Quatre Amoursの日記

一人のクリスチャンが聖書や社会について考える

ガリラヤの人たち

ガリラヤの人たち」使徒言行録1:3−11

(2017年3月31日のメッセージ)

 

 

こんばんは。

今日の箇所を準備し、黙想しながら、本当に豊かな恵みがありました。

それを一緒に分かち合っていけたらな、と思います。

 

 

1 イエス様は復活された後、40日間神の国について話された。

 

まずひとつ目のポイントは、イエス様は40日間、神の国について話をされた、ということです。

3節を読みますね。

 

エスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

 

ここで注目してほしいのは、イエス様は「神の国」について話をされた、ということです。

エス様は「神の国」について話をされました。

「それがどうかしたの?」と思うかもしれませんが、「神の国」について話をされたということは、結構大切な点です。

 

みなさん、こういうことを感じたことはないでしょうか?

四つの法則などで、こんな風に言われますね。

「イエス様を心の中心に受け入れるならば、永遠の命を得ることができる。だから、イエス様を信じ受け入れましょう。」

こういうことが書いてあると思います。

そして、それを聞いている人が、すごく従順に、書いてあるとおりに、イエス様を信じ受け入れたとします。

するとその人は、信じ受け入れたその瞬間に、天国の住民となりました。

永遠の命を得ました。

これは素晴らしいことです。

ここまではいいですね。

しかしその後で、「教会に通う」ということがついてくることになる。

そのときに、「なぜ教会に通わなければならないのか?」という問い、疑問が生まれると思います。

そういう疑問、感じたことはないですか?

僕は感じたことがあるのです。

「イエス様を信じて救われた。完全に救われた。では、そのあとさらに、なぜ教会に通わなければならないのか?」そういう疑問を感じていたことがあります。

他のいろいろな動機のために教会に通い続けている人がいれば、あまりそういうことは問題にはならないかもしれないでしょう。

人と話すのが楽しい、心が落ち着く、平和な気持ちになる、好きな人がいる、食べ物を食べたい、いろいろな動機があると思います。

そういう動機で教会に通い続けた人にとっては、「信じ救われた後もなお、なぜ教会に行くのか?」という疑問は、あまり生まれないでしょう。

しかし、私たちは、信仰生活のどこかでは、「なぜ教会に行くのか?」ということを根本から考えるときが来ると思います。

そして、自分なりに、その疑問に対して答えを持たないといけないと思います。

「楽しいから」という理由で教会に来ていた人は、「楽しくなくなったら」教会に来なくなるのでしょうか?

「心が平和な気持ちになる」という理由で教会に来る人がいるかもしれませんが、しかし、教会で信仰生活を送るときに、むしろ「平和」とは反対の心になることもたくさんあります。

そのようなとき、その人は教会から離れるのでしょうか?

私たちは、なぜ教会に行くのか、なぜ奉仕をするのか、その答えを自分なりに持っている必要があります。

そうでないと、いざというときに、弱くなってしまいます。

 

私自身は、「神の国」というのが答えでした。

私たちクリスチャンは、救われることによって、「神の国」の一員になるのです。

これについても、「何を今更」と思うかもしれませんが、私自身にとっては、大きな悟りでした。

つまり、四つの法則が語っている「救い」というのは、ある意味、救いについて半分しか語っていないのです。

エス様を信じることによって罪が赦され、永遠の命を得る。これは、救いについての一つの側面です。

もう一つの側面は、救われることによって、神の国の一員になる、ということです。神の国のメンバーになる、ということです。

「永遠の命を得る」というのは、自分一人だけの問題です。自分の神様だけの関係です。

それに対して、「神の国のメンバーになる」ということは、自分と他のクリスチャン、また、まだ救われていないけれども、救われる予定になっている人々との関係の問題です。

 

「永遠の命を得る」というのは、ある意味、究極的な自己中心なのです。

自分の命を大切にする、それを極限まで推し進めて考えれば、「永遠の命を大切にする」という発想になるでしょう。

究極的な自己中心です。

それに対して、「神の国のメンバーになる」ということは、他の人々と関係を持たないといけないということなのです。

そしてその関係の中で、他の兄弟姉妹を支えたり、また逆に、支えられたりする。

聖書を学び合ったり、奉仕をしたり、伝道したり、遊んだりしていく。

そうしていきながら、「神の国」を作り上げていく。

エス様を信じ救われて、神の国のメンバーになるということは、このように、「神の国」を共に作り上げていくメンバーになる、ということです。

この地上において、神の国を作り上げていくのです。

そして、この地上において、神の国の味見のようなことを経験するのです。

完全に出来上がった神の国、それはイエス様の再臨のときに現れますが、それの味見です。

映画などの「予告編」かもしれないですね。

ちょっと垣間見て、それを味わい、楽しみ、さらに期待する気持ちが膨らむ。

そのような予告編が、この地上における神の国の経験です。

 

私は、この「神の国」ということを理解することで、教会に通い続けることの理由がわかりました。

自分なりには納得しました。

みなさんはどうでしょうか?

 

エス様を信じることによる救いと言うと、私たちはどうしても個人の救い、自分の永遠の命、というものを考えてしまいます。

それは正しいのですが、十分ではありません。

聖書は、個人の救いと同時に、共同体についても、考えているのです。

私たちが、個人主義的な時代に行きているので、聖書の読み方も、いつの間にか個人主義的になりうるのですね。

「個人の幸福」ということを中心に考えてしまうのです。

でも、新約聖書の人々は、もっと「国」や「共同体」について考えています。

今日読んだところで、6節を見ますと、弟子たちの関心もまた「国」であることがわかります。

エス様は「神の国」について教えられました。

またパウロも、「神の国」について語りました。

使徒言行録28:30-31を読んでみましょう。

 

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

 

このように、イエス様もパウロも、「神の国」について語っているのです。

私たちも、聖書を「神の国」という視点から読み直してみると、多くの悟りがあるでしょう。

 

さて、イエス様は、神の国について40日間、話をされた、と言われています。

「40日間」という数字を見て、最近民数記を読んでいる私たちは、やはりあの出来事を思い起こすでしょう。

民数記13:25を読んでみましょう。

イスラエルからカナンの土地を偵察に行ってきた人々が過ごした時間が、40日間でした。

実は、この40日という数字は、聖書をよく読んでいる人は、たくさん見かけると思います。

例えば、イエス様が断食され、サタンの誘惑を受けていた日数が40日でした。

モーセが山にこもって律法を受け取っていた期間も40日でした。

ノアの洪水のとき、アメが降り続いた期間も40日でした。

いろいろ40日という数字は出てきますが、いろいろな40日の出来事の中でも、今日読んでいるイエス様が復活されて現れた40日間に等しいのは、民数記の偵察に行っていた40日なのではないか、と思います。

前の日曜日に、H先生がメッセージで語っていたように、この偵察に行った人々は、神様が与えると約束した土地を見てきたのです。

それは、強そうな民族が住んではいましたが、素晴らしい土地でした。

カナンの土地、神様の約束の地、そこは、素晴らしい土地だったのです。

その素晴らしい土地を、偵察に行った12人たちは見てきたのです。

その見ていた期間が40日です。

彼らは要するに、「神の国」を40日間見てきたのです。

イスラエルにいる他の誰も経験することのできない、神の国、つまりカナンの土地を見るということ、それをこの12人は、40日間経験したのです。

そうだとすれば、この使徒言行録の箇所もわかるでしょう。

エス様は復活されました。

もはや死ぬことのない永遠の命を伴った復活の体を持って、弟子たちに現れたのです。

その復活の体を持って、イエス様は40日間、弟子たちの間にいたのでした。

それは、その弟子たちが、「神の国」を40日間経験した、ということに等しいと言えるでしょう。

40日間、本当に恵みの時を過ごしていたのです。

40日間、復活した体がどのようなものか、弟子たちは見ること、触ることができたのです。

彼らは、イエス様が再臨したときにしか経験できないことを、経験したのです。

素晴らしい特権だったのです。

 

 

そのときの弟子たちがどのような気持ちだったのでしょうか?

よく分かりません。

なので、推測するしかできないです。

民数記では、偵察に行ってきた12人は二つのグループに分けることができました。

否定的な報告をした人々と肯定的な報告をした人々です。

では、復活されたイエス様と40日間出会っていた弟子たちは、どちらのグループに属するでしょうか?

私は、彼らはおそらく否定的な報告をしたグループに属するのではないかと思います。

その一つの証拠は、6節ですね。

6節を読んでみましょう。

 

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 

この質問からわかるのは、弟子たちの関心が、未だに、この世的な国家や民族のことである、ということです。

エス様が十字架内つけれる前、この世的な国家のことを考えている弟子たちがいました。

ルカによる福音書22:24を読みますと、最後の晩餐のときに、弟子たちは、誰が最も偉いかで議論をしております。

今日の箇所、使徒言行録1:6を見ても、彼らの関心は、この世のイスラエルという国家のことを考えているのです。

ということは、復活されたイエス様を見て、その教えを受けていても、彼らは、イエス様が語るような「神の国」は見ていなかったということです。

神の国」は、復活された体という形で、すぐそこに現れていました。

しかし弟子たちは、その「神の国」を見てはいなかったのです。

それはまるで、カナンの土地を偵察に行きながら、その土地の豊かさが目に入らなかった人々、いえ、目には入ったけれども、そこに至る困難の方ばかり目に入った人々のようです。

使徒たちには、やはり何かが足りなかったのです。

神の国」をしっかり見るためには、何かが足りなかったのです。

その何かとは、もちろん、聖霊様であります。

使徒たちは、聖霊様を受けなければならなかったのです。

そして、神の国の豊かさ、救いの喜び、それを心の底から実感する必要があったのです。

 

 

2 聖霊様を待ち望まなければならない

 

2つめで、今日最後のポイントは、私たちは聖霊様を待ち望まなければならない、ということです。

もう一度、6節を読みます。

 

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 

弟子たちは、未だこの世的な国家、この世的なイスラエルについて考えていましたが、すごく切実だったのですね。

彼らは、本当に心から、イスラエルの復興を求めていました。

この6節にある「建て直す」という言葉は、病気から回復する、元通りになる、あるいは、自分の家に戻ってくる、そのような意味を含む単語であります。

弟子たちの思いとしては、現状のイスラエルが、もともとの状態から落ちている、不健康な状態になっている、異常な状態になっている、と思われていたのでしょう。

また、帰るべき本来の家があるとするならば、その家にまだ帰っていない状態、だから、不安定で、落ち着いていなくて、安心できない状態だ、そのように思われていたのでしょう。

ずーと旅行中の状態。

ローマ帝国支配下にあるイスラエル、そのイスラエルのかつての栄光を夢見ている人々は、この弟子たちと同じように感じていたのではないでしょうか?

そして弟子たちは、イエス様こそが、かつてのダビデと同じように、よくわからない出身だけれども、ついには王として君臨して、周辺の国々を治めるようにしてくださるお方だ、義と平和の君主として治めるお方だ、そう思ってついてきたのでしょう。

そのイエス様に対して、弟子たちは、イスラエルがもとのように回復するのは、いつでしょうか、そのように尋ねる。

 

この箇所を黙想しながら、私は、「あぁ、これは今の私たちなのかもしれないな」と思っていました。

私たちもまた、過去の栄光を夢見るんですね。

今の状態を、過去の状態から比べると、ずいぶん衰えている、むしろ病的な状態である、と考える。

以前は、奉仕をする人がたくさんいたのに、今は、それほどいない。

以前は、伝導する人がたくさんいたのに、今は、それほどいない。

以前は、伝導すれば人がつながっていたのに、今は、繋がらない。

以前は、もっと練習を本気でやっていたのに、今は、それほどしない。

以前は、もっとみんな楽しく集まっていたのに、今は、それほど集まらない。

比較すれば、本当にたくさんのことがあります。

個人的なレベルでもあるでしょう。

以前は、もっと熱心に祈っていたのに、今は、祈らない。

以前は、もっとたくさん聖書を読んでいたのに、今は、読まない。

以前は、主に期待する思いで、もっとチャレンジしていたのに、今は、チャレンジしない。

以前は、もっと伝道していたのに、今は、伝道しない。

たくさんありますね。

私たちも、いろいろな側面で、過去の良かった状態を考えます。

あのときの教会、あのときの自分、あのときの奉仕グループ、「あのときは素晴らしかった」と考えます。

そして、そこから考えると、今は病的である、今は、本来的な状態ではない、と考えるのです。

使徒たちと同じです。

心細く、不安で、どうしてよいかわからないのです。

私たちもまた、使徒たちと同じように、主に尋ねたい気持ちでしょう。

「主よ、私たちの教会を建て直してくださるのは、このときですか?」

あるいは、

「主よ、私を建て直してくださるのは、このときですか?」

本当に私たちは、主に尋ねたい気持ちだと思います。

それに対してイエス様は、7-8節で答えます。

7-8節を読みます。

 

エスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

よく知られた箇所であります。

エス様は7節で、いつイスラエルの国が回復するか、それは父なる神の主権である、と語ります。

そして8節では、聖霊様が下ること、そして使徒たちがキリストの証人になることが語られます。

この8節について、カルヴァンはこういうことを言っています。

ここでイエス様は、弟子たちが持っていた「神の国」の理解をただそうとしているのだ、そして、神の国は、福音の説教の中にあることを示そうとしているのだ、と。

すごい解釈をしておりますね。

つまりこういうことです。

弟子たちは、民族としてのイスラエル、そのイスラエルの回復を願っていました。

具体的には、この世における繁栄のことでしょう。

それに対して、イエス様は、使徒たちに、聖霊様が下ることを語ります。

そして、聖霊を受けた使徒たちが、証人となることを語ります。

証人となるとは、イエス・キリストの福音を述べ伝えるということです。

その福音を述べ伝えるときに、どのような出来事が生まれるでしょうか?

福音を述べ伝えると、聖霊様が働き、聞いている人の中で心が変化し、その人がイエス様を受け入れるようになります。

そしてその人に聖霊様が降ります。

聖霊様が降った人、その人は、新しい「神の民」であります。

つまり、神の国の新しいメンバーであります。

その神の民は、どのような人々から成り立っているのでしょうか?

エルサレムばかりではありません。

エルサレムとは、イエス様、また弟子たちに最も敵対する人々が住んでいる場所です。

その中からも、「神の民」は生まれるでしょう。

また、ユダヤサマリアからも生まれるでしょう。

サマリア人、まことの神を礼拝しながら、同時に偶像崇拝も行っている人々からも、「神の民」は生まれるでしょう。

さらに、地の果からも、つまり、異邦人の中からも、神の国の新しいメンバーは生まれるでしょう。

そのように、あらゆる地域、あらゆる国、あらゆる民族から生まれる神の民とは、どのような存在でしょうか?

それはまさしく、霊的な共同体なのです。

肉において存在する共同体ではなく、目に見えない、霊的な共同体なのです。

神の国とは、霊的な共同体なのです。

そしてそれは、福音を説教するときに、福音を述べ伝えるときに、誕生するものなのです。

風が思いのままに吹くように、聖霊様も、どのように働かれるのか、私たちには分かりません。

しかし、聖霊様が働くときには、どのような人も信じる者に変えられます。

私たちは、その聖霊様の働きをコントロールすることはできません。

私たちにできるのは、福音を述べ伝えることだけです。

そのなかで、聖霊様が働かれます。

魂が変わり、生まれ変わり、イエス様を信じ、神の民となります。

偉大な神様の御業であります。

 

神の国は、弟子たちはそう考えたのですが、目に見えるものにあるのではありません。

神の国は、イスラエルという民族にあるのではありません。

神の国は、福音が述べ伝えられるときに、それを信じる民のなかにあるのです。

霊的に生まれ変わった民の共同体、それが神の国です。

 

私たちもまた、回復を願っています。

教会のレベルでも、また個人のレベルでも、回復を願っております。

しかし私たちは、まず、「どのような状態」を求めているのか、考える必要があります。

求めている状態が、使徒たちが求めたように、「肉的な繁栄」ではないのか、それを反省する必要があります。

数だけが多いこと、見た目だけが華やかなこと、表面的に勢いがあること、そういう状態を求めているのではないか。

表面的なクリスチャンは不要であります。

また、表面的な教会のリーダーも不要であります。

主が求めるのはそういうものではありません。

使徒たちが、目に見える国家の栄光を、その回復を求めたときに、イエス様はそれを否定しました。

そして、福音が述べ伝えられ、霊的にリバイバルするところで、神の国が生まれることを語りました。

私たちにとっても同じであります。

私たちが真実に求めるべきものは、霊的なリバイバルであります。

数がどうのこうの、ということではありません。

わたしの内に、聖霊が下ることが必要であります。

聖霊が降り、霊的に生き返った人、その人を通じて、福音は述べ伝えられます。

私たちは、聖霊様が、私たちの内に望まれることを期待しましょう。

 

ところで、「聖霊様が下る」とはどういうことでしょうか?

聖霊が下る」。

そのことでわたしが意味しているのは、大きな感動です。

神様が与えてくださっているもの、それの価値を本当に悟る出来事です。

またそこから当然生まれる、喜び、また平和であります。

「神様が本当に私に対して与えてくださっており、働いてくださっている!」

それを実感するときには、大きな喜びが生まれます。

 

今日はそれについては多くは語りません。

ただ一つ、イギリスの作家エイブリン・アンダーヒルという作家の言葉を紹介します。

彼女は神秘主義の研究をしていた人です。

彼女は、こういうことを語っています。

神秘主義的な体験は、人が霊的な働きを生産的に行う原動力であった、ということです。

しばしば、神秘主義とは、実践的な働きから退いて、ただ、恍惚としていることのように思われるけれども、そうではない、と主張するのです。

神秘主義的な体験、つまり、神様との真実な交わりの体験は、クリスチャンが、豊かな実践を行う原動力となっていた、そのように彼女は主張します。

 

聖霊バプテスマについて論争があります。

オク・ハンフム先生の『信徒を目覚めさせよう』のテキストでも語られていますね。

聖霊バプテスマは、信仰を持ったと同時に与えられるものなのか、それとも、信仰を持つものに後から与えられる何らかの体験なのか、そのような論争です。

 

しかし、アンダーヒルが言うような意味で、神様との本当の交わり、それが、私たちのあらゆる信仰生活に力を与えるものであることは、否定する必要はないでしょう。

また、そのような体験を、神秘主義という言葉で表現するかどうかも、不要であります。

 

私たちは、聖霊様が本当に働くときを、求めましょう。

聖霊様が、力強くわたしを動かすとき、聖霊様が、神様の真理を、聖書の真理を、力強くわたしに示すときを、期待しましょう。

 

エス様が天に上げられ、使徒たちが、その天をずーと見ているときに、2人の天使が彼らに語りました。

11節です。

 

言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

ここでの「ガリラヤの人たち」という呼びかけは、二つの意味があります。

一つは、非難の意味です。

ガリラヤの人たち」、つまり、「おい、田舎者」ということです。

そして、そのように「田舎者!」ということで、ぼーと天を見上げている使徒たちの目を覚まそうとしたのです。

「田舎者、目を覚ませ! イエス様は天に上った。再臨するときまでやってこない。今の自分たちを見ろ! やるべきことに集中しろ!」

そういうことです。

またもう一つの意味は、励ましです。

つまり、「おい、田舎者、お前たちは、イエス様の使徒ではないか? お前たちは、イエス様の証人ではないか! 田舎者、ガリラヤの人たち、そんなお前たちが、神の一人子によってこの世に派遣された、代理人であるなんて、なんてことだ!」

そういうことです。

なんと素晴らしい地位を与えられたことか!ということです。

 

この「ガリラヤの人たち」は、私たちにも言われている言葉だと信じます。

「おい、日本人、おい、韓国人、おい、チンピラ、おい、ろくでなし!

そのような言葉に、「あなたは、そんなものであるが、でも、イエス様によって選ばれた証人ではないか! 主の弟子ではないか! なんて素晴らしいことなんだ!」そのような意味が込められていると信じます。

 

私たちもまた、ボーとしているときではありません。

使徒たちが天を見上げるように、過去の良かったときを夢想しているときではありません。

こんなに素晴らしい地位を与えてくださった神様に感謝して、聖霊を待ち望みましょう。

そして、聖霊様が私たちに降り、私たちを支配し、霊的な真理をはっきりと悟らせてくださるときに、私たちは、使徒たちと同じような働きができるでしょう。

聖霊様が働く時は、何でもできます。

聖霊様を待ち望みましょう。

最後に、ルカによる福音書11:13を読みます。

全員で読みましょう。