Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

散らされた人々

散らされた人々  使徒言行録8:1−8

(2017年10月20日になされたメッセージ) 

 

こんばんは。 

今日の箇所では、いよいよ福音がエルサレムの外に広がっていく姿を見ることができます。この使徒言行録8:1によって、ようやく1:8の約束が実現するのです。よく知られている箇所ですが、読みましょう。  

 

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)  

 

ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降りました。それからエルサレムの教会は大きく成長します。ところが、福音は、まだエルサレムの外には出て行かない状況でした。そのなかで迫害が起こり、それによって人々が散らされていきます。そうして福音がエルサレムの外に出て行きます。1:8を読むならば、しっかりと「ユダヤサマリア」という地名が出てきます。そして10章になると、コルネリウス聖霊を受ける場面を見るでしょう。福音が、異邦人にまで及ぶのです。このように福音が拡大していくうえできっかけとなったのが、ステファノの殉教に始まる迫害です。神様は、迫害が起こるのをお許しになりました。そしてこの迫害によって、クリスチャンたちは散らされていき、散らされると同時に、福音を伝えていきました。神様の福音宣教の計画は、このように進みます。 

 

今日は、「散らされる」ということと、「福音宣教」との関係について、共に学んでいきたいと思います。 

 

 

1 「散らされる」とはどういうことか? 

まず初めに、「散らされる」ということについて確認したいと思います。 

新共同訳の8:1を見ると、「使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って行った」と書かれています。細かいようですが、私はここでは、新改訳のほうを選びたいと思います。新改訳は次のように翻訳しています。 

 

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒言行録8:1 新改訳)   

 

注目してほしいのは、最後の「散らされた」という言葉です。新共同訳では「散って行った」とされています。細かいのですが、私はここはやはり、「散らされた」という受動態がふさわしいと思うのです。その理由は、この人々が「散らされた」背景にあるのは、「神様が散らした」ということだからです。 

 

この「散らされた」という言葉は、みなさん、聞いたことがあると思いますが、「ディアスポラ」という言葉の動詞です。「ディアスポラ」は、よく「離散した」という風に翻訳されると思います。新約聖書ですと、よく知られているのは、1ペトロ1:1です。 

 

イエス・キリスト使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。(1ペトロ1:1) 

 

この「離散して」がディアスポラです。散らされているクリスチャンたちです。 

 

この言葉が使われるようになったのは、バビロン捕囚の後です。バビロン捕囚があってから、キュロス王によってユダヤ人たちはイスラエルの土地に帰還することが許されました。しかし、そのとき帰ったのは、実は、ユダヤ人たちのほんの一部でした。エステルやモルデカイのような人々は、帰らずにそのままバビロンに残っていた人々です。そういう人々がたくさんいました。またその後も、イスラエルの土地は、アレクサンドロス大王の支配、セレウコス朝シリアの支配、ローマ帝国の支配という具合に、政治的に不安定でした。そのことから、イスラエルに帰らずに、世界の至る所に住むユダヤ人がたくさん生まれました。ちなみに、先ほど1ペトロ1:1であげた地域は、ある王によってバビロンの土地から強制移住させられたユダヤ人たちの住む土地でもあります。そのようなケースもありました。ユダヤ人の歴史を書いていたヨセフスは、ローマ帝国の主要な都市でユダヤ人がいないところはほとんどない、ということを書いています。このような人々が「ディアスポラユダヤ人」でした。彼らは、自分の国を持たず、シナゴーグを中心としたコミュニティを作って生活していました。地域ごとの文化や生活に適応しながら生活し、しかし同時に、ユダヤ人としてのアイデンティティも持って生きていました。新約の時代、このようなユダヤ人がたくさんいました。 

 

ディアスポラ、つまり「散らされた」ということを考えるうえで、一つ重要な旧約の出来事があります。それは、バベルの塔の出来事です。創世記11:8-9を読みましょう。 

 

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである(創世記11:8-9)  

 

ここで「散らされた」という言葉があります。旧約聖書ギリシア語翻訳が当時ありましたが、その翻訳では、この箇所にディアスポラという言葉が使われています。このバベルの塔の事件では、みなさんご存知のように、神様が人々を世界中へと「散らす」のです。 

 

このディアスポラという言葉は、ここで使われます。しかし、バビロン捕囚のような出来事では使われていないのです。そのような、イスラエルの民の罪、それに対する罰として、無理やりイスラエルの民が連れて行かれるという出来事については、ディアスポラという単語は使われていません。これは覚えておくことだと思います。 

 

「捕囚」として捕らわれていくことも、「散らされる」ことも、どちらも同じように、外国に住むことです。でも、「捕囚」となることは、明確に、罪に対する罰なのです。それに対して、「散らされる」ということは、もっと中立的な表現です。今日の本文の使徒言行録を読んでみても、それはわかるでしょう。初代教会の兄弟姉妹たちは、神様に対して何か罪を犯したので、「散らされた」のではありませんでした。むしろ、彼らはすごく正しく歩んだ、と言えるでしょう。正しく歩んだけれども、彼らは散らされました。神様は、彼らを散らしました。いえ、彼らが散らされるのを、許しました。 

 

どうして神様は、彼らが散らされるのをお許しになったのだろうか? それを考えるとき、一つ思い浮かぶのは、やはり「神様の約束」です。使徒言行録を1:8の約束に基づくならば、エルサレムの弟子たちは、もっとさっさとエルサレムの外に出て行くべきだったのかもしれませんね。でも、彼らは出ていかなかった。もしかすると、居心地がよかったのかもしれません。そこで神様は、迫害を許して、彼らがエルサレムの外に出て行くようにさせたのです。そう考えることができます。 

 

実は、同じようなケースが、旧約の出エジプト記にもあるのです。イスラエルの人々は、自分たちが本来住むべき場所はカナンの土地であることを知っているべきだったのです。カナンの土地は、アブラハムに約束されました。また、ヤコブも知っていました。ヤコブは、その約束があったので、エジプトへ行くのを最初は渋っていたのでした。ところが、ヨセフに誘われながら、ヤコブたちは一族は、全員エジプトに住みます。飢饉の時だけ住んでいて、さっさとカナンの土地に帰ってもよかったはずです。でもそうしなかった。なぜでしょう? やはり居心地がよかったのではないでしょうか? そうこうするうちに、神様は、ユダヤ人たちを迫害するファラオが生まれるのをお許しになりました。そして、迫害を許しました。それでどうなったでしょうか? 彼らは主に向かって叫ぶようになります。そのあとのことはみなさん、ご存知でしょう。イスラエルの民は、カナンの土地に帰ることになります。 

 

人々が神様の約束を忘れているときに、神様は、ご自分の計画を進めるために、迫害をも用いるのです。出エジプト記では、イスラエルの民が、カナンの土地に住むという約束を忘れていました。また、使徒言行録では、ユダヤサマリアの全土で、地に至るまで、福音を伝えるという約束を、もしかすると、忘れていたのかもしれません。神様は、約束を思い起こさせ、約束を実現するために、迫害をも許されるのです。 

 

 

さて、この「散らされる」というのは、信仰的にはどういう意味でしょうか? 

「散らされる」というのは、私たちの信仰生活にとって考えるならば、「不本意なところに行く」ということだろうと思います。「散らされる人々」のことを考えてみましょう。あるところで信仰生活を送っていたのですね。そうしているうちに、ある噂を聞く。クリスチャンを捕まえるという噂です。それは困ったことだ、ということで逃げ始めます。ある人々は「悪いことをしているわけではないのに、なんで逃げるんだ?」と思ってとどまる人もいるかもしれません。でも、小さい子供などを持っている人なら、子供を育てるためにも、やはり逃げるでしょう。そうやって逃げる。ある町に行く。そこにも、またファリサイ派や律法学者がやってくる。そしてまた逃げる。そのようにすると思います。そのように逃げる人々は、たぶん、気持ちとしては「不本意」でしょうね。「本当はエルサレムにいたい。でもいることができないから、近くの町に行く。ローマに行ったら、安全かもしれない。でもそこまではいけないので、トルコ辺りの町にとどまる。」そんな感じかもしれません。彼らは、要するに、「一番行きたいところ」と「一番行きたくないところ」の中間の、どこかに行くのです。それはつまり、彼らは「不本意なところに行く」ということです。「散らされる」ということはつまり、「不本意なところに行く」ということです。 

 

そう考えると、私たちも、色々なところに「散らされている」ということが分かると思います。ある大学に入ったことに、「不本意」な人もいるでしょう。本当は別の大学に行きたかったけれど、色々なことが原因で、今の大学に入った。そのような人がいるでしょう。ある人は、今働いている会社に「不本意で」入ったかもしれません。本当は別の会社に行きたかったけれど、二番目のところ、あるいは三番目の希望のところに入った。そういう人もいるでしょう。人によっては、今自分は、「不本意な仕事」をしている、と感じている人もいるでしょう。「本当は別の人と住みたかったのに、不本意な人と住んでいる」という人もいるかもしれません。「不本意な相手と結婚してしまった」と思う人もいるかもしれないです。「自分の人生全体が不本意だ」と思う人もいるでしょう。 

 

今、自分がいるところ、今の自分の状況、今の自分の仕事、自分のパートナー、そういうものに「不本意だ」と感じているならば、私たちは、みんな「散らされている」のです。「散らされている」ということは、私たちが、「後ろから急かされて、何かを選ばなければいけない状況で、最善のものは選ぶことができず、二番目、三番目のものを選んでしまった」そのような状況です。 

 

エルサレム」から逃げてきた人々は、おそらくファリサイ派や律法学者から逃げて来たのでしょう。彼らはそういう人々に「追われて」いたのでした。 

 

私たちの人生も、振り返ってみるならば、何かに「追われてきた」と言えるでしょう。立ち止まってゆっくり考えることはできなかったと思います。中学校が終わるころには、高校受験があったでしょう。高校に入ったら、そのあとは大学受験があったでしょう。そしてその都度、立ち止まることは、できなかったと思います。立ち止まって、「高校に行かず、どこかで働いたらどうなのだろうか?」そういうことはおそらく考えない。「何にも選ばない」ということはできない。常に、何かを選択することを、私たちは迫られて生きてきました。大学に行くか、そうでないか。大学に行くのなら、どこの大学に行くか。大学を卒徴して、就職するか、大学院に行くか。就職するなら、どこに就職するか。「何にも選択しない」ということは許されなかった。とにかく、何かを選択しなければならなかった。そして、何かを選択すると、とりあえず安心できました。二番目、三番目だとしても、とりあえず大学に入ったら安心。とりあえず就職できたら安心。ちょうど、「散らされた」クリスチャンたちが、ある町に入った時に、とりあえず安心したようなものです。「最善の場所」ではないとしても、とりあえず安心するのです。 

 

私たちは「何に追われていた」のでしょうか? きっと、私たちを追いかけていたのは「この世の価値観」であり、この世の価値観から抜け落ちてしまうときの「不安」です。そういうものによって私たちは、たえず、「何にも選ばないよりかは、何かを選ぶ」という生き方をし、「最善ではないけれども、二番目、三番目で喜ぶ」という生き方をして来たでしょう。 

 

しかしそのような私たちは、心の中に常に「不本意な思い」を抱いているのです。「こんなはずではなかった」という思いを持つのです。 

 

  

2 散らされた人々は福音を伝えた  

さて、二つ目のポイントです。「散らされた人々」は、福音を伝えました。使徒言行録8:4-5を読みます。 

 

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」(使徒言行録8:4-5)  

 

ここを読むと、私は大変で苦しいという姿よりも、楽しそうな印象を持ちます。ディズニーのアニメみたいに、「ハイホー、ハイホー」と歌いながら行進しているような気がするのです。「迫害を受けて、そこから逃げて、苦しい!」という姿はないように思うのです。 

 

なぜそのようなことが可能だったのでしょうか? 

 

分かり切っている答えですが、それは、彼らの信仰によるものです。 

 

ここでみなさん、このメッセージを準備しながら、名言が思いついたので、言っていいですか? それはこういうものです。 

「信仰とは、苦難を笑いに変える力である。」 

素晴らしい名言だと思わないでしょうか?(笑) 

 

詩篇30:12を読みましょう。

 

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(詩篇30:12) 

 

信仰によって、私たちは、嘆きから踊りへと変わるのです。信仰によって、私たちは、難しい状況の中にあって、笑うことができるのです。 

 

それはどのようにしてか? それは、私たちが、神様が私たちを見るように、私たちを見ることによってです。信仰によって、私たちが、神様が私たちを見るように自分自身を見るときに、私たちは、笑うことができるようになります。 

 

ここで、すこし子供の想像力を考えてみたいと思います。 

想像力というのはすごいもので、それは、その人自身を変える力があります。 

例えば、教会学校のA君を考えてみましょう。A君、自分のことをドラキュラだったり、ジェイソンだったり、トゥワイスやプリキュアだったり、想像します。そして、時々僕を驚かそうとしたりします。で、すごいと思うのは、自分がトゥワイスだと思いこんでいると、トゥワイスがやっているように、本当に体が柔らかくなることです。A君、すごく体が柔らかいですね。自分がトゥワイスだと思って、ずーと真似をし続けたのでしょう。 

自分が「これこれのものだ!」と想像し続けると、本当にそのようになるのです。 

 

神様は、私たちのことを、尊い子供だと思っています。私たちが、イエス様の十字架によって完全にあがなわれた、価値のある、永遠に生き続ける子供だと思っています。だから、私たちがちょっとしたことでへこんだり、嘆いたり、泣きわめいたりしていると、神様は、たぶん私たちを見て、笑うんでしょうね。 

 

さきほどA君をあげたので、今度もB君をあげたいのですが、B君は、普段はすごく元気なんですが、何かあると、突然落ち込むんですね。落ち込んでしまったら、誰が何をしても、反応しなくなります。そういう姿を、みなさんも見たことがあると思います。また、あんなに運動が好きなのに、ちょっとけがをすると、すごく痛がるんですね。まえも、公園で遊んでいて、B君が滑ってけがをしました。ちょっとだけ血が出ましたが、全然大したことのないものです。すると、公園から教会に来るまで、ずーと足を引きずりながら、「歩けない」と泣き言を言い続けたのでした。 

 

そういう落ち込んだり、「もう歩けない」という姿を見て、私たち大人はどのように反応するのでしょうか? 笑うのですね。それは、同年代の子供たちがするような笑いではありません。「お前、そんなことで泣いてんの? ばっかじゃない」と、そういう風に笑うことではありません。大人が、痛がっている子供を見て笑うのは、別の理由からです。それは、「そんな傷は大したことないよ」と言いたいからです。「そんな怪我は、あなたの人生にとって、大したことはないよ」。そのように思うからです。

 

子供たちは、転んで怪我をすると、「人生の一大事だ。これは大変だ!」と泣きます。でもそれを見る大人は、違うように見ます。「そんな傷は全然大したことはない。あなたの命は、そんな傷ではびくともしない。あなたに与えられている命は、そんなこととは関係なく、これからも生き続けるんだ!」そのように思ってみているのです。だから、笑うことができるのです。 

 

神様も、私たちに対して、同じように見ているのでしょう。私たちは、自分で転んで、痛みを持っているときに、「あぁ、自分はなんて不幸な、かわいそうな人間なんだ!」と思い込みます。そのように思い込んでいたら、実際にそのようになってしまうでしょう。そのような私たちに対して、神様は別なように見ます。「そんなことは、全然大したことがない。あなたに与えられている命は、そんなことではビクともしない。そんな傷も、そんな苦しみも、キリストの十字架によって与えられたあなたの命に、どんな影響も及ぼすことはできないんだ。」そのように見るでしょう。そうやって、神様は笑うでしょうね。 

 

笑うというのは、愛情であり、励ましなのです。「そんなことに、そんなに深刻になる必要はないよ!」というときに生まれるのが笑いです。 

 

考えてみてください。もし、B君くらいの子供が、自分の身長を見て「あぁ、僕はずっとこのくらいの身長なのか。。。」と落ち込んでいたら、私たちは笑うでしょう。全然そんなこと、落ち込むことはないからです。でも、その調子でずっとい続けて、「もう、僕なんて、生きている資格はないな。生きていても、何にも面白くないや」と言い始めたら、私たちはどうするでしょうか? 激しく怒りますね。バカヤローと激しく怒ります。その怒りは、憎しみでしょうか? 違いますね。その怒りも愛情です。「目を覚ませ、自分に与えられた命をしっかり見ろ! 自分勝手な思いや価値観の中に閉じこもるな!」そういう怒りです。 

 

信仰を持つとは、神様が私たちを見るように、私たち自身を見ることです。神様が私たちを見るとき、私たちの嘆き、悲しみ、失望感、絶望、諦め、そういったものは、笑いの対象になるのです。なぜなら、そのようなものは、私たちに与えられている命、キリストの十字架上の血潮によって獲得された命にに対して、何の影響も及ぼさないからです。確かに、必要な嘆き、必要な悲しみはあるでしょう。でも、それ以上に嘆いたり悲しんだりしたら、そういう私たちを見て、神様は笑うでしょう。そしてなおも私たちが嘆き続け、悲しみ続けていたら、今度は怒るでしょう。「ばかやろー!」と。 

 

信仰をもって私たちが、神様の目で自分自身を見るようになるならば、私たちもまた、笑うことのできる人間になります。神様の目で、神様によって与えられた永遠の命を見続けるならば、どのような状況になっても大丈夫です。私たちは笑うことができます。あらゆる苦難、嘆き、苦しみ、絶望、諦めに対して、私たちは笑うことができるようになるでしょう。 

 

「散らされた人々」は、不本意な生き方をしていましたが、彼らは、笑うことができました。それは、彼らが信仰を持っていたからです。信仰によって、神様の目で、自分自身を見ていたからです。 

 

私たちはどうでしょうか? 私たちも、不本意な状況にいるかもしれません。もしそこで私たちが笑うことができないとしたら、私たちは、不信仰です。神様から与えられた、イエス様の十字架によって与えられた永遠の命に目を注ぐならば、私たちは、笑う理由が生まれます。その命に比べれば、どのような苦しみも、大したことはないからです。私たちは、神様が私たちを見るように、自分自身を見る者になりましょう。  

 

3 「散らされた人々」は、他の人を幸せにした。 

最後です。「散らされた人々」は、他の人々を幸せにしました。使徒言行録8:8を読みましょう。

 

町の人々は大変喜んだ。(使徒言行録8:8)  

 

散らされた人々は、逃げ込んだ町で、福音を伝え、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりして、人々に喜びを与えていました。 

 

彼らは、自分が最も行きたかった場所に行ったわけではないでしょう。また、自分が絶対行きたくない場所に行ったわけでもありません。二番目、三番目、そういう場所に行きました。「仕方ない」場所に行きました。つまり、「不本意な」場所に行きました。その彼らがしたことは、「人々を喜ばせる」ことだったのです。 

 

私たちは、多かれ少なかれ、不本意な生き方をしてきたし、また、不本意な場所にいるかもしれません。不本意な人とパートナーを組んでいるかもしれません。 

 

私たちは、「ビジョン」というと、神様から「これだ!」という形で与えられるものだと思っているかもしれません。そして、そのような形で「これだ!」と思うものがなくて、思い悩んでいる人もいたりします。 

 

でも、この使徒言行録でみられる「散らされた人々」が行なったことは何でしょうか? 散らされたその場所で、不本意ながらも立ち寄ったその町で、福音を伝え、色々なことをして人々を喜ばせたことです。つまり、人々を幸せにしたということです。

 

「この人を幸せにしたい」「この人々を幸せにしたい」。 このような気持ちが与えられるということも、立派なビジョンなのです。 

 

「自分は何をするのがいいのか? 自分はどこで働くのがいいのか?」そういうことを考えるかもしれませんが、その前にまず、あなたが散らされたその場所、あなたが散らされて、不本意ながらも置かれているその場所で、人々を幸せにすることに努めてください。「この人々を幸せにするために、自分は何ができるのか? 自分は、どのように変わらないといけないのか?」それを考えてください。 

 

私たちは散らされているのです。不本意な場所にいるのです。望んだわけではない人間関係の中にいるのです。望んだわけではない仕事をしているのです。 

 

そのような状況にいる私たちにとって必要なことは何でしょうか? 他の人々を幸せにすることです。喜びを与えることです。笑いによって包み込まれることです。 

 

まとめます。 

私たちは、散らされた人間です。不本意な場所、不本意な仕事、不本意な人間関係の中で生活しています。ぜひ私たちは、そのようななかで、信仰をもって笑いながら生きていくものとなりましょう。神様が見るように自分自身を見て、あらゆる嘆き、悲しみ、失望感、挫折感、諦めに対して、笑いをもって勝利しましょう。そして、散らされたその場所で、人々を幸せにしていく私たちでありましょう。