Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

創造と祝福

「創造と祝福」 創世記1:2−31

2019年5月26日のメッセージ


創世記のはじめの部分でメッセージをするために、日本の古事記日本書紀の最初のところを読みました。
恥ずかしながら、古事記日本書紀を読むのは初めてでした。
といっても、原文で読んだのではなく、現代語への翻訳で読みました。
また、メソピタミア地域で、聖書が書かれた当時に存在していた神話、これをシュメール神話と言いますが、その神話についても調べました。
そのように、日本の神話とメソピタミアのシュメール神話と聖書を比較しながら、改めて聖書の独自性が見えてきました。
今日と次回の二回のメッセージで、聖書のその独自な点を分かち合っていきたいと思います。
その独自性は3つあります。
それは、創造、祝福、目的、です。
今日はこの内の最初の2つ、「創造と祝福」について話し、次回に「目的」について話をしようと思います。

 

1.創造

では、はじめに「創造」についてです。
「創造」が聖書で特有だとはいっても、古事記やシュメール神話に創造の話がないというわけではありません。
ただ、「創造」に対するアクセントの強さが、他の神話とは異なっているということです。
まず、創世記が世界の創造についてどのように語っているのか、簡単に振り返ってみましょう。
時系列順に語りますと、
一日目は、光が作られます。
そして光と闇が区別され、光は昼、闇は夜と名付けられます。
二日目は大空が作られます。
三日目は、乾いた土地が作られ、陸と海が区別されます。
そして大地には植物が生えるようになります。
四日目は太陽と月とが作られます。
五日目は海の中の生物と空を飛ぶ鳥が作られます。
六日目には、陸地で生活する生物が作られ、そして人間が創造されます。
このような創造の順番を見ても、神様の人間に対する配慮が見えるように思います。
例えば、陸地がまだできていない段階で人間を創造されても、たぶん困りますね。
色々作って、食べ物もある状態にしながら、そして最後に人間を作っているのです。
ここには神様の人間に対する愛情を見ることができるでしょう。
人間でも、子供が生まれるときには、色々準備をするものですね。
同じように神様は、人間が新しく創造されるために、準備をしていたのです。

ところで、今回準備しながら分かったことの一つに、新改訳2017の用語法があります。
新改訳2017は、「創造」と「造る」を区別しています。
例えば、1章1節の「創造された」は、バーラーという動詞を使っていて、1:7の「大空を造り」は、アーサーという動詞を使っています。
これは一章全体で一貫しています。
このバーラーとアーサーとがどの程度違うのか、まだ実はよくわかりませんが、そういう違いがあることはおさておきましょう。

聖書は「創造」をこのように語ります。
これに対して他の神話はどのように語っているでしょうか?
例えば、古事記を見てみると、最初にアメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が出てきます。
その後で、またどこからともなくイザナギノミコトとイザナミノミコトが登場して、その二人が海を矛でかき混ぜたところ、島ができます。
その後、二人が結婚して、次々に島々を生んでいきます。
また、沢山の神々を生んでいきます。
この古事記の内容を最初に読んだときに、すぐ思ったのは、「あ、日本の神話でも、世界の誕生について語っているんだ」ということでした。
クリスチャンは、よく「創造論か、進化論か」みたいな議論をしますが、「日本の神話を信じている人たちも、本当はそういう議論をしないといけないのではないか?」ということを考えました。
実際、古事記日本書紀の記録に基づきながら、天皇アマテラスオオミカミの子孫であると信じている人々がいるのですね。
「どうして彼らはそういう議論をしないのだろう?」と思いました。
と同時に、「クリスチャンは、本気で聖書を信じているんだ」とそんなことも考えました。
まぁ、これは余談ですが。

古事記を読んでいくと、このように島がどんどん生まれていったり、神々が生まれていったりします。
秩序や計画のようなものは感じられません。
また、「どこで人間が生まれるのだろう?」と思って読んでいたのですが、全然そんな記述はなく、気がつくと神武天皇が九州から関西に進軍するシーンになります。
「人間がどのように生まれたのか? 作られたのか?」そういうことを全く書いていないのですね。
これは驚きでした。

これと比較すると、聖書は、世界の創造から始まって人間の創造に至るまで、実に整然と、論理的に進んでいると言えます。
何よりも、他の神話が、ひたすら神々のことを語っているのに対して、聖書は、人間が創造されたあとは、ひたすら「神と人間との関係」を問い続けるのですね。
ここにも大きな違いがあります。
聖書は、人間が「創造された」ことを語ります。
古事記のように、イザナギイザナミの交わりによって島々や神々が生まれるようにではなく、神様の明確な意図を持って、人間は「創造」されました」。9
特に、人間の「創造」を語るときに、聖書は、三度「バーラー」という単語を使います。
これはそれほど強調しているのだ、と言えるでしょう。
このように、聖書は神様の意図によって、世界と人間が「創造された」ことを主張します。

 

2.祝福

次の聖書の特徴は、「祝福」です。
これは一章では二度語られています。
22節と28節です。
この祝福というのは、ヨーロッパ系の言語でいうと、「よく言う」という意味から生まれています。
よく言う、評価するように語る、「素晴らしい!」ように語る、それが「祝福」の言葉の成り立ちです。
それに対して「呪う」は何かというと、「悪く言う」に基づいています。
ひどく語る、悪く語る、低い価値であるように語る、最近の言葉でいうと、ディスるでしょうか。それが「呪う」の言葉の成り立ちです。
聖書では、神様が生物を造り、また人間を創造したときに、その生物と人間とを「祝福」するのです。
つまり、「素晴らしい!」と語るのです。
もう少し深読みすれば、「生き物も人間も、豊かになって、幸せになることを望む」ということを表現しているのでしょう。

「人間を祝福する」−−これが聖書の特徴です。
では、シュメール神話ではどうなっているでしょうか?
そもそもなぜシュメール神話なのかというと、聖書の舞台が、広くはメソピタミア文明、またシュメール文化の範囲内にあるからです。
聖書の立場からすると、そのシュメール文化にある神話は、「偶像礼拝」です。
それに対して聖書は、「真の神」を記録しているのであり、また「真の神」ご自身が語っている内容でもあります。
シュメール文化の中にあった神話と聖書を比較することは、聖書が、その当時存在していた神を語る他の物語に対して、その何を否定しようとしていたのか、また、それに対して何を強調しようとしていたのか、それを知る上で有益だと思います。
では、そのシュメール神話は、人間の創造をどのように語っているのでしょうか?

シュメール神話では、まず、神々がみな労働しています。
どうやら、神々の間で序列があって、地位の低い神々が労働しなければならなかったようです。
そうするうちに、その神々から過剰労働に関して不満が出るようになります。
そしてエンキという知恵の神であり創造神でもある神が、神々が辛い労働から解放されるために、身代わりを造ることにします。
そうして作られたのが人間です。
この人間が他の神々の代わりに労働するようになり、神々は喜びます。
これが、イスラエルと近い文化にあったシュメール文化の神話です。

聖書とはずいぶん違っているのが解ると思います。
聖書では、神様は人間を創造するにあたって、予めいろいろ準備をして、そしてすべてが整ってから人間を創造します。
そしてその人間を祝福し、「非常に良かった」とみなすのです。
それに対してシュメール神話では、神々が労働していて、その労働を交代してやらせるために、人間が作られています。
まるで、奴隷を雇うような印象でもあります。
このように比較してみると、聖書は、本当に神様が人間を大切にしていることを語っているのだということが分かるでしょう。
日本の神話では、そもそも人間がどのように生まれたのかは語られていません。
シュメール神話では、労働を肩代わりするために人間は作られました。
聖書ではそうではないのです。
聖書では、神様は人間を祝福するのです。
人間が繁栄し、豊かになり、幸せになることを望んでいるのです。
このように言いますね。
1:28です。
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」(新改訳2017)
このように違うのです。

ここで述べられる祝福は、聖書ではその後、アブラハム、イサク、ヤコブへとつながっていき、最終的にはイエス様によって実現されます。
それに関しては、次回、創造の「目的」についてメッセージするときに詳しく扱いたいと思います。
今日はそのような順序は踏まずに、いきなり話を私たちに向けたいと思います。
つまり、「神様が人間を祝福している」ということが、今の私達にどのような意味を持っているのか、そのことについてこれから考えてみたいと思います。


さて、最近のニュースやそれに対する人々の反応を見ると、私はこんなふうに感じます。

日本人の多くは、「自分は呪われている」と思っているのではないか?

細かな出来事は省略するのですが、人々の意見が、攻撃的なほどに不寛容になっていると感じるのです。
そこには、おそらくこういう心理的背景があると思うのですね。
「自分は恵まれていない」「呪われている」「運が悪い世代だ」と思っている。
努力していても、仕事はきつく、賃金は低い。
貯金はできず、賃金が上昇する見込みもない。
しかし、社会保障費はどんどん増大する。
その一方で、ニュースを見ると、なんにもしていないのに「利益」を得ている人々がいる。
お酒を飲んでいる、パチンコをしている、コンビニ弁当を食べているーー「なんて贅沢な!」
「自分たちは頑張っても報われないのに、あいつらは、ズルをしながら、なんにもしなくても報われて、楽な生活をしている。ずるい!」
そしてSNSなどを通じてバッシングをする。
その人々の根底にあるのは、「自分は呪われている、恵まれていない、不幸だ」そいういう思いです。

こうした現象について社会学的に、あるいは経済学的に分析することは可能だと思います。
しかし根本的には、私は信仰の問題だと思います。
どういうことでしょうか?

あるネットの記事で、アメリカに住んでいる日本人女性が書いたものを読みました。
その女性は、自分が妊娠していたときに、周りのアメリカ人が、you look beautifulと声をかけてきたと言っています。
もちろん、見ず知らずの人々ばかりです。
その経験を振り返りながら彼女は、アメリカでは、妊婦が社会的に尊重され、妊娠が祝福されていると感じた、と話しています。
これに対して日本では、職場で妊娠を語ると、おめでとうという言葉と同時に、「困ったなぁ」という表情に直面する。
道でも電車でもどこでも、妊婦や子連れは、ちょっと「困ったもの」扱いされて、肩身の狭い思いをする。
日本は「標準的な人」を中心に社会が設計され、そこから逸脱した人は生活しづらいようになっている。
そのようなことを話していました。

この女性はこれ以上のことは語ってはいませんが、私は、日本とアメリカのその違いを生んでいるのは、やはりキリスト教なのではないか、と思います。
どこの社会においても、「最大多数」を基準にして社会が設計されるのは、妥当なことでしょう。
しかし問題はそこからです。
社会には当然マイノリティがいます。
また、子供のように、大切な存在であることは分かるけれど、ちょっと迷惑だな、と思う存在もいます。
そのような人々に対してどのように接するか? あるいは、どのように接するのが正しいとされているのか?ーーそれに関して、聖書の教えがあるかないかは、大きな違いを生むと思うのです。
皆さんご存知のように、イエス様は、弟子たちが邪魔者扱いした子どもたちを、むしろ自分のもとに呼びました。
そして祝福します。
マルコによる福音書10:13−16

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子供たちを連れてきた。ところが弟子たちは叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、私のところにこさせなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことにあなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:13−16)

弟子たちは、ある意味私達と同じなのです。
「子供邪魔だなぁ」あるいは、「イエス様のような偉い人がいるんだから、子供は後回し!」と考える人たちです。
それに対してイエス様は、子どもたちを招き入れ、祝福するのです。
この姿勢です。
社会においてマイノリティだったり、脇に追いやられていたり、小さく扱われている人々を、自ら受け入れ、祝福する、この姿勢です。
どんなに現代のアメリカが、キリスト教の教えが希薄になってきたとはいえ、歴史的に培われてきたキリスト教的な考えは、消えずに残っていると思います。
つまり、無意識的な考え方の中で、聖書的教えが残っていると思います。
だから、妊婦、つまり新しい命も、その命を保護している人物も、「尊いものだ、祝福されているのだ!」と考えるのでしょう。
そして、現状の社会が、妊婦を尊重していない状態であるなら、それを変えないといけないと判断するのでしょう。
どのような命も、神様によって創造された、尊く、祝福された存在なのだという信念が、過去から現在に至るまで継続することで、社会を少しずつであったとしても変えていったのでしょう。
そして、妊婦が「祝福されている」と思うことができる状態にしていったのでしょう。

このような推論が正しいとするならば、私達は次のように考えることができるのです。
「妊婦が祝福されていると感じられる社会」が生まれるためには、人々が一定の信念を持ち、その信念に基づいて実践することが必要である。
その信念とは、全ての人は神様が創造された尊い存在であり、祝福されるべき存在だ、という信念である。
ところで、現状において「妊婦が祝福されていないと感じる社会」があるときに、もし今述べたような信念に基づいて人々が生きていくならばーー
つまり、その信念に基づいて社会を変えていく努力をし続けるならばーー
身近なところから言うならば、自分の家庭を、職場を、友人関係を、学校を、変えていこうとし続けるならばーー
また、短期的には失敗や挫折が多いとしても、なおも粘り強くその信念を持ち続けて歩み続けていくならばーー
そのとき実際に社会は、「妊婦が祝福されていると感じられる社会」になるだろうし、そればかりでなく、どのような人であったとしても「自分は尊重され、祝福されているのだ」と感じられる社会になるだろう。
妊婦だけではなく、子供だけではなく、どんな外国人も、どんな障害者も、どんな貧乏人も、さらには、どんな犯罪者でさえも、どんなひねくれものも、どんなわからずやも、「自分は尊重され、祝福されているのだ」と実感できる社会になるだろう。
このように考えることができるのです。

だから「信仰」なのです。
日本では、自分は恵まれていない、呪われている、運が悪い、と思っている人が多いのではないか、と言いました。
そのような人々にとって、信仰は何の意味があるのでしょうか?
もし現状が全く「祝福」とは程遠い状態であるにもかかわらず、「それも祝福なんだよ!」などとクリスチャンが言うならば、それはまったく間違ったことです。
「信仰」というのは、民衆のアヘンではありません。
「信仰」というのは、人々をうまい言葉でだまくらかすことではないし、また自分自身をだまくらかすための方法でもありません。

では信仰は何ができるのか?
信仰は力を与えるのです。
はじめは、人は「自分は恵まれていない」と思っているかもしれない。
しかし信仰は、そのような人に「もしかしたら、自分は神様によって愛されているのかも」と思うようにさせるのです。
また人は、「自分が尊重されていないのに、どうして他人を尊重し、愛することなんてできるのか?」と思っているかもしれません。
しかし信仰はその人に、「あなたは、イエス様が命を捨てたほどにまで尊い人なんだ。だからあなたも、他の人をちょっとだけ尊重し、愛してみたらどうだい?」と語りかけるのです。
さらに人は、「他人を愛することなんてできない、今までそれで成功したことなんかない! 裏切られて、傷つくばかりだった。もう傷つきたくない!」と思いこんでいるかもしれません。
しかし信仰はその人に、「いや、できるし、すべきだし、きっと成功するよ」と励ましを与えるのです。
信仰はこのようなことを可能にするのです。
つまり信仰は、人々の内側に、いえ、私たちの内側に、奇跡を起こすのです。
そして、信仰によって私たち一人ひとりが変わるとき、私たちの周囲が変わり始めます。そして私たちの周囲が変わり始めるとき、私たちの社会が変わっていくのです。


みなさんは、自分が神様によって創造された、尊い、祝福された存在だということを、信じているでしょうか?
エス様が十字架につけられ、身代わりとなって死なれたほどに、尊く、祝福された存在であることを、信じているでしょうか?
これはぜひ信じていなければなりません。
これが全ての出発点なのです。

よくクリスチャンの中には、何か物質的なものが与えられたり、この世で成功することを「祝福」だと考える人がいます。
そして、「神様からの祝福を受けるために御言葉に従順しないといけない」ということが言われたり、自分で考えたりします。
これはとてもおかしいことです。
それは、偶像崇拝する人々が、利益を得るためにお賽銭を投げたり、御札を買ったり、神社に寄付をしたりすることと同じです。
手段が変わっているだけで、やっていることは同じです。
もちろん、御言葉に従順するならば、いわゆる「成功」という言葉で考えられていることが実現するかもしれません。
しないかもしれません。
聖書を見ると、主の御言葉に従順する結果、むしろ苦しい生活をするようになった人々を沢山見ることができるでしょう。
御言葉への従順と、私たちが「祝福」と考えているものとは、何の関係もないのです。
エス様は、このように語っています。
ルカによる福音書10:20です。

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(新改訳2017)

弟子たちは、イエス様の名前によって悪霊を追い出すことができたことを喜んでいました。
しかしイエス様は、本当に喜ぶべきことはそれではない、というのです。
あなたがたの名が天に書き記されていること、つまり、救われた者として神様によって受け入れられていること、それを喜びなさい、と語るのです。
これが私たちにとっての本当の祝福です。
エス様によって救われていることそれ自体が究極的な祝福なのです。

「そんなこと、知っているよ!」と考えるかもしれません。
でも本当にそうでしょうか?
これは聖書のあらゆる真理について当てはまるのですが、「知っているということ」は「実感している」ということでもあります。
つまり、「頭」だけで知っていることは、聖書的には「知っている」ことにはならず、「心」によって知っていなければならないのです。
「心で知る」ということは、その知っていることを「実感している」ということです。
そして「心で知っている」ことであるならば、私たちは自然と実践することができます。
私たちは、神様による祝福という真理を、ただ頭で知るだけではなく、心で知る、しかも、心で実感すること、そこまで求める必要があるのです。
そして、私たちが心の内側で、誰にも気づかれないほど僅かな程度であったとしても、神様の祝福を悟り、実感するならば、そこに実は、神様の奇跡が生じているのです。
みなさん、信じてください。
そこに、神の国の芽生えがあるのです。
エス様が、からし種の例えで語ってように、神の国は、最初は本当に小さいものです。
しかしそれは、確実に成長していきます。
マルコによる福音書4:30−32を読んでみましょう。

またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(新改訳2017)

先程、私たち一人ひとりが信仰を持つことによって、自分が変わり、周囲が変わり、社会が変わる、という話をしました。
私たちの目は、どうしても大きな変化にばかり向かってしまいます。
大きな事件、出来事、業績、作品、そういうものを見てしまいます。
でも、それらは、あくまで「結果」なのです。
それらを生み出すに至る、最初の出発点に目を向ける必要があります。
その出発点にあるのは、私たちの心の内側における小さな変化です。
その変化を大切にしてください。
特に、頭だけで、知識的に知っていることを、心でも知り、悟り、実感するようになること、それを大切にしてください。
頭で知っているか、心で実感しているか、それは傍から見ると何の違いもないことです。
あまりにも小さな違いです。
しかし、その僅かな神の国の存在が、大きく成長していくのです。
「私は、神様によって創造された、尊い、祝福された存在だ」という知識を、ほんのわずかであったとしても私たちが実感するときに、私たちは、他の人々を祝福する存在へと変わっていくのです。
パウロは、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」とローマ人への手紙12:14で言っています。
「そんなことは無理だ!」と言ってしまわないでください。
「他人を祝福できるようになる」というのも、あくまで「結果」であり、大きな変化なのです。
そこに至るまでの、私たちの心における小さな変化を大切にしてください。
「私はイエス様が愛し、大切にした存在なのだ」という思い。
「祝福するのがイエス様の御旨なんだな」という小さな悟り。
「あの人もイエス様が愛された人なんだな」という理解。
「私も多くの過ちがあったけれど、赦された存在だよな」という小さな気づき。
そのような小さな心の変化を大切にしてください。
それらは全て、神の国が宿っているからし種であり、奇跡そのものなのです。
それらを大切にしていきましょう。
そうするならば、からし種が大きく成長するように、神の国が大きく成長していきます。
私自身が変化し、私の周囲が変化し、そして社会が変化していくでしょう。
祝福を受けた私たちが、今度は、祝福を拡大していく中心になるでしょう。
そのような大きなヴィジョンを思い描きながら、私たちは、心の奥深くで生じる僅かな変化、神様が与えてくださった小さな変化、悟り、気づき、それらを大切にしていきましょう。