Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

はじめに神が

「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)

2019年4月28日のメッセージ

 

再びメッセージすることが許されて感謝です。

これからは創世記を読み進めながら、神様の声を聞き取ってメッセージしていきたいと思います。

 

今日のメッセージは前半と後半に分かれています。

前半は、「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉を語るときに私たちが直面する問題について考えます。

後半は、この御言葉の中の、とりわけ「はじめに神が」という点にこだわりたいと思います。

この「はじめに神が」という言葉が、今の私たちにとって持っている意味を考えていきたいと思います。

 

 

1.「神が人間を作った」のか、それとも「人間が神を作った」のか?

 

さて、「はじめに神が天と地を創造された」この言葉を読んで、どのように思うでしょうか? 

私はこれを読むと、「いやはや、聖書とは、本当に聖書だなぁ」と感じます。

どういうことかというと、本当にストレートに、神様の存在を語るからです。

今の時代、この聖書の御言葉を語ることは、すごく挑戦的で、戦闘的なものでしょう。

例えば、「世界を、神様が作ったんだよ!」ということを誰かに言ったとしたら、「嘘、そんなの神話や空想だよ」と言われたり、あるいは、「ビッグバンで宇宙は誕生し、人間は猿から進化したんだよ」と言われたりするでしょう。

あるいは、「神なんていないよ。神も仏も、全部人間が勝手に作り上げた空想・幻想でしかないよ」と言う人もいるかもしれません。

もしかすると、「お前、どうしたの? 頭でも打った? 病院でMRIでもとらないといけないかもしれないねぇ」と言われるかもしれません。

ともかく、「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉は、この世界で生きている人々、その価値観と、ストレートにぶつかるのです。

これほど激しい言葉、あるいは、私たちにとってノンクリスチャンに言いづらい言葉はないでしょう。

「神様が世界と人間を創造したんだよ!」と言うと、たちどころに様々な批判・反論がやってくると思います。

 

この時間は、こうした一般的な反論に対してそれぞれ答えることはしませんし、できません。

ただ、その反論のうち一つだけ考えてみます。

それは、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を、あるいは神々を作ったのだ」という反論です。

なぜこの反論を取り上げるのかというと、最近、会社で仕事をしながらそういう意見を受けていたからなんです。

クリスチャンはもちろん、「神様が世界を作った、人間を作った、そして聖書を通じて人間に語りかけようとしている」そのように信じています。

ところが、普通の人々はそうは考えてないですね。

会社で雑談をしながら、聖書のことや信仰のことも話すのですが、そのなかで、「神様って、人間が作ったんじゃないの?」と聞かれました。

たぶん、ちょっとものを考えるような人は、今日、だいたい同じようなことを言うのではないかと思います。

「神が人間を作った」ではなく「人間が神を作った」。

そのほうがわかりやすいですね。

例えば、次のように考える人は多いでしょう。

 

「昔は、自然のメカニズムが解明されていなかったので、なんでも神や超自然的な存在のせいにしてたけれど、今日、科学が進歩して、昔神の働きだと思われていたものが、単に自然の科学的メカニズムによるものだとわかるようになった。

だから、昔の人が「神」だと考えていたものは、ただの人間の想像の産物なのだ。

しかしだからといって、それは無駄なものではない。

昔の人は、人間に教訓を教えたり、社会秩序を守ったりするために、神を考え、神話を作って共有していたのだ。

だから、「神」というのは、社会秩序を維持したりするために人間が作り出した想像上のものなのだ。」

 

このように考える人はそこそこ多いでしょう。

これに対して聖書はどう語るかというと、「神が人間を作った」と語る。

正反対なのです。

聖書の内容は、この世界で普通に生きている人たちと正面からぶつかるのです。

さて、どうしましょう?

私自身、会社でそういうふうに質問を受けて、あまりうまく答えられなかったのですね。

そのこともあって、「人間が神を作ったんじゃない?」という反論について、考えてみようと思ったのでした。

 

さて、そこで私は、まずカルヴァンはどのように考えているのか、と気になりました。

プロテスタントの神学の大本を作ったのがカルヴァンなので、いつもカルヴァンのことが気になるのですね。

で、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読み始めました。

そのなかで、特に二つの主張が印象に残りました。

一つは、神の存在は自然のままの状態でも人々に知られている、という主張です。

またもう一つは、聖書は真の神を人々に伝えるために神がモーセを通じて啓示したものだ、という主張です。

 

一つ目はパウロもローマ書で言っていることですが、カルヴァンはそれを踏まえて語ります。

そして彼は、神の存在が自然のままでも人々に知られているという証拠として、人々が神について色々想像することを指摘しています。

世界中に、それこそ多種多様な神が存在しますが、世界のあらゆる民族が自分たちなりの仕方で神を想像、つまり空想します。

日本にも、フィリピンにも、インドにも、世界の至る所に独特な神がいますね。

そのように、人間は沢山の神を作ります。

ここまでは、この世の人々とカルヴァンは共通しています。

でもその後が異なります。

この世の人々は、神と言われるものがことごとく人間の想像物であるということをもって、「だから神は存在しないのでは?」と考えます。

これに対してカルヴァンは、「だから神は存在するのだ」と考えます。

ただし、神について、自然に生活するだけでは、極めて曖昧に、そして混乱した形でしか把握できないのだ、と付け加えます。

ここが違うのですね。

神を、いろんな民族が勝手に想像している――ここまではカルヴァンもこの世の人々も共通です。

でもカルヴァンはそれを、神が存在する証拠とするのです。

では「なぜそんなに人々は多様に空想するのか?」というと、それは、「真の神が啓示されていないからだ」――そのようにカルヴァンは考えるのです。

 

このような理解から、二つ目の主張が導かれます。

つまり、人々は多種多様に神を想像するけれど、神様は、ご自分が正確に認識され、そして礼拝されることを望む。

そこで、神を知る真の道を人々に啓示した。

それが聖書である。

神様は、ご自分が正しく理解されるために、聖書を与えたのだ。

カルヴァンはそのように考えます。

 

 

カルヴァンの文章を読みながら、私は、「あぁ、状況は聖書が最初に書かれたモーセの時代も今も、変わらないんだな」と思いました。

考えてみると、モーセモーセ五書を書いたときも、周りは偶像崇拝だらけでしたね。

そもそも、イスラエルの人々は、エジプトという偶像崇拝の豊かな世界で長年生活していました。

モーセが山にこもっているときに、金の子牛を作って拝んだりしましたね。

その様子を見ると、偶像崇拝の影響を彼らもたくさん受けていたのだと推測されます。

カナンの土地に行くまでにも、イスラエルの人々は偶像崇拝の民族の中を通っていきます。

そのようななかでカルヴァンモーセ五書を書きました。

それは、イスラエルの人々に、真の神を啓示するためのものであり、またカナンの土地に入った後にしっかりと神の民として生活し、礼拝するためのものでした。

今の私達も同じような状況ですね。

生まれたときから偶像崇拝の社会の中で生活し、気づかないところでその影響を受けながら成長していきます。

町の行事や学校の行事にも、宗教的なものはたくさんあります。

そうした状況の中で、真の神を啓示する役割を、やはり聖書は持っているのではないか?

このように、モーセの時代と今の時代を、比較することが出来ます。

 

 

話を戻しますが、カルヴァンが語っていることから、私たちは次のことを理解できます。

それは、様々な民族が自分たちなりに神を造り上げるという同じ現象に関して、二つの理解が可能だ、ということです。

一つは、「だから、神は存在しない」という結論であり、もう一つは、「だから神は存在するのだ」という結論です。

同じ現象について、二つの正反対の結論、あるいは、二つの正反対の説明の仕方が可能なのです。

では、私たちはどうしていくのがいいのでしょうか?

おそらく、単純に「聖書はこのように語っている」と語るのがいいのではないかと思います。

色々考えて「論理的に言い負かしてやろう!」とするよりも、単純に「聖書はこのように語っています」ということを伝えることが大切なのでは、と思います。

そしてそのために何が必要なのかと言うと、私たち自身が、聖書を土台としながら物事を考えることです。

つまり、私たちが目で見て知っている世界によって聖書を解釈するのではなく、その逆に、聖書によって私たちの目で見える世界を解釈する、その積み重ねが必要だと思うのです。

そうしているうちに、人々のなかで聖霊様が働いてくださり、「神は存在する」という前提で世界を見ることにリアリティを感じるようになったときに、その人たちは自然に、「あ、神がこの世界を、そして人間を創ったんだな」と信じるようになるのだと思います。

大切なのは、相手を議論で打ち負かしたりすることではなく、私たち自身が、聖書に基づいてこの世界を解釈し、理解する、それをし続けることなのです。

 

それでは、今日の御言葉を踏まえながら私たちの世界を解釈しようとすると、どうなるでしょうか?

今は、創世記1:1に関連する二つの御言葉を取り上げます。

一つは、先ほども少し言及しましたが、ローマ書1:20です。

そこでパウロはこう語っています。

 

「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(新改訳2017)

 

神様の「性質、永遠の力、神性」は、世界の創造の初めから被造物を通してはっきり認められるのだ、それは、誰も弁解できないほど明白なのだ――そうパウロは語ります。

つまり、自然の世界には、神様のしるしが至る所にある、ということです。

例えばどういうものかと言うと、数学などは典型的だと思うのです。

自然界には、数学的構造がたくさんあります。

例えば、分かりやすいものとして、フィボナッチ数列というものがあります。

1,1,2,3,5,8,13,21,33,54,…と続いていく数列です。

このフィボナッチ数列の構造が、自然界の至る所にあります。

また、このフィボナッチ数列から黄金比が導かれるのですが、この黄金比が、私たちの美的感覚を規定しているという話も、よく知られていると思います。

自然界の中にフィボナッチ数列がある。

そしてそれは、1,1,2,3,5,8,13,…というすごく単純な規則によって成り立っている。

これはほんとに驚くべきことです。

では、そのような規則性が何故存在するのかと言うと、聖書に基づいて考えるならば、「神様が創造したから」と言えるでしょう。

神様が、この世を創造する際に、自然界の法則また秩序も同時に創造したのだと言えます。

だから、人類が自然を研究すればするほど、神様がつくられた自然のメカニズムが発見されるようになるのです。

最近、『博士の愛した数式』という映画を最近ちょっとだけ見ました。

そのなかで、語り手の高校の数学の先生が生徒たちに、「数は、人間が勝手に作ったものなのか、それとも、永遠の昔から存在するものなのか、どっちだと思う?」と聞いているシーンがありました。

数というのは本当に普遍的なものなので、誰もがそこに神秘的なものを感じるのです。

聖書に従って答えるならば、数は人間がつくったものではなく、神様がつくったものだ、と言えるでしょうね。

永遠不変の真理が、自然界の至る所に存在しているのです。

 

 

次にもう一つの御言葉は、伝道者の書3:11です。

ここは、新共同訳を参照したいと思います。

 

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(新共同訳)

 

これもすごく大切な御言葉だといえます。

「なぜ人間は宗教を作るのか?」に対する聖書的な答えであるとも言えます。

地上の生き物の内で、人間だけが、この世を超える存在を考え、それを礼拝し、そのために自分を犠牲にしたり、あるいは戦争したりします。

他の生物も、集団で他の生物を襲ったりしますが、それは単に生存のためです。

人間は、生存のためではなく、宗教的な理由で、他の生物を襲うことができるのです。

人間だけが、いま生きているこの人生を超えた「何か」を考えるのです。

それが宗教の始まりです。

それに対する聖書の説明が、この御言葉です。

神様が人間に、「永遠を思う心」を与えたのです。

 

今日は二つの御言葉の箇所だけを取り上げましたが、このように、聖書を通じて世界を理解していくことができます。

「神は存在しない」と言う人に対してどのように反論するか――そういうことを聖書は語りません。

「神は存在する」は聖書の当然の前提だからです。

だから私たちにできるのは、「神は存在する」ということを前提にしながら、つまり聖書を前提としながら、物事考え、生きることなのです。

「神は存在する」ことを前提にして生きてきたわけではない私たちにとって、そういう姿勢は大切なのです。

 

 

 

2.「はじめに神が」が今の私たちに持っている意味

 

では、後半に移ります。

ここからは、創世記1:1の「はじめに神が」という一部について、こだわっていきたいと思います。

そして、この「はじめに神が」を私たちの人生の土台にする生き方を話していきます。

 

さて、この「はじめに神が」は、聖書の冒頭の言葉でありますが、しかしこれは、実のところ、聖書全体を貫いている考えでもあります。

まず創世記1:1をみると、それは世界と人間の創造に関わっています。

「はじめに人間が」ではありません。

「はじめに神が」世界を作り、人間をつくるのです。

預言者が選ばれる場面を考えてみてください。

いずれの場合でも、預言者が自ら預言者になったのではなく、「はじめに神が」ある人を預言者として呼び出していることに気づくでしょう。

そしてこのことは、新約聖書に行くとなおさら強まります。

福音書を読むと、「はじめにイエス様が」弟子たちを呼びかけているのを見ることになるでしょう。

ペテロやアンデレ、ヨハネヤコブ、彼らを呼び出したのは、イエス様でした。

彼らが自主的についていったのではありません。

「はじめにイエス様が」呼びかけたのです。

復活後に弟子たちに呼びかけたのも、やはりイエス様でした。

もっと根本的なことを言えば、「はじめにイエス様が」私たちの罪の身代わりとなって十字架にかけられる決断をしたのでした。

私たちは、そうするように頼んだりお願いしたりしてはいませんでした。

「はじめに神が」私たちを救おうと決断されたのです。

エペソ人への手紙1:4はこう語っています。

 

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4、新改訳2017)

 

このエペソの箇所を読むと、創世記1:1よりももっと「前」がありそうですね。

「はじめに神が」私たちを選んでいるのです。

天地創造よりも前に、「はじめに神が」選んでいるのです。

これはすごく不思議な気がしますね。

どういうことなのでしょうか?

もしかするとこの比較は適切ではないのかもしれませんが、例えば私たち夫婦も、今、子供が生まれようとしています。

まだその子は生まれてはいないのですが、私たち夫婦は、生まれる前に、すでに「愛し、育てる」という決断をしているのですね。

健康に育つように、怪我をしないように、病気にならないように、仮に怪我や病気になっても、早く治るようにしてあげよう。

神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する、そのような人間になるように育てよう。

そのように「すでに」決断しています。

「世界の基が据えられる前」に神様が私たちを選んでいるということも、そういうことなのかもしれません。

つまり、私たちが気づく前から、すでに神様が、「はじめに」神様が、愛しているのだ、ということです。

それほど神様の愛は大きい。

つまり、私たちが考える前、気づく前に、私たちの想像を超えて、「はじめに神が」私たちを愛している、それほど神様の愛は大きく広いのだ、ということです。

 

話はそれましたが、このように、世界の創造から私たちの救いに至るまで、どこにおいても「はじめに神が」で満ちているのです。

創造、摂理、予定、――神学的には色々言われますが、どのテーマでも一貫しているのは「はじめに神が」です。

そこで問題は、この「はじめに神が」を私たちがどれほど知り、どれほどその恵みを味わっているのか、です。

 

一つ質問しますが、誰かに自分の行動が全部予測されていたら、どう思うでしょうか?

何かの商品を買ったり、どこかに旅行に行ったり、なにかトラブルがあったときにどのように行動するか――そういうことが、全部予想されていたら、みなさんはどう思うでしょうか?

私は、20歳前後のときに、自分の行動が予想されていることに、恐れを感じていました。

そして、詩篇139篇を昔読んだとき、その20歳前後のときのことをよく思い出したものでした。

詩篇の139篇の冒頭の1−6節はこのようになっています。

 

「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道の全てを知り抜いておられます。ことばが私の舌に上る前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(新改訳2017)

 

お分かりになるように、神様が、私、つまりダビデのことを全てご存知だ、という内容を語っています。

この御言葉を読むと、私はその時の心境を思い出すのです。

自分の行動が予想されていると、自分の自由がないように感じられ、そして恐れを感じていたのでした。

両親から「お前はそうすると思っていたよ」みたいに言われると、恐ろしさを感じたのですね。

まぁ、これは少し病的な感じ方ですが、程度の差はあれ、誰かに自分のすべてを知られていたりしたら、嫌だと思います。

会社の上司に自分の私生活のすべてが知られていたら、やはり嫌なものでしょう。

もしかすると、「そんなに余裕があるんなら、もっと何かしたら?」と言われるかもしれません。

必ずしも実害がないとしても、自分の情報が全て知られているということには、なにか抵抗感を感じるものだと思います。

ところが聖書は、神様がすべてを知っておられることを語りますね。

さらに139篇8節は次のように言っています。

 

「たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(新改訳2017)

 

まさに「はじめに神が」いるのです。

どこに行ってもそこには神様が先回りしておられるのです。

どこに行っても「はじめに神が」いるのです。

 

聖書について学び始めた頃、神様が私のすべてを知っておられるというのは、ちょっと嫌なことだ、困ることだと感じたことがありました。

やはり、隠したいことがたくさんあるのが私たちだと思います。

自分のことが全部知られていると困るのが私たちでしょう。

でも、もう少し聖書を学んでいるうちに、「そうではないのだ」、つまり、「神様にすべてを知られているということは、恐ろしいことではないのだ」と理解するようになってきました。

どこに行ってもある特定の人がいる――もしこれが人間だったら、恐ろしいことです。

ストーカーですね。

どこにいってもすでに神様がいる――それは私たちにとって、本当は安心感を与えるものだと思うのです。

 

この不完全な世界の中で成長するときに、私たちは、万事が理想通りに行くわけではなく、むしろ、それとは異なる現実によって、傷つきます。

親が自分の行動を知っていることで苦しい思いをする――その経験を積み重ねた人は、やはり神様に対しても、同じ思いを抱くでしょう。

自分より上にいる人は、自分のことをよく知ったら、自分を操作するようになる。

だから、そのような人に対して、自分のことを隠さなければならない。

自分を守るために、自分を隠さなければならない。

そのように人生を歩んできた人は、神様に対してもしばしば同じように考え、接します。

そのような人にとっては、全てが知られているということは、安心感ではなく、恐怖心を呼び起こすものになります。

 

しかし、聖書を通じて私たちは、神様はそのように自分の都合で人々を振り回したり利用したりするお方ではなく、私たちのために働くお方であることを知ります。

そして私たちは、信仰によってそのことを深く心のなかに根を下ろしていかなければなりません。

現実の父親、母親、上司、お兄さん、お姉さん、先生――そういう人々は、私について多くのことを知ったとき、私のことを利用したり、悪く用いたりしたかもしれない。

しかし神様は、そのようなお方ではない。

神様は、私の真の父親である。

独り子を私たちのために十字架につけられた、それほどまでに私たちを愛しておられるお方である。そのようなお方が、私たちの全てをご存知なのである。

――この事実は、安心感を与えるものではないでしょうか?

あるいは、勇気を、大胆さを、力を与えるものではないでしょうか?

 

摂理という言葉がありますね。

それはもともとは「先を見る」や「予め見る」という意味です。

この「摂理」という言葉の成り立ちについて説明する際に、カルヴァンは、創世記22:8を上げています。

 

アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼の献げ物羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んでいった。」(新改訳2017、創世記22:8)

 

アブラハムが、神様に言われたとおり、息子のイサクをいけにえとして献げようとして、山を歩いているシーンです。

イサクが、いけにえのためには羊が必要なのに、羊がないですよ、と聞きます。

それに対するアブラハムの返事でした。

新改訳2017は、「羊を備えてくださる」と訳していますし、現代語のどの翻訳もそのように訳していますが、これがラテン語では「予め見ている」あるいは「先を見ている」と訳されています。

むしろ、このラテン語のほうが直訳に近いのです。

神様が、まだ現れていない将来の羊を「予め見ている」のです。

私たちの目では見えていないけれども、神様の目では「見えている」のです。

この「予め見る」がprovidence、つまり「摂理」となるのです。

予め見ている、前もって見ている、つまりそれは、配慮している、気にかけている、見守っている、ということなのです。

言い換えると、「はじめに神が」すべてを見ているのです。

「はじめに神が」私たちを見守っていてくださるのです。

私たちが幼い子の世話をするとき、「前もって色々なものを見る」のと同じように、神様は、私たちが見るものをはるかに超えて、私たちを大切にするために、「前もって見ている」のです。

摂理という言葉の大切な意味はここにあるのです。

 

 

皆さん、「はじめに神が」私たちのすべてを見ております。

私たちを愛し、配慮し、気にかけ、見守っていてくださっています。

独り子を十字架の死に至らせるほどまでに私たちを愛しているその御方が、私たちのすべてを見ているのです。

過去に私たちが何をしたか、考えたか、そして現在何を考え、行っているか、そして将来の私たちがどのようになるのか、すべてを見ています。

すべてを、愛を持って見て、見守っているのです。

 

喜びがわかないでしょうか?

安心感が生まれないでしょうか?

勇気と力が湧いてこないでしょうか?

 

私たちの人生には、困難があり、不可解なことがあります。

アブラハムが受けた試練と同じような不可解な状況に陥るかもしれません。

しかし、勇気を出して、神様の御心に従っていきましょう。

私たちの目には見えていませんが、神様の目には、すでに将来が見えております。

それは祝福の未来なのです。

私たちは、それを信頼してよいのです。

いえ、信頼する特権が、恵みによって与えられているのです。

私たちが歩んでいく先には、すでに神様がおられます。

神様が、先回りして、私たちを待っています。

それは、「来たら捕らえてやろう! ほら、引っかかったー」という態度ではありません。

来たら、「よく来たねぁ、これまで大変だったねぇ、よくがんばったねぁ」と心から迎え入れてくれるような仕方で、待っていてくださるのです。

私たちの天の父はそのようなお方です。

だからみなさん、私たちは、勇気を持つことができるのです。

私たちはそのことを深く信じて、神様の御心を追い求めていきましょう。

 

 

 

愛する天のお父様、主の御名を賛美します。

あなたは天地を創られました。そして私をも創られました。天地創造の前から私を愛し、選んでくださったあなたが、最後まで私を導いてくださること、それを十分に悟らず、信じない不信仰があります。どうかおゆるしください。私たちの不信仰を、あなたの聖霊で作り変えてください。そして、私たちの目ではまだ見えていませんが、あなたの目でははっきりと見えておられる未来を信じ、大胆に歩んでいく力をお与えください。私たちが、あなたの御旨に適う者へと作り変えてください。

イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。