Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

ファシズムと日本ロマン派

以下の論考は、もう10年以上前にとある勉強会のレジュメ用として用意したものである。

 

ファシズムと日本ロマン派

1 問題提起
2 日本ファシズム
3-0 日本ロマン派
3-1 心情の合言葉としてのマルクス主義
3-2 嘲弄としてのイロニー
3-3 現状の絶対容認としての国学
4 政治と美学
5 総括

 

1 問題提起

 何故「ファシズムと日本ロマン派」という問題を扱うのかというと、勿論現代に対する問いかけがある。現代を映す鏡として過去を参照することは常套手段であり、それをしてみようと思うのである。ただし、過去と現代の事情との比較を詳細に叙述していくことは困難であるし、議論も煩雑になるので、過去の事例を過去の事例として、叙述し、紹介するにとどめる。読者がそれぞれ、戦前の一時期を考える上での導入の役目を果たせればよいと思う。


 そこで、簡略に私が現在注目するところの現代の現象を挙げると、次のようになる。イラクでの人質に取られた日本人と、拉致被害者家族会とへの、両方のバッシング。前者は主に左翼が、後者は主に右翼が支援しているが、その両方がバッシングされている。香山リカ氏が云っている「プチ・ナショナリズム」、北田暁大氏が現代の若者の特徴として規定している「イロニーと感動志向の共存」「世界志向と実存主義の共存」、東浩紀氏の「大きな物語の消滅」という議論、そして誰もが指摘するところの政治的無関心


 これらの現象は、要約的に云えば、現代に於いて、旧来の政治的右と左の対立という枠組みには収まらない第三の勢力が中心になっている、と云うことだろう。典型的にはイラク人質事件と拉致被害者家族双方への嫌悪感となって現れており、一般的に云えば、右翼的国家主義も、左翼的インターナショナリズムも、共に拒絶する、自らを中立と思う感性である。その背景にあるのが、「政治的なもの=汚いもの」に対する嫌悪感なのか、単なるシニシズムなのか、政治的無力感の現れなのか、それはいずれとも言い難いし、いずれでもあり得るけれど、ともかく現象面に関して云えば、政治的左右の立場への嫌悪というのは確かにあるだろうし、政治の排除あるいは「非政治的なもの」への固執というものもあるだろう。


 このような中立的・非政治的感性は、次のような「日常感覚」と同じものだと思う。

 

見落としてはならないのは、「第一世界」のナショナリズム批評を支えている日常感覚の問題である。そこには、自分たちは抵抗と暴力に満ちた「第三世界」とは違い、成熟したナショナリズムを持つ国の、あるいはナショナリズムにこだわる必要のない国の人間として捉える無垢な日常感覚がある。……そこには、……「第一世界」的な「同時代感覚」の共感の共同体があり、グローバルな軍事的支配や文化帝国主義に抵抗する者たちは、そこから外れた時代遅れな「時空性」を生きる人々として隔離され、遠く眺められるのである。(轡田竜蔵「ナショナリズム論/国民国家論」姜尚中編『ポストコロニアリズム』所収p.69)

 

 そしてそれは……。

 

軍事独裁言論統制などの強度な国民統合を特色とする「古いナショナリズム」の段階を終えたという「同時代感覚」である。こうした同時代感覚に開き直ったのが、大塚栄志のように「天皇なきナショナリズム」を志向しつつも象徴天皇制を「許容する」ような議論であり、戦時体制を彷彿させるような森首相の「神の国」発言は拒絶しつつも、「未来志向」の小泉首相靖国参拝を「許容」するようなマジョリティの判断ではなかったか。その背景には、「平和で、自由で、語るべき物語を持たない日本の〈私〉」の日常的な「時空性」を固守しようとし、「ナショナリズムを求心力としてグローバル化に抵抗する東アジア/第三世界の〈あいつら〉」との共時性を拒み続ける「第一世界」的な無垢な感覚を見いだせる。自分は、支配者や知識人のナショナリズム論争のアリーナからは一歩身を退いている「一般人」だと思いこんでいる故に、米国の軍事・文化的ヘゲモニーに対する無抵抗も、かつて侵略したアジアの人々への他者感覚のなさも、問題として自覚することができないのである。(p.74「〃」)

 

 以上のような「日常感覚」や「同時代感覚」にとっては、右翼的国家主義は「古いナショナリズム」として冷笑の対象にしかならないし、そしてその「古いナショナリズム」の復興に対し反応する左翼も、未だに「古い」観念に拘束されている連中だとして、冷笑の対象にしかならない。自分たちの国は軍国主義にはならないし、厳しい言論統制などもしない、ましてや民族や国籍の違いによって他の国民や民族を虐殺することなどしない、自分たちはより「成熟したナショナリズム」を持っている、という感覚である。この感覚からは、右翼はアナクロニズムに過ぎないし、左翼は心配しすぎの馬鹿、ということになる。どちらも、少々過剰で、過激な奴ら、と云うことになる。


 さて、この様な「日常感覚」と「古いナショナリズム」(軍国主義ファシズム、ウルトラ・ナショナリズム)の二重性は、今に始まったことなのだろうか? 政治思想家の藤田省三はどこかで、日本の共同体の中では、何らかの主義をもって行動することは、それが右翼であれ共産主義であれ、「極端主義」として嫌われた、ということを云っていたと思う。戦前のマルクス主義者、戸坂潤もまた、日本における「イデオロギー・世界観・また思想という名において、思想を嫌い無用視し又軽蔑さえするところの文化的風景」の復活を1935年に語っている(「シェストフ的現象について」『思想としての文学』)。思想史家の丸山真男もまた、「理論信仰」から「実感信仰」への転向が日本ファシズムを追認していったということを云っている(『日本の思想』)。これらの論者が一様に「左翼」であること、あるいはマルクス主義を思想として通過してきたことはここでは重要ではない。というのも、今では忘れ去れているが、15年戦争のイデオローグとして保田與重郎と共に有名な小林秀雄は、敢えて云えば「故郷を失った」日常感覚から、様々な「意匠」(=イデオロギー)――当然そこには「日本精神」「アジア精神」も含まれる――を批判しているからである(「様々なる意匠」「故郷を失った文学」)。「上から」やってくるナショナリズムと「下にある」日常感覚の別は、主義・思想・イデオロギーと共同体・実感・日常感覚という形で、戦前から変奏されている、と見る方がどうも正しいように思われる。


 そこで、私は日本ロマン派を取り上げようと思う。それは、日本ロマン派の訴えかけたところのものが、「日常感覚」と相似ているように思われるからである。そう思うようになったきっかけは、竹内好の『近代主義と民族の問題』という論文である。この論文の中で竹内は、戦後民主主義が「民族」という要素を不問に付している様を批判しているのだが、何故そうするかというと、戦前の日本ロマン派が、明治維新以来の日本の近代化の中で置き去りにされてきた「民族を一つの要素として認めよ」と主張するものだったのであり、この「民族」の要求が苛烈なファシズムと結びついたのは偶然的だったとは言え、その可能性は常に潜在していたのであり、戦後民主主義も、「民族」を置き去りにしていたら、戦前の二の舞になることになる、と考えていたからである。そしてこの「民族」とは、近代化(資本主義化)の中で犠牲にされた「健全な倫理感覚」と同義である。竹内は、「素朴なナショナリズムの心情」とも云っている。


 つまり竹内が言っているのは、「上からの」ナショナリズムファシズムと同義)とは異なる、「下に」広がっている漠然としたナショナリズム、素朴な庶民感情や正義感なのである。そう云った人々の間に曖昧に漂っている感情に日本ロマン派は訴えたのだ、と云うのである。謂わば、日本ロマン派は「日常感覚」に訴えたのである。しかし、日本ロマン派の代表者、保田與重郎は、戦後「東洋的ファシスト」(p.14橋川)などと呼ばれている、つまり「国家主義者」と同一視されているのである。「日常感覚」から「国家主義者」への、この微妙な差異は、非常に重要だと思う。このことは、「日常感覚」と「古いナショナリズム」が無関係ではない、ということを意味している。むしろ、「日常感覚」と「古いナショナリズム」との関係を忘却させることになっている。


 そこで以下では、先ずは丸山真男の『日本ファシズムの思想と運動』を取り上げ、日本ファシズムについての一般的理解について確認し、次に橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を主に参照しながら、ファシズムと日本ロマン派との関係を探っていきたいと思う。

 

2 日本ファシズム:『日本ファシズムの思想と運動』より

 この論文(元々は講演)と『超国家主義の論理と心理』によって与えられた日本ファシズムのイメージが、現在の戦前のファシズムに対する一般的で基本的なイメージとなっていると思う。ここで丸山はファシズム運動を三つの時期に分けており、第一期が1919-31年で、民間右翼団体が多数成立した時期であり、第二期が1931-36年で、一期に成立した「下から」のファシズム運動が「上」に吸収されていった時期であり、第三期が1936-45年で、「上から」のファシズム化が徹底されていった時期である。第二期までは、右翼の主張にもナショナリズムの議論がでていたが、第三期になると、単なる国家主義の「強権」の発動であり、竹内はそれを単なる「無思想化」だといっている(p.263「日本のアジア主義」)。


 次に、イデオロギー面でいうと、ファシズムの世界的に共通な要素として、個人主義自由主義的世界観の排除、議会政治への反対、対外膨張の主張、軍備拡充、戦争賛美傾向、民族神話や国粋主義の強調、全体主義に基づく階級闘争の排斥、マルクス主義に対する闘争、を挙げている。そして日本ファシズムイデオロギーとしては、家族主義、農本主義アジア主義と挙げている。


 そしてファシズム運動の担い手について、丸山は二つに分けており、一方が積極的な推進者、他方が消極的な協力者、と規定している。前者の積極的な推進者としては、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、自作農上層、学校教員(特に小学校、青年学校の教員)、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、を挙げており、後者の消極的な協力者としては、都市サラリーマン階級、文化人・ジャーナリスト、自由知識職業者(教授や弁護士)、学生、を挙げている(ただし、学生については両者にまたがっていると云っている)。


 そこで、日本ロマン派はどの人々が担っていたかというと、後者の人々である。橋川文三は「私の見るところでは、日本ロマン派ないしその影響を受けた人々は、概して所謂インテリゲンチャの第二類型に属する者が多かった」(p.17)と云っているが、ここで「第二類型」と云われているのは、上の丸山の論文を踏まえての表現である。そして橋川は、「右翼・ファシスト的観念論に嫌悪を感じていた若い世代が、保田の国粋的神秘主義にはかなり容易にいかれた」と云っている。つまり、右翼や軍国主義者が宣伝する日本主義には馬鹿馬鹿しさしか感じなかったインテリが、日本ロマン派(保田與重郎)の美的な国粋主義には、結構魅惑されたというのである。


 日本ロマン派とは、インテリの問題である。次に、日本ロマン派を見ていくことにしよう。(因みに、日本ロマン派とは『日本浪漫派』という雑誌の同人やその立場の人々を指しており、この雑誌自体の刊行は昭和10年から13年までと短いのであるが、そこに集った同人はその後も活動しており、その後の活動も重要である。同人で中心的だったのは保田與重郎亀井勝一郎であり、その他の有名どころでは、太宰治壇一雄林房雄萩原朔太郎佐藤春夫三好達治、などがいる。(ケヴィン・マイケル・ドーク『日本浪漫派とナショナリズム柏書房))

 

3-0 日本ロマン派

 戦前の日本に於いて、知識人の間でのマルクス主義あるいは共産党の権威は大きかった。例えば中村光夫は、「戦前の共産党の実力が、現在とは比較にならぬほど微弱でありながら、精神的権威はそのためにかえって大きかった」と云っている(p.34『日本の現代小説』)。丸山真男は、戦前にマルクス主義が日本に来たとき、「マルクス主義が社会科学を一手に代表した」と云っている(p.55『日本の思想』)。その理由として丸山は、第一に、マルクス主義が日本で始めて、政治・法律・哲学・経済と云った様々な学問分野を総合的に捉える視点を与え、多様な歴史事象を背後で動かす動因を探求する態度を与えたこと、そして第二に、どんな科学研究も無前提ではあり得ないこと、つまり一定の価値観の選択の上に研究は成立していることを教えたこと、を挙げている。この後者の点は、学問的研究というものが、ある種の人格的責任を、つまり倫理を伴うものであること知識人に教えた。この様に、諸学問の統一的視点と、学問の倫理の自覚を与えたところに、マルクス主義の知識人における権威が生まれたのである。


 そこで、マルクス主義からの「転向」と云うことが大きな問題となる。日本ロマン派も、マルクス主義からの「転向」から説明されることが多い。先ずはその一般的理解から始めよう。


 大正から昭和にかけて、マルクス主義(プロレタリア運動)は盛り上がり、30年代以降の度重なる弾圧によって、その運動は挫折していった。この間の事情を事件によって追っていけば、先ず日本共産党の成立(1922年、大正11年)、27年テーゼ・福本イズム批判(27年、昭和2年)、ナップ成立(28年、昭和3年)、ナルプ成立(29年、昭和4年)、コップ成立(31年、昭和6年)、佐野・鍋山の転向声明(33年、昭和8年)、ナルプ解体(34年、昭和9年)となるだろう。この様な流れの中で、「転向」はどのような意味を持ったのだろうか?


 鶴見俊輔久野収は次のように語っている。

 

転向の理由は様々であるが、大衆の支持のないままに自己が一人の個人として信条を守り通さねばならぬということの意味を疑うことにあった。ここには、(1)日本共産党員と大衆意識との切れ目、(2)日本共産党員の個人としての自主的思考の弱さという二つの側面が関わっている。第一の面では、転向者は日本大衆意識の共通の支柱である「国」の権威、「家」への愛情に自分を委ね、第二の面では、これまでマルクス主義の取り上げることを恥としていたような個人生活上の諸問題に目を向けることによってマルクス主義からそれていった。第一の傾斜面における転向者は、佐野学、門屋博、浅野晃のごとく国家主義者としての新生に向かい、第二の傾斜面における転向者は、三好十郎、椎名麟三のような実存主義者としての新生に向かった。転向文学は、日本における実存主義の原型である。(p.54『現代日本の思想』)

 

 ここでは、「マルクス主義→「転向」→国家主義・郷土主義」という系列と、「マルクス主義→「転向」→実存主義」という系列がある、と云われている。前者が、謂わばマルクス主義という「信仰」を捨て、新たに国家主義・郷土主義という「信仰」に回心した場合(文学者では島木健作林房雄)だとすれば、後者は、マルクス主義という「信仰」を捨てた後、如何なる「信仰」をも信じないというニヒリズムに陥った場合である、と言えるだろう。そして、日本ロマン派も、前者の系列に含めて考えられるのが一般的である。実際、保田與重郎マルクス主義者から転向したのである。


 ところが、橋川文三は、日本ロマン派を以上のように「転向」によるニヒリズムからの克服として規定することに反対している。というのも、橋川文三(1922年生まれ)は、自分たちの世代は(1920年代生まれだと思われる)、マルクス主義からの「転向」などを経験することは不可能だからである、と云っている。むしろ彼は、「日本ロマン派とは保田與重郎以外のものではなかった」と云い、保田與重郎を単独に問題としなければならない、と云っている。


 そこで以後は、保田與重郎を問題としていかねばならないのだが、その導きの糸となるのは、橋川が、保田に於いて「マルクス主義国学、ドイツ・ロマン派」が併存している、と云う指摘である。ここでドイツ・ロマン派とは、ロマン主義的イロニーのことである。そこで、橋川の難解な議論を強引に整理するために、心情の合言葉としてのマルクス主義、現状の絶対容認としての国学、嘲弄としてのイロニー、とそれぞれの要素を析出し、それらを個別に論じていこうと思う。

 

 ただ、その前に、橋川が日本ロマン派をどのように位置づけているかは、予め語っていた方がいいだろう。彼は次のように規定している。

 

日本ロマン派は、謂わば解体期におけるインテリゲンチャのデスパレートな自己主張のパトロギーから生まれ、特に、昭和十年前後における都市インテリゲンチャの退行的な行動様式の極端な一翼を形作るものであった。そしてその主張内容には、革命的行動の挫折と閉塞に起源する心情世界への逃避が臆面もなく氾濫していたのであり、保田に終始一貫する「事務情勢論」の拒否に見られるように、あらゆる政治責任の放棄という主情的逆説がそのロマンティシズムの冠冕となっていた。(橋川p.76)

 

 この非常に凝縮した文章から、時代背景となるものを二つだけ取り出すと、(1)解体期における「デスパレート」な感情、そして(2)「革命的行動の挫折」と時代「閉塞」である。


 この前者の「デスパレート」な感情は、世界恐慌の日本への波及としての農業恐慌、プロレタリア運動の挫折、満州事変、あるいは5・15事件他の右翼テロリズム、といったものを背景として生まれたものである。この時期、即ち1930年代前半の雰囲気を象徴するものとして、「シェストフ的不安」というものがある。この言葉が流行したのは――確かにそれは流行である――1934年に、シェストフの『悲劇の哲学』の翻訳が出版されてからであるが、三木清満州事変以降の精神を「不安」によって規定していたので、「デスパレート」な感情というものは、満州事変以降と考えてよいだろう(三木清「シェストフ的不安について」1934年)。ところで、少々考えなければならないのは、昭和8年(1933年)、佐野・鍋山の転向声明があり、以降多くの転向者が続き、恰も、知識人の思想的柱であったマルクス主義が敗北し、打ちひしがれ、不安やニヒリズムを感じているかのように思われるが、事情はより複雑で、この昭和8年は、文学の世界で「文芸復興期」(つまりルネッサンス)と呼ばれ、大正期の作家(谷崎潤一郎志賀直哉永井荷風徳田秋声島崎藤村、など)が現在でも残るよい作品を立て続けに発表した時期でもあったのである(『夜明け前』『つゆのあとさき』『春琴抄』『墨東奇譚』『仮装人物』『暗夜行路』)。この「文芸復興」について、戸坂潤は次のように述べている。

 

文学が「文芸」として復興されねばならぬ。その言葉に対しては誰しも反対する理由を持たないだろう。併し何故同様に、あるいは同時に、科学も復興される必要がなかったのか。……文芸復興の旗の下に馳せ参ずるように見えた評論家の或る者たちは、復興されるべき文芸の内に、「文学」は無論として、何より先に宗教と神学と形而上学と等々を数えることを忘れなかった。……「文芸」復興から、取り残されるように見えたのは、何故か独り科学だけだったのだ。否、単にこの運動に取り残されただけではない、「文学」と宗教と神学等々の復興によって打ち倒された旧権威こそ科学だと云うことであるらしい。(「反動期における文学と哲学」『日本イデオロギー論』)

 

 つまり、西洋の文芸復興とは違って、日本の「文芸復興」は、文学と宗教と神学と形而上学の「復興」であり、科学はむしろ打倒されたのである。そしてここで想起せねばらなぬのは、マルクス主義は当時「科学」として通用していたと云う一事である(この事情については『日本の思想』第二章「近代日本の思想と文学」)。「文芸復興」が倒したのは、「マルクス主義」なのである。してみると、昭和8年におけるマルクス主義の敗北と「文芸復興」は、同一の事態だと云える。「転向」がマルクス主義の単なる政治的敗北であるとするなら、「文芸復興」はその科学的=政治的敗北である。こうして「文芸復興」によって復活された「文学」は、非科学的、非政治的、非思想的なものとして己を規定することになる。それは「文学」の政治・科学・思想からの解放であり、「文学」の勝利であった。戸坂潤はそれは「文学主義」と呼ぶだろう。


 話を進めすぎてしまった嫌いがあるが、話を戻すと、日本ロマン派は、満州事変以降の「不安」や「デスパレート」な感情に源を持っているのである。そしてこれらの感情は、「シェストフ的不安」の流行や「文芸復興」のように、表面的には明るかった。いや、確かに人々は明るかったのかもしれない。漠然とした不安や絶望感と、表層の明るさ――このコントラストは、昭和8年小林秀雄の次の文章にも表れている。

 

故郷のない精神というものに気がつき出すと、事ごとにその現れが見つかる。極端な場合を考えると特に妙である。歩くのが好きだからよく山へ行く。深いところへ危険なところへといきたがる。これなんかずいぶんおかしい、とこの頃合点し始めた。自然の美しさに感動しにいくのは健全なことだと当人考えているが、実はそれは日常的観念的な焦燥の一種の現われに過ぎないのではないかと思えばまさしくそう思われてくる。どうも自然を愛するなどという現実的な穏やかな筋合いのものではないらしい。自然美に対する私の感動に、一体どんな確たる現実的な根拠があるか、いよいよ疑わしい。注意してみると山の美しさに酔うことと抽象的な観念の美に酔うことと実によく似ている。故郷を失った精神の両面を眺めるような想いである。そう思うと近頃の登山の流行などには容易に信用がおけない。年々病人の数が増える、そんな気がする。(p.290「故郷を失った文学」『小林秀雄初期文芸論集』)

 

 「故郷の喪失」が「不安」や「デスパレート」な感情に通じているのは云うまでもない。そしてそれとは一見無関係な、登山の流行という病的に「明るい」現象が起こっていたのだ。

 

 さて、次に、「革命的行動の挫折と閉塞」のほうであるが、橋川文三は、これを石川啄木の「何か面白いことはないか! それは全ての人間の心に流れている深い浪漫主義の嘆声だ。」という言葉と関係づけている。「何か面白いことはないか!」は知識人の政治的無力感の屈折した表現であり、それは日露戦争以降ずっと変わらない、と云っている(石川啄木時代閉塞の現状」)。例えば中村光夫は、明治以降の知識人の置かれている立場を明治初年題、20年代、40年代(日露戦争分水嶺になっている)と三段階に分けているが、それは知識人が徐々に無力になり、そしてその無力を合理化する過程となっている。

 

明治初年には知識階級自身が文明開化の旗手であった。国民の指導者だと思っていた。今度、明治20年代には権力に使える使用人の位置に下ってきた、というふうに自覚するようになってきたわけであります。しかし、それでも自分では、国家意識、社会の役に立つ、というようなことを、いつも意識していたわけであります。
 それが日露戦争後になると、そういう実際社会の問題から、自分らは離れてしまうんだ、離れたところに宗教なり文学なり芸術なりの問題があるんだ、というような気風が出てくるわけであります。(p.42中村光夫『明治・大正・昭和』第二章「知識人の生き方」)

 

 この日露戦後の意識は、もう少し詳しく、次のようにも語られている。

 

戦後になりますと、政治とか経済とか云うような実際的な仕事、国家の実務というようなことは、自分らには無関係である。自分の興味は、そういう一時的な生活の必要というものにはなく、もっと永遠なものにあるというようなことを考える人が、だんだん殖えてきました。(p.42『〃』)

 

 

 

 このように、日露戦争以降、単なる政治的無力を、「宗教なり文学なり芸術なり」と云った精神的なもの、あるいは「美的なもの」によって克服する傾向が、知識人の間で広まる(大正時代とは、知識人によるこの様な「合理化」がうまくいっていた時期であり、大正末期のマルクス主義がその合理化を否定することになる)。こういう「美的なもの」を追い求める精神的態度を言語で表すと、「何か面白いことはないか!」となる。そして日本ロマン派は、敢えて云えば、知識人全般に共通していた政治的無力感を、過激な形で、純粋な心情世界へと動員したのである。その結果、政治は美や享楽の対象となり、「あらゆる政治責任の放棄」というロマンティシズムが繁栄することになる。


 この様に(1)満州事変以降社会的に蔓延した「シェストフ的不安」および「デスパレートな心情」(経済的には日本の農業恐慌に源を持つ)と(2)日露戦争以後に確定してきた知識人の全般的政治的無力化傾向とが合流したところに、日本ロマン派は成立したのである。日本ロマン派も、「美的なもの」による政治的無力の克服の形態であった。

 

 最後に、保田與重郎の客観的な主張として明確なものを取り上げると、「反文明開化」である。彼は明治以降の近代化を批判している(「文明開化の論理の終焉について」『日本近代文学評論選 昭和編』より)。そして「デカダンスへの情熱」を語り、明治以降の近代化の没落を肯定するのである。この態度は戦後にも引き継がれ、アメリカ的資本主義もソヴィエト的社会主義も共に「近代主義」だと否定され、その対局としての「アジア的生活」が美化される。

 

3-1 心情の合言葉としてのマルクス主義

 保田與重郎にとって、マルクス主義は政治でも科学でも思想でもなく、むしろ正義を戦うという純粋なる「心情」としてあった。橋川は、この様な主情主義的態度は、日本ロマン派の精神を浮き彫りにしているという。次の保田の文章が、それである。

 

満州事変がその世界観的純潔さをもって心ゆさぶった対象は、我々の同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった学生は、転向といった形でなく、政治的なもののどんな汚れも受けない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現に打たれた。時の新しい決意は、当時の左翼経済学の意見をしりめにして進んだ、又国の運命は彼らの云いふらした見透しを打破するような結果を次々に生んだ、と我々はその頃判断していた。事実がどうか知らないが、そうして明白に満州国は前進した。即ち「満州国」は今なお、フランス共和国、ソヴェート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理念とその世界観の表現である。


我々の世界観を、本当の地上表現を伴うものとして教えたのは、やはりマルクス主義だった。この「マルクス主義」は、ある日には既に純粋にソヴェートと関係なく、マルクスとさえ関係ない正義を戦おうとする心持ちになっていた。日本の状態を世界の規模から改革するという考え方から、しかしそういう心情の合言葉になった頃にマルクス主義は本質的に変化したのである。


さて、「満州国」という思想が、新思想として、また革命的世界観として、いくらか理解された頃に、我々の日本浪漫派は萌芽状態を表現していたのである。しかも、そういう理解が生まれた頃は、一等若い青年のあるデスパレートな心情であったということは、全ての人々に幾度も要求する事実である。……現在の満州国の理想や現実といったものを思想としての満州国というのではない。私の云うのはもっと先の日本の浪漫主義である。(橋川p.34「『満州国皇帝旗に捧げる曲』について」『コギト』昭和15年12月号)

 

 

マルクス主義は、「ソヴェート」とも、「マルクス」とも関係のない、「正義を戦おうとする心持ち」なのであった。「マルクス主義」は、そのように純粋に正義を愛する「心情の合言葉」なのである。そして、この「心情」にとっては、満州国フランス共和国とソヴィエトは、等置されておかしくない。理論的に考えられた抽象的な「プロレタリアート」という存在の救済に代わって、具体的な「日本人」という大衆の救済に赴いただけなのだ。この抽象的に「純粋な」正義感(世直し欲求)は何ら変節していないのである。その意味で、マルクス主義と「満州国」などの国家主義とは、何ら矛盾しない。しかし橋川が注意しているのは、この「心情」は、むしろ知識人が政治的に無力であることから生まれたものである、という点である。橋川は例えば次のように指摘している。

 

現実的に見て、福本イズムに象徴される共産主義運動が政治的に無効であったことと、日本ロマン派が同じく政治的に無効であったこととは、まさに等価であるという他はないのではないか?(橋川p.38)

 

 これは、共産主義運動も日本ロマン派も、政治的無力という点で等しく、それ故に、両者とも「美的」表象として同一であった、ということである。政治的汚れ無き純粋な心情とは、「政治」が現実的にあり得ないところに成立する。そしてそれは逆から言うと、その「心情」自体の中に、既に政治の挫折の可能性と、その挫折を救済する可能性を用意しているということでもある。そしてそれこそ「美」なのである。

 

「心情の合言葉」としてのマルクス主義という奇怪な倒錯的表現は、それが非政治化され、情緒化された形での革命思想であったという解釈に私を導く。謂わば政治から疎外された革命感情の「美」に向かっての後退・噴出であり(ロマンティジールングとはそもそもそういうものだ)、デスパレートな飛躍であったと考える。(橋川p.39)

 

 政治的無力さから、正義を求める感情が「美」に向かい、情緒化され、非政治化され、「心情の合言葉」としてのマルクス主義と云う規定が、つまり「美的な」マルクス主義が生まれた。これを「文芸復興期」に対する戸坂潤の指摘と重ね合わせれば、このマルクス主義は、「文学的な」マルクス主義と云ってもよいだろう。

 

3-2 嘲弄としてのイロニー

 橋川文三は、保田與重郎の中のマルクス主義国学、ドイツ・ロマン派を統一するものが「イロニー」(ロマン主義的イロニー)であると云っているが(p.44)、敢えて私は「嘲弄としてのイロニー」という形で、個別の要素として取り上げる。


 このイロニーはドイツ・ロマン派の批評概念であり、フリードリッヒ・シュレーゲルが概念規定をしたのだが、この概念を保田與重郎も自らの批評の態度に組み込んでいる。橋川はイロニーの概念について次のように語っている。

 

イロニーの概念を説明することは困難ではない。しかしその多様な発現様式を総合的に批判することは容易ではない。いうまでもなく、それはドイツ・ロマン派の特異な自己批判形式=創作理論として展開したものであり、謂わば退廃と緊張の中間に、無限に自己決定を留保する心的態度の表れであった。一般的に云えば、ある種の政治的無能力状態に置かれた中間層的知識層が多少共に獲得する資質に属するものであって、現実的には道徳的無責任と政治的逃避の心情を匂わせるものであった。(中略)


私たちは保田から亀井(勝一郎)にいたるまで、この様なイロニーの現れをその思想と文章の中に見いだすことができる。特にその発現は保田の場合極めて過激であり、シュレーゲルについて云われたように、「イロニーとは嘲弄そのものである」という言葉をさえ連想させられる。(橋川p.47)

 

 

 イロニーとは端的には、有限なものの破壊・批判・相対化であり、それを通じて、有限性を超越した意識を確保することであるが、そこから、「自己決定を留保する心的態度」、つまり有限な世界にコミットするのを無限に延期する態度が生まれる。それゆえ、そこには「道徳的無責任」や「政治的逃避」が生じることになる。有限な世界、つまり現実にコミットすることは責任を伴うし、それが政治的行為だからである。しかしイロニーとは、その現実を相対化し、主体がそこから超越する方法である。その時イロニーは、有限な世界、現実の世界に囚われ、右往左往している人々や現象に対する「嘲弄」となる。あるいは、軽蔑となる。例えば保田は次のように述べている。

 

日本の新しい精神の混沌と未形の状態や、破壊と建設を同時的に確保した自由な日本のイロニー、さらに進んではイロニーとしての日本といったものへのリアリズムが、日本浪漫派の基盤となった。(橋川p.35「我国に於ける浪漫主義の外観」昭和15年8月)

 

 ここでの「イロニーとしての日本」と云う表現は、「冗談としての日本」「偽物としての日本」「嘘としての日本」「遊びとしての日本」と言い換えても良いものである。つまり、この表現は、「日本」を実体として、絶対確実な存在として考えている人々に対する攻撃であり、「嘲弄・軽蔑」なのである。そんな「日本」なんてありはしないよ、と有限な世界に囚われている人々を嘲弄・軽蔑するのである。むしろ背景としては、そのような確実な存在としての「日本」がないことの「リアリズム」が、日本ロマン派を支えていたのである。では、日本ロマン派は「日本」を徹底的に否定するのかというと、そうではなく、実体無き表象としての「日本」、記号としての「日本」と、敢えて戯れるのである。それが「イロニーとしての日本」の意味である。


 これはまた、「イロニーとしての天皇制」と同義なのである。これもまた、「天皇」なんてものはありはしないよ、と云う嘲弄・軽蔑なのであり、橋川は、保田の文章を読んでいた若者たちは、「天皇」に対して嘲弄していた、と語っている(p.64)。


 しかし、次のような文章になると、イロニーは不吉になってくる。

 

日本浪漫派は、今日僕らの「時代青春」の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み、昨日の習俗を案ぜず、明日の真諦を目指して滞らぬ。我が時代の青春! 芸術人の天賦を真に意識し、現状反抗を強いられし者の集いである。日本浪漫派はここに自体が一つのイロニーである。(橋川p.53「日本浪漫派広告」『コギト』昭和9年11月号)

 

 ここでは、日本ロマン派それ自体が「イロニー」である、と宣言されている。言い換えれば、日本ロマン派それ自体が冗談、偽物、嘘、遊びだと云っているのである。自分たちの行う行為自体が、謂わば「無意味な戯れ」だと云っているのだ。「イロニーとしての日本」が他者への軽蔑・嘲弄だとすれば、ここでは自己自身に軽蔑・嘲弄しているのである。


 橋川は、この自己否定=自己嘲弄を、強大になっていくファシズムに対する政治的無力感の表明であると云っている。現実的に無力なとき、その無力な自分を告白し、嘲弄する=否定することによってのみ「自己」は主張可能なのであり、そうすることによって自意識は、少なくとも、無力な自分を見下ろす「高い」位置を獲得できるのである。有限の世界に生きる無力な自分を否定することで、高次の超越的な主体を救済することができるのである。「イロニーとは我々の政治的不自由の表現である」(ハイネ)と云う規定が、この事情を良く表しているだろう。


 このことは、一切の発言が、政治的リアリズム、政治的責任を排除していると云うことにも繋がる。フランス革命ロシア革命満州事変を同列に並べて「新しい果敢な文明理念とその世界観の表現」と語った先の発言が既にしてイロニーであり、次の発言も同じようにイロニーである。

 

私は観客として云うのである……観客としてドイツが勝った方が面白かろうし、これは文化の一部門を歴史を通して考えてきた私の希望でもある。そうして神々はいつも歴史を面白く面白くと振り向けてゆくように、私には考えられる。(橋川p.48「文士の処世について」昭和14年11月)

 

この戦争(中日戦争)がたとえ無償に終わっても、日本は世界史を画する大遠征をなしたのだ。蒙古を流れる黄河に立ったとき、私は始めて、日本の大陸政策の世界史に於ける位置を感じた……思想としての立場からは、今、戦争が無償に終わる時を空想しても、実に雄大なロマンティシズムである。(橋川p.48『新潮』昭和13年11月号)

 

本当に我々は、人がよくて敵の存在を知らなかったのだろうか。敵とは何かの実感がなかったのであろうか。多少思い当たることは、敵の実体がなかったと云うことだ。自分の心理にない実感は、実体もなかったのではないか。口先で鬼畜と云い、鬼畜の実を知らないのは、日本人の善良さだった……。(橋川p.68『祖国』1954年4月号)

 

 これらのいずれもがイロニーであり、政治や歴史を美的・情緒的表象に還元する方法は、政治的無力の裏返しなのである。

 

3-3 現状の絶対容認としての国学

 イロニーは政治的無力を自己嘲弄すことによって、嘲弄する高次の「自己」を救済する方法であった。これによって、有限な世界、現実は、非政治的な美的表象へと変化する。如何なる言説も、現実に働きかけるものではなくして、この美的な表象と戯れるものとなる。こうして現実は、何ら変わることなく保存されることになる。橋川は保田與重郎国学思想の痕跡を認めているが、それは以上のイロニー化のプロセスと無関係ではない。以下でその国学、現状の絶対容認としての国学を見ていく。


 橋川文三は、国学宣長)について「イロニー」の要素があると指摘した上で、次のように国学について語っている。

 

宣長は、一方において朱子学的な合理主義による世界構成を人為の恣意として斥けるとともに、他方、国学的思想と相似する老荘的自然哲学に対しても、「その自然は真の自然にあらず」としてこれを批判している。即ち、儒教的規範主義に対する宣長の否定は、人為的規範の否定によって見いだされた主情的な人間自然の強調とともに、より特徴的に、そのようにして見いだされた主情的人間意識の絶対化をも否定するのである。(橋川p.88)

 

 社会制度や法は、「人為」によって構成された「規範」であり、理性的なものである。謂わば、それは思想であり原理である。そのような思想は宣長にとって「からごころ」として排除される。それでは、老荘的「自然」はどうなのか? 社会制度や法が人間に対して抑圧的に働くとき、それら「規範」に対して打ち立てられるのは人間的「自然=本性」である。しかしその「自然」が、「規範」に対抗して主張される思想であり原理である限り、それも「からごころ」である。こうして、儒教的規範主義も、老荘的自然も、ともに「からごころ」(=思想・原理)だとして排除されることになる。


 宣長の言葉によれば、以上の事情は次のように語られる。

 

但しかれら(老荘)が道は、もともとさかしらを厭うから自然の道をしいて立てんとするものなる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべきにそのさかしらを厭う悪むは帰りて自然に背ける強事なり。(橋川p.89「くずばな」)

 

 つまり、老荘は、「さかしら」(=理性、規範、思想)に対して「自然」を対置するから悪い、「さかしら」によってできている世界は、「さかしら」のままにしていてこそ本当の「自然」だ、と云うわけである。こうなると、国学というのは、丸山真男の云うように、「ありのままなる」現実肯定にしか過ぎなくなるのである。(p.20『日本の思想』)


 保田與重郎にも、この様な論理展開はある。保田は戦後に「絶対平和論」を唱えるが、そこでは、戦前の反近代主義が延長され、「イロニーとしてのアジア」が主張される。

 

平和しかない生活、そういう生活の計画を先とする平和論が絶対平和論です、これは理想に生きるという上で、全面講和論よりもさらに非現実的かもしれません、しかし理想と熱意と誇りと光栄をもっています。その生活からは、戦争する余力も、戦争の必要もそうした考え方も起こってこない――そういう生活という意味です。そのため我々は二つの命題を立てることができます。一つは近代生活を羨望せぬこと、一つは近代文明以上に高次な精神と道徳の文明の眺望を自覚すること、この二つです。……アジアの本質は、そういう意味で近代の反対です。この反対と云うことは、アジアの魂の生得としていうのではなく、アジアの魂を育むアジアの生活として云うのです。(橋川p.70『祖国』1952年9月号)

 

 ここでも、「西洋」や「近代」の反対として、「アジア」や「平和」が唱えられるが、謂わば、宣長が「さかしら」に対し「自然」を対置したのと同じように、この「アジア」とは、どこにもない場所なのである。「アジア」とは、積極的に「西洋=近代」に対抗する原理ではない。むしろそれは、宣長の「自然」がそうであるように、無原理、無思想なる美的表象である。保田は「近代文化を否定する意味ですか?」という問いに対し、次のように答えている。

 

そう取られてもかまいません。いや、無関心なのです。汽車が目障りだというのではありません。それを破壊しようと思いません、しかしそれが無くなる時代が来てもよいのです。むしろ無くなる時代の来るのを希望するのです。これは人間の幸福と論理の問題だからです。そして破壊すると云うことは、我々の否定するところです。厳密な論理として、近代文化の生活を追求している者は、米国かソ連のいずれかにつかねばならぬ始末となるのです。(橋川p.73『祖国』1950年3月号)

 

 「さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべき」と同じように、近代世界をそのままにして積極的に関与しない態度の象徴こそ「アジア」なのである。儒教的規範主義と、それに対抗する老荘的自然がともに「からごころ」であるように、アメリカ的資本主義と、そのアンチテーゼとしてのソ連のような社会主義は、ともに「近代主義」なのであり、両者をともに拒絶する美的表象が「アジア」なのである。そしてこの「アジア」を唱える限りで、「近代主義」的である現状は、観賞的に保存されるのである。


 保田與重郎に見られる国学的要素とはこの様なものであり、或る意味で、徹底した非政治主義である。現実を相対化し、現実から距離を取る中で、政治は失われるが、その代わり美しい形象は残る。そしてこの美的形象に没頭することで、現実は完全に容認されるのである。

 

4 政治と美学

 以上で、保田與重郎の特徴である、心情の合言葉としてのマルクス主義、嘲弄としてのイロニー、現状の絶対容認としての国学、をそれぞれ論じてきた。これらは相互に重なり合って保田與重郎の世界を作っているが、私は、橋川文三の議論を無理矢理整理して、これらの要素を区別されたものとして扱ってきたのである。


 マルクス主義は、政治でも思想でも科学でもなく、マルクスという人物やソヴィエトという現実の事件とも関係なく、正義を求めるという純粋な「心情の合言葉」に変質していた。イロニーは、有限な世界に存在する他者と自分を、ともに否定=嘲弄し、軽蔑することによって、嘲弄する「自己」を高次の無限な世界において救済する装置であった。国学は、現実から政治的対立を美的な形象の中で解消することで、現実の絶対容認を肯定することになった。かくの如き要素によって構成されている保田の世界は、花田清輝ゴーギャンについて語っているものに近いと思う。「彼は荒れ狂う一切のものを、しっとりと落ち着いた死の雰囲気で包み、これに秩序と諧調とを与え、そうして、これこそ冒険に違いないのだが、闘争そのものの装飾化を目指して進んだのである。……ゴーギャンは、決して先鋭なものを避けようとはしないが、麻酔にかけて、その抵抗力を奪ってしまい、相手を完全に混迷させた後、殆ど嗜虐的な態度で、その美しさを描写しようとする。そこには劇的な緊張は見られず、死の韻律だけが、静かに流れており、それは鬱々とした、不毛の性的感情に通じるものがある。」(「歌」『復興期の精神』)この様な、「死の美学」とでも云いうるものを、保田與重郎も体現していた。橋川は、保田の反文明開化と国学的現状容認が、「現実的には敗戦と没落を肯定追求する心情に他ならない」と語っており、自分と同年の若者にも、没落を肯定し、死を望んでいたものがいた、と語っている(p.49)。明治以降の文明化を徹底的に否定するためにも、文明開化の延長である現在の日本は「没落」しなければならない。死の間際には全てが美しく見える。そのような、死に付き添われることで発揮される人を誘い込む魔術的な美しさのもとで、人は、その甘美な死の中に抱擁されることを願い、ただただ美しく死ぬことが義務となる。橋川は、日本ロマン派は、ナチスの「我々は闘わねばならぬ!」とは違い、「私たちは死なねばならぬ!」というものだった、と語っている(p.50)。


 そして、これらに共通しているのは、政治的無能力が背景となっていることである。心情の合言葉としてのマルクス主義、嘲弄としてのイロニー、現状の絶対容認としての国学、と云うそれぞれは、政治的無力を心情の中で、意識の中で、美の中で超克する方法であった。その結果、保田與重郎は、非政治的、非思想(非原理)的、非科学的な言説を操ることになった。これは基本的に、戸坂潤が「文芸復興期」について語っていたことの延長で捉えることができる。昭和8年の佐野・鍋山の転向声明に象徴されるプロレタリア運動の敗北は、大正的文学者にとっては、プロレタリア運動という「政治」の圧力からの解放なのであり、そのため、それから数年間は「文芸復興期」と云われたのである。逆から言えば、「文芸復興」とは、政治や思想や科学に対する、文学や心情や美の勝利なのであった。その後の社会状況を「文学主義」と戸坂が名付けたのは既に述べた。


 これらは謂わば文学内部の話である。最後に残った問題は、この文学とその外部、即ち政治との関係である。橋川は次のように云っている。

 

保田と小林(秀雄)とが戦争のイデオローグとして最もユニークな存在であったこと、彼らが、インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、最も影響多かったことは断るまでもあるまい。……しかし、ここで問題となるのは、彼らに共通する反政治的思想であり、しかもそれが、最も政治的に有効な作用を及ぼし得たことの意味である。(橋川p.107)

 

 何故「非政治的」な態度と一貫し、政治的言説を語ることを拒絶していた保田與重郎が、「東洋的ファシスト」などと形容されるような「政治的」影響力を持ったのか、それが問題なのである。そしてそれは、以上で検討してきた保田の諸特徴から説明されるべきものである。

 

 第一に、心情の合言葉としてのマルクス主義というマルクス主義の「情緒化」あるいは「内面化」は、政治に於いて問われる「結果責任」を、主観的情緒の中に解消してしまうことになる。そうして、主観的純粋さの下で責任という観念は霧散する。加藤周一は日本人の特徴として「主観主義」を語っているが、それは、行動を主観的情緒から考えることによって政治的次元を、つまり「結果責任」を曖昧にしてしまう装置である。彼は次のように述べている。

 

これ(主観主義)もいろいろな形で出てくる。犯罪や事件が起こったときには、その動機が非常に大事だとされる。当人の「気持ち」や「心」の問題です。日常生活の中でも、しきりに、「悪気で言ったのではない」とか、「悪気でやったのではないだろう」とか、云います。15年戦争の当時、高名な文学者武者小路実篤は、戦争を賛美しました。戦後、当人の証言によれば、それは軍閥に「だまされていた」からです。別の言葉で言えば、悪気で戦争を賛美したのではなかった。その戦争で、どれほど多くの日本人や中国人やその他の人々が無意味に殺されたとしても、そのことよりも、悪気でなかったことの方が大事だから、武者小路実篤は立派な人になるのです。(p.40「日本社会・文化の基本的特徴」『日本文化のかくれた形』より)

 

 そして、既に述べたことではあるが、この様な内面の誠実さのみが重視されるところでは、マルクス主義からの「転向」は、大きな出来事とはならない。藤田省三は、インテリに於ける「政治」と「純粋な意欲」に力点を置く傾向を指摘しながら、マルクス主義からの転向者の様子を次のように描いている。

 

マルクス主義の)客観的認識一本槍のアンバランスな思想は、今や具体的体験一本槍のアンバランスな実感へと転換するが、その場合多くの転向者は、家族と郷土の温情の中へ純真に立ち返ったのである。「一般的に云えば学校の成績もよく、真面目であった者が多い」左翼運動家は、今ではその「方向の誤り」をただして、再び村に於いては模範的人物となる。農村の「儀表」であり「組織人」である。それは……郷土ファシズムが要求していた「中堅人物」に他ならない。農村に定着し得た転向者は、この様にして「革新運動」のオルガナイザーとなった者が多い。(p.174「天皇制とファシズム」『天皇制の支配原理』より)

 

 

 

 藤田省三はその他の「転向者」も描いているが、重要なのは、この様な「純粋な意欲」や「誠実さ」を重視する態度が、客観的な政治的認識を排除し、政治責任をないがしろにしてしまう点である。保田による「心情の合言葉」としてのマルクス主義という言い方は、政治責任よりも「心情の正しさ」を重視する傾向へと、時代が推移していたことの症候としてみた方が良いだろう。

 

 第二に、現状の絶対容認としての国学は、支配と被支配という政治的関係を「自然」として隠蔽する作用を果たした。政治的なものが生まれるためには、或る政治的関係、社会制度、そして法規範といったものが、「自然」なものでなくして、「人為」によって構成されたものであるという意識が必要になる。それらが「人為」的なもの、そしてそれを構成する「主体」が存在するからこそ、そこに自由な主体としての責任が生じる余地が生まれる。ところが、宣長の「さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべき」という思考様式の中では、政治的関係、社会制度そして法規範の中に「人為」を導入することはできない。それらはまさに「自然的秩序」なのである。支配と服従という政治的関係は、人為的なものではなく、「自然」なものと見なされるのであり、そこに政治的責任は生じ得ない。


 この「人為」を排した「自然」としての権力関係は、イデオロギーの次元で云えば、天皇制に於ける「家族国家」に相当する。藤田省三は、天皇制を家族的なもの或いは道徳的なものと、政治的なものとの接合としてみている。

 

天皇」は、或いは、「神」として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或いは又、温情にあふれた最大最高の「家父」として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、「天皇」は政治的主権者として万能の「君権」を意味していた。したがって前二者にあっては、「天皇」の支配体制は、政治外的領域を基礎とした「神国」となり、或いは「家族国家」となるが、後者に於いては、体制は、最高の権力者によって統合される「政治国家」そのものに他ならなかった。(p.14「天皇制の支配原理」『天皇制の支配原理』より)

 

 すなわち、「天皇」は、一方では「神」「家父」であり、他方では「君権」なのである。前者は、謂わば非政治的「自然」的秩序であり、後者は政治的「人為」の世界である。そして、明治国家もまた当然に、この二者、「自然」的秩序と「人為」的世界との接合であり、それは次のように語られている。

 

天皇制の権力状況は、国家の構成原理からすれば、明らかに、異質な二つの原理の対抗・癒着の発展関係として捉えられるであろう。即ち一つは、国家を政治権力の装置ないし特殊政治的な制度として構成しようとするものであり、他は、国家を共同体に基礎づけられた日常的生活共同体そのもの乃至はそれと同一化できるものとして構成しようとする原理である。前者に於いては、国家に於ける社会的対立は当然存在すべきものとして前提されその上で政治的統合が問題とされるのであるが、後者に於いては、国内対立は本来存在すべきではない。(p.17「〃」)

 

 ここで云われている「政治的な制度」と「日常的生活共同体」とがそれぞれ、政治的「人為」の世界と非政治的「自然」な世界に対応していることは云うまでもないだろう。後者の「自然」な共同体では、政治的なものは独立した領域だとは認められず、道徳や習慣や伝統と混同されている。支配と従属という関係も、道徳的に、習慣的に、伝統的に見られ、「人為」としては見られない。当然そこには、政治的リアリズムも、「結果責任」という観念も生じない。藤田は、日本に於いて、「体制が危機に至るや、常に「国民道徳の退廃」にその原因を求められるという奇現象」を指摘している。


 この様に見ていくと、国学的な現状の絶対容認、「さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべき」という発想は、「自然」と「人為」の接合としての天皇制の一方の面だけに着目し、他方を忘却させるイデオロギー装置となるだろう。

 

 第三に、嘲弄としてのイロニーであるが、これが政治的無力の裏返しであることについては既に述べた。それ以上に云うべきことはないが、ただ強調しておくべきは、政治的関係を「人為」ではなくして「自然」と捉える態度が政治責任を消去するのと同じように、政治的関係を、あるいは政治的事件を「美的」に捉えることも、政治責任を消去することになる、ということである。それは、保田が、ドイツが勝った方が面白いしと述べたり、日中戦争に「雄大なロマンティシズム」を感じていると述べたり、口で「鬼畜」と云いながら鬼畜の「実体」を知らないのは日本人の善良さだなどと述べたりしていることの無責任さは、云うまでもないだろう。

 

 以上、心情の合言葉としてのマルクス主義、嘲弄としてのイロニー、現状の絶対容認としての国学、という保田與重郎のそれぞれの特徴について、それらと政治との関係を語ってきた。主情主義(主観主義)、イロニー的な「美学化」、国学的「自然主義」、これら一連の非政治的要素が、まさにそれが「非政治的」であるが故に、強力に日本の「政治」、即ち日本ファシズムをサポートしたのである。日本の権力は、(藤田省三を引いて明らかにしたように)これらの「非政治的」な要素を己の支配方式に組み入れいるのである。それ故、昭和8年以降の「文芸復興期」に於いて復活した非政治的・非思想的・非科学的「文学主義」(戸坂潤)――日本ロマン派(昭和10年創刊)は当然そこに含まれる――は、それ自体が「政治的」運動だったのである。

 

5 総括

 丸山真男は、『日本の思想』の中で、日本には様々な思想を時系列的に整序する構造的軸が存在しないこと、外部から流れ込んでくる思想との間で対決が無く、そして思想的な発展も蓄積もなく、ただ様々な思想が雑居していること(あるいは様々な思想を無限抱擁すること)、そのため、過去の思想が思いがけない形で復活すること、を日本の思想の特徴であると云っている。謂わば、様々な思想や宗教や学問を無限抱擁し、平和共存させる寛容性こそ、日本の「自然」なのである。この様な日本の「自然」にとって唯一の異質なものは、「まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった」。そしてこの様に雑居性を否定する「思想」は、日本の「自然」から、「雑居的寛容の「伝統」の故の激しい不寛容に取り巻かれるというディレンマ」を被ることになったのである。そして丸山真男は、そのような「思想」として、明治のキリスト教と、大正末期からのマルクス主義を挙げている。謂わば、これら二つの思想は、日本の「自然」を否定する過剰な「人為」であり、絶対的なもの、超越的なものだったのである。そしてこの超越的なものは、日本の「自然」からは激しい抵抗に遭うのである。


 大正末期から昭和前期にかけてのマルクス主義(プロレタリア運動)は、日本的「自然」を否定する「超越性」だったのである。日本の天皇制はこの「自然」に寄りかかったものであり、それ故この「自然」を否定するマルクス主義は、当然天皇制と対立することになる。いや、それだけではなく、この「自然」の中で作られた人格をも否定するものであった。そのため、私小説を基本的手法としていた大正の作家は、プロレタリア運動の昂揚によって小説をかけなくなった(例えば中村光夫『明治・大正・昭和』p.144参照)。ところが、プロレタリア運動運動の敗退に平行して、「文芸復興」が起こったのである。以上を踏まえれば、この「文芸復興」とは、マルクス主義という「超越性」によって否定されていた「自然」が、その「超越性」の政治的敗北によって解放された、と云うことと等しい事態だと分かるだろう。「文芸復興」とは、「超越性」に対する「自然」の勝利だったのだ。そしてこの「文芸復興」が、日本ファシズムと何ら矛盾しないのも、また同じ理由なのである。


 丸山真男が「理論信仰」と「実感信仰」と語っていることも、以上の議論と平行している。「理論信仰」で云われている「理論」とは、日本的「自然」を否定する超越的思想(端的にはマルクス主義)であり、「実感信仰」に於ける実感の世界とはその日本的「自然」なのである。そして丸山は、日本ではこの「自然」の立場から「超越的」理論を批判する方法が伝統化されていると云い、その典型として本居宣長国学を挙げている。国学儒教批判を、次のように丸山はまとめている。

 

国学本居宣長)の儒教批判は、


1:イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑
2:推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直感的解釈を絶対化する結果となる)
3:手応えの確かな感覚的日常経験にだけ明晰な世界を認める考え方
4:論的のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引き下げる批判様式
5:歴史に於ける理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反発する思考


などなど、の様式によって、その後も極めて強靱な思想批判の「伝統」をなしている。ここには無論批判として正統なものを含んでいたし、歴史的な意味もあったが、当面の問題としてはやはりイデオロギー批判が原理的なもの自体の拒否によって、感覚的な次元から抽象されないという点が重視されなければならない。現代まで続く社会科学的思考に対する文学的あるいは「庶民的」批評家の嫌悪や反情の思想的源泉が既にここに兆しているように思われる。(p.22『日本の思想』)

 

 

 この様なイデオロギー批判の結果肯定されるのが、「さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべき」と云われるところの「自然」であり、それは現状追認なのである。


 さて、この「自然」なる語に、冒頭で語った先進国に於ける「日常感覚」や「同時代感覚」と同じ響きを感じないだろうか?

 

参考文献

フリードリッヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(富山房百科文庫)
東浩紀大澤真幸自由を考える』(NHKブックス
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス
加藤周一『日本人とは何か』(講談社学術文庫
加藤周一丸山真男木下順二・武田清子『日本文化のかくれた形』(岩波現代文庫
柄谷行人編『近代日本の批評Ⅰ 昭和篇上』(講談社文芸文庫
姜尚中編『ポストコロニアリズム』(作品社)
北河賢三『戦争と知識人』(日本史ブックレット 山川出版)
戸坂潤『戸坂潤全集第二巻』『〃四巻』(勁草書房
ケヴィン・マイケル・ドーク『日本浪漫派とナショナリズム』(柏書房
小林秀雄小林秀雄初期文芸論集』(岩波文庫)『小林秀雄全作品12・13』(新潮社)
竹内好竹内好評論集二巻 日本イデオロギー』『〃三巻 日本とアジア』(筑摩書房
千葉俊二坪内祐三編『日本近代文学評論選 昭和篇』『〃 明治・大正編』(岩波文庫
鶴見俊輔久野収現代日本の思想』(岩波新書
中村光夫『日本の現代小説』(岩波新書)『明治・大正・昭和』(岩波同時代ライブラリー)
橋川文三『日本浪漫派批判序説』(講談社学芸文庫)
花田清輝花田清輝著作集Ⅰ』(未来社)より『復興期の精神』
藤田省三天皇制国家の支配原理』(みすず書房
丸山真男『日本の思想』(岩波新書)『現代政治の思想と行動』(未来社