目が見えなくなる
目がみえなくなる 使徒言行録 9:1-9
(2017年11月24日になされたメッセージ)
みなさんは、どのようなウェブ・ブラウザを使っているでしょうか?
「ウェブ・ブラウザなんて、意識したことがない」という人もいるかもしれません。
iphoneを使っている人なら、おそらくサファリというブラウザを使っているでしょう。
あるいは、グーグルのchromeを使っている人は多いと思います。
2000年前後辺りでしたら、ほとんどみんなインターネット・エクスプローラーでした。
でも今では、それを使っている人はほとんどいません。
だいたいみんな、マイクロソフトのエッジ、グーグルのクロム、あるいはアップルのサファリを使っているでしょう。
ところで、最近このウェブ・ブラウザ界で、話題のニュースがあります。
それは、Fire Fox というブラウザの新しいバージョン57です。
これが、本当に高速であるということで話題になっています。
グーグルクロムが2008年に発表されたとき、みんな結構衝撃を受けました。
「インターネットってこんなに早く表示されるんだ!」
そのとき、インターネット・エクスプローラーを使っていた人は、みんなクロムに乗り換えて行きました。
その時点で、インターネット・エクスプローラーを使っていなかった人は何を使っていたかというと、だいたいFire Foxです。
Fire Foxはオープンソースで開発されているブラウザで、セキュリティと拡張性で有名でした。
でも、クロムが登場して、ブラウザの速さが競われるようになると、セキュリティや拡張性というFire Foxの特徴は、逆に欠点となってしまいました。
そして、Fire Foxを使っていた人も、次々とクロムに移っていきました。
これに危機感を感じていたFire Foxの開発者たちは、根本的に改革することを決めました。
そうして出来上がったのが、Fire Fox57というブラウザです。
通常は、Fire Foxは、2ヶ月位で新しいバージョンがでます。しかし、そこでなされる改善は、大枠は崩さないで、細かなところで改良していく、ということが多いです。ですから、新しいバージョンが出ても、そんなに変化したということは感じません。
「大枠は崩さないで、細かいところを修正」という方法ですと、必ずどこかで壁にぶつかります。「大枠」を変化させなければ乗り越えられないところがあるのです。しかし、その「大枠」を変化することには、大きな時間やリスクが伴います。これまで築き上げてきた財産を捨てる事にもなります。ところが、その「大枠」を変えなければ、実現できないこともあるのです。
Fire Foxの開発者たちは、それを行ったんですね。そして、2014年からとも、2012年からとも言われていますが、根本的なところから、作り直していきました。
出来上がったものは、素晴らしいものです。高速で、安定しています。
何を言いたいのかというと、細かいところの修正だけでは実現できないものがある、ということです。
「大枠」には手を付けずに、細かいところをひたすらブラッシュアップすることで、性能を向上させる、という方法もあるでしょう。
それが通常、一般的に行われることです。
しかしそれには限界があります。どんなに車の細かい部品を交換したり、整備したとしても、エンジンそのものの変えることには匹敵しないでしょう。
ところが、エンジンを変えるとなると、エンジンの強さに対応して、他のあらゆるものも変えなければなりません。車のデザインそのものを考えなおさないといけなくなるかもしれません。そうなると、それはとても大変なことです。時間がかかり、労力がかかります。
しかし、そのような根本的な部分を変えることで、初めて「大きな飛躍」が生まれるのです。
そして、それが私たちの信仰生活にも当てはまるのです。
私たちが信仰の歩みをするときに、微調整ではどうにもならないときがあります。
そのときは、私たちの歩みの根本的なところで変わらなければならないときがあります。
それには大きなリスクが伴いますし、時間もかかります。うまくいくという保証もありません。
しかし、そのような根本的な変化を経験し、それを乗り越えるならば、私たちは、別のステージに行くのです。
今日のパウロの姿を通じて私たちが知ることができるのは、次の2つの点です。
①ひとつは、私たちを根本的に作り変えるのは、神様の働きであるということ。
②もうひとつは、私たちが根本的に作り変えられる時、私たちは、何にもできない時期を過ごすということ。
この2点です。
順番は変わりますが、2つめの点から話していきます。
8-9節を読みましょう。
サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒9:8-9)
それまで、勢い良くクリスチャンを迫害していたパウロが、突然変わります。
目が見えなくなり、他の人の手を借りてでなければ、歩くこともできなくなります。
また、彼は三日間、何も食べることもできなくなりました。
僕は、このシーンを見ると、自分のある経験を思い出します。
僕は、昔ミクシーというSNSをやっていました。今もアカウントは残っています。
イエス様を信じる前までは、すごくたくさん日記、文章を書いていました。
でも、イエス様を信じてから、何にも書けなくなったのです。
書きたい気持ちはあるのです。
でも、何をどのように書いたらいいのか、わからなくなってしまいました。
それは、いくらか苦しいことでした。
「どうして書くことができなくなったのか」その理由は、後になって整理できるようになりました。
クリスチャンになる前は、自分の考えを書いていたのです。
自分の理想、自分の感覚、自分が読んだものの感想、今現在考えていること、そういうものを書いていました。
でも、クリスチャンになってから、「書く」という行為自体を考えなおしたのです。
「ミクシーというSNSにいるメンバーたちは、みんなイエス様を知らない人たちである。その人たちがイエス様を知るのに有益になるように、私は文章を書かなければならないのではないか?」
簡単に言うと、そのSNS上の人々にも、自分が「証」にならなければならない、という意識でした。
言い方を変えれば、そこで書くことも全てが、主の栄光のためにならなければならない、という意識でした。
ところが、どのように書くことが、それを読む人々がイエス様に近づく上で役に立つのか、まったくわからなかったのです。
あまりにも「すばらしい」ということだけ言っても、うそ臭くなる。
かといって、「信じていないふり」をするのも、おかしい。
そもそも、語る言葉は、一人一人の状況や性格を踏まえなければ、効果的ではない。
そういうことを考えていったら、何にも語ることができなくなったのでした。
さらにまた、SNS上には、過去の自分の文章がたくさんあるのですが、その過去の文章、過去の議論、過去の概念、そういうものと、新しくもつようになった「信仰」との関係が、うまくつながらなかったのです。
そもそも関係がなかったのかもしれません。
でもその時の僕は、その両者を関連付けなければならない、と思っていました。
そして、関連付けることができなかったので、やはり何も書かなくなってしまいました。
というのも、過去の自分の議論や概念や世界観と、新しい信仰との関係を考えるよりも、週に二回ある聖書の学び、金曜徹夜祈り会、主日礼拝、その全てで語られるメッセージのほうが、自分にとって有益だったからです。
そのメッセージを聞くことに喜びがあり、あたらしい悟りがあったのでした。
そこには、もっともっと自分が知るべき多くの事柄が含まれていました。
それに比べれば、自分自身の一貫性を整理することは、どうでもいいことに思われたのでした。
多分僕は、2-3年位は、自分の信仰を書き表すことはできなかったと思います。
「話す」のはできていました。
でも、文章として書くことはできませんでした。
使徒言行録で、イエス様とであった後のパウロを見ると、僕はいつもこのことを思い出します。
本当に根本的な変化を経験すると、何もできない時期があるのだと思います。
むしろ、そのように、今まで出来ていたことができなくなる、そういう経験をするのが自然なのだと思います。
芸大生であるならば、今まで自分が理想としたり、追求したりしていたものを描いたり、作品として作ってきたならば、イエス様に出会って以降は、それができなくなるはずです。
そして、「いったい私は、何を表現するのか? なぜ表現するのか?」ということを考えるようになるはずです。
むしろ、そのことを考えなければ、根本的にイエス様に出会っているとは言えません。
今まである特定の勉強をしてきた人は、「なぜ勉強をするのか?」それを考えるようにならなければ、嘘です。
その問いを考えたことがないというならば、それはその人がイエス様に出会っていないということです。
今までやってきたサークル、趣味の活動、そういうものについても、「なぜするのか?」という問いが生まれるのが、自然です。
そして、そこで一旦「立ち止まる」ことができなければ、私たちは、自分が本当にイエス様にであった人間であるのかどうか、考えなおす必要があります。
それは仕事でも同じかもしれません。
このような問いかけをしている時期、そして答えが見つからない時期というのは、不毛です。
外側から見るならば、何にも生産していない時期です。
無駄に見える時期です。
むしろ、停滞しているように見える時期です。
自分も、何にもできずに苦しいでしょう。他の人々からの視線も気になって、苦しいと思います。
もっとスムーズに、思ったことを何でもすることができた時を、羨ましく思うこともあるかもしれない。
でも覚えてください。
この停滞した時期は、祝福です。
私たちがなんにもできない時、何にも生産できない時、かつて出来ていたことができなくなった時、それは、神様の祝福を受けている時です。
なぜそう言えるのか?
それを話すために、最初のポイントに移ります。
最初のポイントは、私たちを根本的に作り変えるのは、神様の働きだということです。
使徒言行録の9章は、新共同訳は「サウロの回心」としています。
他の翻訳を見ても、やはり「回心」とされています。
しかし僕は、ここはむしろ「サウロの召命」とするほうがいいのではないか、と思います。
つまり、この9章の肝心な点は、パウロが「ユダヤ教からキリスト教へと回心した」ということではなく、「神様が、異邦人への宣教のためにパウロを選び出した」ということだと思うのです。
つまり、パウロの「召命」こそが、この箇所の本質的な点だと思います。
3-5節を読みましょう。
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒言行録9:3-5)
この箇所に、聖書の伝統の中で「召命」のシーンに典型的な要素が含まれています。
まずひとつは、「サウル、サウル」という呼びかけです。
このように二度呼びかけることは、旧約聖書では、神様が誰かを任命するときに使われます。典型的にはモーセです。出エジプト記3:4を読みましょう。
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると。(出3:4)
また、新共同訳ではわかりづらいのですが、サムエル記で、少年のサムエルに神様が呼びかける時も、同じように二度呼びかけています。新改訳聖書で、サムエル記上3:10を読みます。
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(サムエル記上3:10)
このように、旧約聖書では、神様がある人を、御自分の計画を実行するための器として呼ぶときに、名前を二度呼ぶ、ということが行われます。
パウロの名前が二度呼ばれたことも、同じように理解することができます。
また、このように二度呼ぶことには、相手への同情、憐れみが含まれてもいます。ルカによる福音書10:41を読みます。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(ルカ10:41)
ここでイエス様は、マリアに手伝わせてくださいと不満を言ったマルタに、愛情のこもった叱責をしているのです。
単に叱っているわけではありません。
「マルタ、あなたの気持ちもわかるけれど、そうしてはいけないんだよ。」
愛情を持ちながら、マルタに注意しているのです。
だから、イエス様がパウロを呼ぶときにも、憐れみの感情が含まれているのです。
イエス様にとってパウロは、昔から知っている人、いや、ずっと自分の兄弟であった人、しかし今は、そのことを忘れて、敵対するようになっている人です。
初めて目にした人ではありません。
天地創造の前から知っている人です。
でも、今は、自分に敵対している。でも、本質的には家族である。だからどのような態度になるのか? 「愛情のこもった叱責」なのです。
愛情を込めて、憐れみながら、「サウル、サウル」と呼びかけるのです。
ここにはまた、緊急性も含まれています。緊急なときにも、「二度呼びかける」ことは使われます。
創世記22:11を読みましょう。
アブラハムがイサクを殺そうとしている時です。それを止めようとするときに、天の御使いは、アブラハムの名前を二度呼びます。
早くとめないと!というときに、このように声をかけるのです。
これもまたパウロに当てはまります。
パウロがクリスチャンたちを迫害し、またそれ故に、イエス様を苦しめている。
それを「早くとめないといけない」という切迫した思いが、この表現にはあります。
こうして、イエス様は、パウロに対して愛情を持ちながら、しかも切迫した思いで、呼びかけます。そしてそれは、パウロを異邦人への宣教者として呼び出すためでした。
「サウル、サウル」という呼びかけの中に、この意味があります。
また、その後パウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と聞いた時の答えにも、このやり取りが、神様からの「召命」の出来事だということがわかります。
イエス様は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。
日本語で読むと何の変哲もないですが、これは、よく知られた「エゴー・エイミー」というところです。
ギリシア語は、主語を特に明示しなくても、動詞の形によって主語が分かる言語です。
だから、あえて主語を語るときには、特別な意味があります。
特に新約聖書では、この「エゴー・エイミー」は、イエス様の神性を表すときに用いられます。
これが元になっているのは、やはり出エジプト記の神様が現れるときなのです。出エジプト記3:14を読みます。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うが良い。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出3:14)
この「わたしはある」がギリシア語では「エゴー・エイミー」です。
なので、この表現をイエス様が用いるときは、イエス様が、自らの神性を主張する時です。
使徒言行録のこの箇所は、従って、そのまま出エジプト記におけるモーセの召命を踏まえているのです。
「モーセよ、モーセよ」と二度呼びかけるところ、そのモーセに対して、神様が「わたしはある」と啓示されたところ。
これらが、そのまま今日の本文において現れています。
従って、この箇所は、単にサウロが「回心した」ということを語っているのではなく、むしろ、「神様がパウロを、異邦人への使徒として呼び出した」ということを語っているのです。
こまかな違い、と思うかもしれません。
でも大切です。
「サウロが回心した」のではなく、「神様がサウロを呼び出した」のです。
「主語」が違うのです。
ここでの主人公は、サウロではありません。
聖書の他のところと同じように、主人公は神様です。イエス様です。
それは言い換えると、今までの行いをそのまま継続させないようにした張本人は、イエス様だ、ということです。
だから先ほど言ったことが当てはまるのです。
つまり、無力になること、何にもできなくなること、それは、神様の祝福なのだ、と。
神様が、「あなたは、そんなふうに歩んではいけない!」と思うので、私たちを掴み、何にもできなくさせるのです。
神様が、「あなたの行くべき道はそちらではない」と思うので、私たちに方向転換を促すのです。
そして、何にもできなくさせるのです。
だから断言できるのです。
私たちが、信仰を持った結果として、今までしていた活動ができなくなるとき、それは祝福なのだ、と。
あるいはこうも言えるでしょう。
私たちが、信仰の決断による根本的な変化を望むとき、今まで行っていたことができなくなったり、むしろ、何にも生産的なことができなくなるならば、それは祝福なのだ、と。
従って、今日の結論として次のように言うことができます。
私たちは、信仰の歩みの中で、根本的な変化を望むならば、無力になること、不毛になること、非生産的になること、それを当然のこととして考えなければなりません。
なぜなら、それは神様が働いている証拠だからです。
そして、そのように無力で、非生産的になった時に、私たちは、自分が「どのような方向へ呼ばれているのか」悟る必要があります。
「なぜ」これこれの事柄をするのか、あるいはしないのか、その目的をはっきりさせる必要があります。
神様がわたしに何をして欲しいと願っているのか、また、神様のわたしに対して抱いている計画は何なのか、それを悟る必要があります。
そして、それを悟るならば、私たちは、大きく変化するでしょう。
ちょっとだけ修正するだけではない、根本的な革新を、自分の人生に引き起こすでしょう。
それによって私たちは、本当に実りある生活を送ることができるでしょう。
結局は、パウロがイエス様に出会う以前の人生は、全て「不毛」でした。
彼自身の目で見た時には、「たくさん働いて成果を出していた」ように見えたかもしれませんが、それは「不毛」でした。
真実な意味で「不毛」であるのは、神様のために、何の役にも立っていないことです。
この世でどんな業績、どんなものを生産したとしても、それが神様のためになっていないならば、それは「不毛」なのです。
そのような意味での「不毛な」人生を、私たちは歩んではいけない。
しかしそのためにも、私たちは、この世の観点で見た場合の「不毛さ」は、当然あるものと考えなければなりません。
今までの自分の働きや活動と比較しての「不毛さ」は、当然だと思わないといけません。
そのときに、真実に「生産的」になることができます。
どうか私たちは、この世が求める「生産性」を実現できなくとも、それで落ち込むことが無いように、また、それを恐れることがないように。
むしろ、神様が望まれる真実な「生産性」のために、この世が考える「不毛な時間」を忍耐することができますように。