Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

多様性について

私がかつて文学や批評理論に関心を持っていたとき、自分の中で原則としていたのは、次の2つだった。
1.短編小説は評価の対象としない。
2.ある作家を評価する場合には、最低三作品読む。

最初の点は、作家の実力と関係している。短編において力を発揮する作家はもちろん存在するが(チェーホフ芥川龍之介のように)、アベレージとしては、たくさんの分量を書くためには、それに相当する知識量や、思想・世界観、思考力が要求される。作家の実力はそれによって測られると思っていた(だから、単に「美しい文章を書く」という点にはない、と)。だから、そもそも短編小説は相手にしない、という原則を取っていた。
第二の点は、批評する人間の倫理に関わっている。かつて大江健三郎は、文学を本当に理解するためには、ある作家の全作品を読むべきだ、ということを話していた。高校生の頃の私は、それを「なるほど」と思い、それを実際に実行はできていないが、それでもそれは大切なことだと思い続けてきた。そのような姿勢は、「人を知る」「人を評価する」という基本的姿勢に関わっているのだと思う。大学生になって、文芸評論家のエーリッヒ・アウエルバッハが語った文学研究の目的、すなわち「ある作家を、その作家が知っている以上に理解すること」という目的を知るようになった。それは先の大江健三郎の言葉とも通じている。つまり、「人を知り、評価する」という行為は、とても時間のかかる忍耐強い営みなのだ。そしてさらに後に、エドワード・サイードの本を通じて、そうした人文学的解釈の姿勢が、デモクラシーに通じていることを教えられた。個々人の個性・固有性が尊重されながら、その多様な諸個人が愛と誠実と信頼を持って関係し合う社会である。サイードは、そうした社会のためには、各人が他者を忍耐強く理解するという営みが不可欠であり、それが人文学の伝統なのだと語っていた。

そんなことを考えていたのは2000年台前半のことだったが、その後世界では、インターネットの影響がますます大きくなってきた。「文学」ではないが、巷に流れる「文章」はますます断片的になってきた。ツイッターに代表されるように、人々は、ますます「短文」で自分の意見を表明するようになってきた。
こういう社会変化の中で、「短編小説は評価しない・相手にしない」ということを原則としていた私は、けっこうジレンマを感じるようになった。
ある事件がおこると、それに対するリアクションが膨大に生まれる。そのリアクションというのは、いずれも断片的な「短文」ばかりである。ところが、その「短文」からは、その人がどのような意図、背景、理由、ヴィジョンを持ってそのような文章を書くに至ったのかを理解することはできない。となると、そのリアクションをどう受け止めていいのかわからないのだ。社会学者のような人物(おもに構造主義の影響を受けた、言説分析を中心にするような人々)ならば、そのような表面的な言説をもとにしながら何がしかのことを言いうるのかもしれない。しかし、他者に対する基本的な倫理観を大切にしようとすると、そうした表面的な言説に対して応答することはできない。ところが、社会の方は、表面的な短文ばかりの言説に対する応答、再応答、再々応答・・・という形でどんどん展開していく。このような状況に対してどのように接すればいいのか、わからないのだ。

私自身はやはり、社会問題については、「一定の社会観、現実認識、向かっていくべき理想があって初めて何らかの言葉を発することができる」のだと考えている。例えば、古代ギリシアのポリスのような社会を理想とする人と、江戸時代の社会を理想とする人と、フランス革命期の共和国を理想とする人とでは、実際に起きる出来事に対する評価は異なるだろう。これはあまりにも当然だと思う。
また、同じ理想を持っていたとしても、ある出来事に対する評価が一致するとは限らない。単に、現実認識において差がある場合があるし、判断力について優劣がある場合がある。そこからも、生まれてくる言説に変化が出る。
こうなると、問題が生まれる。
本当は同じ理想を持っているはずなのに、表面的な対立にとらわれてしまったり、別々の理想を持っているのに、表面的な意見では一致してしまうことである。
また、本当は社会問題が問題なのではなく、「自分自身」が「問題」であるが、それが覆い隠されて生まれる言葉もある。そのようなケースの場合、その問題点は、その言葉を発する人を全体的に理解しようとすると自ずから現れてくることであるが、断片的な言説では、それを追跡することはできない。「自分の問題」が修正されることなく、そのまま垂れ流し状態になってしまう。

少し理想的なことを言うならば、社会全体として、「どのような社会が望ましいのか」、つまり社会のグランド・デザインについて合意されることが、あらゆる社会的・政治的選択の出発点になるのだと思う。現状の日本の政治に関して言うと、各政党が、「ホンネ」(各政党が目指している理想的な社会像)を隠しながら、その時々の事件やテーマについて、「大衆受けの良い」ことを言いながら人気を得ようとしているのが実際だと思う。各政党が「ホンネ」を言うと、人々が離れてしまうと恐れているのだと思う。例えば、自民党は「一部のエリートが『愚民』を支配する階級社会」を目指している。そのように言っては反対が大きくなるのが目に見えているので、国際競争力や女性活躍やなんとか言っているが、色々な政策を総合して考えると、自民党が目指している社会は明白だろう。

私自身がどのような社会像を抱いているのかといえば、基本的には、古典的な市民社会のモデルである。個人、家族、市民社会、国家、という審級を常に念頭に置きながらものを考えている。
もちろん、18世紀にできたこのような啓蒙主義的関係は、19世紀以降、変わってくる。資本主義はますます世界に浸透し、帝国主義の時代になり、植民地主義も生まれる。20世紀、21世紀になり、政治や経済もますますグローバルになってきた。個人や家庭は、ますます資本主義に依存するものとなり、生存は不安定となり、それに対して、国家社会主義(ナチズム)や福祉国家が弥縫策として生まれたが、それは最終解決ではないままに、現在にまで延長している。最近は個人的にはあまり耳にすることもないが、かつてはネグリとハートの「帝国」の議論もよくされた。今後の社会モデルについて、何が最適ないしは最善なのかは、実のところ合意がされていない。
それでも私は、「個人、家族、市民社会、国家」という関係でものを考えるのは、当面は「ベター」であると思うので、やはりそのように考えているし、行動している。

その上で、「どのような社会が望ましいのか?」については、すごく曖昧ではあるが、次のように言うことができる。つまり「各人の個性が最大限発揮され、多様性が尊重されているにもかかわらず、調和が保たれている社会・組織」である。
これは、次のような聖書のヴィジョンに倣っている。少し長いが引用しよう。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。  つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。  体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。  足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。  耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。  もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。  そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。  すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。  だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。  目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。  それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。  わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。  見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。  それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。  一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。  神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。(1コリント12:12−28;新共同訳)

この箇所は、伝統的にはいわゆる「社会有機体説」を支持する根拠とされてきた。
伝統的な社会有機体説では、「個人が全体のために」抑圧されることが期待されていた。これに対して、近代の市民社会は、個人の優位性が認められてきた。

私自身は、上の聖書箇所は、個々人が「全体の目的の道具になる」というよりは、個々人が、それぞれに与えられた能力・才能・個性を十分に発揮しあっている状態を描写しているのだと解釈している。ところが、通常想像すると、各人が自分の個性や能力を発揮すると「バラバラ」になるように思われるが、この聖書の箇所が語ろうとしているのは、各人が各々の個性や力を発揮しながらも「一つ」で「調和」するのだ、ということである。
各人が「全体のために抑圧される」のではなく、各人が最大限の力を発揮する状態というヴィジョンは、聖書では旧約聖書の時から持たれている。
モーセは次のように言っている。

モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記11:29)

モーセは、すべての人が直接神からの啓示を受けて生きることを望んでいるのである。誰かに依存したり、自分の本来の姿を隠したり、自分の何かを押し殺したりするのではなく、神から与えられたものを完全に発揮すること、それを良しとしているのだ。

私は、社会や組織においても、このような状態が理想的であると思う。すべての人々が、その個性を見出し、個性を発揮し、多様性が尊重されること、それでいながら、社会が分裂するのではなく、調和すること。これが理想的であると思う。そのための制度設計は色々工夫が必要だと思うが、目指すべき姿はそういうものだと考えている。