愛が豊かで、寛容で、いつも喜んでいて、感謝が豊かである、などなどです。

こういう風に期待されることからくるプレッシャーです。

人に対してクリスチャンであることを語ると、そういうプレッシャーは感じると思います。

同じように、「イエス様」という名前を口に出すときも、プレッシャーがあるものだと思います。

少なくとも、私もよくそのように感じます。

「イエス様の御名によって祈ります」とことばに出すときに、「今祈った内容は、イエス様の御心にかなっているのだろうか?」と感じたり、「こういう祈りをしながら、自分はそれに向けた活動を全然していないな、いや、むしろほとんど無関心に過ごしていることのほうが多いな」と感じたりします。

「イエス様」という名前を語るときに、喜びを感じるか、あるいはプレッシャーを感じるか、どちらが正しいというわけではありません。

どちらも正しいし、私たちは大抵の場合、両方の感情を抱くでしょう。

それが普通だと思います。

では、なぜそのような感情を抱くのかと考えると、これも当たり前のことですが、私たちがイエス様のことを大切にしているからですね。

エス様のことを大切にし、その語ったこと、その行ったこと、それを真剣に受け止めているからです。

だから私たちは、「イエス様」という名前を出すときに、その十字架の御業を思い出して喜びもすれば、大宣教命令を思い出したり、あるいは「主よ、主よ、と言う者がみな救われるわけではない」(マタイ7:21)という御言葉を思い出したりしてプレシャーも感じるのです。

 

ここで確認しておきたいのは、「主の名を呼ぶ」ということは、「主」を、つまりイエス様を大切にしているということを前提とする、ということです。

例えば、私にとって比較的どうでも良い人物、ルイ14世とかそういう歴史上の人物の名前を呼ぶ、ということとは次元が違うのです。

エス様の救いの恵みを受け取り、イエス様に従っていく決断をしたことがある、そして、イエス様という存在が自分の人生で重要な位置を占める、そういう前提を踏まえた上で、「主の名を呼ぶ」という言い回しが存在するのです。

「主の名を呼ぶ」という表現は、そういうイエス様との深い関わりと一体のものなのです。

 

そのことを念頭に置いて聞いてほしいのですが、私は最近いくつか聞いたニュースにショックを受けていました。

2つあります。

一つは、アメリカの大統領選挙で民主党のバイデン氏が選ばれましたが、破れたトランプ大統領を、以前の2016年の大統領選挙のとき、福音派の白人クリスチャンの81%が支持していた、というニュースです。

https://www.editions-mennonites.fr/2020/07/trump-est-un-danger-spirituel-affirment-des-auteurs-evangeliques-nord-americains/

 

また2019年時点の調査では、福音派の白人クリスチャンは、平均よりも25%多くトランプ大統領を支持し、しかも、教会によく通う人のほうが、そうでない人よりもトランプ大統領を支持する割合が高いというのです。

Chapter 9, The Deepening Crisis in Evangelical Christianity, in The spiritual danger of Donald Trump, ed by Ronald J.Sider, 2020.

 

もちろん、クリスチャンであることと、支持する政党や政治信条とは、直接的には関係ありません。

クリスチャンであっても、共和党を支持する人もいれば、民主党を支持する人もいるでしょう。

歴史的に遡れば、ナチス・ドイツを支持するクリスチャンもいれば、それを批判するクリスチャンもいましたし、アメリカの奴隷制を容認するクリスチャンもいれば、それを否定するクリスチャンもいました。

だから、クリスチャンが共和党を支持するとしても、それはおかしいことではありません。

ところが、福音派のクリスチャンの81%、しかも、教会によく通う熱心な人ほどトランプ大統領を支持していたという事実は、私には全く理解できないことでした。

日本では、麻生太郎氏がカトリックの方で、2019年に教皇が日本に来たとき、そのことを誇らしく語っていましたが、果たして日本のクリスチャンの80%が麻生太郎氏を熱烈に賛美するでしょうか?

私がショックを受けたニュースの一つはこれです。

 

もう一つは、フランスでカトリックのクリスチャンたちが、ミサの再開を求めてデモをしたのですが、その際に、デモのなかで「祈り」を行った、それが問題になったことでした。

「一体どういうことなのだろう?」と思って調べたら、フランスのライシテ、政教分離の原則では、公的な場所で祈りを行うことは禁じられているということがわかりました。

これにもまたショックを受けました。

https://www.liberation.fr/france/2020/11/15/nous-voulons-la-messe-dimanche-de-mobilisation-chez-les-catholiques_1805627

https://www.nouvelobs.com/societe/20201115.OBS36111/manifestations-pour-la-messe-prieres-de-rue-a-bordeaux-la-police-convoque-les-organisateurs.html

 

 

「主の名を呼ぶ」というテーマでメッセージをしようと考えてから、こういうニュースを目にしていました。

そして、それらのニュースの中で、またそういう状況を思い浮かべながら、クリスチャンが「主の名を呼ぶ」とはどういうことを意味するのだろうかと考えていました。

アメリカのクリスチャンたちが特にトランプ大統領を支持するようになっている理由や、またフランスにおける政教分離の歴史や今日的背景については、今も研究中であり、まだはっきりしたことを言える段階ではありません。

ただし、「主の名を呼ぶ」というテーマでメッセージしようと思ってから、こういうニュースを目にするようになった理由、少し言い方を変えれば、神様がこういうニュースを私に見せた理由というのは、あるのだろうと思います。

そして、それは語ることが可能だろうと思うのです。

 

トランプ大統領を熱心な福音派のクリスチャンほど支持することに私がショックを受けた理由は、端的に言えば、「あれほどキリストに似ていない」人物をクリスチャンが支持していることです。

様々なスキャンダルがあり、性差別的で、人種差別的で、法を遵守する心も少ない、そういう人物を、なぜクリスチャンが支持するのか?

またもちろん、「福音派」という点でもショックを受けました。

私自身も、自分では、福音主義の伝統に属していると考えているからです。

私は、ここには、単にアメリカの福音派の白人クリスチャン、ということだけにとどまらない問題があると思うのです。

福音派に共通する問題、あるいはもっと広く、クリスチャンに共通する問題、それがあると思うのです。

それは何か?

それは、「主の名を呼ぶ」ことの軽視です。

あるいは、「真実に主の名を呼ぶ」ことの軽視です。

先程語ったように、「主の名を呼ぶ」ことの前提には、イエス様を大切にすることがあります。

エス様を大切にせずに主の名を呼んでいたら、私たちはただの偽り者になるでしょう。

イザヤ書29:13ではこのように言われています。

 

「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。」

 

クリスチャンであるならば、口先でイエス様の名を語っているのか、あるいは、心からイエス様の名を語っているのか、問題とすべきです。

そして、心からイエス様の名を呼んでいるならば、そこには、イエス様の名前に伴って、喜びや感謝、感動があり、また悔い改めがあるでしょうし、さらには、「もっとこのようにしないといけない」と身を引き締める思いや、困難であっても主の喜ばれる義を貫いていこうという決断、また、御旨に適うことならば神様は必ず実現へと導いてくれるはずだという希望も、生まれるでしょう。

私たちがイエス様の名を呼ぶ存在であるならば、当然そのようになるはずなのです。

そういう私たちが、口先だけでイエス様の名を呼んでいる人物を支持することはできるのでしょうか?

これは、できないのです。

寛容の対象にはなりえますし、注意したり、愛したりしながら、本人が自覚して悔い改めるようになるのを待ち続ける、そういう対象にはなりえます。

しかし、支持する対象にはなりえません。

 

かつてガンジーは、キリストは好きだが、キリストを信じている人々は嫌いだ、と語っていたことがあります。

彼らは、「キリストに似ていない」から、というのです。

このガンジーの言葉が印象的なのは、ガンジーが、クリスチャンの偽りの姿にうんざりしているからだけではなく、その偽りの姿が、福音を伝える働きにとってもマイナスになっていることを示しているからです。

これは、今日話している文脈に即すならば、「イエス様の名前を口先だけで呼び、心では呼んでもいないし、さらには、イエス様から遠く離れている」、そういうクリスチャンは、福音を伝える働きを妨げることになる、と言えるでしょう。

 

トランプ大統領を支持するクリスチャンたちを分析したある本の中で、こういう内容が書いてありました。

「彼らは、自分たちクリスチャンが陥っている苦しみを、政治的に解決してくれるリーダーを求めたのだ。しかしそれは、聖書的な原則では間違いである。」

およそそういう内容です。

Chapter 15, Trump, the last temptation, in The spiritual danger of Donald Trump, ed by Ronald J.Sider, 2020.

かつてのアメリカでは、クリスチャンであるということは社会的に有利になるポイントだったけれど、今ではそうではなくなっている。

そういう社会に不満を抱いたクリスチャンたちが、「政治的力」によってクリスチャンたちの苦しみを解決してくれる存在として、トランプ大統領を支持した――とその著者は分析しています。

 

そもそも、クリスチャンであることが社会生活上有利になるポイントどころか、むしろ様々な苦しみを経験することが多い日本に住むクリスチャンにとっては、少し共感しづらいことかもしれません。

しかし、私たちにも、そのような誘惑――つまり、「邪悪な」権力者であるが、クリスチャンに有利になるような政策を一時的に行うが故に、クリスチャンがそのような権力者を支持するようになる、そのような誘惑が、来ないとも限りません。

聖書の原則は明確です。

第一ペトロ3:8−9、13−14を読みます。

 

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

(中略)

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。

 

このような聖書的な原則どおりに生きることが、まずは必要です。

それをすることなく、政治的権力に頼って、しかも、聖書的にも、普通の人間の道徳的な基準でもおかしい人物の政治的権力に頼って、何か問題を解決しようとしたら、私たちクリスチャンは偽り者です。

主の名を口先だけで呼んでいる偽り者であり、主の御名を汚す存在であり、イエス様の名前が広がるのを妨げる存在になります。

私たちは、イエス様の名前を真実に呼ぶものでなければなりません。

口でも主の名を語り、また心でも、主の名を語るものでなければなりません。

 

フランスで、公の場で「祈る」行為が禁じられている問題――これについて多くを語る余裕はありませんが、基本的にはこれまで語ってきたことと同じです。

政治的権力で「一気に」解決することよりも、もっと別な形で解決されることをクリスチャンは望むべきです。

そして何より、自分自身の生き方において、嘘偽りなく、主の名を呼ぶ存在、主の名を崇める存在であること、それを優先しなければなりません。

苦しみは伴いますが、そうした生き方こそが聖書が求めている私たちの姿なのです。

 

 

4.「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ヨエル2:32)

 

最後に、もう一度礼拝について話します。

「主の名を呼ぶ」は、旧約聖書では祭壇を設けて礼拝することだったと話しましたが、祭壇を設けて主を礼拝する行為は、定期的というよりは、何か特別な区切りとなる出来事のたびにしていることに気づきます。

最近私たち家族は、仙台で住んでいる家で、「引っ越してきて、しばらく住む」ための家庭礼拝をしました。

私が信仰を持つようになったのは、韓国系の教会を通じてなのですが、韓国教会は、「・・・記念礼拝」を結構します。

教会員が引っ越しをしたら、新しく引っ越した家で、礼拝が持たれます。

私は実際には目にしてないですが、教会員が新しく事業を初めて、お店をオープンするときにも、そこで礼拝が持たれるとも聞いたことがあります。

そういう礼拝の習慣は、なかなか意味があると思います。

というのも、私たちの人生には、やはり何らかの区切り、節目というものがあるからです。

ギリシア語では、物理的な・自然科学的な時間のことをクロノス、自然的・社会的・文化的な節目の時間のことをカイロスと呼びます。

私たちが肉体を持った存在としてこの世界を生きている限り、また、一定の社会の中で生きている限り、否が応でもこのカイロスのリズムの中で生きるのですね。

子供が生まれること、学校に入学すること、卒業すること、就職すること、引っ越すこと、結婚すること、死ぬこと。

私たちの人生には、そういう節目、カイロスがあります。

様々な文化的習慣や宗教は、そういう節目に際し、特殊な儀式を行うものですね。

私は、もともとは、引っ越しして、新居で引っ越しの礼拝をすることは、キリスト教以前の文化のような気がして、否定的な考えでした。

しかし、私たちの人生に節目があること、また、そのことを頭では軽く考えようとしても、実際にはその影響を強く受けていること、その点を踏まえて、考えを改めました。

そして、引っ越しが終わって、新しい部屋で新しくスタートをきる「礼拝」を行いました。

短い時間でしたが、良いものでありました。

 

結局、今日の話をまとめると、ヘブル人への手紙10:25に行き着きます。

私たちはその御言葉の意味を、もう一度深く考えるほうが良いのかもしれません。

 

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」

 

聖書が「集まりをやめてはならない」と語っているのです。

これはオンライン礼拝のようなものではないです。

ここで言われているのは、たしかに、私たちの肉体が、ある一定の場所に集まることです。

オンライン礼拝のメリットともにデメリットも語ってきましたが、聖書から理解できるのは、具体的に、肉体を持った私たちが、一定の場所に集まるということ、そのことに、私たちにはまだ十分に理解できていないとしても、何らかの意味があるということです。

そして同じことが、「節目」と言われる時期に、特別な礼拝をすることについても言えます。

「節目」もまた、私たちにははっきりとはわからないとしても、私たち影響を与える存在です。

そこにおいて礼拝をすることにも、信仰的には意味があるのでしょう。

 

最後に、ヨエル書2:32の有名な御言葉を読みます。

 

「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」

 

新約聖書でも繰り返し引用される有名な箇所です。

ここで「主の御名を呼び求める者」とは、もちろん、口先で主の御名を呼ぶ者のことではありません。

エス様の十字架上での罪の贖いを信じ、また、イエス様に従う決意をした人、つまり、イエス様を何よりも大切なお方として心の中に受け入れている人、そういう人のことです。

そういう人がまた、主の御名を口にすることに危険を伴うようなことがあったとしても、それでもなお主の御名を呼び求めるときに、神様はそういう人をお救いになる。

そのような約束を語っています。

 

今日はこれまで、真実に「主の名を呼ぶ」条件について語ってきました。

心でイエス様を大切にする、ということです。

またそれは、礼拝するということでもありました。

ともすると、それは義務・使命を強調する面が強かったかもしれません。

しかし聖書はまた、主の名を呼ぶことの幸い、主の名を呼ぶものが受け取る祝福についても語っています。

つまり「救い」です。

主の名を呼び求める者は、救いを得るのです。

それは、神の国でイエス様と共にいるという救いだけではありません。

私たちが今生きているとき、まさにそのときに、私たちに必要な救いが与えられるのです。

そのような祝福を、主の御名を呼び求める者は持っているのです。